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リボンの剣士



1

「ん、んん〜っ……よ」
がちゃ。
今朝も目覚ましが鳴る一分前に起きた。カーテンを開けると、窓から光が入って部屋が明るくなる。
でもまだ、太陽は出たばかり。
一度一回のリビングに下りるとすでに朝ごはんが出来てる。それを食べたら、また部屋に戻る。
制服に着替えて、腰まで伸ばした髪をさっさと整えてから、いつもの青のリボンを結わう。
後はかばんと竹刀を持って、朝一番に家を出る。
「いってきます!」
いつも通りの、朝。
少し歩けば、あたしが生まれる前からある古い駄菓子屋が見えてくる。そこの角で、いつもあいつに会う。
幼馴染の、変なヤツ。
「おはよ、人志」
角からひょっこりと人志が出てくる。
「グッドモーニングだ、明日香」
そして太極拳の途中のような変なポーズで返してきた。
いつものことだけど、何なのよその挨拶は。
ここで人志と会ってからは。二人で学校へと歩く。
「人志、何でいつもそんなに早いの?」
毎朝、同じ質問をしている気がする。あたしは剣道部の朝錬で早く学校に行かなきゃいけないんだけど、
人志は別に何の部活もやってない。
「まあ、色々あるんだ」
これも同じ返答。以前は早起きする理由を長々と語っていたのに。
朝の寒気が清々しいとか、ニワトリの鳴き声に癒されるとかナントカ。
あたしにはよくわからないことばっかりで、「ふーん」「そう」なんて返してたら、
日を追うごとに短くなって、今に至る、ってワケ。

人志と会ってから十分くらい歩くと学校に着く。あたしはそのまま武道場へ行き、人志は中庭へ行く。
次に会うのは一時間目が始まるとき。それまでの間、人志が何をしてるのかといえば、
たまたま見た人の話では、ただ中庭でボーっとしてるだけ、みたい。
人志―――伊星人志は、クラス一、ううん、学校で一、二を争う変人といわれてる。
さらにその名前から、陰で「異星人」なんて呼ばれてて、「宇宙人と交信できる」
「実は太陽系の外からやってきた」そんなひどい噂まで広まっている。
あのね、人志は確かにちょっと変だけど、そんな電波なヤツじゃないの。
変だとしても悪いヤツじゃない。大体、幼馴染が電波君だなんて、冗談じゃないわよ。
あたしは昔から見てるから、その辺はちゃんとわかってるの。

昼休み、あたしが学食に着いたときには、そこはもうほぼ満員だった。
辺りを見回すと、人志の向かい側の席が空いてた。というか、人志の向かいの席はいつも空いてる。
人志の変なオーラか何かで、誰もそこには座りたがらないみたい。あたしは人志の向かいの席に座った。
た、たまたまそこしか空いてなかったからってだけで、
別に一人でさびしく食べてる人志に気を遣ってるわけじゃないんだからね。
人志は黙って食事している。今日も牛丼大盛りねぎだくにギョクなのね。
それを注文すると、学食のおばちゃんにマークされるっていう、曰くつきのメニューなんだけど、
人志はそんなのぜんぜん気にしてない。
向かいあって食事中、あたしが何気なく前髪を直すと、人志が話しかけてきた。
「髪、切らないのか?」
まあ、ごく普通の質問。あたしは剣道部をやってるから、髪が長いと何かと面倒くさい。
でもね、
「切らない」
「何故だ?面付ける時とか、鬱陶しいんじゃないのか」
「切りたくないの」
「何でまた」
「人志みたいに、色々あんの」
「……そうか」
人志が、長い髪が好みなの、知ってるんだから。

*     *     *     *     *

午後の授業は終わった。明日香は部活に行っている。
俺は今日はアルバイトもなく、学校ですべきことは特になかった。
だが、あまり早く家に帰りたくない。
「…………」
俺はまた中庭のベンチで時を過ごした。
日が沈みかかったころ、男の二人組みが近くを通りかかった。制服のバッジの色から察するに後輩だ。
俺の後ろを通り過ぎて少し離れると、なにやら話をし始めた。
「なぁ、あの人が伊星先輩なのか?」
「ああ、なんでも宇宙人と電波で会話できるらしいぜ」
俺のことかよ。
ちょっとからかってやろうと思い、わざと頭を抱えた。
「うーむ、アンテナの調子が悪いな……」
二人にちゃんと聞こえる声で言う。するとすぐに、二人の反応が言葉で耳に届く。
「え、ちょっ、今の!?」
「おいおい、ホンモノかよ!?」
とてもわかりやすい。俺は二人組みを睨みつけた。
「聞こえてるぞ」
それだけで、二人はあっという間に逃げていった。
「……ふぅ」
なんだか、虚しい。

そうこうしてる内に日は完全に没し、星空へと変わり始めた。
部活を終えた人たちがぞろぞろと帰りだす。その中に明日香がいた。
俺と目が合うと、こっちに駆け寄ってくる。
「人志、まだ残ってたの?」
「ああ」
「……一緒に、帰る?」
黙って頷いた。なんだか恥ずかしいな……。
明日香と並んで、朝と同じ道を歩く。人気の少なさも朝と同じ。
もともと、歩きで登下校する人は少ないのだ。
「中庭でボーっとしてたみたいだけど、何考えてたの?」
不意に、明日香が聞いてきた。
さて、なんて答えるか……。
「今日はコーヒーとコーラをどれだけの割合で混ぜたら一番美味しいかを考えていた」
「……そう」
困った顔になる明日香。
「今のところは、コーヒー対コーラが5対2、これがベストだ。
明日はそれぞれの銘柄ごとについて考えてみる。」
「…………」
明日香は完全に黙ってしまった。これで、これでいい。
沈黙のまま歩き続け、気がつけば、朝明日香と会う駄菓子屋の前まで来ていた。
「じゃあ人志、また明日ね」
「グッドバーイだ、明日香」
軽く手を振って別れ、俺も明日香も帰宅した。

家では、母は寝転がりながらテレビを見ていた。父と離婚して以来、ほぼ毎日この調子だ。
俺はその場を無言で通り過ぎた。ただいまも、お帰りなさいも無し。
さすがに腹が減ってきたので飯を作る。キャベツを切って、ベーコンを千切って、塩コショウで炒める。
完成。
母の分も皿に盛っておく。食ってみるとしょっぱい。味つきベーコンだったか。
ごちそうさま。風呂に入るか。
風呂から上がると、母の分の皿が空になっていた。皿二枚とグラスを台所にもって行き、洗う。
後は、明日提出の宿題をやって、寝る。母と話すことなど何もない。おやすみなさい。

2

変化のない毎日を過ごしているつもりでも、その日を色づけるような、ちょっとだけ違う出来事って
いうのは、ある。今日もそうだった。
「ここ、座ってもいいかな?」
昼休み、あたしと人志が学食で向かい合って座っているとき、一人の女子がこっちにやってきた。
同じクラスの木場さんだ。
「何者だ?」
人志は、まるで侵入者にでも会ったかのように、剣呑に言い放った。
あんたねぇ、クラスメートに向かって、何者だ、はないでしょ、何者だ、は。
「同じクラスの木場春奈だよ〜。知らないっけ?」
木場さんは困りながらも笑って言う。でも人志は目も合わせない。
「知らぬ」
先生、こいつ殴っていいですか?竹刀で。
そう思ったときには、勝手に体が動いていた。愛用の竹刀が風を切る。人志の脳天を完璧に捉えた。
バシッ! とね。
「あべし」
人志は意味不明な言葉を吐いて椅子から転げ落ちる。
「ごめんね木場さん。今すぐこいつ片付けるから」
倒れている人志を竹刀の先でぐりぐりしてやると、人志はすぐに復活した。
「食堂で竹刀を振り回すな。非常識な奴め」
「あんたの態度のほうが非常識でしょ!!」
まったく、もう! そんなんだから余計に悪い噂が立つのよ! 
別に人志の人気なんかあたしには関係ないけどっ!
「えーと、それで、ここ、座っても、いい……かなあ?」
人志の胸ぐらつかんで、もう二、三発殴ってや……って、ここ人前だった。木場さんがすんごい
困った顔でおずおずと尋ねてくる。
「あ、どうぞどうぞ」
あたしは人志を放し、自分の席のトレーを少し引いた。あたしと人志は今二人がけの席に座ってるんだけど、
側面に椅子を置けば、もう一人入れないこともない。
「それじゃあ、お邪魔するね」
木場さんが座ると、甘い匂いが漂ってきた。香水、付けてるのね。

この木場さん、どこかのアイドルかと思うくらいかわいい人で、今のように、ニコニコ明るくて、
……胸も羨ましいくらい大きくて……男子の間では、たぶん一番人気。
でも―――――。
あたしの友達周りでは、彼女を嫌っている人が多い。
何でも「キャラ狙いすぎ」「男に媚びて点数稼ぎしている」っていう話。
あたしは別に気にしてなかった。あんまり関わったこともないし。
だから、木場さんに席を分けたのも、単にクラスメートが座る場所を探して困ってたから、
というのが大半だけど、木場さんは本当はどんな人なの? っていう興味も、少しあった。
「伊星くん、牛丼が好きなんだね〜」
木場さんは早速人志に話しかける。人志のメニューは例によって同じ。
「まあな」
「春奈もね、牛丼好きなんだよ〜」
ガタッ!!
「……どうした明日香。地震か?」
「ううん、気のせいだったみたい」
思わず椅子ごと引いてしまった体を、ゆっくりと戻す。
このヒト、一人称が名前なの!?
「あ、ねえ伊星くん、このゼリー食べない?」
あたしの驚きもよそに、木場さんは自分のトレーからデザートのゼリーを差し出した。
「春奈、ニンジンゼリー苦手なのぉ〜」
もう片方の手を軽く握って口元に当て、上目遣いで人志を見つめてる。
えええぇぇぇええぇっっ!? 何それ? 何そのポーズは!?
「ありがたく頂戴する」
人志はゼリーを両手で受け取り、箸で食べ始めた。
もうね、なんていうか、どこから突っ込めばいいのよ!?
あたしが途方に暮れているうちに、マイペースな二人は昼食をとり終えた。
「ご馳走様でした」
「ごちそうさまぁ〜」
「……ごちそうさま」
あたしのほうはまだ残ってるけど、もう食欲なくなったわ。

あたしたち三人同時に席を立ち、食器の片付けに行く。空いた席は、すぐ人が入って埋められた。
「ホント食堂って込んでるよね〜。そうだ。伊星くん、また混んでたときは、ご一緒していい?」
また人志に話しかけてる。そういえば、木場さんは食べ始めてから、一回もあたしには話しかけてこない。
「ん……ああ、まあ、いいけど」
「ホント!? わぁーいありがとう!! 春奈嬉しいっ!!」
あ、頭痛くなってきたわ。何なのこの人、わざと? それとも天然?
「それじゃあ伊星くん、新城さん、バイバーイ!」
教育番組のお姉さんみたいに、木場さんは両手を振ってから食堂を出た。あたしと人志はその場に残る。
まさに、置いて行かれた気分。
あたしの友達が嫌う理由も、少しわかった気がする。
「すごい人だったね」
あたしはそれしか言えない。
「そうだったな。ただ……」
「ただ?」
「一人称が名前なのは、やや戴けない」
「あはは、そうなの?」
人志でも、そこは変だと思ったんだ。
「どうせやるなら、春奈ぴょんとか、HA・RU・NAとか、そのくらい突き抜けてほしかった」
そんなこと言う人志は、もっと変だと思う。そんな一人称で来られたら、あたし気絶しちゃうわよ。
「にしたって人志、せっかく声掛けられたのに、あんな突っぱね方はないでしょ」
「そう、か……?」
「そうよっ!!」
竹刀でぺしぺし叩いてやった。
人志は、実は結構人見知りする。昔はそうじゃなかったんだけど……。人志の両親が離婚したときから、
そうなったような気がする。
あたしと人志が八歳の時、人志の両親は、突然離婚した。突然といっても、
あたしがそれまで知らなかっただけで、以前から、親権とか、慰謝料とかの裁判はやってたみたい。
それで人志は、お母さんのほうに引き取られた。家はそのまま、お父さんが出て行く、
という形で収まったんだけど、後日談ということで、あたしが聞いたところだと、人志のお父さん、
出て行き際に人志をつかまえて、こう言ったらしい。
『お前のせいだ。お前がいるせいで、俺はとんでもない額の慰謝料と養育費を払う羽目になったんだ。
その金のために、実家とも縁を切られた。お前のせいで、俺の人生滅茶苦茶だ!!』
その日、人志は一日中泣いてた。あたしが何を言っても、顔を覆って首を振るだけだった。
たぶん……たぶんだけど、人志は両親のこと、嫌ってるんじゃないかな。
一番身近な家族を嫌うようになって、そのまま人見知りになって、それで人が寄り付かなくなって、
寂しくなって、奇行に走る…………。さすがにそれは考え過ぎ?

「ふぁ〜あ…」
ついあくびが出ちゃった。朝錬と午前の体育で、疲れたのかな。
人志と教室に戻って席に着くと、さらに眠気がひどくなった。
あ〜、こりゃ、ダメだわ……。五時間目は、ノートは人志に任せて、寝よ……。

3

「伊星くんっ」
今日も混雑してる学食。あたしと人志がいるところに、木場さんが来た。
昨日約束したんだっけ、混んでたらここに来てもいいって。
「木場か」
あたしと人志はスペースを作り、そこに木場さんが入る。昨日と違う香水の匂いが漂ってきた。
「今日は私も、伊星くんと同じ、じゃーん! 牛丼にしたんだ〜」
あれ? 一人称が変わってる。ていうか、じゃーんて。
わざわざどんぶりの中身を見せてやらなくたっていい
じゃない。
「まだまだだな」
人志はどんぶりの中を一瞥すると、素っ気無く言った。
「牛丼はねぎダク、それとギョク。これに限る」
「えぇ〜ねぎだく? 伊星くん、通だね〜」
人志のわけわからない意見に、木場さんも応じている。あたしはちょっと、このノリにはついて行けないわ。
結局、今日も人志の頓珍漢な話と木場さんのぶりっ子ポーズのせいで食が進まなかった。

キーンコーンカーンコーン……
「ん、んん〜っ、さて」
午後の授業が終わった。少し伸びをして、さあ部活に行こうと廊下に出る。廊下には、先に出ていた人志と、
木場さんがいた。
「伊星くん、一緒に帰ろっ」
そういいながら、木場さんは人志の腕を取ろうとしている。
でも確か、人志は今日はバイトだったような……。
「今日はバイトだから、一緒は無理だ」
木場さんの手は振り払われた。
「むぅ〜っ、伊星くんのいぢわるっ」
頬を膨らませ、足をじたばたさせ、人志をぽかぽか叩く木場さん。
うーん、ああいうのって、男から見ればかわいいもんなの?女のあたしには、子供っぽくて、微妙……。
「やめろ」
人志は反撃した。握り拳を作って、頭にゴツンと一発。
「はうっ!」
木場さんは頭を抑えてうずくまる。その隙に、人志は階段へと走っていった。
……そうだ、あたしも部活に行かなきゃ。二人を眺めている場合じゃなかった。
あたしは人志が走っていった方とは逆方向に走った。ふと、途中で思う。
いくらなんでも、グーで殴るのはやりすぎだったんじゃないの?
殴ったとき、あたしが入ってきて注意でもしてやればよかった。
まあいいか。人志だって本気じゃないだろうし、あのくらい、他の男子同士でもやってることよ。
あたしが気にすることじゃないわね。

 

「うーん、どうしようかなあ…」
あたしはトレーを持ったまま歩き回る。今日は人志は日直で、この食堂にはいない。
この学校、どういうわけか、日直はものすごく忙しい。それこそ今日の人志みたいに、
お昼を食べる時間もないくらい。
人志がいると、その向かいがいつも空いてるんだけどね。
「明日香、明日香」
後ろから声がした。食堂の一角、四人がけの席に座っている三人、あたしの友達が手招きしていた。
「席取っといてくれたの? ありがと」
あたしが座ってちょうど四人になった。これでやっとご飯が食べられる。
「まあいいって事よ」
恵が手をパタパタと振る。それに礼子が続く。
「今日は伊星君、日直だもんね」
「別に人志は関係ないわよ」
あたしだって、こうして友達とお昼を食べることもある。毎日毎日、人志と向き合っているわけじゃない。
「いつもの特等席じゃないけど、我慢しろや」
「んぐっ!?」
ケラケラ笑ってい言ったのは桐絵。いきなりだったからご飯が喉につっかえた。
水、水……。
「んっ、ごほっ! ちょっ、特等席って」
「そりゃあ明日香には説明不要でしょ。ねー?」
『ねー』
桐絵の話に合わせる二人。何なのこの空気。いつもの特等席ってもしかして人志の向かいのこと?
「べ、別にたまたまそこが空いてるからってだけよ!」
そう、たまたま。それに人志の向かいって、一番アレな席じゃないのよ!
何よ、何で三人とも何も言わずにニヤニヤしてるのよ! ここ笑う所じゃないわよ!
「じゃあ何で、伊星の向かいはいつも空いてるんだろうねえ」
「そりゃ、変人人志と一緒なのが嫌なんでしょ」
三人だって、人志がどう呼ばれているかくらい知ってる。急に恵は何を言い出すの。
すると、礼子が手を挙げた。
「裁判長! 先ほど新城被告は席が空いているのはたまたまであると供述していたのに、
今空席である理由を正確に述べています!」
眼鏡が光る。
って何よ! 裁判長って、被告って!
ゴホン、と恵が咳払いする。
「確かに。新城被告、これはどういうことですかな?」
やけに声のトーンを下げて演技する恵。つまり、恵が裁判長役? あたしが被告?
「だああぁぁっ!! もう、ふざけないでよ!!」
力いっぱいテーブルを叩いた。
せっかく友達と一緒なのに、何でこんなに突っつかれなきゃいけないのよ! みんな悪乗りし過ぎよ!
手元を見れば、自分の味噌汁がこぼれていた。テーブルを叩いた時だ。ちょっともったいない。
三人は一瞬沈黙した後、爆笑し出した。
「いや〜明日香をからかうの面白いな〜」
「桐絵……本気で怒るよ?」
もう爆発寸前だった。竹刀に手をかける。
「わっ、待って明日香! ごめんって! ここから真面目な話にするからさ!」
…ふう。
それだけ聞いて、息を吐きながら肩の力を抜く。あたしもひとまず落ち着こう。
「で、いい? 昨日、一昨日の昼休み、二人の所に、木場が入ってきたよね?」
「うん、入ってきたわね」
「大丈夫なの?」
「……何が?」
「木場のヤツ、伊星を狙ってるよ」
「……は?」

右手が停止した。からかわれ始めたときから、今もまだご飯を口に出来ない。
「だから、木場が、伊星を、誘惑してるよって事」
「え、ま、まっさかあ!」
誘惑なんて言葉を出してくるからびっくりしちゃった。右手にあったはずの箸が床に転がっている。
三秒過ぎてるだろうけど、フーフーすれば大丈夫かな?
桐絵ったら、まだあたしをからかうつもりなんだ。でも、もう取り乱さないわよ。
大体、人志があたし以外の女に、じゃなくて! 普通に人志に言い寄ってくる趣味の悪い女なんて
居やしない。今までも、モテなかったのよね、人志って。よく話をするのも、
せいぜいあたしくらいしか居ない。
同級生はもちろん、先輩、後輩、果ては先生の中にまで、人志を避ける人が多いくらいだから。
桐絵は狙ってる、なんて言ってるけど、木場さんはただ人当たりがいいだけで、
そんなこと企んでないと思うけどなあ……。
「はぁ……。明日香、あいつを舐めてかかっちゃいけないよ」
深いため息をつく恵。さっきの裁判長モードとは全然違う。
「私の知り合いから聞いたんだけど、木場、先週くらいに付き合ってた男と別れたらしいよ」
「うわっ、またかよ!」
「その男って、誰なの?」
今度は恵の話が始まった。礼子と桐絵がすかさず飛びつく。
三人とも、木場さんを嫌っているから、この手の話は盛り上がりやすい。
「誰かまでは分からなかったけど、元々その男には、彼女がいたんだって」
「え…じゃ、二股?」
「いや違う。そいつと彼女が付き合ってた所に、木場が割り込んできたんだよ」
「ってことは……略奪愛?」
「げえっ! 今度は寝取りかよ!」
礼子に比べて、桐絵はデリカシーの欠片もない。
「んで、その奪い取った男と別れた、と。付き合ってから一ヶ月と経ってないってさ」
「ひどいね……」
「分捕っておいて、飽きたらポイ捨てかぁー? どこまでも汚えなあ」
「そういうことがあったのよ。だから明日香」
へ? そこであたしに話が戻ってくるの?
「伊星を取られないように、ちゃんとガードしときなよ」
「もう、結局それ?」
腹が立つのを通り越して力が抜ける。取られないようにって、人志はあたしのモノじゃないんだから。
別に木場さんが人志を狙っているのが事実だとして、もしもその狙い通り二人が晴れて付き合うことに
なったって、あたしには関係ないわよ。略奪愛だの寝取るだのって話も、ホントかどうか。
いいんじゃないの? 変人人志とちょっと天然っぽい木場さん。相性は悪くないかも。
「そんな大袈裟にする事じゃないわよ」
「明日香……余裕だね」
「伊星が浮気なんかする訳ないってか」
「そうじゃないってば!!」
また腹が立つのに戻ってテーブルを叩く。ほんっとに、桐絵は人をからかうのが好きなんだから……。

4

木場さんが、人志を狙っている―――――。
そう桐絵に言われてから、あたしは木場さんを観察するようになった。
別に、人志を取られたくないとか、そういうんじゃなくて、ただ、何となーく気になるってだけの話よ。
で、その木場さんなんだけど、確かに何かに付けて人志に干渉しようとしている。
一日に一回は、あれ貸して、それ見せて、みたいな事を言う。昼休みはいつも一緒に昼ゴハン、
放課後は、一緒に帰ろ、の連発。すごい積極的だった。
でも人志は、それに対してどうも冷ややかというか、素っ気ない態度ばかりで、
特に、一緒に帰ろ、の誘いは、あたしが見ている限りでは、全部断っている。
何もそんなに冷たくしなくても……。人志、木場さんのこと嫌いなのかなあ。
というかそもそも、木場さんは人志のどこを好きになったの? それが分からない。
今までにいろんな男と付き合っては別れ、を繰り返してきたらしいけど……まさか!

 ” 地球の 男に 飽きたところよ ”

……まさかね。いくら人志が、通称『異星人』でも、それはさすがに……ね。

*    *    *    *    *

きっかけになったのは、一学期の後半、ある体育の授業だった。
そこで私は、初めて伊星くんを一人の男として認識した。
ただの自慢だけど、スタイルには自信がある。その裏付けとして、水着姿になったときに強く感じる
男子からの視線。あんまりじろじろ見ちゃいけないと思いつつ、チラッ、チラッと見ているのは
分かっている。まあ中にはそういう下心をオープンにする男もいて、堂々と大きな声で言っていた。
「ほら、見ろよ伊星、木場の胸、すげえよなあ」
周りの女子たちは失笑していた。話しかけられた伊星くんは、プールサイドにしゃがみ込んで、
プールの水をじっと見ていた。
私のほうも、相手のほうも全く見ない。無視も同然の態度だった。
「おい、どこ見てんだよ!」
背中を叩かれてる。ちょっと見てみれば、伊星くんは、水面のある一点を見つめているようだった。
「これを見ている」
伊星くんが指差した先にあったのは―――葉っぱ?
そう、水面に浮かぶ一枚の葉っぱだった。
「何だよ、葉っぱがどうしたんだよ」
私の疑問と声が重なる。おそらくプールから少し離れた所にある木の葉っぱが、
風でプールまで流され、水に入ったといったころだろう。で、その葉っぱが何?
「いや……普通、木の葉というものは木から落ちれば地に着き、風に流される。風さえ吹けば、
何処にだって行くことが出来る。が、この葉っぱは、水に浸かった以上、このプールから出られない」
「はぁ?」
はぁ? あ、また声と被った。何を言ってるのこの人は。
「葉っぱ一枚にしてみれば、プールは広い。でも有限だ。このプールから出られない。
それがどうも……気の毒に思えて」
「……詩人かお前は」
詩人でも、そんなこと考えないよ。

それからだった。彼の噂を耳に挟むようになったのは。

ついこの間、私は付き合っていた男と別れた。
結局その男も、今までの男のように、付き合ってしばらくするうちにただの肉欲馬鹿になってしまった。
だから、”飽きちゃった”の一言でさよなら。
思えば、碌な男に当たった記憶がない。
胸だけを見て話す男。一回目のデートでホテルに連れ込もうとした男。これも一回目のデートで、
観覧車に二人で乗った時に身体を触ってきた男。それも、手を握る、なんて手緩いもんじゃなく、
下着の中に手を入れてきた。最悪。
分かれて清々したと同時に、無性に気分が悪くなる。そりゃちょっと思わせぶりな態度もとったけど、
そんなにすぐにヤリたがるの?
もうちょっと、愛と性欲を切り離すことは出来ないの?
そんな男はいないかと考えて、候補に挙がったのが、伊星くん。私の水着姿よりも、
水面の葉っぱ一枚に興味のあった伊星くん。

もし、彼が女性を好きになったら?
その女性が好きでたまらなくなったら、どんな愛し方をするんだろう。
変人と呼ばれる伊星くんの価値観は、ほかの男とは大きく違うはず。私が求める愛し方を持っていれば、
そしてそれが、自分のほうに向いてくれれば――――。

早速私は行動に移した。今のところ伊星くんは冷たい態度だけど、ほとんど面識なかったんだから
仕方ないよね。これからこれから。
ただ……ひとつ気に掛かるのは、伊星くんとよく一緒にいる新城さん。
伊星くんとは幼馴染で、割と仲がいいみたい。
友達以上恋人未満、って感じだけど、いつ化けるかも分からない。
別に、数いる女友達の一人、程度だったら入り込むのは簡単だけど、
問題は、伊星くんと仲がいいのが、新城さんだけ、って状態。
言い換えれば、伊星くんが心を開く相手は(学校では)一人だけであること。ここをどうするかが鍵だよね。
よし、伊星くんにアプローチしつつ、昔のことについて調べてみようっと。
攻略法を、見つけるためにね……。

5

家から持ってきた広告、チェックのための蛍光ペン、そして雑談モードに入った先生。
準備は整った。
俺は広告を広げ、買うべき目玉商品のチェックを開始した。
ん……これだ!
スーパー『バラッシュ』のタイムサービス、全食品三割引き! これは見逃せない。
薬局『猫寄らず』ではトイレットペーパーが安いな。これもチェックだ。
後は……ふむ、ふむふむ……―――。

「それじゃあ、解散!」
来たっ!
帰りのホームルームのうちに支度を済ませ、解散の合図と同時に席を立つ。
タイムサービス開始まであまり時間がない。急がねば。
「あ、伊星く」
今日は木場の相手をしている暇も、部活に行く明日香を見送る余裕もない。
いち早く教室を飛び出し、階段を駆け下り、無駄なく靴を履き替え、校門を抜ける。
運動力に自信はないが、障害物競走だけは得意な俺。今日は一番に学校を出られた。
帰宅部のエースの座を狙えそうだ。
だがまだ帰宅するわけではない。商店街へと急いだ。

商店街の中ほどにあるスーパー『バラッシュ』の前で時刻を確認。
タイムサービス開始まで後十分ほどある。
ふぅ、間に合った。
すでに店内はこれを狙っている主婦の方々でにぎわっている。俺も入ろう。
「あら、人志君?」
偶然同じタイミングで入ろうとした人と目が合う。その人は、明日香の母、小百合さんだった。
「あ、どうも」
おばさんも狙って来たか。手にしている買い物籠はかなり大きい。
「人志君も、ここで買い物?」
「はい」
「やっぱり、タイムサービス狙い?」
「まさにその通りです」
「ふふっ、しっかりしてるわね」
スーパーに入る。おばさんは店内用のかごを二つ取り、一つを俺に渡してくれた。
店の中のボルテージが徐々に上がっていくのが感じられる。おばさんからも、
やる気がオーラとなって溢れているのが分かる。
雰囲気に飲まれてはいけない。ここはまもなく戦場になる。
戦闘開始まで、あとわずか――――。

凄い、凄すぎる。
店内の熱気が、ではなく、おばさんの技が。
同じ名前の商品でも、パックごとに微妙に量や質は異なる。おばさんはその違いを人の波の中で見極め、
総合的に最も優れた品を自分のかごの中へと納めていく。
それだけでなく、俺が取りたくて取れなかった品が、いつの間にかかごの中に入っていた。
おばさんは、俺が欲しい物まで、わざわざ取ってくれたのだ。
もちろん、その眼によって選ばれた良い品である。
自分が買いたい品も満足に取れず、終わってみれば、服や髪が乱れまくっている俺やほかの客と比べ、
おばさんの身なりには乱れ一つない。
非の打ち所のない、パーフェクトだった。
「さすが小百合様、お見事でございます」
「あらあら、褒めても何も出ないわよ?」
そう言いながらも、おばさんは買ったお菓子を一つ、俺の袋に入れてくれた。

買い物が終わった帰り道。凱歌でも歌いたい気分だった。なにせ、あの戦場で思わぬ助けを受け、
大勝したのだから。でも横におばさんがいるから、やめておこう。
「そうだ、人志君」
「はい?」
「今度の日曜、明日香の剣道の試合があるの。もう聞いた?」
「いえ、聞いてません」
「そう、あの子、まだ話してなかったの……」
片手を頬に当て、眼を伏せるおばさん。
試合の連絡は、明日香から直接聞くことが多いから、全然気づかなかった。
そうか、もうそんな時期か。
それはそうと、歩きながら眼をつぶるのは危ないと思う。
「まあいいわ。とにかく、日曜に試合があるの。もし時間があったら、応援に行ってあげて」
「わかりました」
言い終わると、おばさんは押していた自転車に乗り、急発進した。
「それじゃあ人志君、グッドバーイね」
「あ、それは……」
大量の荷物を載せているにもかかわらず、おばさんの自転車は猛スピードで遠くに消えていった。
「明日香の試合か」
反復してみる。見に行かない理由はない。
今度の日曜は、空けておこう。

6

「ん〜♪ んふふふっふふ〜ん♪」
あったかいお湯につかるとじわーって疲れがとれる。部活で出した汗を流すこのお風呂の時間は、
あたしの一日の中でも、すごく大事。
疲れを取ると同時に、ここで絶対にやらなきゃいけないのが、リボンを洗うこと。
洗面器にお湯をためて、石鹸で少しこすって、揉むようにして手で洗う。洗濯機に任せると、
色落ちしちゃうのよね。
特にこの青のリボン、人志がくれたリボンは、ずっと大事に使ってる。

まだ人志の両親が離婚する前、近所の神社の夏祭りで、人志と行ったときにもらったの。
夏祭りは、当時のあたしたちにとっては楽しみの的で、実際楽しくて、毎日やってればいいのに、
なんて話したこともある。
ソースせんべいや焼きそばを一緒に食べておなかいっぱいになってきたとき、
人志が「あれやりたい」ってお母さんを引っ張った。
人志がやりたいって言ったのは、宝釣り。あの、束になっている紐のうち一本を引いて、
上がったものがもらえる、ってヤツね。
それで人志が引き上げたのが、その青いリボン。人志は別のものが欲しかったらしくて、
もう一回やりたいってせがんでたけど、結局一回しかやらせてもらえなかった。
リボンは、自分は使わないから、って理由であたしにくれた。あたしはなんだかすごく嬉しくて、
その場で箱を開けて、つけてみると、「あら、かわいい蝶々さんね〜」なんてお母さんに言われたから、
人志にもカワイイか聞いたら、「うん、かわいい」って。
……でぇ、そう言った舌の根も乾かぬうちに、人志は何処の誰だか知らない、髪の長いきれいな
お姉さんに見惚れやがって。
はぁ、何でこんなことはっきり憶えてるんだろ……。

お風呂から上がったら牛乳を一杯。リボンは自分の部屋の窓際に作った物干し台に干しておく。
寝るにはまだ早いから、リビングでくつろごう。
今日は……あんまり面白いテレビはやってないわね。
「明日香」
「ん、なに?」
お母さんだ。
「今日買い物に行ったら、人志君に会ったのよ」
「人志に?」
人志は今日は終わるとすぐに学校を飛び出していったけど、買い物に行く為だったんだ。
きっと、お得なバーゲンでもやってたのね。
「今度の日曜の試合のこと、知らなかったみたい」
「あ……忘れてた」
「まったく、場所と時間は、自分で伝えなさいよ」
「はーい」
お母さんは、部屋へ戻っていった。

今度の試合、人志は見に来るのかな。見に来るんだったら、負けない、負けられない。
今までも、人志はよく一人であたしの試合を見に来てくれる。
特に応援の声を出したりしないで、ただじっと見てるだけなんだけど、その眼が、
あたしを信じてくれるような、そんな感じがして、力になる。
それで次の日の朝、一緒に学校に行くときに、ちょろっとだけ話す。
「昨日の試合、怖いくらいに凄かった」とか。
……褒められてるのかどうかは微妙なところだけど、それでもあたしには十分嬉しい。

今度もまた、格好いいとこ見せてあげるからね。

*    *    *    *    *

場所と時間の連絡は、明日香から直接来た。
日々之学武道館―――剣道や空手といった、武道系の競技を行うための体育館。
俺の家からだと、電車で小一時間ほどの、西園首寺(さいおんくびでら)駅のすぐそばだ。
何度もそこで明日香の試合を見てきた。
日曜日は開けておいたし、こちらの準備は完了した。
部活での練習も、もう追い込みの段階に入っているらしい。
「毎日部長さんにビシバシ叩かれて、試合の前に倒れちゃいそう」とは明日香の弁。
が、実際明日香がそれで倒れることはない。それに、試合でも、俺が見ている範囲では、
明日香は負けたことがない。負けるのを見たことがない。
試合に限った話ではなく、中学の時だって―――。

「だぁ〜れだ?」

いきなり目の前が真っ暗になった。何者かにおそらくは手で視界を遮られている。
「誰でもいい」
意外に早く光が戻った。
「もう、それじゃ面白くないよぉ〜」
振り返ると、木場がいた。面白くないのは仕方がない。
いきなり後方から目隠しして、何の面白さを求めるつもりだ。
「何か用か?」
「うん。伊星くん、今度の日曜って、時間ある?」
「時間なら、日曜に限らず、いつでもそこに存在して、流れている」
念のため言っておくと、これはさっきの木場にやられたことに対するささやかなお返しだ。
「そういう意味じゃなくて……暇かな? ってこと。良かったら、一緒にどこか遊びに行かない?」
意外な誘いがきた。ここ数年、そんなことを言われた記憶がない。
「日曜は私用がある」
だがもともと明日香の試合を見に行く予定でいたから、そっちを優先。
「えぇ〜そうなの? 用事って、なぁに?」
木場は後ろで手を組み、顔を傾け、やや前かがみの姿勢で聞いてきた。
「明日香の剣道の試合でな」
「あ、新城さんの応援に行くんだ〜。ふーん……」
今度は前で腕を組む。いかにも、”何か考えてます”ってポーズだ。

まとまったのか知らんが、木場は思いついたように両手を合わせる。
「ねえ伊星くん、私も一緒に行きたいな」
「……遊びに行く話はどうした?」
「それは暇だったからだよ〜。私も新城さんの試合、見たくなっちゃった」
「……」
明日香の試合を暇つぶしで見に行くのか。俺はバイトをキャンセルしたのに。
…まあ考えてみれば、その辺の事情なんでどうでもいいか。
明日香(というか、うちの学校)の試合に注目する人が増えるのはいいことだ。
「行けばいいじゃないか」
「うん!」
「場所は日々之学武道館。西園首寺駅からすぐ見えるところにある。開会は午前九時で、
うちの学校の試合は昼頃だそうだ」
「え? さいおん、くびでら…? 私知らないよ〜」
「……困ったな」
俺は何度も足を運んでいるから分かるが、木場は知らないか。
確かに、武道館以外に、めぼしいスポットは無いからなあ、あの辺。
「伊星くん、学校から一緒に行こ?」
現地集合は不可。一度学校で合流するのは少し時間がかかるが、この場合は、
「仕方ないな」
それでいくことにした。

電車の時間と、学校から駅までの時間を踏まえて、待ち合わせ時刻を決める。
一時間三十分もあれば十分だろう。七時半に校門前で。
「うんわかった〜」
約束を取り決めると、木場はスカートを翻してスキップで去っていった。

どうも今一つ、あいつのやりたいことが解らん。

7

休日、プライベートの時間に、どれだけ自分の存在感を植え込むか。
それは相手の心をモノにするための基本中の基本。
伊星くんの休日は、主に一日アルバイトか、何も無く一人で過ごすか、そして新城さんと過ごすか、
大体その三パターンであると分かった。
幸い私は今度の日曜、伊星くんと一緒の時間を掴み取れた。それも”新城さんと過ごす”のパターンで。
一回目にして大チャンスだ。ここで私の存在感を刻み込めば、新城さんの部分も薄れて、
まさに一石二鳥。
ここだけの話、私は西園首寺駅を知ってる。伊星くんとの時間を増やすために、知らないフリをしたの。
そうすれば、移動時間を一緒にできる。
新城さんの試合だって、はっきり言ってどうでもいい。
いや、どうでも良くはないか。伊星くんと親しくなるための話のタネにするくらいの価値はあるから。

待ち合わせには、時間ぴったりに行くことにしよう。
「待った?」「ううん、今来たところ」なんてやり取りは、伊星くんの好みじゃないと思うし。
服は……どうしようかな。あんまり派手じゃないほうがいいのかな。
あんまりおしゃれし過ぎたら、「こいつ何しに来たんだ」って思われるかもしれないから、
ちょっと地味目で行こう。
後は重要アイテム、「お弁当」だね。
試合の開会が九時、新城さんの試合がお昼頃なら、途中でゴハン食べるのが普通だよね。
学食では新城さんを交えての三人だったけど、今回は二人。
ふふっ、伊星くん、おいしいお弁当作るから、楽しみにしてね。

「伊星くん、おっはよ〜っ!」
「……ん」
いよいよ日曜、私は七時半ちょうどに校門前に着く。伊星くんは先に来ていた。
まだ部活も始まっていないから、近くには伊星くん一人しかいない。
「お待たせ。さ、行こ?」
私と伊星くんで一緒に駅まで歩き始めた。

「私、剣道の試合を生で見るのって初めてなんだ〜」
駅までの時間、ただ黙っているわけにはいかない。せっかく得た時間、有効に使うのが
『落とす』ためのコツなの。
それに、まだまだ伊星くんについての情報を集めなければならない。
「ねえ伊星くん。新城さんって、強いの?」
「ああ、強い」
即答だね。その答えには、どんな感情が入っているのかな?
「どのくらい?」
「そうだな……」
今度は片手を口元にやりながら、少し考えてる。
「本気を出せば、ドラゴンくらいは倒せるんじゃないかと」
「あははっ、それじゃあ、普通の人は勝てないよ〜」
分かるよ伊星くん。今のはウケを狙ったんだよね?
言ったことに対してちゃんとリアクションをとる、そうすると相手も言ってよかった、
と思って、好印象になるの。
でもしばらくは、私から質問して、伊星くんが答える、という形で話していこう。
向こうから話し出してくるようになれば、前より親しくなった目安になる。
「新城さんの試合は、いつも見に行くの?」
さあ、伊星くん、私ともっと話して。

『さいおん、くびでら〜、さいおん、くびでら〜……』
電車に揺られること小一時間、私たちは目的の駅に到着した。
さすがに電車の中であれこれ話しかけるのはマナーの問題があるから、ここでは静かにする他無かった。
とはいえ、隣同士座っていられたから、無意味な時間にはならなかった。
そうだ、帰りの電車は寝た振りして、伊星くんに寄りかかってみようかな。
帰るまでの間にうまくポイントを稼げば、それくらいやっても嫌がられないかもしれない。
そこから、一気に走る事だってできる。新城さんに追いつき、追い越し、引っこ抜く。
それもはるか遠くじゃない。

アリーナ……じゃなくて、武道場か。そこはちょうど開会式の最中だった。
私と伊星くんは観客席の端っこのほうに座った。
周りにあまり人はいない。人混みは苦手なんだね。
少しして、開会式の司会の人が、開会宣言をした。
私の『伊星くん攻略大会』も本格的に開会だよ。

新城さんの試合まで結構時間がある。伊星くんはボーっとした感じで他の試合を眺めていた。
この態度からすると、やっぱり新城さんの試合以外には興味ないんだね。
まあそれならそれで、点数を稼ぐチャンス。

ある選手が猛攻をかければ、
「わっ、すごい! 決まった?」
「今のは全部無効だ」
またある二人交差するようにぶつかり合ったら、
「いまのどっち?」
「……赤?」
審判はバッと白の旗を挙げた。
「ハズレだったね」
「……別にいいじゃないか」
ちょっとふくれる伊星くん。今のイイ顔だったよ。

さて、そろそろ頃合かな。
何試合目かが終わって、いよいよ新城さん、もとい、うちの学校の試合になる。
ではここで秘密兵器投入〜。
「ねえ伊星くん、お腹空かない?」
手を合わせ、手の甲を頬に当てて、とびっきりの笑顔。うまく見せるために鏡の前での練習は
欠かさない、私の得意技。さあ伊星くん、どう?
「いや……?」
…。
……。
ああいけない。妙な間を作っちゃった。予定では、「そういえは、少し……」なんて返事が返ってきて、

そのままお弁当、の流れに行くはずだったのに。
なかなか手強いね、伊星くん。
攻め方を変えないとダメかな?
「そうなんだ……。私ね、お弁当作ってきたの」
涙声で、俯いて。
「折角だから、食べて欲しくて……」
悲しそうに、哀しそうに。
「がんばって、作ったの……」
「……じゃあ、貰ってもいいか?」
よっし作戦成功。
私は鞄から弁当箱を取り出す。もちろん控えめに、ゆっくりとね。
「いただきまーす」
「戴きます」
この流れに持ち込めばこっちのもの。一気に攻めるよ。
……と思ったら、武道場の一人がチラッとこっちを見た。
面を付けてるけど分かるよ。新城さんでしょ?今ね、伊星くんと一緒にお弁当なの。羨ましい?
チラッとだけじゃなく、もっと見てよ。面白いもの見せてあげるから。
「あ、その唐揚げね、うまくできたの。小松菜にくるんで食べてね。おにぎりの中身は梅干しだよ。
種は取ってあるから、一気にいけるよ。それから」
「静かにしろ。試合が始まる」
「……うん、ごめんね」
うーん、もう一押しができないなあ。点数をどっさり取りに行くのは、まだ早かったかな?

8

開会式が終わったら、試合までは割とヒマになる。待ってる間は外で走ったり、素振りしたり。
試合は団体戦。あたしは中堅。個人戦と違って立て続けに試合するわけじゃない。

「そろそろだ。入るぞ」
部長さんの指示で、足を拭いてから試合場に入る。外でも裸足だから。
さて、人志は来てるかな……。
試合場に入って観客席を見渡す。あんまりキョロキョロしてると注意されるから、
なるべく最短の時間で探さないと。
人志はいつも人の少ない所でぽつんと座ってるのよね。
というわけで右端の辺りを見てみる。
―――いた!
そこには、座っている人志……と、木場さんもいる。
珍しいな。そう思ったときだった。
二人の構図が、変。

何? その膝の上にある箱は。
何? その箱から出てくる食べ物は。
何? 木場さんの身体の角度は。
……ああ、お弁当か。そうね、もうお昼だもんね。

そうそう、人志が来てるってわかったんだから、いつまでもよそ見してちゃいけないわ。
一列に並んで、相手チームと向かい合って、礼。もう試合が始まる。
先鋒がまず試合場に入っていく。あたしの試合は、次の次。

……今、人志はお昼食べてるのよね。
自分でお弁当を作って持って来るのは見たことないから、木場さんが作ってきたのかな。
そうだとしたら、木場さんと人志は、前から一緒にここへくる約束をしていたことになる。
いつの間に約束したの?
何で人志は、木場さんと一緒に来てるの?
いつも一人だし、誰かに言い触らすこともないだろうし。
じゃあ、木場さんの方から? そうよ。木場さんは最近人志を狙ってるんだから、
休みの日に接近しようとしないはずがない。
お弁当まで作って、張り切っちゃて。
まったく、人志もいいご身分ね。あたしは試合が終わるまで、水くらいしか口にできないのに。

「中堅!!」
「へっ? あっ、はい!」
気がついたら前二人の試合はもう終わっていた。審判の人がちょっと怒ってる。
変なこと考えてる場合じゃなかったわ。
急いで対戦相手と向かい合い、構える。
「始め!!」

さあ、見ててよ、人志。

もう、なんなのよ!
試合中だってのに、あの映像が頭から離れない。
人志と木場さんが、仲良くお昼を食べてる所。

ねぇ、人志。あたしの試合、ちゃんと見てるわよね? お弁当食べながら、
木場さんとおしゃべりなんかしてないわよね? そんなことしてたら、許さないわよ。

あれ、許さない? 何で?

別に人志が試合を見に来るのは義務じゃないんだし、木場さんも来て応援が増えてるんだから
いいじゃないの。
それなのになんで、何で……。

―――――!!
あたしの頭のすぐ上に、相手の竹刀が…!
――ああ、そうね、考え事なんかしてるから、隙だらけになってたのね……。

もう遅かった。
面からいい音がして、すぐに審判の「面アリ!」の声が聞こえた。

「ただいま……」
家に帰って、部屋に入って、そのままベッドに身体を投げ出す。
負けた――。
人志の前だったのに。人志が見てたのに。
ごめん。ごめんね、人志。
「……っ、ううっ……」
泣けてくる。くだらないことを考えて、格好悪い姿を晒して。
明日、人志に会ったら、何て言おう。
ううん、言葉どころか、顔も合わせられないわよ……。
―――。

ぼーっとしたまま、夜の十二時を迎えた。
もういいや。今日は寝よ……。



また、またなの?
頭に浮かんでくるのは、人志と木場さんが……もういいわよそれは!!
眠れない。寝返りをうっても頭を振っても離れない。
あたしは一つ思いついて、竹刀を持って部屋を抜け出す。そっと階段を下りて、玄関を出る。
真夜中だから、辺りには誰もいない。
深呼吸して、竹刀を正眼に構える。振りかぶって、一気に下ろす。
ぶんっ!
風を切る音が良く聞こえた。いつもなら、この痛快な音に、いやなことも吹き飛ばされる。
それなのに。
まだくっついてる。まだ張り付いてる。
ぶんっ!!
もう一回振る。

……なんでよ。なんでなのよ。別に、別に人志が誰と仲良くしてたって、関係ないじゃないのよ。
ふと、腕に冷たい何かが当たった。
これは、雨……?
ちょうどいいかもしれない。吹き飛ばせないなら、雨で流す。
あたしは竹刀を振り続けた。雨はだんだん強くなる。それでも離れない。
「いいから、あっち行ってよ!!!」
怒鳴りながら更に振る。更に念じる。
あんな光景、あたしには関係ない。関係ない! 関係ないっ!!

途中から、何をしているのかわからなくなった。握っていたはずの竹刀がない。
地面と空が入れ替わったような感じがして、あの映像と一緒に、意識も吹っ飛んだ。

9

昨夜の雨は明け方には上がったようだ。今はすっかり晴れている。木の葉から零れ落ちる雫が、
とても綺麗だ。
いつもの通学路。水溜りがあるものの、休み明けの億劫な気分は減少する。
駄菓子屋の角で、これまたいつものように明日香と会う……はずなのだが、いない。
明日香が通ってくる道を覗いても、誰一人歩いていない。
先に行ったのか? それとも寝坊か?
昨日のことを鑑みるに、可能性は半々だった。

昨日の試合――――。
俺が知っている明日香と比べて、あの試合での明日香は、一言で言えば、全くらしくないものだった。
失礼だが、別人ではないかと思ったくらいだ。いつも見せるような果敢な攻めはなく、相手の動きに
対してふらふらして、何もできずに面有りを決められていた。
相手がやたら強かった、とも考え辛い。それこそ離れて見ていた俺ですら威圧感を覚えるほどの奴で
なければ、明日香の敵ではないだろう。昨日の相手に、それは無かった。
で、そいつに負けた明日香はどうしているか。もっと鍛えなければと急いで朝錬に行ったか、あるいは
単に不貞腐れているか。
前者であれば何の問題も無い。だが後者なら。
俺自身、明日香が試合で負けるのを見るのは初めてだった。敗れた悔しさはいかほどか、
俺に簡単に量れるものではない。そんな明日香と、なんて話せばいいのやら。
……。

俺は一人で学校へと向かった。
仮に明日香が凹んでいたとしても、そこから立ち直れないようなヘタレじゃない。
明日香は俺よりも、ずっと強いのだから。

学校に着いてから、道場を覗いて確認する、という方法を思いついた。明日香がいれば、それで良しだ。
なんとなく忍び足で道場に近づく。別に疚しいことなど無いのだが。
中から威勢のいい掛け声が聞こえてくる。
入り口横の壁に張り付き、顔だけ出して中を確認する。明日香はいない。
ということは、寝坊か。戻ろう。
そう思い入り口を背にした瞬間、何者かに襟首をつかまれた。
「いい所に来たな、伊星。」
部長さんの声だった。
俺は何も言わずに手を払って逃げ出した。しかし回り込まれてしまった。
「新城が来ていないのだが、何か知らないか?」
「存じませぬ」
むしろ俺が聞きたい。
「そうか。だがすぐ帰ることは無いだろう。見学でもしていけ」
木刀でコツコツと地面を突く部長さん。本名、黒凪鉄子。
逃げ場は無かった。
結局、道場の掃除と道具の手入れを手伝わされた。来るんじゃなかった。畜生。

慣れないことをしたせいで朝から疲れた。教室に戻ると、朝のホームルームの真っ最中だった。
あー頭がボーっとする。
「え〜、今日は新城が風邪で欠席、と」
!?
担任から衝撃的な言葉が発せられた。
明日香が風邪? そんな馬鹿な。有りえない。
中学一年の頃から今まで、毎年皆勤賞を取り続け、卒業のときには、体育良好……、何だっけ、
思い出せん。とにかく健康賞のようなものを受けた明日香が、風邪だって?
昨日のダメージはそれほどまでに大きかったという事か?

担任は教室を出て、一時間目の先生が入ってくる。
明日香がいるはずの席は、空いたまま。

物凄く、嫌な予感がする。
ただの勘でしかないのだが、午後から降り出した雨が、その勘が正しい事に一票を投じている気がする。
朝は見事に晴れていたのに。
このまま何もせずに帰っていいのだろうか。明日香の風邪は、どうなっているのだろうか。
そうだ。直接見に行って来ればいいんじゃないか。
学校帰りに、明日香の家に寄って行こう。
と、そこで、間抜けなミスを犯していることに気づいた。
……傘を持っていない。
外の雨は昨夜ほど強くはないが、無視できるほど弱くもない。
濡れた状態で他所の家に行くのもアレだし、購買で売られている傘は一本二千五百円。
ぼったくりもいい所だ。
ならば一度家に帰って、その後明日香の家に向かうか……。
「い・せ・い・くんっ」
どすっ。
後方から激しい衝撃。バランスを崩したが、倒れるのは何とかこらえた。
「っ……木場か!?」
「えへへっ」
俺のすぐ後ろで木場がニヤニヤしていた。
「一緒に帰ろ」
先週、毎日のように聞いた誘いが、今日も来る。
「ちょっと今日は用事が……」
「ぶー。今日はバイト休みでしょ〜、用事なんてないでしょ〜」
木場は一気に膨れて制服の裾を引っ張ってきた。
しかし、何で木場は今日がバイト休みなのを知っているんだ。
「いや、本当に急用だ」
制服が伸びてしまっては困るから手を取り払う。
「どんな用事なの?」
「天変地異を未然に防ぐために流行性疾患患者の現状を調査……」
「???」
「とにかく、急がなければ何かが起こる」
木場が困惑している間に、外へ駆け出した。
やはり一度家に帰って、それから明日香の様子を見に行くとするのがいいだろう。

急ぎたい時ほど運は敵に回るもので、俺は赤信号で足止めを食らってしまった。
傘が無いから、雨が遠慮なく身体に当たる。
周りの信号待ちの人たちは皆傘を開いていた。俺だけか、くそ。
だが突然、雨がふっと止まった。
正確には、俺の頭上に傘が出現していた。
「はぁ、はぁっ。用事って、そんなに、大急ぎ、するほど、大事なの?」
その傘の柄を持っているのは、木場。息切れしている。俺を追ってきたのか?
信号が青になった。俺は横断歩道を走らず渡る。傘がそのスピードに合わせて付いて来る。
「伊星くん、なんか今日、ヘンだよ?」
渡りきったところで、息の整ってきた木場は、そう、言った。
別にヘンでいいじゃないか。俺は変人、伊星人志だ。それでいい。
「これから、どこへ行くの?」
俺がヘンなら、木場だって変だ。俺が何をするのか、何処へ行くのか聞き出そうとして、
こんな雨の中を追いかけてまで、しつこく聞いてくる。
本当に、こいつは何がしたいんだ。
「明日香が風邪なんて引くから、珍しくて見物に行こうかと」
「……見物じゃなくて、お見舞い、だよね?」
「若干違う」
木場は笑った。普段のへらへらした感じではなく、少し、大人びたような。
「優しいね。伊星くん」
「いやだから違うと……」
「新城さんのことが心配で、一日中居ても立ってもいられなかったんだね」
「違うってのに……」
見物と見舞いには、本当に違いがあるのだ。それを木場は掴めていない。
「よし決めた」
「何を」
「私も、これから新城さんのお見舞いに行くよ」
「だから俺のは見舞いじゃ……」
「あっ、でも私、新城さんの家わかんない。ねぇ伊星くん、案内して?」
「…………」
何だこのデジャヴは。この強引な持って行き方は。
そんなに明日香が気に掛かるのだろうか。しばらく前まで、木場と明日香はあまり係わり合いに
なったことは無い筈だが。
「わかった」
深く考えても仕方がないかもしれない。別に木場が同行してもしなくても大差ないだろう。
ただ、誤解の一つは改めておきたい。
「俺はあくまで”見物”しに行くだけだからな」
「うん。私はお見舞い、伊星くんは見物、それでいいと思うよ」
「……」
何故だろう。どこか腑に落ちない。
木場の目が、『本当はお見舞いに行きたいけど、恥ずかしくてそう言えないんでしょ〜。このこのっ』と
語っているように見えるが、俺の被害妄想だろうか?

10

「あ〜もう何やってんのよ〜」
この台詞も何度目だろう。数えるのも憂鬱になる。
我ながら、なんてバカなのよ。ねぇ?
試合に負けて、頭がごちゃごちゃして、一晩中雨の中で素振りやって。
おかげで熱が出て学校を欠席。
それより何より、学校を休んだことで、人志と顔を合わせずに済んだから結果オーライ、なんて事を
今朝考えた自分にイライラする。こそこそ逃げるなんて、やっちゃいけないのに。
あーもう、バカバカ! 大バカ!
とにかく、今日中に風邪を治して、復帰しないと。
夕方の今、熱はだいぶ下がっている。このまま行けば、夜には全快しそう。
人志への言い訳は……ま、後で考えればいいか。
結論が出ると、なんだか胸の奥のしこりが取れたような気分になった。
そうよ、また明日から頑張ればいいのよ。

ピンポーン。
「?」
インターフォンが鳴ってる。たぶん、お母さんが出るわよね。二階の閉まった部屋にいるあたしには、
誰が来たのかわからない。
少ししたら、パタパタと足音が聞こえてきた。誰かが、二階に上がって来てる?
「明日香ー」
「お母さん?」
ドアの向こう側よりまだ遠い、階段のあたりからの声が聞こえる。
「人志君が、お見舞いに来たわよー」
「え」
え、えぇ? 人志が、お見舞い?
「おばさん、見舞いじゃなくて見物です」
この声はほんとに人志! ちょっと、何やってんの? 顔合わせるのは明日だと思ってたのに、
なに奇襲かけてんの?
こっちはびっくりしてどういうわけか直立姿勢よ? さっきまで寝てたのに!
ええいうろたえるな! これは孔明の罠よ!
「入るぞ、いいか?」
ちゃ、と人志がドアノブに手をかける音がする。
「待って! まだ心の準備が!」
「ん?……そうか」
人志の手は離れた……と思う。こっちからは見えないけど。

と、とにかく、ここ最近整理してなかった机を何とかしないと。
机の上には、人志から借りたノートも置きっ放しになっている。しかもジュースを溢して
でっかい染みをつけちゃったヤツ。
これ、いつ返そう……ってそんなこと考えてる場合じゃなかった。
机の上に散らかった本を重ねて、本棚に押し込んでおく。
「……もういいかい?」
「もういいよああああぁぁぁーっ!!」
「どうした!? いいのか? 悪いのか?」
「悪い! いや人志は悪くない! もうちょっとだけ待って!」
危ないところだった。ベッドの上からだと見えなかった、って言うかすっかり忘れてたんだけど、
床には寝苦しいからと放り投げたブラジャーが!
こんなの見られたら、末代までの恥よ。
すばやくそれをタンスの中に詰め込む。あー危なかった。
……もう大丈夫よね。
ベッドに潜ってから、ドアの向こうに「もういいよ」と声を飛ばす。

それにしても、人志がお見舞いに来るなんて、どういう風の吹き回しよ。
あれ、見物って言ってたっけ? まぁ同じよ同じ。
今ドタバタしたせいで、妙にテンション上がってきちゃった。
人志に会うのはちょっと気まずいけど、この気分なら乗り切れそうな気がするわ。
あーでも、試合で負けたことの話が出てきたらどうしよう。
いまさら考えたって間に合わない。アドリブしかないわね。
人志だったら、少しくらい変なこと言ってもスルーしてくれそうだし。

ガチャ。
ドアが開いて、人志が入ってくる。
「やけに騒がしかったな」
「おじゃましまーす」
そして、予想してなかった、もう一人。

さっき上がったテンションが、急降下していった。

To be continued...

 

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