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歌わない雨



11 雪Side2

 伸人ちゃんが家を出てから数十分、そろそろ頃合いだと思って緑に電話をかけた。
『おはよう』
「おはよ、これから遊びに来ない? 何て言うかもう暇で暇で」
  伸人ちゃんが家に居ないことを暗にほのめかす。聡い緑なら、簡単に理解する筈だ。
『…伸人は?』
  早速喰らい付いてきた。
  あたしは口から笑い声が出ないようにして、なるべく自然を装い、
「せっちんの所」
  あたしが促したのは言わない。嘘は言わないが、真実だけで真実をごまかす。
  それが道化の方法だ。
  緑は嫉妬を隠そうともせず、歯を噛むと冷たい声で、
『あの、泥棒猫』
「そう言っちゃ駄目だよ」
  あたしはあくまで善意を込めて呟いた。
  危険分子と見られるのは厄介だし、計画が破綻しては元も子も無い。
『そうね、その通りだね』
「そうそう、だから遊んでうさばらし」
  相手の嫉妬を肯定する言葉に、緑は冷たい笑みを漏らした。
  電話が切れる。
「くふ」
  自然と笑いが込み上げてくる。
「くひひ」
  全く善人も楽じゃない。笑いを抑えるのも、これはこれで大変なのだ。
「くははははははははは」

「おまたせ」
  数分して、緑が家のリビングに入ってきた。顔にはいつもの表情、
  しかし今その頭のなかは策で一杯だろう。
「早かったじゃん」
「まあね」
  テーブルに着く。位置は、一昨日あたしが緑を扇った時と同じ。
  それからの行動は、雑談。
  内容は、主に伸人ちゃんの事と、せっちんの事だ。悪口が全く出ないのは、逆に快い。
  そして話題を狙っていたものへと変える。
「今はこうやって笑っているけど、二年前は大変だったね」
  せっちんが知らない、伸人ちゃんの初恋の思い出。
  そして策士の、唯一の敗北の思い出。
  案の定、緑の表情が変わった。
  緑自信忘れようとしていたのかもしれないし、これを手札にしようか迷っているのかもしれない。
  更にあたしは言葉を続ける。
「昔は大分へこんでいたし」
  緑が考え事をする時の癖。目を細めて、しかし焦点を合わせない表情を見て、
  緑に対しては今が最適だったと確信した。

 

 数分して変わった表情から、手札が揃ったことが分かる。
  再び込み上げてくる笑いをこらえつつ、善意の化粧をして、
「今、この二人だから言えるんだけどさ」
  道化の言葉は止まらない。
「もしかしたら、今も苦しんでいるんじゃないかな?」
  もしかしたら?
  馬鹿馬鹿しい。
  今も苦しんでいるに決まっている。
  立ち直っているなら今も完璧である訳が無いし、緑とせっちんの喧嘩も止めない筈だ。
  時計を見ると、時間は既に正午を回っていた。
「そろそろだね」
「え?」
  呆けた顔をして緑がこっちを向く。
  伸人ちゃんは昼過ぎには帰ってくると言っていたから、もうすぐ帰宅するだろう。
「あと少ししたら多分帰ってくるから、話してみたら?」
  最後の仕上げに、少し悲しそうな表情で、
「緑だから言える事とか、話せる事もあるし」

 

 計画は順調。
  特定した個人を推薦する事で、その人以外にはやれない事を示す。
  伸人ちゃんに近しい二人の内の一人のあたしでも無理だが、貴方ならやれると言えば尚更だろう。
  緑は笑みを強くして、
「そうね、そうよね」
  力強く言った。
「それじゃ、伸人ちゃんの部屋で待っててあげて。あたしはこっちで露払いしてる」
  あたしがそう言うと、緑は笑みを浮かべたまま伸人ちゃんの部屋へと向かった。
「くふ、くははは」
  笑い続けて数分、伸人ちゃんが帰ってきた。
  なんてスムーズ。
  なんて御都合主義。
  全てが計画道理に進んでいる。
  順調順調順風満帆。
  あたしは笑いを噛み殺すと、
「伸人ちゃん、お客さん」
「そうか。部屋?」
「うん」
  軽く頭を掻いて伸人ちゃんは部屋へと向かった。
「くははははははは」
  再び笑いが漏れてくる。一体、今日何度目だろうか。数えるのも馬鹿らしい程に笑いたい。
「くはははははは」
  伸人ちゃんはきっと今、緑に傷付けられているだろう。
  そして少しづつ壊れ、狂っていく。
  主役なんてとんでもない。
  エキストラなんて御大層な。
  あたしは舞台の裏方で、ひたすら夢を見続ける。
  一人で踊る哀れな悪役と、二人で作る夢舞台。
  何て美しいのだろう、想像するだけで頭がとろけそうになる。
「くはははははは」
  あたしは一人で笑い続けた。

12

 今日は皆で楽しく御出掛け(はぁと)
  楽しく可愛く表現しても、僕の心に立ち込める暗鬱とした気分はどうにも晴れない。
「せっかくの日曜日なのに」
  しかも、天気は快晴。
  ここまで揃っていて尚且つ気分が悪いのは、きっと隣で陽気に鼻唄などを歌っている人間のせいだろう。
  その名前は中道・緑。
  僕の幼馴染みで、僕が一番恐れる策士だ。
「緑、御機嫌だね?」
「まぁね」
  雪の声を聞き、軽く舌舐め擦りしながら僕を見る。
  そりゃあ御機嫌だろう。
  雪の目を盗んでした僕とのキスは、ゆうに十分間にも及んだのだ。さぞ満足したに違いない。
  しかし本題はそんな事じゃなく、キスはあくまでも契約で、大切なのは契約が守られるかだ。
  そんな訳で、僕と緑と雪の三人で外を歩いていた。
  芹も誘い、二人の様子を観察する。
  話はそれからだ。
「おはよう。伸人、雪」
  つらつらと考えていると、もう待ち合わせ場所に着いたらしい。先に来ていた芹が若干一名を除き、
  笑いかけてくる。
「あら、どこからともなく霊長類系の鳴き声が」
  すると緑は急にしゃがみ、
「あ、もう来てたんだ? あまりにも小さくて気付かなかった」
  あんまりな言葉を返す。
「黙れ雌豚、家畜の分際で言葉を覚えるのは大変だっただろう。これからはもうそんな苦労は
  しなくて良いぞ?」
「そっちこそ、人間様に進化しきれてないみたいで、大変よね。無理に社会に溶け込まないで、
  大自然で自由に暮らして良いのよ?」

 これらの言葉の応酬はいつもの通りで、個人的には止めて欲しいのだが、取り敢えずは守れていると
  安心した。
  だが、それも長くは続かない。
  緑は僕を見ると笑みを浮かべ、唇を軽く舐めた。
「…どうした、伸人?」
  芹の顔を見て、益々後悔の念は強くなる。二人が僕に好意を寄せているという事実と、
  緑としたキスが僕の心を締め付ける。
  多分、これが策士の狙い。残酷な罠の一つだ。
「…伸人ちゃん?」
「どうした、そんなに呆け…避けろ!」
  僕はどうやら立ち止まっていたらしく、その事実を認識したのは芹に突き飛ばされた後だった。
  眼前に広がるのは、一年前今朝の光景。
  但し緑のポジションは僕で、僕のポジションは芹が担当。
「っ、危ないだろうがッ!!」
  少し違うのは悪態をつきながら自転車を止めたことと、それに乗っていたのが体格の良い巨漢だ
  ということだ。
  しかも体重の軽い芹を止めただけで腕を痛めた僕と違い、更にはその細腕で少し宙に浮いた自転車を
  難無く地面に叩き付けた。
「お前のッ、脳味噌はッ、飾りかッ!!」
  続くのは拳による猛攻、腕は痛めていないらしい。
「反省ッ、しろッ!!」
  久しぶりにキレた芹を見た。
  その抜きん出た身体能力で、圧倒的に敵を痛めつける。
  これが『暴君』釜津・芹の真骨頂。
  と、冷静に解説しつつ見知らぬ巨漢を助けに入る。
「こら止めろ」
  芹の右手を、右手で掴む。
  本当は利き手である左手の方が力が強いが、随分久しぶりな感じのある腕の痛みによって動かなかった。

「何をッ!!」
  叫びながら芹は振り向くが、僕と目が合うと腕を動かすのを止めた。
「だけどこいつは…」
「僕は芹にこんな事をしてほしくない」
  僕は芹の頭を撫で、
「ありがとう」
  笑みを作る。
  途端、芹は顔を真っ赤にしてうつむき口元で何かを呟き始めた。
「卑怯だ」
  我ながら確かに卑振り向くが、僕と目が合うと腕を動かすのを止めた。
「だけどこいつは…」
「僕は芹にこんな事をしてほしくない」
  僕は芹の頭を撫で、
「ありがとう」
  笑みを作る。
  途端、芹は顔を真っ赤にしてうつむき口元で何かを呟き始めた。
「卑怯だ」
  我ながら確かに卑動の黙認は緑の方から出してきた提案で、朝にキスをした以上それを実行するしかない。
「これからどこに行こく?」
  顔を赤くしたまま浮かれた芹の表情に、多少の罪悪感を抱きながら僕は笑みを作ると、
「さっきも助けてもらったし、好きな所で良いよ」
  それを聞いて、芹は尚更はしゃぐ。
「伸人…」
  緑が恨みがましい、少しすねた目で僕を見た。
  策が一切見られないその表情は可愛らしく、新しい罪悪感が僕の中に芽生えた。
「ごめん」
「伸人ちゃん、モテモテじゃん」
  くはは、と独特な笑い声をあげる雪は、心の底から楽しそうだ。
  しかし、安心する。
  僕の中に多少のジレンマがあるとはいえ、これこそいつもの日常だ。

 一日中楽しく過ごしたが、相手は策士、甘く見るべきではなかった。
  ここは緑の部屋、時間は既に夜空に星が煌めいている。
「気持ち良かった。ね、伸人」
  緑を抱いた後、猛烈な後悔に襲われていた。
  これが策士の一番残酷な罠。
  朝に抱けばその日一日を強烈な罪悪感で潰し、
  夜に抱けば獰猛な後悔が僕を襲う。
  いつにしても精神が擦り減らされる。
  極めつけは、芹と仲良くすればする程に、毒が深まっていくということだ。
  不意に、左手が痛んだ。過度のストレスが再発の原因と医者には言われた。
  その痛みと連鎖するように、ある天啓が思い浮かんだ。
「緑、交渉だ」
「何?」
  急に策士の声になる緑に、僕は内心で笑顔を作る。
「これからはお前が作った料理以外の食い物は食わない」
「良いねそれ、楽しみ。そっちの要求は?」
  策士も所詮は人間、破格の条件に飛び付いてきた。
「キスの後に、あの人の名前を言え」
  それは僕の初恋の人。
  僕の心が痛まないかと聞かれれば完全にノウだが、それ以上の痛みが緑には走る。
  肉を切らせて骨を断つ。
  毒には猛毒を。
  正攻法なんて使わない。
  それが悪役だ。
  緑は青くしていた顔で笑みを作ると、
「良いわよ。それじゃあ、今日はおやすみなさい」
「おやすみ」
  僕は笑みを浮かべると、部屋を出た。
  今回は僕の勝利だ。

13

 契約通りに日常をすごして三日間が過ぎた。
  相も変わらず、僕の心はいつも沈んでいたし、そのくせ急に上がったり下がったり。
  緑と芹はいつも馴れ合いの喧嘩をしたり、雪はそれを笑いながらなだめたり、僕はその光景に安心したり。
  皆少し疲れているけど、それこそが僕が欲しがった日常だった。
  しかし長くは続かなかった。

 僕と緑が最後の契約をしてから四日後、恒例となったキスをしてあの人の名前を言う。
  昨日は緑の要望で泊まりだったので、セックスも起きてすぐに済ませた。
  いつも通りの筈だった。
「ねぇ」
  あの人の名前を言い終えた後、緑は僕の胸に顔を埋めて弱く呟いた。
「どうした? 胸に顔を埋めるのは僕の専売特許だぞ?」
  下らない冗談にも反応せず、そのままの体勢で数秒。
「辛いよ、悲しいよ、苦しいよ」
  泣きながら、緑は叫ぶ。
「いつまでこんな事しなくちゃいけないの」
  そこに居たのは、悪役の毒で心を擦り減らされた、策も何も無い少女だ。
  これが僕の最後の策。心を潰して余裕を減らし、普通の女の子に強制的に引き戻す。
  しかし、その姿はあまりに痛々しくて見ていられなかった。

 僕は目を閉じると緑にキスをして、強く抱き締めた。
「もう、こんなの止めないか?」
  緑からの返事は無いが、僕は言葉を続けた。
「皆、傷付きすぎた」
「…うん」
「皆、疲れすぎた」
「…うん」
  そのままの姿勢で数分、僕は緑を抱き締め、緑は泣いていた。
  そして漸く緑は顔を上げると、
「最後に聞かせて」
「うん?」
「伸人は、私のこと、好き?」
「ごめん。緑のことは好きだけど、やっぱり幼馴染みとしてしか見れない」
  再び、緑は泣きは始める。
  緑は馬鹿だ。
  そして僕も馬鹿だ。
  何が策士だ。
  何が悪役だ。
  余計な策など練らず、こんなに簡単な質問をすれば良いだけなのに。
「…振られちゃったね」
「…ごめん」
「謝る位なら、最初から振らないでよ。でも、すっきりした。これでようやく私の初恋はおしまい」
「ごめん」
「良いんだよ。だだ、もう暫くは嫉妬させて」
  そこには、普通の女の子が居た。
  そして僕は新たな決心をする。
  これから、全てに決着を付けてやる。

14

 緑とイチャイチャし、芹とラブラブして過ごし、今は放課後。
  場所は自室、一人きり。
  不意に、ノック音が響いた。
「伸人ちゃん、今良い?」
  続いて来るのは妹の声だが、聞き慣れない真剣見を含んだものだ。
  どうしたんだろう、珍しい。
「構わんよ、入れ入れ」
  数秒。
「どうした?」
「…あのね」
  再び、数秒。
「怒らないできいてほしいんだけど」
  僕は無言、しかし構わず雪は話を続ける。 僕の周囲の女の子は皆、人の話をあまり聞かずに
  進める傾向がある。雪も、そんな一員だ。
「この間、と言うか一昨日なんだけどさ、聞いちゃったんだよね」
  無言。
「朝に」
  途端、僕の心臓が大きく跳ね上がる。
  ドア越しの雪に気付かれないように僕は小さく呼吸を整えると、なるべく平静を装い、
「何を?」
「キスした後に、緑にあの人の名前を言わせてたよね?」
  見られていた。
  その単純な事実で、僕の左腕が痛みだした。
「二年前のこと、許せてないの?」
  壁の向こうから聞こえる声は、強い悲しみが含まれていた。
  雪も思い出しているんだろうか。
  関わった皆が悲しみ、馴れ合い、最後には皆が傷付いた。
「緑も、心配してたみたいだから」
  その純粋な言葉は、本人が考えるよりずっと残酷に響いた。
  悪意は無いのだろうが、惨すぎる。
  頭に浮かんでくるのは、今朝の緑の表情だ。
  緑が先に使ってきたからと言っても、僕が緑を傷付けて良い理由にはならない。
  初めは武器に使っていたんだろうが、今朝の緑はあまりにも痛々しすぎた。
「出来れば、許してあげて」
  これは緑にも言われた言葉、それが僕の心に突き刺さる。
  善良な人間だからといって、善人であるとは限らない。
  数分経った後、雪の溜息が聞こえた。
「あたしの話はこれでおしまい、ちょっと出かけてくるね」
  左腕が、ずきずきと痛む。
  玄関のドアが開く音を聞いて、僕は久し振りに泣いた。

 どうやって来たんだろう、いつの間に来たんだろう。
  気が付いたら、僕はいつもの公園のいつものベンチに座っていた。
  あの人が好きだった場所、最後に来たのは芹が手をナイフで刺した前の日だっただろうか。
  大体一週間前のことなのに、本当に遠く感じた。
  夜空を見上げていると、突然足音がした。
「今日は歌っていないんだな」
  声のした方向を見てみると、芹が立っていた。
「そんな日もある」
「そうか」
  芹は悲しく呟いて、
「隣に座っても良いか?」
「何でそんな事を訊くんだ、暴君様ともあろう御人が。それに、友達だろう?」
  最後の言葉に微笑むと、芹は無言で僕の隣に腰を下ろした。
  風呂上がりなのか、僅かに濡れた髪の毛からはシャンプーの匂いがした。
  久し振りに感じる、芹との二人の時間に僕は吐息を一つ。
「煙草、吸って良いか?」
「何だ急に。私はお前よりも重煙者だぞ?」
「いや、髪に匂いが付くだろ」
  女の子だし、と付け加えると芹ははにかみ、構わんさと返す。
  最近無かった些細なやりとりに思わず安心する。
「煙草だけじゃ寂しいだろう」
  そう言って渡されるのは、共通で好みの缶珈琲。
  ふと気付き、
「二本あるってことは、毎日こんなの買って来てたのか?」
「私もそんなに暇じゃない」
  眼前のゴミ箱に同じ銘柄の缶が大量に入っているのは指摘せずに、黙って珈琲を飲む。

 芹はそっぽを向くと、
「雪に、頼まれたんだ。多分、励ませるのは私だけだと言って」
「お節介め」
  心の中で感謝をしながら、しかし出てくるのは悪態だった。
「そう言うな。雪も心配してるんだ」
  優しいその表情に騙されたのか、つい話しても良いかと思ってしまう。
「言いたくないなら構わんが、話して楽になることもあると思うぞ?」
  だから、つい話してしまった。
  あの人のこと。
  あの人がここを気に入っていたこと。
  あの人と一緒に過ごした日々。
  そして、あの人が自殺をしたこと。
  今から二年前の、父の死から始まった、僕の初恋の物語。
  全部聞き終えた芹は、やはり聞き始める前と変わらず、優しい顔をしていた。
「どうだった?」
「…そうだな」
  芹は吐息を一つ。
「お前が絶縁したくなっても構わない、取り敢えず聞いてくれ」
  数秒。
「自分を許しても許さなくても、それはお前の人生だ。例えどんなに近しい人間でも、
  口を出すことは出来ない」
  これは、この言葉は、
「ただ、どうしても辛くなったときに側で抱き締めたいと、抱き締めてほしいと思う人が居ることを
  忘れないでほしい」
  あの人が、父が死んで悲しんでいた僕に言ってくれた言葉と同じものだ。
  芹は言い終えると、弱く僕を抱き締めた。

 そして僕はようやく気が付いた。
  僕の初恋はとっくの二年前に終わっていた。
  そして今、芹を好きになった。
「なぁ芹」
「ん?」
「今更こんな事を言うのもムシが良いことは分かってるんだが、聞いてくれ。
  嫌なら断ってくれてもも構わない」
「私がお前の頼みを断るとでも思ったのか?」
  芹の笑みを見て、僕は数秒言葉を溜め、
「好きだ、付き合ってほしい」
「…喜んで」
  頬に涙が流れたが、芹の笑みが崩れることは無かった。

15 緑Side2
 私を伸人が振って数分後。自分の家に帰り、部屋には私一人が残った。
  朝食も既に伸人と食べ終え、学校に行く時間までは少し暇を持て余す。
「振られちゃったか」
  一人で居る部屋の静けさと共に、その事実だけが染み込んでくる。
  悲しい。
  辛い。
  苦しい。
  どの口がそんな事を言ったのだろう。到底言える義理ではないし、自業自得そのものだ。
  しかも、それは伸人も同じで、もしかしなくても私より辛かった筈だ。
  それでも、伸人は悲しんでいる私を抱き締めてくれた。キスをしてくれた。
  帰り際に、明日も明後日も、ふっきれるまで料理を作ってくれと言ってくれた。
  そして、私が伸人を好きだったことをずっと覚えてくれると言ってくれた。
「私は、馬鹿だった」
  初恋なんて、とっくの二年前のことで終わっていたのに、そんなことにも気付かずにしがみついて。
  でも、それでも伸人は優しくしてくれた。助けてくれた。
  だから、今までのようには行かないかもしれないけれど、
  振り向いてもらうのも無理だと分かっているけれども、
  せめて伸人を助けてあげようと決意した。 だから私は覚悟を口に出す。
「私は、伸人が…」
  好きでした。
16 雪Side3
 登校時間、伸人ちゃんと緑は、やけに清々しい表情だった。
  教室に入ってからも、いつものように皆でふざけあったりしていたし、緑とせっちんの喧嘩も
  いつものと変わりは無かった。
  しかし、緑の様子がいつもと違う。
  いや、寧ろいつも以上。最近のものとも、策士に戻る前とも違う、
  敢えて表現するなら、
  清々しい表情だった。
  丸め込まれたと言うよりも、
  憑き物が落ちたような表情だった。
  それを確認して、あたしは心が凍っていくのを感じた。人に対する想いの部分が熱を失っていくのが、
  自分でも嫌になる位にはっきりと分かる。
  この駒は、もう殆んど使えない。
  悪意を失った策士は、牙や爪を無くした肉食動物と変わらない。
  その単純な力で獲物をくびり殺すことは出来ても、生きる為に肉を引き裂いて食べることなど
  出来はしない。
  善意に満ちたその頭では、あたしの障害にすらなるかもしれない。
  それにせっちんはどうかと言えば、元から善良だ。
  道化のあたしには、使いたくても使えない。
  そして一番の問題は、伸人ちゃん自身だ。
  壊れていっていると思っていた。
  狂っていっていると思っていた。
   しかし、現状はどうか?
  直ってきている。
  治ってきている。
  こんな御都合主義の、善良な物語では誰も彼もが満足しない。
  最愛の兄の元で、ただ二人きりの世界はどうなってしまうのか?
  だから仕方なく、強攻手段に出る事にした。
  本当は自分が直接関わらないのが一番だが、そうも言ってはいられない。
  伸人ちゃんは、今日は運良く一人で部屋に居る。
「くあ、くははは」
  大丈夫、今はまだ自分に運が向いている。 あたしは笑い声が伸人ちゃんに聞こえないように
  部屋に向かった。
17 芹Side2
 雪から電話をもらい、私は髪を拭くのもそこそこにいつもの公園に向かった。
  途中で缶珈琲を二つ買う。
  本当はあまり好きではなかったが、それを美味そうに飲む伸人の顔が好きで、つい習慣になってしまった。
  これも、伸人の趣味にあわせてしまったものの一つだ。
  伸人自身、人と好みが被るのは好きではないらしいし、私も気恥ずかしさから偶然を装っていたが、
  今では本当に好きになっている。
  煙草などがその極端な例で、本当は嫌いだったが、今では伸人以上に吸っている。
  伸人と過ごした一年間を思い出しながら歩いていたら、いつの間にか着いていたらしい。
  今日は、いつもの歌を歌っていない。
  私は、伸人が歌っている曲が一番好きだった。
  以前に題名を訊いたが、伸人自身も知らないらしい。
  ただ、中学三年の時に死んだ彼の父がよく歌っていた曲らしい。
  私はなんとなく声を掛けそびれて、無言で近付いた。
  と、突然伸人がこちらを向き、目が合った。
  なんとなく気まずくなり、
「…今日は歌っていないんだな」
  そんな言葉が口から漏れた。
「そんな日もある」
  いつもの空気だ。
  少し安心した私は、いくつか言葉を交して伸人の隣に腰を下ろす。
  そして久し振りに、たくさんの話をした。
  伸人の悲しい話を聞き、慰め、そろそろ潮時だと考える。
  どうせ、私は友達だ。
  抱き締めた腕を解こうかと考えたとき、最初は耳を疑った。
「好きだ、付き合ってくれ」
  一瞬思考が飛び、続いてやって来るのは驚喜の感情だった。
「…喜んで」
  私は、久し振りに泣いた。
ACT Final

「おはよう」
  家を出ると、芹が玄関の前で笑いながら立っていた。
  何故、と思いかけて、そう言えば昨日から恋人になったのだと思い出す。
  そう思い始めると、朝に玄関の前で待っていてくれたことも愛おしく思えてくる。
  可愛い奴め、と思いながら見とれていると突然表情が険しくなった。
「挨拶くらい、してくれても良いんじゃないか?」
「うわ、スマン。おはよう」
「あぁ、おはよう」
  途端に笑顔に戻る芹。
  説明しようとして後ろを向くと、邪気は無いが露骨に嫉妬した表情の緑と、苦笑した雪が立っていた。
  どう説明したものか考えていると、
「昨日から伸人と付き合うことになった」
  あぁ、言っちゃった。
  ストレートにものを言うのはこいつの美点だが、もう少し言葉に気を使うと言うか、
  色々飾るとかしても良いかと思う。
  緑は芹を睨むと、
「本当なの? 伸人」
  しかし僕に話を振ってきた。
「そんな訳だ」
「ラブラブだぞ?」
  芹のその言葉に緑は僕さえも睨んでくる。
  未練は無いのかもしれないが、まだ少し寂しいのだろうと思う。
  それとも僕が幸せではなく、無理をしているとでも思ったのだろうか。
  助け舟を貰おうと雪を見ると、黙って目を反らされた。もしかしたら、色々思うことがあるのかも
  しれない。
「伸人ちゃん、今は幸せ?」
  ゆっくりと視線を戻してきた雪の言葉に僕は少し考え、
「幸せだ」
  短く答えた。
  その答えに雪は鈍く笑った。

 校門前、不意に芹の歩みが止まった。
「どうした?」
  無言のままでいる芹の視線の先を見ると、芹が手を刺す数日前に叩きのめしていた生徒が数人。
  『暴君』と言われている芹に挑戦する生徒は少なくない。腕に覚えのある者は、不良から格闘系の部活
  まで様々だ。
  だから珍しい事だとは思わなかったが、なんだか嫌な予感がした。
「もう喧嘩はするなよ」
  念のために小さく囁くと、芹は当然だ、と言う顔を向けて笑ってきた。
  一旦止めていた歩みを再会すると、案の定挑発の声が飛んでくる。
  最初は無視をしていたが、ある時点で再び止まった。
  恐らく原因は、僕へのヤジだ。
  相手もそれに気が付いたらしく、それを中心に罵倒を始めた。
  そして始まるのは、いつもの喧嘩。
「加勢するか?」
  流石に芹と言えども片手が使えないのは不便らしく、不安定な体制で戦っている。
  しかし芹は軽くこちらを見て、
「いらん。これだけは私の問題だ」
  その一瞬の隙が仇となった。
  いつもの芹ならふらついていなかっただろう。
  いつもの芹なら避けれただろう。
  いつもの芹なら当たっても大したことはなく踏み止まれただろう。
  周りの人垣から伸びた女性の手が、芹の背中を軽く押した。
  それだけなのに芹はバランスを崩し、地面に倒れ込んだ。
  その拍子に、ポケットから僕が昔にプレゼントしたナイフが落ちた。
「良いもの持ってるねェ、暴君さん」
  相当頭に来ていたらしいその相手は、ナイフを拾うと芹に向かって振り下ろす。
  危ない、と思う前に体が動いていた。

 最初に会った時は、僕が助ける側だった。
  昨日も一昨日も、芹に助けられた。
  なら今度は僕が助ける番だ。
  芹を突き飛ばした直後、喉元に熱さが走った。
  大切にしていてくれたらしいナイフは、かなり良く磨いてある。
  倒れ込むと同時に、首に走る痛み。
  視界に入るのは相手が逃げていく背中と、僕の大事な三人の顔。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
  泣き叫ぶ雪の声がする。
  馬鹿、お前が何したよ。謝らなきゃならないのはこっちの方だ。
  そう言おうと思ったが、喉から漏れてくるのは空気が流れるかすれた音だけだった。
  死ぬんだな、とぼやけてきた頭で考える。
「伸人、これからも私の料理食べてくれるって言ったじゃん!!」
  ごめん、その約束は守れそうにない。
「私のせいだ、私が馬鹿な喧嘩をしたから。自分で自分の手を刺したから。いや、そもそも初めから
  私に会わなかったら!!」
  それは違う。
  確かに二年前から辛かったけど、ここ十日間は地獄だったけど、碌な事なんて無かったけれど、でも。
  最後に短い間だったけれど、僕は幸せを芹に貰った。
  これだけは胸を張って言って良いと思う。
  思えば、皆を傷付けすぎた。
  皆、僕みたいな冷たい、それこそ冬のような奴からは脱け出して良いと思う。
  辛い冬から、暖かい春へ。
  『雪』は溶けて雨になり、
  『緑』は芽吹き、
  『芹』等の七草が生い茂る季節へ。
  もう僕から脱け出して新しい一歩を。
  だがいくら春になっても雨は歌ってくれないし、風も後押しをしてくれない。
  僕の手助けなんてもっての他だ。
  だからこそ自分で前へと自分で踏み出してほしい。
  意識が薄れてくる。
  最後に力を振り絞る。
  せめて皆の勇気になるように。
「ありがとう」

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