INDEX > SS > 山本くんとお姉さん2 〜教えてくれたモノ〜

山本くんとお姉さんSP



1

>でてくるひと
・山本秋人……山本くん。姉と二人暮らし。なんだかんだ言って姉萌えだが、
空気を読むのはちょい苦手。
・山本亜由美……弟を偏愛するキモ姉。弟には「優しい姉さん」と誤認されている。やはり嫉妬深い。
・山本梓………山本くんの一歳下の従妹。過去のトラウマにより表面上はクール。
根はかなり嫉妬深い。
・藤原里香……山本くんの隣の席の女の子。おとなしいけどちょっとだけ腹黒。なかなかに嫉妬深い。

※ちゅういがき
本作はあくまでお正月スペシャルです。時系列が「山姉」本編と矛盾しています。
ふかいこと考えず、「どうせキモ姉だから」と軽く読み流してくださるようヨロシクお願いします。
でも設定や人物背景等は、本編のまんまです。
ごく一部、本編の今後のプロット上のネタバレもあります。

――――――――――

 

<1>

ぽちゃん。

――くす、くすくすくす。
「すぴ〜……すぴ〜……」

暗闇だ。
暗闇に、ぎらぎら輝く双眸が浮かび上がっている。

――くすくすくすくすくすっ。
「すぅ……すぅ……」

この部屋の主である少年の寝息だけが、静かにリズムを刻んでいる。
闇に浮かんだ双眸が、だらぁんとだらしなく垂れ下がった。

……姉、だ。
弟の顔を、枕元で凝視していた姉だ。
無防備な寝顔を覆い潰すように、見下ろしている姉だ。

姉はその口元を、もごもごとさせている。
その愛らしい唇に、きらきらと透き通った唾の雫が、溜まっていく。

「すぴ〜……すぴ〜……」

やがて。
自重に負けて、つーっと糸を引いて垂れる露。姉の粘液。
狙い過たず、半開きになっている弟の口に、吸い込まれるように――

落ちる。

ぽちゃん。

「すぴ〜…… ―――ゴホッ! ごほ、ごほっ! ………んグ…………すぴ〜……すぴ〜……」

姉の顔の真下で、むせる弟。
その喉がコクンと上下に動いたのを確認して、闇の中の双眸がニタリと歪む。

――くすっ、くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす
「すぅ……すぅ……」

百発百中だ。
熟練の賜物。長年やってきたことだから、そうそう外すことは無い。

「……おねえちゃんからの………おとしだま、だよ……?」

わけのわからないことを呟いて、姉はまた口元をもごもごさせ始めた。
弟のための、姉の蜜。再び唇に溜まり始める。

 

時は2007年1月1日、午前3時30分。
除夜の鐘は、今年も姉の煩悩を取り払うこと叶わなかったようだ。

<2>

「……ん……?」

朝。
目を覚ますと、鼻先に姉さんの顔があった。

「姉さん……おはよ……。あれ……?」
「おけましておめでとう、秋くん」

姉さんの顔がスライドする。
見慣れたつまらない天井に、なんだかとてつもなく安心感。

「……あれ? いつからそこにいたの……? いま、何時……?」
「ちょうど今、起こしにきたところだよ。あけましておめでとう、だよ」
「あぁ。あけましておめでとう、姉さん。今朝も早いね」
「うん。お姉ちゃん初めだから」

にこにこしながら、なんだか意味がよく分からないことを言う姉さん。
昨晩は年越し蕎麦を食べながら、僕と一緒に行く年来る年を観ていたのになぁ。
姉さんだって夜更かししたのに、どうしてこんなに朝が早いんだろ。
……というか、よく見ると姉さんの目が赤いし。やっぱり寝不足なんじゃなかろうか……?

「これから、お雑煮作るからね。秋くん、お餅は何個がいい?」
「ええと、二個……。いや、三個お願いしようかな」

『それじゃ早く降りてきてね』と言い残して、姉さんは部屋を出て行った。
寝よだれでベトベトになっていた口元を拭ってから、僕もそれに倣う。

……しかし新年早々、息苦しい初夢をみたなぁ。
向こう岸で姉さんが呼んでいるんだけど、もがいてももがいても水を飲んでしまって、
溺れそうになる夢。
今年は水難に気をつけた方がいいのだろうか?

    *      *      *      *      *

やられた。

「ね、ねえさん……」

い、いや、姉さんは悪くない。
たぶん、きっと、僕の落ち度なんだ。
『餅を三個』とは指定したが、『どの餅を三個』とは指定しなかったんだから。

――鏡餅が、三個。

食卓の僕の席に置かれた、超巨大どんぶりのお雑煮。もちろん姉さんお手製である。
出汁の中で鏡餅×3が、どこまでも続く白い海のように広がっていた。

「はい。おねえちゃんの愛情たっぷりだからね」

一個だけ切り餅を浮かべた、可愛らしい小さなお椀に箸をつけて、姉さんがにっこり微笑んだ。

「たくさん食べてね、秋くん!」


……
………

自分の分を、あっさり食べ終わった姉さん。
頬杖をついて幸せそうに、餅をかきこむ僕を眺めている。

……。
そうしている時の姉さんは、本当に本当に幸せそうで。
ほころぶようなその笑顔は、僕が何を引き換えにしてでも守りたいものであって。
僕は少しでも長く、そんな時間を姉さんと過ごしたいと思うのであって。
だから……

だから。
例え無理をしてでも、鏡餅×3の雑煮を腹に詰め込む価値はあるというものだった。
気合を入れて、箸を持ち直す。
どうせ今日は正月休みだ―――死ぬ気でやって、そのあとホントに死体になっても大丈夫さ。

ふんふん鼻歌を歌いながら、リズムに合わせて頬杖を揺らす姉さん。
テーブルの下では、姉さんのスリッパもぱたぱたと揺れている。

「姉さん、今日はなんかご機嫌だね」
「うんっ」

「年の初めは、お姉ちゃん初めだから」

<3>

「こ、混んでるね……」
「ぎゅうぎゅう詰めだねぇ」


……
………

過酷な朝食任務を終え、居間でぐったりしていた僕。
そんな死人の僕の手をくいくいっと引いたのは、おめかしをしたよそいき姿の姉さん。

『秋くん、一緒に初詣に行こ』

――姉さんがそう言うのなら、弟として立たねばなるまい。
そんなわけで三十分後、僕らは揉みくちゃにされながら、満員バスに揺られていた。

「うぐぉッ!? お、おなか押されると、で、出る……餅がッ……!」
「あぁん! 秋くん、そんな風に迫られるとお姉ちゃん、お姉ちゃん……」

この根取川市で一番大きなお宮さんといえば、須登丘神社(すとおかじんじゃ)だ。
でも元日に考えることはみんな一緒、ということで―――
神社行きのバスはものすごい混み具合である。
市内で頼りになる公共交通機関はバスしかないので、今日はこの路線に人が集中するのだ。

「う、ぐ、ぐ……。ちょ、この詰め込み具合、道路交通法違反にならないのかっ?」
「よくテレビで観る、東京のラッシュアワーみたいだねー」

バスが揺れれば、右に押し潰されたり左に押し付けられたり。
そのたびに車内のあちこちから、悲鳴や呻き声が聞こえてくるほどだ。
小さな姉さんの身体が潰されないように、できるだけ僕の胸の中に抱きしめるようにして、耐える。


……
………

そんな、満員バスの中でのことだった。
僕はふと、自分の身体に違和感を覚えたんだ。

――誰かが、ジーンズ越しに、僕の太股を、撫でている……?

『痴漢』――すぐにその二文字が頭に思い浮んだ。
うえぇえ、気持ち悪い!
……だがしかし、馬鹿な奴だな。僕は男だっていうのに。
大方、目当ての女の子を触ろうとして、間違えているんだろうけど――――――ハッ!!!?

そこまで考えて、すぐに思い当たった。

――姉さんだ。
満員バスで真っ先に痴漢に狙われるのは、姉さんじゃないかッ!!
美人で、可愛らしくて、向日葵のような姉さんを前に、痴漢が手を出さずにいられるはずがないッ!!
疑う余地はない。ソイツは姉さんを触ろうとして、間違えて僕を触っているだけなんだッ!

「ね、姉さん、へいきっ!?」
「……どうかしたの? ぎゅうぎゅう詰めがちょっと苦しいけど、お姉ちゃんは大丈夫だよ?」

窮屈そうに、僕の胸の中で答える姉さん。ほっと安堵が広がる……が、予断は許さない。
痴漢なんて――そんな下種な輩の汚らしい手を、
天使のような姉さんの身体に触れさせてなるものかッ!
この僕がついている限り、例えこの身がどうなろうと、姉さんにそんなことはさせないッ!

――さわさわと蠢く手の平の感触。だんだんと、僕の股間の方へ上がってくる。

うえええぇ、気持ち悪い……。
しかし『もし被害者が姉さんだったら?』と考えただけで、身体中の血が沸騰しそうになる。
……もう、ゆるさんぞ。

そこだッ!!
目当てをつけてソイツの手首を掴み、思い切り捻りあげた。

「あぁん、痛ぁい!」
「……あ、姉さん。ご、ごめんっ、間違えたっ!」
「急にお姉ちゃんの手首を掴んで、どうしたの……?」
「い、いや、別になんでもないよっ」

くそッ!
こうも揉みくちゃ状態では、どれが犯人の手だか分かりゃしない!
……でも、なんとかしないと。僕が食い止めないと。
姉さんにだけは、絶対に、指一本たりとも触れさせるもんかッ!!

――“手”は、僕のシャツを捲りあげて、腹から胸元へかけてまさぐり始めた。

す、好き放題やりやがって!
……だが僕が辱められている間は、姉さんは無事だということだ。
鳥肌が立つほどの気色悪さの中、それだけが僕にとっての心の支えだった。

ええいッ! こんどこそッ!
シャツから離れてまた下の方へと移動しようとするソイツを、逃がさずに掴み上げた。

「痛ぁい! やぁん!」
「……あ、姉さん。ご、ごめんっ、また間違えたッ!!」
「秋くん……。どうしてさっきから、お姉ちゃんに意地悪するの……?」
「ほ、ホントにごめんっ! そんなつもりじゃなくて、あの、そのっ」

姉さんを傷つけてどうするっ!? あぁ、泣きたくなってきた……。
くそう、一体どこから手を伸ばしてきているんだ……?

……あ……?
うわわわっ、わっ!?
――“手”は、ズボンの中に入りこもうとしてきた。
な、なんて大胆な奴なんだッ!?

だが……。
ふっふっふ、クックックックックック。
僕もいい加減、キレたようだ。もう恐れるものは何も無い。いいだろう、触らせてやろう。

そして、驚くがいい!
ショックのあまり、正月三賀日を塞ぎこんで寝込むがいいッ!!
お前が今まで弄んでいたモノは、オトコだ! ちゃんと、“ついて”いるぞ!!
わーーーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!

するするとパンツの中に入り込んできた手の平は。
僕の『僕』に行き当たる。
わーーーーーーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!

躊躇いなく、ソレを、掴む。
さわさわさわさわ、ソレを摩り始める。

はっはっは…………………アレ?
さぁっと、自分の顔から血の気が引くのが分かる。
真っ青になる僕をよそに、その手はいよいよ暴虐無人にパンツの中で蠢きはじめた。

も、もしかして……?
最初から、狙いは、『僕』だった………とか?
ソ ッ チ の ケ が 有 る 人 ? ? ?

あわっ!?
あわわわわっわっ! た、たすけッ、たすけて――

望まない刺激によって搾り出された先走り液を、掬うように。
塗りつけるように。つるん、と。
『僕』を、指先で撫でた。

――うッ!?
うわあああああああああああああああああああああああああああぁぁああああああ!!!

――ピンポン
『まもなく須登丘神社、すとおかじんじゃです。
お降りの際は押し合わないよう、足元にご注意下さい』

    *      *      *      *      *

ようやく着いた目的地。
新年早々身も心もズタボロにされて、転がり落ちるようにバスを降りる。
もう……お婿に行けないよ……。

ガックリと肩を落としながら、……それでも、姉さんだけは無事に守りきれたという誇りはある。
そんな大切な姉さんは、バスから降りて上機嫌。
どういうわけか、ぺろぺろと自分の指を舐めている。

「あ、姉さん。指なんて舐めたら汚いよう」
「ううん、汚くないよ。……だって――――」

バスの走り去る爆音で、その後の声は聞こえなかった。

2

<4>

>2007年1月1日、午前11時
>須登丘神社

「わぁ、やっぱりお正月は賑やかだね!」
「いつもは全然、人がいないのにねぇ〜」

人ごみのごったがえす中を二人、腕を組んで歩く。
参道には露天が立ち並び、たこ焼きや大判焼の香ばしい匂いが漂ってきた。
姉さんの雑煮によって胃袋崩壊さえおこしていなければ、存分に食欲を刺激されていたことだろう。
……それでもまぁ、こういう雰囲気を見ているだけでも、なんだかウキウキしてくるものだ。
ホラ、あの人の晴れ着なんか、すごく艶やかだよねぇ。うわぁ、綺麗なひとだn

―――痛ッ!?

「ごめんね、秋くん。足ふんじゃった」
「……ううん、いいんだよ」

前見て歩いてなかった、僕が悪いんだ。

    *      *      *      *      *

「んっ、んっ、ん〜〜っ! 前が、みえない〜」

姉さんが、一生懸命背伸びしている。
拝殿の前に人が群がっていて、とても近寄れないのだ。
ここから五円玉を投げようと思っても、お賽銭箱自体もなかなか見えない。

人の頭の波間から、お賽銭を握り締めた腕だけ突き出して、ふりふり振っている姉さん。
放っておくと、目の前のおっさんの後頭部に五円玉をぶつけそうだ。
そっと手の平からお賽銭をもぎとって、代わりに投げてあげる。ついでに自分の五円玉も投げる。

さてと。お願いごとは―――
そうだなぁ。やっぱり、『家内安全』だよな。
これしかないだろう。
二拝二柏手一礼して、今年も平穏無事に暮らしていけるよう、神様に祈る。

「秋くんが………て…………秋…………わた……………秋く………対………」

手を合わせて、とても真剣にお願いごとをしている姉さん。
ブツブツと漏れ聞こえる呟きが、明らかに僕の名前を指している。
――きっと、僕のことばかりを、色々とお願いしてくれているんだろうな。
……姉さんは……本当に弟想いの、優しい人だよな……。
いつも僕のことばかり、心配してくれて……。

きゅっと胸が締め付けられる思いと、『家内安全』ではなんだか申し訳ない想いが沸き起こる。
だから僕は、財布から二枚目の五円玉を取り出した。
お正月の神様は、これだけ沢山の人のお願いを聞いても忘れないほど記憶力がいいんだ。
もうひとつぐらいなら、なんとか耳の端にでも残しておいてくれるさ。

『姉さんが、しあわせになれますように』

……。
………うん。これで、いい。
さて、と。

「姉さん、そろそろいこうか?」

『――今年こそは秋くんに襲われますように。
今年こそは一線越えて、既成事実ができますように――』

「おーい、ねえさん。もういくよー?」

『――秋くんによその女が近づかないように。秋くんがお姉ちゃん以外に興味をもたないように。
  秋くんがお姉ちゃん以外で自慰に耽らないように。あと、藤原里香がのたれ死ぬように――』

    *      *      *      *      *

「あ、破魔矢買わなきゃ。秋くん、売店寄ってこ?」

参拝が終わるとすぐに、姉さんにずるずる引っ張っていかれた。
お正月は神社のかきいれどきだ。売店もなかなかの人だかりである。
……そうだなぁ。来年は僕も受験だから、学問のお守りでも買っておこうか?

「破魔矢くださーい」
姉さんは、売店の巫女さんにそう注文した。

「『学業成就』のおまもり下さい」
僕は、巫女さんにそう注文した。

「あ、『安産』のおまもりくださーい」
姉さんは、巫女さんにそう注……

…………。
……安産……?
???

「秋くん、呆けた顔してどうしたの?」
「え? あ、いや……」

……ふかいこと考えるのはよそう。
巫女さんが、お守り二つを小さな紙袋に包んでくれる。
この巫女さん、なんか大和撫子って感じだよなぁ。すごく清楚で可愛いらs

―――痛ッ!?

「ごめんね、秋くん。破魔矢刺さっちゃった」
「……ううん、いいんだよ」

ぼやっとしていた、僕が悪いんだ。

<5>

「あれぇ? 亜由美ぃ!?」

帰ろうとした矢先、姉さんが名前で呼び止められた。
振り向けば、茶髪のおねえさんがカラカラ笑っている。

「さゆり……」

この人は姉さんの大学の友達、さゆりさん。
サバサバした感じの、気持ちのいいおねえさんだ。
一度だけ家にも来たことがあるが、その時に初めて会って以来、
姉さんは二度と連れてこようとはしない。

「あけましておめでとうございます、さゆりさん。お久しぶりですね」
「あ〜、秋人君……だっけ? ちょっと見ない間に、身長が伸びたねぇ〜。
  ―――――……って、亜由美。人が会話している間に、割って入らないでよ」

僕の前に立ち塞がって、わたわたと手を振る姉さん。
仲、悪いのかな……? 

「うんうん、イイ男になってきたねぇ〜。よし、18歳になったらお姉さんが相手をしてあげようっ!
  ―――――……って、亜由美。今の冗談だから、その顔はやめて」
 
通りがかりの参拝客のみなさんが、怯えたような表情をしている。
姉さんの顔に、何かついているのだろうか……?

「さゆり。わたしいま、忙しいんだけど」
「忙しいってアンタ……弟と腕組んでただけでしょーが。向こうに、エミもみいもトーコも来てるよ?
  アンタ付き合い悪いから、ちょっとぐらい顔出してきてやんなさい。
  ―――――……って、亜由美! 露骨に嫌そうな顔すんな!」

……。
どうやら姉さんの友達が、揃って参拝に来ていたようだ。

「姉さん、お友達に挨拶していきなよ? 僕はそのへんブラブラしてるから」

姉さんは僕の世話をすることに時間を割きすぎて、自分のことに関しては無頓着なきらいがある。
弟にとってそれは、姉を犠牲にしているようで、心苦しさを感じることでもあるのだ。
……優しすぎるんだよ、姉さんは。
もっと自分の友達付き合いとかも、大事にして欲しかった。
花の女子大生なんだから、もっともっと自由に遊べばいいと思う。――そ、その、オトコ遊び以外で。

「ん……。でも、せっかく秋くんと……」
「いい弟さんじゃないの〜。安心なさい、しばらくの間、あたしが秋人君の相手しといてあげるから」
「――駄目ッ!!! さゆりも一緒にくるのッ!!!」

さゆりさんをずるずる引っ張って、ぷりぷりしながら姉さんが行く。


……
………
「もうっ! みんなどこにいるのよっ! せっかくの二人きりの時間を邪魔してぇッ!!」
「アンタいつも二人きりで暮らしてるんでしょうが! ……ってゆーか、マジで弟を狙ってたの!?」
「だから! マジも大マジだっていつも言ってるでしょうがッ!!」

初詣で賑わう喧騒の中、何を言っているのかは聞こえないが、
二人は言い争いをしながら消えていった。

 

    *      *      *      *      *

……さて。
そんじゃ僕は、時間つぶしにお御籤でもひいていこうかな。
さっきの巫女さんのところに戻って、御籤筒を振らせてもらうことにする。

『末凶』

………。
ブービーだ。ドン底である『大凶』よりは一歩だけマシだから、良かったとしておくべきなのか?
どれどれ、内容は……。

『女難の相あり』 ―――女難……? はて、心当たりはないけど……。
『待ち人来まくる』 ―――なんだこれ? こんな記述って、普通のお御籤にあるのか?
『白刃に遭う凶相あり』 ―――なんだよこれはッ! こ、こわいじゃないかッ!?

な、なんかやだなぁ……。
このお御籤、向こうの木に結んでおこうっと。
悪い結果のお御籤は、利き手じゃない方の手で木に結ぶと“困難を克服できる”んだ。


……
………

沢山の白い紙に纏わりつかれたご神木は、甚だ迷惑そうに境内の一角に佇んでいた。
僕と同じように、それぞれの作法でお御籤を結んでいる参拝客たち。
絵馬に想いを書き綴っている人たちもいる。
『祈願、根取川大学現役合格!』『無病息災。妻の安産を願ふ』『あの泥棒猫に死を……許さない』
色んな想いの篭った絵馬が、ところ狭しと掲げられている。

――そんな中。
ふと、見知った姿を見かけたんだ。

濡れるような長い黒髪。燃え立つほどに赤く瑞々しい唇。
寒空の下でうっすらと頬にさした紅が、その純白の肌をより一層引き立たせている。
この人ごみの中でさえ、人目を惹き付けざるを得ない美少女っぷりは、間違いない。

「あずっ!」

山本梓。僕のひとつ年下の従妹だ。
ごそごそ絵馬にペンを走らせていた彼女の肩を、ポンと叩いた。

「ココで会うとはぐうぜんだねぇ! あけまして、おめでと――――お?」

振り向いた梓の顔は、ゆでだこ状態に真っ赤で。
さっきまで書いていた絵馬を、さっと後ろ手に隠してしまって。
いつものクールビューティーもどこ吹く風、あわあわとしどろもどろに口を開いた。

「――あっ、あ、あっ、秋人さんっ!? お、おはよ、じゃない、おめでとう、ご、ございますっ!」
「……あ、うん……。ごめん、邪魔しちゃったかな……?」
「い、いえぇッ! も、もう帰るところでしたから!」

そんな梓に、僕もそれ以上の追及ができない。
――チラと。
梓が振り向く瞬間に覗いた絵馬の文字が、僕の胸に突き刺さっていたから。

『お兄ちゃん』

それだけが。
その文字だけが、目に焼きついている。

なにを……書いたのだろうか……?
……『お兄ちゃん』とは、僕のことなのだろうか……?
彼女は決して教えてくれないだろうけれど………気になって仕方がなかった。

あずは……
あずはまだ、僕のことを、『お兄ちゃん』と呼んでくれるのだろうか……?

    *      *      *      *      *

「おまたせ秋くん〜! ………って、ええええええええええッ!?」
「あ、姉さん。そこで偶然、あずに会ったんだよ」
「あけましておめでとうございます、亜由美さん」
「……あ、あけまして、おめでと……」

カチンコチンに固まっている姉さん。お友達とお話しが盛り上がって、疲れちゃったのかな?
なら、そろそろ家に帰らないと。

「あずは一人なのかい? 一緒に帰ろうか?」
「あ、はい! ちょうど初詣の帰りに、秋人さんの家へ伺おうと思っていたんですよ」
「そっか」
「父から伝言なんです。ご馳走を用意するから、今日は家に夕飯を食べにきてくれって。
  久しぶりに、お二人の顔を見たいそうですよ?」

お正月にさえ日本不在の父母に代わって、僕たち姉弟の保護者代わりをしてくれているおじさん。
自宅が近所で僕の家から歩いて行けるのだが、肝心のおじさんが多忙なので会えない時の方が多い。
でもさすがに元日ぐらいは、家でのんびりしているみたいだった。
……それなら年賀参りをしておかないとな。いつもお世話になっているし。

「そっか。じゃ姉さん、このままおじさんの家に直行しようよ。夕ご飯の心配もしなくていいし――
  ―――――……って、姉さん。まだ固まっているの……?」

神社の一角に佇む、お地蔵さん。
それが姉さんだった。

<6>

>2007年1月1日、午後3時15分
>叔父さん邸

「あーーーーーーーっ! 秋人くぅぅううううううううううんっ!!!」
「こ、こんにちわ」
「やあぁぁぁぁぁぁん、ひっさしぶりぃいいいいいいいいっ!!!!」
「あ、や、ご無沙汰してます……」

抱き締められた。
張りのある大きな胸の中に、むにゅうっと顔が埋められる。
あわ、わわわわ。

「――――――オバさん」
「――――――お母さん」

背後から、底冷えするような二人の声が聞こえてきた。


…… 
………

この人は、山本茜さん。僕の叔母にあたる人だ。
梓のお母さんだけあって大変お綺麗な、まだまだお若い35歳である。

「秋人くーん、うしろの人達が睨むよぉ」
「あっ、やっ、それは」

「――――――オバさん、おじさんの前でふしだらですよ……」
「――――――お母さん、年を考えてください……」

……どうしたことか。
豪邸であるこの叔父さん宅の照明が、少しずつ暗くなっていくような気が……。
暗雲が、まわりに立ち込め始めていた。

「あ、あの、叔母さん。ちょっと、離してもらえませんか?」
なんとなく身と周囲の危険を感じて、そっと叔母さんを窘める。

「……つれないなぁ〜。秋人くんが赤ちゃんの頃は、よくおむつを代えてあげたのに……。
  麻美ちゃん以外で、最初に秋人くんのおちん○ん触ったのは、叔母さんなんだよぉ?」
「で、でも今はですねぇ――」
「おっぱいだって、麻美ちゃんが居ない時は、叔母さんのを飲んでいたんだよ?
  秋人くん、ちゅっちゅっ、ちゅっちゅって。すごい勢いでしゃぶりついていたんだから」

――な、なにぃッ!?
おむつの話はよく聞いていたが、おっぱいまで貰っていたとゆーのは初耳だったッ!!

「そうだったんですかぁ!? ……姉さん、知ってた?」

姉さんはどういうわけか、僕の背後でまたまた石化を始めていた。

「…………乳兄妹…………」

あずがぼそっと、何かを呟いた。

………
……

「やー秋人君、久しぶり久しぶり! おぢさんとビール飲もう?」
「おじさん! あけましておめでとうございます!」

赤ら顔で出てきた、でっぷりとしたこの人が僕の叔父さん。山本篤志さん。
大手不動産会社で重役をしている、えらい人なのだ。

「男の子がいると、酒を酌み交わせるのがいいねぇ。さぁさぁ、おぢさんとビールを飲もう」
「あー、僕まだ未成年ですから……」
「正月ぐらいいいよいいよ。保護者であるおじさんが許す! さぁ、おぢさんとビール飲もう」

酒気を漂わせながら、おじさんが僕の背中に手を回し――

――突き放された。
僕の右腕に姉さんがしがみつき。僕の左腕をあずが引っ張って。
僕の腰に抱きついた叔母さんが、おじさんから思い切り引き離す。

「駄目ですッ!! 秋くんがビール腹になったら困りますッ!!」
「……お父さんの息、お酒臭いからアッチいってください」
「あなたは手酌酒がお好きでしょうにぃ? 一人で飲んでてくださいねぇ?」

「………」
「お、おじさん……」

一家の家長は、ひとりショボンと居間に戻っていく。
男性側の権力が極端に弱いのは、山本家の伝統だった。

    *      *      *      *      *

「いいお肉があるから、今日はすき焼きにするからねぇ!」
「……あ、ちょっと! 秋くんの分はわたしが作るからいいですっ!」
「なぁにぃ、亜由美ちゃん? 今日ぐらいは主婦しなくてもいいじゃない〜」
「かまいませんっ! 秋くんの好みは、わたしが一番知っているんですから!」
「あん、亜由美ちゃん邪魔しないでよ〜」
「――ほら、このネギなんか! これじゃ駄目ですっ!
  秋くんはおネギが苦手なんですから、もっと小さく切らないと食べられないんですっ!」
「じゃあ切るわよぉ〜」
「わたしが切るからいいですっ!」
「それなら叔母さんは、お味噌汁を……」
「このお味噌汁、駄目ですッ! 秋くんは、夕食には合わせ味噌って決まっているんですッ!」

あ、あのぉ……。
僕は別に食に拘りがあるわけではなくて、姉さんに出されるままの物を食べているだけなんですが……。
……ま、まぁいいか。

台所に突撃して、叔母さんと奪い合うように料理を始めた姉さん。
お正月から、働き者だよなぁ。

「秋人さん秋人さん」
「はいはい?」
あずが僕の服の袖をつまんで、ちょいちょいと引っ張っている。

「お暇でしたら、ちょっとお願いしたいことがあるのです。……宜しいですか?」

<7>

巨大な液晶テレビと、5.1chのホームシアターシステム。
棚には処狭しとDVDソフトが並び、壁には防音素材使っているこの部屋は、
あずの家のAVルームだ。
完全無欠に豪華仕様である。

「これなんですよ」
「こ、これはッ!?」

あずが手に取って差し出した、少し大きめの白い箱。

「――これは、仁天堂の『Wee(うえぇ)』じゃないかッ!!」

『うえぇ』とは、昨年末に発売されたばかりの仁天堂最新型のTVゲーム機だ。
リモコン型のコントローラーを振り回して、身振りや手つきで体感型のゲームを楽しめるという。
孝輔の奴が欲しがっていたけど、バイト代が入った頃にはどこも売り切れ御免で、
悔しがっていたもんだ。

「買ったの!?」
「いえ、頂きものなんです。父が取引先の方から頂いたそうで」

へぇ〜。
やっぱえらい人になると違うんだな。貰えちゃうのかぁ。

「でも、どうして箱の中に入ったままなんだい? 遊ばないのか?」
「繋げ方とか使い方とか、全然分からなくて……」

おじさんの家は、こう見えて家族全員機械音痴なんだ。
この部屋の家電を買う時も、街の個人経営の電気屋さんに注文して、
配線から設置まで全部お任せらしい。
大手量販店のチラシを見比べるのが楽しい庶民とは違う、ブルジョアな買い方である。

「折角頂いたものを一度も使わないのは、先方に失礼ですし……。
秋人さん、なんとかなりませんか?」
「セットアップすればいいんだね? ようし! お兄ちゃんにまかせとけいっ!」
「………お願いしますね」

さりげなく、“お兄ちゃん”にアクセントをつけてみた。
あずの変わらない反応に、また寂しさが募る――

………
……

「――よっ?」
「わあぁっ! すごいすごい!」

難なくTVと無線LANに繋がった『うえぇ』。
とりあえず、一緒に置いてあった『うえぇスポーツ』というソフトを起動させている。
色んなスポーツのゲームを遊べるようだが、僕が得意なスポーツといえば中学までやっていた野球だ。
なので、まずは“ベースボール”を選んだ。

「――はっ!」
「すごーい! すごーいっ!」

……なるほど。
この『うえぇ』というゲーム機の仕組み、だいぶ分かってきたぞ。
要するに振った時のタイミングと向きが重要で、振る勢いなどは感知できないらしい。
逆に言えば、そこにさえ気をつければ、手首のスナップだけでもホームランが出せる。
正確なフォームで気張って振ると、流すつもりがセンター返しになったりして、
思惑が外れるようだった。

ウーム……。どうせなら、肘と腰と膝にもセンサーをつけたらいいのに。
プレイヤーのスタンスとバッティングフォームまで感知して、打球の動きを計算してくれたらなぁ。
理想的なバッティングゲームになりそうなんだが―――仁天堂さん、なんとかしてくれないかねぇ?

……まぁ、でも。

「すごいすごいっ!」

目をキラキラ輝かせて、無邪気にはしゃいでいるあず。
ゲームに慣れていない彼女には、このゲーム機の仕組みなんかには考えが及ばないのだろう。
実際に野球が上手くなければホームランが出せないとか――そう思っているに違いない。
そして純粋に、“格好よくバット(に見立てたリモコン)を振る僕”を見て感動しているのだ……。

……だから。
姑息にホームランを出すテクニックよりも、
彼女を喜ばすパフォーマンスの方がずっと重要だと悟った。
ぶった切り打法やらフラミンゴ打法やら、特に見栄えのするスタイルを色々と試してやる。
本当に野球をしているように、大袈裟にバッティングをした方が、彼女は喜んでくれるのだから。

「わぁっ! またほーむらんだぁっ!」

こんなにも無防備で、無邪気で……。昔の、あの頃のように笑ってくれるあず。
こんな彼女に会えたのは、ほんとうに、ほんとうに、
ひさしぶりだから……。

「お兄ちゃん、私もやるっ!」
「ハハ。はい、それじゃ交代。……………………………ぇ?」
「……………………………ぁ」

……今、なんて言った……?

慌てて口元を押さえたあず。
僕の手からリモコンをもぎ取るようにして、液晶テレビに向い合う。

……あず……。

    *      *      *      *      *

「――やあっ!」
『ストライクッ!』
「――たあーっ!」
『バッター、アウツッ!』

なんとなく微妙な、気まずい雰囲気が漂う中。
ゲームに専念しているあずが、ひたすらに三振を続けていた。

才媛である従妹だが、ゲームとかスポーツとかは少し苦手らしい。
ピッチャー(というか画面)に対して正面向いて構えているし、
バット(というかリモコン)の握りも右手左手逆だったりする。
本人は真剣に、打席に入っているつもりで構えているのだろうが―――まぁ、ご愛嬌というやつだな。
リモコンを振るタイミングも、まるで狙っているかのように正確に、
ボールが通り過ぎた半秒後である。

「できませんよぉ……」

柄にもなくしょぼくれた態で、泣き事をいう従妹。
とはいえ僕にとっては、コッチの方が昔ながらの梓だった。
なにかあるとすぐにぴいぴい泣いては、僕の背中にすがりついてきた少女――。
どこにも隙がなくて、どこか張り詰めていて、
どうにも無理をしているあずを見ている方が、本当は辛い。

「どれどれ。まずバットの持ち方が違うんだよ。―――こう、ね?」
……まぁ、バットじゃなくてリモコンだけどさ。

「野球のバットってさ、腕じゃなくて下半身で振るのがコツなんだよ。もっと腰を落として――こう」

梓の背中から手を回して、そっと手を添えて「野球」の素振りをしてみる。
ハッキリ言って、このゲームの攻略に「野球」のコツなど全く必要ないのだが。
……それでも僕は、彼女に教えてあげたかったんだ。
僕よりずっとずっと頭が良くなってしまった今の梓に、
それでも教えられるのはこんなことぐらいだから。

「腰の軸は動かさないように、お腹から投手に向けるようにして――こう、振るんだよ」
「こ、こうっ、ですか!?」
「……うん。あ、顎を少し引くと、もっとサマになるかな?」

真剣そのもので、僕の指導に聞き入っているあず。なんだか可笑しくなってきた。

「――とおっ!!」
『ストライクッ!』

……だって。
どんなにフォームが良くたって、タイミングが全てのこのゲームでは何の意味もなさないから。

「すこーし、振るのが遅いのさ。ほら、タイミングを合わせてあげるよ」

背中からあずに手を添えて、一緒にリモコンを振ってやることにする。
柔らかなシャンプーの香りが、ふわりと鼻腔を刺激した。

3、2、1、せーのっ!

「今だ!」
「――やああああーーーーーーーーーーっ!」

うわっ、とっ、とっ!?
予想以上に気合を入れて、力一杯に振りかぶったあず。
その勢いに、背中を支えていた僕のバランスが崩れて。
脚がもつれあって。
――とすん、と。

背後のソファーに、倒れこんだ。
『ストライクッ! バッター、アウツッ!』

………
……

気がつけば、芳香の中。
目の前の絹のような肌に、恥ずかしそうに生えているうなじの産毛。
僕の胸の下に押し倒されている、記憶にある以上に柔らかな、細身の美少女――
叔父さんのAVルームの高級ソファーは、まるでベッドのようにふかふかで――

「……あ……」

長い睫毛の奥の、うっすらと濡れそぼった瞳が、見上げるように僕を覗き込む。
黒のハイソックスとプリーツチェックのスカートの合間から覗く、シミ一つない真っ白な太股。

「………あ、ず………」
「――――――――――――秋くん―――――――――――――」

飲み込んだ唾が、自分でもギョッとするほどに、大きな音を立てた。
みじろぎするように、太股をずらした、あずのスカートが、捲れあがって、アズの……隙間から……

「――――――――――――秋くん―――――――――――――」

……二人して、顔を上げた。
防音ルームの戸口に、立っていた。

「――――――――――――ごはん―――――――――――――」

そこに、立っていた。
少し大きめのエプロンをつけて、お玉を片手に持った――

「――――――――――――できたんだけど―――――――――――」

 

――姉さんが。

3

<8>

>2007年1月1日、午後3時15分
>叔父さん邸食堂

卓上コンロの上に、香ばしい割下がグツグツと煮えた鉄鍋。
傍らには、雪化粧を纏ったかのような、見栄えさえも美しい霜降り牛肉の皿。
もの凄く高価なお肉だということだけは、僕にも分かる。

――それでも。
育ち盛りの胃袋がそれらを前にしても、なお心が浮き立つ余裕すらなかった。
僕の右隣りの席から、もくもくと湧き上がっている暗雲……

「ん? この蛍光灯、もう古いのかねぇ……?」

おじさんが、不思議そうに天井を見上げた。
――ちがう。ちがうよ、おじさん。
部屋の薄暗さの原因は、室内蛍光灯なんかにあるわけじゃない。
僕の右隣り……圧倒的な瘴気が沈黙のプレッシャーとなって、僕に襲い掛かってくる。

お、正月早々、どうしてそんな展開になるんだよぉ?
待ってくれよぉ、心の準備ができてないよぉ。

こ、この、姉さんの雰囲気は、紛れもない。
『お姉ちゃん怒っているからね』モード……。
いったいどうして……? こんな時にまで、どうして……?

た、た、た、

たいへんだぁ。

    *      *      *      *      *

目の前には、すき焼きのご馳走。

大きな四角いテーブルに、東向きに並んでおじさんとおばさんの席。
西向きに僕の席。
北向きにあずの席。
南向きに、すなわち僕の右手側に、姉さんの席。

「……こ、この配置は、『鴻門の会』……?」

中国史で習ったなけなしの知識が、もわわんと唐突に浮かんできた。
さながら、絶体絶命の劉邦の役回りが僕、というところなのだろうか?

いったいどうして、こんなことになっているのだろう……。
お茶碗と箸を両手に持ちながら、思わず呆然としてしまう。
今朝起きてから、今この瞬間までの自分の行動を省みても、
姉さんを怒らせた原因に心当たりがないんだ。
今日は一日、良い子でいたはずなのに……。

「あ、亜由美ちゃん、どうかしたのかい?」
「お腹すいてないのぉ?」
おじさんとおばさんがようやく事態に気がついたように、姉さんの顔色を伺う。

姉さんは、瞬き一つせずに。
一心不乱に、卓上コンロの炎を、見つめていた。


……
………

――コンッ!!
思わず、肩を竦める。
姉さんが、すき焼き用の玉子を割っていた。

――コンッ! コンッ!
テーブルの角に、玉子をぶつけている。
玉子の尻を、叩きつけている。
姉さんの視線は、コンロの炎に釘付けのままだ。

――コンッ! コンッ! ぐちゃっ!!
……潰れた。
小皿にあけられる、殻の欠片がそのまんま混入した生玉子
もちろん、手元などは一瞥もされていない。姉さんは、コンロの炎しか見ていない。

「…………はぁ」

だから僕は、刺激しないようにそっと、姉さんの小皿と僕の小皿をすり替えたんだ。
我が前にやってきた、グチャグチャに殻の混ざった可哀想な生玉子。
……やれやれ。

……って。
……あれ……?

スッと。
左側から手が伸びて、僕の小皿が従妹の小皿と取り替えられた。
「あず?」
押し黙ったままのあず。
無残な玉子の小皿から、箸で一つ一つ、殻を取り出し始めた。

「あ、あず、僕なら別にいいから――」
「……………………………………………………………………………………………みっともない、ひと」

――あず? 
……今、なにか呟いたような……?
僕が見たことのないような表情で、じっと正面を見据えたまま、作業を続けるあず。
殻を抓む箸の先が、ほんの少しだけ震えている――。

    *      *      *      *      *

「あっ」
姉さんが、僕の小皿を取り上げた。

そうだった。
鍋料理の時は必ず姉さんが、僕の小皿におかずを取り分けるんだった。
……まぁ別に大した理由はなくて、いつもそうされているから
お約束になってしまっただけの話だけれど。
とはいえ、今の姉さんは相変わらず、焦点の定まらない視線で
コンロの炎だけを見つめているわけで――

――ドボン。ドボンドボン。

適当に、乱暴に、いい加減に、それでも山のように、おかずが盛り付けられていく。
冷たい白滝、煮えていないシイタケ、味のついていないちくわ、崩れた焼き豆腐――
「――あ、姉さん、さすがに肉だけはっ」
生々しくも赤いままの霜降り肉が、容赦なく小皿に突っ込まれる。

あ〜あ……。
目の前に戻ってきた小皿、うず高く盛られた生煮えのすき焼きの具材たち。
いいお肉だったのに……仕方ないなぁ……。

はぁ……――って。
あっ、ちょっと!

僕が呆けている隙に、またまた梓が手を伸ばして、さっと小皿を奪い取った。
冷静さなのか、苛つきなのか、まるで読めない無言の様子で席を立ち、流し台の方へ運んでいく。
「あ、あず、いいってばっ……」
従妹は流し台で、丁寧に具材を洗い始めた。
姉さんの方はやはり、喰い入るようにコンロの炎だけに魅入っている。

「……あず……?」
能面のような表情で、鉄鍋の前に戻ってきた梓。
綺麗になった材料をもう一度、機械的な手つきで割下の中に並べていく。

「あの〜、あずささ〜ん……?」
今度はひとつひとつ丹念に煮え具合を吟味しながら、僕の小皿に料理を盛り付け始めた従妹。
肉も野菜もバランスよく取り分けられた小皿が、そっと僕の前に差し出される。

「あ、あず、そんなことしてくれなくてもさ……」
「どうぞ」
その時だけ、ニコリと微笑んだ従妹は。
そしてまた馴染みのない険しい表情で、玉子の殻を取り除く作業に没頭する。

……ど、どうしちゃったんだろう、今日のあずは……?
姉さんも変だ。今朝はあれだけご機嫌だったのに、
どうしていきなりおかんむりになってしまったのか。
見れば姉さんが虚ろな目をして、コンロの火の中に自分の箸を突っ込んでいる。
あー姉さん、それは危ないってば……。
火に炙られた姉さんの箸を、優しく取り上げようとして――

――押し当てられた。
「で、でッ!? あ、あちち゛ち゛ち゛ッ!!」
ご、根性焼きぃッ!? あち、あち、あちっ、あちッ!

椅子から飛び上がりそうになる。
……と。
その寸前。火傷しかけの手の平が、冷たくて気持ちのいい感触に包まれた。
いつの間にそんなものを用意していたのか、梓が身を乗り出して、
濡れたハンカチを押し当てていたのだ。

「あ、ありがと、あ……ず?」
「…………………………………………………………………………………………………そうやって……」

あずが、何かを憎々しげに吐き捨てる。
柳眉を逆立てて、何ものかを正面に見据えて、睨みつけている。

「………………………………………………そうやって……………んを……傷つけて、ばかりいる……」

きゅっと結んだ、赤い唇。
ギリギリと――奥歯の軋む音だけが、聞こえる。
あずは、いったい何を、そんなに――

「………………………………………………………………………………………いけない、ひと…………」

な、なんだか、妙な雰囲気になってきたような……?
二人とも、どうしたっていうんだよう……。 お正月早々、何が勃発しているんだよう……。
僕はお茶碗を持ったままの間抜けな格好で、状況も把握できずに、
きょろきょろと左右を見比べるだけだ。

「ま、まぁまぁ、亜由美ちゃん。おぢさんのビールでも一杯、どうかねぇ?」

僕ら三人の様子をオドオド見渡していたおじさんが、
おっかなびっくり姉さんのコップにビールをついだ。
無言のまま、がっしとコップを掴んだ姉さん。
おもむろに呷って、喉を鳴らしながら一気に飲み下していった。
ごく。
ごく。ごく。ごく。ごく。ごく…………

    *      *      *      *      *

『……あ……あき……あき……くぅん………Zzzzz……』

お。
おぉぉぉぉぉ!
そ、その手があったかぁ!!
コップ半杯のビールで、見事に酔いつぶれてしまった姉さんだっ!

「あ、亜由美ちゃん、大丈夫かねぇ……?」
「姉さんお酒に弱いけれど、これくらいなら大丈夫ですよ。
起きなければ、僕がおぶって帰りますから」

それよりも、おじさんはやっぱり凄いやぁ!
あの状態の姉さんを一発で鎮める方法を思いつくなんて、年の功は伊達じゃないっ!

「いや、おじさんはただ、酒飲み仲間が欲しかっただけで……」

まぁ、とりあえず姉さんには眠ってもらって、後でまたゆっくりフォローするとしようか。
どうしてヘソを曲げてしまったのか、今回はとんと心当たりがないし……。
……あ、そういえば今朝の姉さん、なんか赤い目をしていたっけ。
寝不足でご機嫌斜めだったのかもしれないな。それならやっぱり、このまま寝かせといてあげないと。

『……あき…く……あき………くぅん……Zzzzz……』
「はいはい、ここにいるからね〜」

酔い潰れながらも、うなされるように掴みかかってくる手をあやしながら、
姉さんをソファーに横たえた。
梓が二階から、随分と重そうな毛布を抱えてやってくる。

「あぁ、あず。気が利くね、ありがとう」
「よいしょ」

どすん、と姉さんの身体に覆い被せた。
『……あき…―――――き―――ぅ―――――――――z―』
ずずっと、姉さんの顔まで巻き上げた。
『―――き―――――――――――――ぁ―――――――』
ぼすっと、その上に巨大な枕を押し当てた。
『―――――――――――――――――――――――――』

 

 


……
………って!?

『―――――――――――――――――――――――――』
「あ、あず、それじゃ姉さん息ができないよッ!!」
「………? そうですか?」

おいおい、しっかりしてくれよう。

<9>

「そーかそーか。秋人くん、ちゃんと勉強頑張ってるじゃないか!」
「普通にやってるだけですよ……。梓には、もう全然敵いませんし」
「秋人くん、大学はどうするのぉ?」
「姉さんには、根取川大学にしろって言われているんですけどね。自宅から通える国立ですし」

山本(叔父)家の食後の団欒は、和気藹々ムードで進展していた。
……ソファーでうなされている姉さんには、少し申し訳ないけれど……。

「そういえば、明兄さんと麻美ちゃんはどうしているのかい?」
「ひと月前まではマラウィにいたらしいんですけどね。新年はエチオピアで迎えたようです」

山本明は僕の父さん、山本麻美は母さんの名前だ。
海外勤務と言っても優雅なものではなく、両親は“世界最貧国”と呼ばれる国々ばかりを巡っている。
当然政情が不安定だったり、危険な地域も多い。
なかなか逢えなくてもいいから、どうか元気でいて欲しいというのが、息子としての本音だった。

―――――あっ!

「そうそう! 父さん達からニューイヤーカードと、エチオピア土産の珈琲が届いているんですよ!
  おじさんたちの分も一緒に受け取っているんです。忘れちゃった!」
「あぁ、いいよいいよ。今度また持ってきてくれれば」
「いえ、走って行けばすぐです! 僕、ちょっと家に戻って取ってきますよ!」

駆け足で行けば、片道で十分もかからないからな。
一緒に送ってくれた写真もツッコミどころ満載だし、
おじさんが在宅の時に話のネタにしておきたかった。
僕は上着を着込んで、大急ぎでおじさん宅を飛び出したんだ。

    *      *      *      *      *

>2007年1月1日、午後8時07分
>山本くん家前

自宅前。
息を切らせて走ってきた僕は、我が家の門前にうずくまっている人影を見かけた。
あの子は……。

「ふ、藤原さん!?」
「……あ……。やまもと、くん……!」

僕のクラスの隣りの席の女の子、藤原里香さんだった。
でもどうしてこんなところで、こんな時間に……?

「藤原さん、いったいどうしたの!?」
「うん。山本くんにこれを……、えへ」

僕の姿を発見して、ぴょこんと嬉しそうに立ち上がる。
藤原さんが差し出したのは、一枚の年賀状――可愛らしい文字で、新年の挨拶がプリントされていた。

「どうしても直接、わたしたかったから。………えへ」
「なっ、わざわざそんなこと……!? 普通に郵送してくれればいいのに……」
「だ、だって……」

しょぼんと、うな垂れてしまった藤原さん。
あ、わ、わ、僕、なにか悪いこと言っちゃったのかな?

「去年は隣りの席で仲良くなれたけど、今年も山本くんと同じクラスとは限らないし……。
  昨晩も零時に、山本くんの携帯にメール出したのに、へんじくれなかったから……。
  もう、嫌われちゃったかなって思って……。それで……わたし……」
「ええ!? メールぅっ!?」

慌てて携帯を取り出して、メールボックスをチェックした。
………藤原さんからのメールは、見つからない。

「届いていないみたいだよ?」
「えぇっ!? どうして……」
「……あ。そういえば、新年の零時にはグリーティングメールの規制をするって、
TVで言ってたっけ。
  配信状況が悪くて、届かなかったのかもしれないね。……ごめんね、気づいてあげられなくて……」
「そ、そっかぁ。よかったぁ……」

泣きそうな顔をして、嬉しそうに息をつく藤原さん。
そんな彼女の姿を見ていると、なんだかとても切なくなってくる。どうして藤原さんは――

「僕は今朝からずっと、外出しててさ。藤原さんはいつからココで待ってたの?」
「ついさっき来たばかりだから、平気だよぉ。……えへっ」

……嘘だ……。
着込んているダッフルコートの下で、小さく震えている藤原さんの身体。
立っているのも辛そうな彼女を見れば……相当な時間、ここで僕を待っていたのが分かる。

「……あの、藤原さん。良かったらさ、家の方に上がって、温まっていってよ? 
  お茶くらいなら出せるし、女の子が身体を冷やしちゃ……駄目だよ」
「………うん………ありがと。っと、わっわわ――」
「あわわわ、ちょっ、だいじょ――うわっ!?」

よれよれとふらついた藤原さん。
あわてて手を差し出したら、ぽすんと。僕の胸の中に納まってしまう。
―――小さな身体、だった。

「あっ!? あ、あのっ、藤原さんっ!?」
「……山本くん……あったかい……」
「あ、あの、と、とりあえず、家の方へ、ねっ!? こ、この状態は、ちょ、ちょっと……」
「……うん……。でも――」

「もう少しだけ………こうさせて………」

    *      *      *      *      *

「お、おじゃま、しまーす……」
「さ、入って入って」
「山本くん……、お姉さんはご在宅なの……?」
「姉さん? 姉さんは今、親戚の家で酔いつぶれてるよ。挨拶できなくてごめんね、アハハハハ」
「そっかぁ! それじゃ、お邪魔しまーっす!」

藤原さんをリビングにお通して、急速暖房をかける。
その次は、大急ぎで湯沸しだ。ええと、アレはどこだ………あった!!
本場エチオピアの高級珈琲の缶!
おじさんの家にも持って行くところだったから、丁度いいや。
旨いんだよ、これが。

「藤原さーん、珈琲淹れるから、ちょっと待っててねー」
「はーい! ご馳走になりまーす」

続き部屋のキッチンとリビングとで、掛け声の応酬である。

「山本くんのおうちに、わたし初めて来たよー」
「ハハハ、あんまり友達とか連れてこないからねー。孝輔なんかは、よく夕飯食いに来るんだけどさ」
「矢島くんと仲良いもんねー。ちぃちゃんなんか羨ましがっていたよー」

ちぃちゃん? 
……あぁ、比良坂さんのことか。同じクラスの、藤原さんの友達だ。

「女の子の友達を連れてくるようなことは、まずないからなぁ〜。藤原さんが初めてかも」
「……ふぅ〜ん。そうなんだぁ〜」

ええとサイフォンはどこだ、サイフォンは……。
台所は姉さんの支配下にあるから、いざという時どこに何があるのか分かり辛いんだよなぁ。

――…………あれ?

「藤原さーん。今、何か光ったー?」
「ううん。そんなことないよー?」

……一瞬、部屋が光ったような……。
まぁ、気にせいかな。うん。

    *      *      *      *      *

「はい、お待たせ。しっかりと温まっていってね」
「ありがとぉ。山本くんのお手製かぁ………えへ」
「じゃ、僕はちょっと失礼するね」

次は、父さんからのニューイヤーカードを探さないと。
リビングにもキッチンにも見当たらないんだ。
姉さんなら知ってそうだけど、起こしたくはないし………あっ! 姉さんの部屋かもしれないな!
藤原さんをリビングで寛がせておいて、僕は二階へと駆け上がった。

………
……

『お姉ちゃんの部屋』とネームプレートが下げられた、姉さんの部屋。
小学生の頃、僕とお揃いで作ったプレートだ。

「ね、姉さん、入るからね……?」

普段、滅多に入れてもらえない姉さんの部屋だが――こ、こういう時は仕方ないもんね?
……ち、ちょっとドキドキする。

「お、おじゃましま〜す……」

一歩踏み出せばそこは、むせかえるほどの姉さんの匂い。
姉さんのシャンプー、姉さんのハンドクリーム、姉さんの汗……。すべて、姉さんの、匂い。
頭が、クラクラ、する。

さすが姉さん、綺麗に片付けられた部屋だった。
見渡してみたが、机の上にもベッドサイドテーブルにも、カードは見当たらない。
その代わりに目立つのが、机やサイドテーブルや本箱の上や、
あちこちに置いてあるフォトスタンドだ。
――どれもこれも、僕と姉さんの二人の笑顔が映っている写真ばかり。
じわりと、胸に温かいものが込み上げた。
こんなにも姉に大切にしてもらえることは、弟冥利に尽きるというものだ。

……でも。
どうしてどのフォトスタンドも、妙なシミが付いているんだろう?
角の方にシミがある物ばかりだ。古いフォトスタンドなのかな?
――ならば……そうだ! 三月には、ホワイトデーがある!
その時には、姉さんに新しいフォトスタンドを贈るとしようか。

……っと。いけないいけない、肝心の用事を忘れるところだった。
カードは一体どこにいったのだろうか? 床にでも落ちていないのかなぁ?
姉さんの部屋の絨毯に這いつくばって、360度見渡してみる。

ムムッ!! ムムムムッ!!
発見! 発見!! べ、ベッドの下に何かが……あるぞッ!
布切れみたいだ。

……ド、ドキドキしてきた。もしや、もしや、あの、白い布は……。
いけないいけないと思いつつも、ついつい“ソレ”に手を伸ばしてしまうのが男のサガだった。
あぁでも、駄目だ駄目だッ!! 大切な姉さんにそんなふしだらなことをして、弟としては――
――……ちょっとだけなら。ねぇ?

震える指をベッドの下へ伸ばして、ソレを……………掴む。
あぁ姉さん、ごめんなさいごめんなさい。弟なのに、僕はなんて変態な、イケナイことを……
……でも、でも、僕は、僕はッ―――――って。
あれ?

………これは。
姉さんの下着じゃなくて…………僕のパンツじゃん。

さらに奥に手を突っ込んで、触れるものを掻い出してみた。
出てくる出てくる、僕のブリーフとトランクス。
最近妙に代えのパンツが少ないと思ったら、ココにあったのか? でも、どうして……?
洗濯したまま、脱衣所の下着箪笥に入れ忘れていたのだろうか……?

よく見ればどのパンツもよれよれで、もうとても穿けそうにない状態だった。
ならば一気に捨てようと思って、ココに溜めておいたのかもしれないな。
……そもそも、だ。
姉に自分のパンツまで洗濯させている、僕が悪いんじゃないか。改めて、気恥ずかしさで一杯になる。
自分の物の洗濯ぐらいは自分でするって言っているのに……聞く耳もたないんだもんなぁ、姉さんは。


……
………

ととと、と。まったりしてちゃ駄目じゃないか!
カード、カード! カードはどこに行ったんだよう?
もう一度姉さんの机の上を調べてみるが、何もない。それなら……引き出しの、なか?

ごくり。

……いやいやいや。さすがにそれはマズイよ。
親しき仲にも礼儀あり、だよ。姉弟とはいえ、プライバシーというものがある。弟としては――
――……ちょっとだけなら。ねぇ?

震える手で、一番上の引き出しを開ける。
ロープ、十徳ナイフ、バール、痴漢撃退用の電気ショック、ドライバー、
小型ノコギリ、果物ナイフ……
さながら工具箱のような様相を呈して、それらが綺麗に並べられていた。
……姉さん昔から、このテの小道具を集めるのが好きだよなぁ。いつもなにかしら持ち歩いてるし。
この引き出しは、どうやらお道具箱のようだった。なら、ここには無いよな。

二番目の引き出しを開ける。
「なんだこりゃ。………髪の毛……?」
引き出しの底に綿を敷き詰めて、なにか意味があるように分類された、様々な髪の毛の束……。
男性の髪の毛もある。チリチリした毛もある。女性のように、長くて色のついた髪もある。
――そっと、その引き出しを閉じた。
きっとこの引き出しには、軽々しく触れない方がいい……。そう、思ったから。

三番目の引き出しを開けた。
「おッ!?」
中には、一杯に詰められた郵便物。一番アタリがありそうな場所じゃないか! 
カード、カード、カード、カード……。

ごそごそ探っていると、手紙の束に行き当たった。
――小さな白い便箋。
あまりにもフォーマルなその形は、手にした者にたった一つのイメージしか植えつけそうにない。
“ラブレター”だ。

「……」

まぁ……。そりゃ、そうだよな……。
姉さんが、こういうモノを貰わないはずがない。
むしろ、この程度の量で済んでいることの方が、僕にとってはショックなくらいで……。
で、でもッ!

なんだか表現のしようもないモヤモヤしたモノが、胸の奥で燻り始めていた。
ね、姉さんも、こんなモノを後生大事に残しておかなくたっていいじゃないかッ!!
差出人はどこの誰だよッ! 高校時代の同級生とかか!?

『木下知美』
――ね、姉さんは、女の子にも人気があったのか……。

『山本秋人さまへ』

……。

………あッ! 
あった、あった!!
ニューイヤーカード、見つけた! もう、こんなところに仕舞い込んじゃって、姉さんったら……。

さぁ、急いでおじさんの家に戻らないと!

4

<10>

「……あれれ?」

リビングに戻ってみると、誰もいない。
珈琲カップも、キッチンの方へ片付けられていた。

「あれ? ふじわらさーん?」
「――は〜い――」

どこかからか、返事だけは聞こえる。
トイレだろうか?

「ふじわらさーん、どこだーい?」
「――ここだよ〜――」

どこだどこだ?
かくれんぼだろうか? 庭にも洗面所の方にもいないや。

「おーい?」
「――ここにいるよ〜――」

二階の方か? さっきまで気づかなかったけど……。

「おーい、ふじわらさ〜ん?」
「――ここ、ここ〜――」


……
………

「ここでしたぁ〜」

僕の部屋のドアを開ける。
可愛らしく袖余りの手をひろげて、ジャーンと自己アピールする藤原さんに迎えられた。

「な、なんだ、僕の部屋にいたのか。よく部屋が分かったねぇ」
「うん。だって、ネームプレートがかかっていたからね」

そうか。そりゃ、誰でも分かるか。

「ごめんね、藤原さん。僕はこれからもう一度、親戚の家に行かないといけないんだ。
  もう夜も遅いし……藤原さんも、早く帰った方がいいよ?」
「あ、うん! わたしの方も突然押しかけて、お邪魔さまでしたぁ。
                                    ――もう用も済んだし」

僕の部屋から出てきた藤原さん。
その右手に、何かを持っている。………デジタルカメラ?

「藤原さん。デジカメなんか持って、どうしたの?」
「うん? あぁ、コートのポケットにたまたま入ってたんだよ。………………えへっ」

そっか。
まぁお正月ともなると、色々とデジカメの出番が多いからなー。

………
……

二人、肩を並べて玄関を出る。
吐息の白さに、冬の夜の寒気を改めて思い知らされた。
藤原さんはこんな寒い中を、年賀状を渡すためだけに、わざわざ待っていてくれたんだ。
……どうして彼女は、僕にそこまでしてくれるんだろうか……?

ダッフルコートに身を包んだ、藤原さんの背中。
そんな彼女にろくなおもてなしもせず、追い帰すことになってしまった……。
罪悪感が募る。いけないことをした気も。
 
……と思った刹那、藤原さんはデジカメを後ろ手にしてくるっと振り向いた。
よかった、笑顔だ。

「山本くん、“また”新学期にね」

うん、三学期に!
藤原さんはコートを翻して、元気よく夜道を駆けていった。

    *      *      *      *      *

>2007年1月1日、午後8時55分
>叔父さん邸

「た、ただいま戻りました〜。すいません、探すのに手間どっちゃって」
「おう、おかえり。遅いから心配したよ」
「あ、秋くぅん……」

あぁ、姉さん。起きたんだね。
とろんとした目つき。寝起きでぽやぽやしている姉さんは、とてつもなく愛らしい。

「秋くん、どこ行ってたの……?」
「家に戻っていたんだよ。おじさん、これがエチオピアの珈琲です。こりゃ旨いですよ〜」

姉さんに上着を脱がせられながら、おじさんに珈琲缶を渡す。
ふと、姉さんが呟いた。

「――――――――――女の匂いがする――――――――――」


……
………へ?

姉さんの呟きに、向こうにいたあずが、静かに振り向く。

――グホッ!? げほっげほっ!?
姉さんに、襟首を乱暴に掴まれた。
胸元に鼻頭を押し当てて、鼻腔を膨らませる姉さん。

「――――――――――女の、匂いが、する――――――――――」

向こうにいた、あずが、音もなく、近づいて来る。

ちょ、ちょっと待ってよ、二人とも急にどうしたっていうのさ? これはただ藤原さんが――
――ぐふぉッ!? ぐ、ぐ、苦しッ、い゛、息!
姉さんが、僕の襟首を万力のように締め上げる。
首筋からおへそまで、ひくひくと震える鼻腔が、走査する。

「――――――――――秋くんから、女の、匂いが、する――――――――――」

真正面から、あずに、見据えられる。
瞬きひとつしない、白磁そのままの美貌。ただ見開いた瞳だけが、どこまでも深く、黒く――

「――――――――――藤……ワラ――――――――――」

ぽそっと。断定する、姉さん。
――なッ!?
な、なんで分かるんだよッ!? ど、どうして、どうして―――――――ハッ!?

僕の表情の動きを、神経一本の反応まで逃さぬように見つめていた……あずのドライアイスの視線。
長い睫毛を、ツと、一度だけ伏せて―――見開く。
光ひとつ差さぬ、漆黒の世界が広がっている梓の眼。

「――――――――――秋くん」
「――――――――――秋人さん」

二人の声色が、ぴったりと揃う。
……あぁ、何年ぶりだろう。姉さんとあずが、姉妹のように見えるのは……。
懐かしいなぁ。昔は三人で、姉弟みたいに過ごしたものだったナァ。懐かしいナァ。
ハハ、ハハ ハ ハ、ハ ハ ハ ハ ハ   ハ    ハ    ハ     ハ 

「「――――――――――家で――――――――――」」

……た、たすけて……。
助けてっ! 誰か、誰かッ!! おじ、おじさん、助け――

「「――――――――――何を、していた、の?――――――――――」」


……
………

居間に引篭もったおじさんは、助けに出てきてはくれなかった。

<11>

ぽちゃん。

「すぴ〜……すぴ〜……」

ぽちゃん。ぽちゃん。

「すぅ……すぅ……」

暗闇だ。
暗闇に、きらきらと輝く雫が、降り注ぐ。
小さな水音だけが、漏れ聞こえてくる。

2007年1月2日、午前2時07分。

弟の寝顔に、ただただ静かに水滴が降り注いでいる。

    *      *      *      *      *

どうしてこの子は……わたしを、こんなに簡単に裏切るんだろう……?

わたしはただ……
ただ新しい年の初めぐらいは、ずっと二人きりでいたかっただけなのに。
わたしだけを見て、わたしだけを想って、過ごして欲しかっただけなのに。
お姉ちゃんだけの――弟で、いて欲しかっただけなのに。

昨晩だって、新年明けて早々の零時に、藤原の女狐からメールを受け取っていた。
カマトトを装った下心丸見えの文面――姉のわたしを差し置いて、弟を初詣に誘おうとしていた雌豚。
幸いにも日課にしていた携帯チェックによって、弟の目に止まる前に消去することができたのに。
水際で、連れ出されるのを阻止することができたのに……

なのに――なのにッ!!
わたしの知らないところで、あの女に会っていたッ!!
わたしが倒れている隙にッ、わたしが苦しんでいる間に、あの阿婆擦れに敷居を跨がせていたッ!!

もし、あのメールをちゃんと読んでいたら……?
お姉ちゃんなんかさっさと置きざりにして、あの女と嬉々として出かけていたに違いないっ!!
裏切り者だ……。
浮気者なんだよ………ッ!!

ちょっと目を離せば、すぐに従妹ともイチャイチャするッ!
あの子にだけは、いつまで経っても甘い目を向ける。かばおうとする。守ろうとする。
……貴方はあの子の、“お兄ちゃん”なんかじゃ、ないのにッ!!

今日初めて、叔母からも聞いた。
この子は叔母のおっぱいには、子供の頃から吸い付いていたんだ。
この弟は、産まれた時から、浮気者なんだ。
お姉ちゃん以外の女にばかり、その目を向ける……裏切り者なんだ。

お姉ちゃんには――姉のわたしの胸なんかは、絶対に自分からは指一本触れようとしないのに。
どんなに誘っても。どんなに惑わせても。どんなに貴方の趣味に合わせても。
どんなに――わたしが、愛しても。
こんなにも、好きなのに。こんなにも、愛しているのに。こんなにも、貴方だけを見ているのに。
こんなにもこんなにも、貴方のことだけでいっぱいになっているのに。

難しいことなんて、なにもいらない。
ただ、わたしを見てほしいだけ。わたしだけを見ていてほしいだけ。
ありのままの、わたしだけを愛してくれれば……、それ以外なにも望んでいないのに……。

――姉。
姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉
姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉、姉ッ!!
貴方が見ているのは、いつだって“姉”でしかないッ! わたしじゃ、ないッ!!
貴方が勝手に作り上げた“優しい姉さん”という仮面ばかりで――
わたしの姿を見ようともしないッ!!

「………わたし………だって……ッ……」

「………わたしだってッ……好きで、姉に、産まれたんじゃ………ない……」

「………貴方の、姉に、産まれたかったんじゃッ…………………ないよッ!」

「………こんな気持ちになるぐらいなら………お姉ちゃんになんか、なりたくないよぉッ………!」

もう……やだよ……。
こんなの……もう……やだよぉ……。
どうして、血なんか繋がっちゃったんだろう……?
世の中にはたくさんの人がいて、生涯で一度も会わないような人ばかりで、みんな赤の他人で――
――それなのに、よりによってどうしてわたしと貴方だけが、繋がってしまっているんだろう……。
どうして、わたしたちは……

………
……

涙でべとべとの手の平を、そっと弟の首筋にかける。
喉仏を押し潰すように、そっとそっと、力を加える。
どうせ手に入らないのなら―――
どうせ他の女に汚されるくらいなら―――

もういっそ……
いっそ……

「……ねえさぁん……すぅ……すぅ……すぴ〜……」

この手で、もう……。
わたしだけの……。

「………ねえさぁん……にひひひひ………ねぇさん………すぴ〜……すぴ〜……」

………。

「……ねぇさん……」

 

――ぽちゃん。

ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。

鼻頭を伝って、顎を伝って、口元を辿って、落ちていく。
溢れていく涙が、とまらない雫が、ぽたぽたと弟の顔に舞い落ちては、はじける。

「残酷、だよね……秋くんは」

嗚咽交じりの、声にもならないこえ。
どうせ聞こえてもいない、弟。
夢の中で、そんなもの虚構に過ぎない理想の姉に向って、微笑みかけるのに夢中な弟。
ただの女になりたいわたしに、それでも“優しい姉”を演じることを強いる、最低な弟。

「ざんこく、すぎるよねッ……いつも、いつもッ!」

もう……やだよう……。
こんな想い、やだよう……。

「だいすき、だよ……」

    *      *      *      *      *

暗闇だ。

暗闇の中で、姉が、小さな肩を震わせている。

姉は唇を、そっと弟の口元に寄せた。
それでも、どうしても。
どうしても、触れることができない。
ただぽたぽたと涙をながして、弟の寝顔だけを濡らし続けている。

ぎゅっと瞼を瞑って、目頭から涙を振り絞る。
結んだ唇が震え、嗚咽が漏れてもなお、姉は弟の唇に触れることができなかった。

やがて姉は、頭を振って歯を喰いしばる。
涙を拭いて、乱れる呼吸を落ち着かせて、昂ぶった気を鎮めるようにして。
ようやく弟に、ほんの少しだけ口付けた。
――弟の、額に。
唇を震わせて、弟の頭を抱え込むように、そのおでこだけにキスをする。

そして、静かに。
姉は静かに、弟の部屋から出て行った。

 

<???>

静かにドアを開けて、姉が出て行く。

わずかに差した廊下の灯も、音も無く締まったドアに遮られる。
少年の部屋を、再び暗闇と静謐が支配した。

2007年1月2日、午前2時35分。
部屋の主以外、誰もいなくなった少年の部屋。

小さな――

小さな溜息が、一度だけ漏れる。

あとはただ、静寂の世界。
そのうち、少年の寝息だけが聞こえるようになる。

 

 

山本くんとお姉さんSP 
〜『お姉ちゃん初め』
Fin 

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ゲームディスクを、本編の物と入れ替えて下さい

2007/01/04 完結

 

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