花瓶が置かれた机と、何も乗っていない机。
これに座る者は、もういない。
クリスマスイブのことだったか。明日香が、木場を日本刀で殺害した事件。
当時の俺の記憶は、他人からの説明によって形作られた。
突然明日香が押しかけて来て、刀を突き付けて、木場の命を貰う、と。
それを俺が止めようとして、頭を打たれたのは憶えている。はっきりしていなかったのはその後だ。
夢でも見ているのかと思った。あの状況で、明日香と体を重ねるなど。
ずっと夜明けまで、明日香と肌を触れ合わせるなど――。
だが、現実だった。
明日香がレイプされたのも。
明日香が木場を殺したのも。
明日香が俺と体を重ねたのも。
そして、明日香が逮捕されたのも……。
さらに、明日香のレイプは、本当に裏で木場が糸を引いていたことも知らされた。
証言を元に、実行犯の自宅からその写真が見つかったという。
写真を見たくなくて、見られたくなくて、検証していた警察官に掴みかかって怒られた。
どれほど辛かっただろうか。どれほど苦しかっただろうか。
俺も事件の容疑を掛けられたが、殺人の動機に関わるとはいえ、
実行とは無関係ということで、数日拘束されただけだった。
それで済んだのも、明日香の懇願によるところが大きい。
泣いた。何日も泣いた。
明るい道を歩んでほしかった明日香は、全てを失った。
木場は、ただ一人のために間違った道に踏み込んで、二度と帰って来ない。
こうなってしまった原因は何処にある?
……此処にある。
全部、自分の不甲斐なさが引き起こした事。
それなのに、表面上は、俺は無罪。
何かしなければならないと思いつつも、何をやっても取り返しがつかない現実に押される。
警察から釈放された後、明日香の家に行った。
出迎えたおばさんは、俺から目を逸らす。
「……もうここには来ないで。でないと、人志君に言いたくないことまで言いそうだから……」
ドアが閉まりそうなところを、手で止める。
俺はその、『言いたくないこと』を出させようと粘った。
無理やり閉めようとしているのを力を入れて踏ん張り押さえる。
溜まっているのを俺にぶつければ、おばさんやおじさんの気休めくらいにはなるかと思った。
そうなって欲しかった。
おばさんの手が顔を覆う。
「お願いだから、変な事はしないで……。人志君に八つ当たりしても、何にもならない……」
涙声だった。
違うんだ。明日香のことは、俺のせいなんだ。おばさんは文句を言って当たり前なのに……。
逆に気遣われてしまった。
俺は閉められたドアをしばし見つめた後、その場を立ち去った。
学校に復帰できたのは、冬休みなどとうに終わった後だった。
多くの人は無関心。元々関わりのなかった人からは特に何もされなかった。
しかし教室に入ると、一斉に放たれた冷ややかな視線に射抜かれる。
その中の一人、木場のスタイルについてプールで語っていた奴が、俺に掴みかかった。
木場が死んで、その怒りを、原因である俺に向けている。
何を言われても返す言葉がない。たとえ殴られても、蹴られても、反撃など出来ない。
だが、間に数人の女子、明日香の友達が入ってきて、俺とそいつを引き離した。
結局事無きを得たわけだが、友達の一人は俺に言った。
「本当はお前ぶっ飛ばしてやりたいけど、明日香が嫌がるからな」
その目つきは、さっきの奴と何ら変わらない。
俺の身は、今も明日香に守られている。
守られていながら明日香を欠いた学校生活は、色を失った世界と化した。
部長さんや屋聞が何か俺に言った気がするが、その内容は欠片も頭に残っていない。
そもそも、学校で何をしていたのだろうか? 家に帰った後、一番に湧いてくる。
記憶が、途切れ途切れになっている。
明日香と過ごした部分はカラー映像なのに、
現実に目から入ってくるのはモノクロの映像でしかなかった。
そんな日々が続く。
……気が付けば卒業していた。
いつの間に卒業式をやったんだか。まあいつでも良いのだが。
学校に行く必要が無くなったと言っても、体感的に変化があるわけじゃない。
どうせ学校での出来事など、あの時以来ほとんど憶えていないのだから。
しかし家から出る用が無くなると……ああ、これを引き篭もりと言うのか。
流石にそれではいけないと思い、今日は外を少し歩いてみることにした。
卒業から、まだそれほど日は経っていないはずだ。多分。
外を歩く。ただそれだけのことで、神経が磨り減るとは思わなかった。
ふとした拍子に気が抜けて、車に轢かれそうになったり、自転車とぶつかりそうになったり、
電柱に激突しそうになったりした。
加えて、特に意識もしていないのに、我に返ればすぐ近くに明日香の家、なんてこともある。
……あそこにはもう二度と近寄らないと決めたんだ。
おばさんと鉢合わせするかもしれないから、商店街と、そこまでの道のりに入ってもいけない。
注意する事がこんなに多いとはな……。
「……先輩?」
どこかの道で、誰かとすれ違った直後に、後ろから声がした。
さっきすれ違った人、女が、戻って俺の前方に来た。
顔と声は憶えている。
屋聞だ。
――!?
急に、周りは一斉に色が塗られた。
モノクロが、カラーになる。
近くの通りを走る車の音が、スピーカーの音量をぐいっと上げたが如く、
極めて五月蝿いものになった。
「ここで会うとは奇遇ですね」
「……そうだな」
まさか屋聞に出くわすとは思わなかった。きっと向こうも同じだろう。
しかしまあ、こいつの今の服装は……。
「女の格好をしてるから分からなかった」
スカート履いてるし、妙に似合っている。
すると屋聞は腰に手を当てて俺を睨みつけた。
「あのですね、前にも言ったでしょうが」
「前?」
「ちょっと訳有りで、男の振りをしていたんですよ」
……聞いた覚えがない。
「学校で二人のときに話したでしょう。卒業する前ですよ」
「忘れたな」
あの事件以来、学校であったことは穴が開いたように記憶が抜けている。
はあ、こいつ女だったのか。
屋聞はため息をついた。
「全く……。それにしても先輩、少し疲れているのではないですか?」
「いや?」
神経は磨り減っているかもしれんが、別に足の筋肉は疲労していない。
「先輩の家に鏡はないんですか? ぱっと見がバイオハザードですよ」
「何だと」
文句の一つでも言ってやろうとした時だった。
体が……動かない!?
まるで金縛り、金属の鎖で縛られているようだ。
「顔色が非常に悪いですよ。外に出歩いて大丈夫なんですか?」
屋聞が、眼前まで来る。
すぐ後ろに、誰かがいる。
「熱はないようですね……」
額に屋聞の手が当てられる。と同時に、首筋に冷たいものが当たる。
刀だ。
刀が俺の首筋に、ぴたりと当てられている。
視界が次第にぼやけて、屋聞の顔が分からなくなった。
この刀を持っているのは……。
――ねえ、約束、憶えてる?
後ろから聞こえる、幼馴染の声。
青いリボンに竹刀がトレードマークの、大切な幼馴染の声。
――破ったら、許さないからね……。
「わかってる」
「は?」
ぼやけて色しか分からない風景は、青と白だけに変わった。
俺に出来るのは、明日香との約束を守ること。
青と白の視界は、上から下へ黒く染まって――――。
……
…………
………………
今、俺は病院のベッドの上にいる。
屋聞と話しているうちに、道端でぶっ倒れてしまったそうだ。
とはいえ、さっき医者と少し話してからしばらく休んで、意識もはっきりしている。
「…………問診の……ですが……神に異常………………です」
ある程度、気持ちの整理というか、構えのようなものも出来てきた。
「……から………………セリングの……を付け………………………」
自分がどうなろうと、俺をいつでも守ってくれる明日香が、
「今日の………………安定剤……………………」
リボンの剣士が俺の側についているから、恐れてはならない。
・・・・
隣にいる明日香の手を握ると、やる気が出てくる。
「………………先輩は……………ですか」
握った手の暖かさは、全身を巡る。
これからだ。これから、明日香に色々と返していかなければ。
明日香の穏やかな視線を体で感じながら、俺はもう一眠りすることにした……。
(これより先の話は無い) |