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歌わない雨



1

「I singing so like that rain. He don't like…」
  歌っている途中で右手に走る痛みに、眉をしかめて声が途切れた。
  今日はここまでにしようと立ち上がり、煙草に火を点けた。リハビリのお陰か、
  今では難無く動くようになった右手だが、今でも珠に痛みが走る。
  医者が言うには物理的なものではなく、心の問題なのだそうだ。
「とは言ってもなぁ」
  人は簡単に、そうそう心を切り替えられるもんじゃないと僕は思う。
  僕は右手に走る痛みに眉を寄せたまま、痛みの原因を思い出す。
  あれは一年前に遡る。

 

「思ってたよりもつまらなかったね」
「馬ッ鹿、お前、最高に泣けただろうが」
「あー…、伸人ちゃん、王道好きだからね」
  幼馴染みの緑と一緒に映画館に行った帰り、いつものような下らない話。
  そこでいつも通りに終るはずだったのだが、そこに突然、
「ウアァー」

 甲高い音と共に割って入る声がした。半射的にそちらに目を向け、
「ウアァー」
  僕も相手と同じ様な悲鳴をあげた。急な坂道を自転車に乗ったクラスメイトが降りてくる。
  部活帰りなのか高校の制服を着ている。付け加えるなら、
  サドルに座るときにきちんとスカートを織織り込まなかったのだろう。
  翻るチェックの布地の下に見えるのは、
「黒!? 凄ェ」
  そこからの自分の行動は、自分でも感心する。
「え? 黒? 何?」と混乱する緑を突き飛ばして自転車を回避させたあと、
  正面の壁に激突しないように自転車を押さえ込んだ。
  放心しているクラスメイトが何か言っていたが気にせずそこで別れつつ、
  緑に保険証を持ってくるよう頼み、自分は病院へと向かった。

「そして複雑骨折、一年とは随分短いもんだ」
  煙草の煙を吐き出して空を見上げると、不意に背中に鈍い衝撃が来た。
「よぉ」
「おぅ」
  振り替えるとそこに居たのは、腰まで届くウェーブのかかった長い髪。鋭い顔立ちの、背の低い少女。
「何一人でブツクサ言ってるんだ? 只でさえお前は凶悪な顔付きをしてるんだから、
  子供が見たら泣き出すぞ」
  軽口を叩きながら投げてきた缶コーヒーを取ろうとして、
「あ」
  取逃し、落とした。
  拾おうとして視界に入ってきたのは、悲しそうな彼女の表情。
「気にするな、誰も悪くない」
  僕は敢えて彼女に聞こえないように声を小さくして呟き、再び空を見上げた。

 伸人を探して辿り着いた先は、やはりいつもの公園だった。特に何をしたいと思ったわけではなく、
  ただ何と無く隣に居たいと思っただけだ。
  近くの自販機で買った缶コーヒーを手に近付くと、普段通りの景色。
  いつもの指定席で煙草を吸いながら、いつもの歌を歌っている。
  照れ隠しと言う訳ではないが、軽く背中を蹴るとやはりいつもの眠そうな調子で挨拶をしてきた。
  変化の無いこの様子に、私は毎回安堵を覚える。
  彼が毎回作ってくれる、意味の無い現実逃避だと分かっていても、だ。

 そして、私は敢えてそれに甘える。強い彼と違って、私は弱いから。
  だからいつも通りに軽い調子で缶を投げて、しかし一瞬で幻想が壊れた。
「あ」
  という彼の一言と共に、握れなかった缶が地面に落ちる。
  それだけならば、日常の中にそれなりにある風景。
  しかし、これの原因が私自信であることが頭の中をよぎり、
  表情はそれのせいで相当に情けない状態になっていたらしい。
  彼は無言で隣に座るよう促すと、黙って煙草を吸いながら夜空を見上げた。
「………」
  そして敢えて私に聞こえないように、フォローの言葉を言う。
  暫くは、無言。
  快い空気を味わいながら、彼の優しさに浸る。今暫くは、この空気は私のものだ。
  そして改めて思う。
  私は彼が好きだ。

2

 再びダンクの音がきまった。それに続いて試合終了のホイッスルと女子の黄色い歓声が
  体育館の各所から挙がる。受けているのは小柄なプレイヤー、釜津・芹。
  僕が一年前に腕を痛めた原因の少女だ。
「もう一回やって、もう一回」
  そう言ってやって来るクラスの女子に釜津は苦笑で答えると、再びダンク。また歓声があがる。
  そしてぶら下がっていた彼女が飛び下りようとした直後、開いていたから扉から突風が吹き込んで
  空中に居た華奢な体に直撃した。
「あ」
  という簡単な声と共に彼女はバランスを崩し、後は地球の強大な万有引力にまかせて自由落下。
  鈍い音と共に床に激突した彼女に近くに居た女子が駆け寄っていく。
「うわ、痛そう」
  僕の隣に座っている中道・緑が眉根を寄せ、しかし嬉しそうに呟いた。
  半ば化け物じみた身体能力を持つあいつの事だから大丈夫だとは思ったが、
  駆け寄っていく緑に続いて僕も立ち上がる。

「あー、大丈夫か?」
「大丈夫…イッ」
  僕の声に答えながら立ち上がろうとした釜津だがどうやら足でも捻ってしまったらしく、
  偶然だろうが何だか懐かしい言葉を言いながら再び倒れる。しかも、今度はモロ顔面からだ。
「大丈夫か?」
「…痛い」
  そりゃそうだ。
  僕は釜津の所まで歩いていくと、しゃがみ込んで軽く額を叩いた。
「く…この」
  寝そべったままで打ち出されるフックを一歩下がって避け、
「キツいか?」
「いや全く」
  僕は溜息を吐くと方向転換、しゃがみ込んだまま彼女に背を差し出し、「乗れ」
  意外に素直におぶさってきた釜津を背負うと保険室に向かった。
  背後の緑の目から発射される凶悪な殺人光線は、きっと俺の気のせいだと思いたい。

 

 暫く無言。最初にそれを破ったのは僕だ。
「なぁ」
「うん?」
「体育で体を思いっきり動かすのは悪いとは思わんが」
「はしたないとでも言うつもりか」
「いや全く。只、汗と匂いが」
「ウワァー」
  僕が言った直後、釜津は体を大きく暴れさせバランスを崩しそうになる。
  しかし体の筋肉を総動員させて強制的に姿勢を戻すと、彼女も暴れるのを止めた。
「随分マニアックな」
「そういう訳でも無いんだがな」
  数秒、彼女は黙った後で、
「そんなに気になるか?」
「あんまり」
  からかわれていたのに気が付いたのか、少し不満気な声を出す。
「それと」
「まだあるのか」
「胸が無いからあんまりおんぶの意味がアイタタタすみません」
  馬鹿みたいな筋力でウメボシをしてくる彼女に詫びを入れると、今度は力無くしなだれ掛ってきた。

「やはり、緑みたいに大きい方が良いのか?」
  そうでもないが、だからと言ってこいつレベルなのもどうかと思ったので敢えて黙った。
  只、嫌いではない。
「あ、着いた」
「こら答えろ」
「黙って治療を受けろ」

 治療後。
「私はもう大丈夫。それで済まないが、飯を買ってきてくれ」
  確かに、足をくじいた状態であの人海は辛いだろう。
  こと普段は殆んど全ての生徒に帝王か神の如く扱われている釜津だが、幾つか例外があり、
  その一つが購買の食糧争奪戦だ。
「リクエストは?」
「油もの以外」
  こいつは緑と違って油ものは平気だった気がするが、食いたくない日もあるかと思い保健室を出た。
  ここからは気力体力時の運、全ての勝負だ。

「いや大漁大漁」
  気合いで人混みを掻き分け手に入れた戦利品を軽快に揺らしながら教室へと向かう。
「おぅ今戻っ…」
  言いかけて、教室の空気がいつもと違うことに気が付いた。
  見えている光景はいつもと同じ。釜津と緑が喧嘩をして睨みあい、それを僕の双子の妹の雪が
  なだめている。普段と全く変わらない。
「どうした?」
  とりあえず近くの女子に聞いてみる。
「あ、後藤くん。それがねぇ…」
  その子が言い始める前に、教室に轟音が鳴った。緑も釜津も普段は温厚に見えて意外に
  沸点が低いので、昼休みの間は周囲が机を離している。そのお陰か、被害は無人の机と椅子が少々。
「まぁ落ち着け」
  いつもとは逆に、釜津が殴り飛ばされているのに少し驚きながらも僕は二人の間に立った。
「おお伸人、良いところに来た。ナイスタイミング」
  釜津が口の端から垂れた血を拭いながら立ち上がった。

「お前にしっかり言いたい事があったんだが、中々覚悟が決まらなくてな、昨日やっと決心が着いた」
  一方的に彼女は続ける。
「まず今までありがとうございました。そして、ごめんなさい。お前の優しさは嬉しかったが、
  お前本人が辛いのは私には荷が重すぎた。私は卑怯者だからな、逃げることしか選べなかった」
  続いて来るのは、軽く唇を重ねるだけのキス。それは、緑や雪にも続く。
「利き手ではないし、これでチャラにしてくれなんてムシが良すぎるが、勘弁してほしい」
  言うと、彼女はナイフを取り出して右手に突き立てた。
「これで、明日からは他人だ。あ、そのパンは緑にやってくれ。弁当をわざと溢してしまったからな」
  淡々と言いながら上着で腕をくるむと、釜津は教室を出ていく。僕達は呆然とそれを見ていた。

3 芹Side

 私は友達にせがまれて、再びダンクをした。予定よりは少し早いが大丈夫だろう。
  そして降りようとしたとき、なんたる幸運。うまい具合いに突風が吹いてくれた。
  勝機は我に有り、などと普段は伸人が言っているふざけた言葉が脳裏をよぎる。
  しかし、
「あ」
  予定以上にバランスを崩しすぎた。元々落下する予定だったとはいえ、流石に怖いものがある。
  だから今の風はありがたかったが、「うあァー」
  鈍音。
  予想以上に痛かった。
「…大丈夫?」
  雪が訊いてくるが気分的にノーコメント。黙って立ち上がると腹は立つが優しい緑の後ろに、
  伸人の面倒臭そうに立ち上がる姿が見えた。
  どうでも良さそうなのは、私を信用してくれているからだと思いたい。
  とりあえず伸人の近くに行こうとして、
「うあ」
  足に走る軽い痛み。
  また転んだ私の額を伸人が軽く叩いてくるが、目に浮かんでいるのは心配の色。
「キツいか?」
「いや全く」
  軽口で返すと伸人がしゃがんだまま背を向けた。
「乗れ」
  予定では肩を貸してもらうだけのつもりだったが、嬉しい誤算だった。

 さんざんセクハラをされつつ、治療後。
  どうでも良いが、本当はやはり緑のような巨乳が良いのだろうかと少し悩みながら教室に向かう。
  パンを買いに行ってくれている伸人が帰ってくるまで約十五分、その間に支度をしなければいけない。
  私が頭が悪いながらも、長い時間をかけて考えた作戦だ。
「さて、と」
  私はとりあえず着替に向かった。

 教室に戻ると緑と雪がいつも通りの並びで座っていた。
  弁当を開けていないのは伸人を待っているからだろう。
「あ、おかえり。あれ? 伸人ちゃんは?」
  烏龍茶を一口飲みながら雪が訊いてくる。
「悪いが、パンを買いに行ってもらってる。運が悪いことに、今日に限って朝って朝買うのを忘れた」
「うわぁ」
  緑が表現し辛い表情を浮かべた。
「厄日ねェ、足の事と言い。座るの辛いなら手ェ貸そうか?」
  いつもと違い優しい言葉を投げ掛けてくる緑にくじけそうになったが、ここで止める訳には行かない。
「大丈夫だ…っと」
  ごく自然に転んだが、当然わざと。私の体は緑の弁当を道連れに豪快にダイブ。
「あ、もう言わんこっちゃない」
「私のお弁当ォ」
「うあスマン」
  一瞬眉根を寄せ、しかし笑顔をすぐに浮かべると緑は私を椅子に座らせる。
「まァ良いよ。その代わり、大食いのあんたのパン少し貰うから」
  その言葉に、益々心が痛くなる。
「しかしねェ…」
「何だ?」
「運動馬鹿のせっちんが動けなくなったら只の馬鹿じゃん」
  前言撤回、そしてとうとう計画に乗ってきた。体育の時といい今といい、厄日?
  とんでもない、運が向いている。

 私は笑顔を浮かべ、
「あ、せっちん青筋」
「そのトイレみたいなあだ名は止めろ」
  表情をキープしたまま雪に注意をし、緑の顔を見る。
「只の馬鹿でも良いが、ファンクラブのある馬鹿に負けているのは誰だろうな? ヒントはデブだ」
「止めなって二人とも、毎日毎日。アンタらはタイヤキか?」
  私と緑は同時に雪を睨む。表情は勿論、二人共に笑顔だ。
「元気一杯が許容できるのは小学生だけだよ? 良い? 体型や頭の中身が小学生でも、
  人間界では実年齢重視の決まりなの。適応出来ないなら自然に帰る、雌犬ちゃん?」
「その程度解っているが、ありがとう。お礼に一つ良いことを教えよう。
  いくら体にメリ☆ハリ☆があっても、相手が居なかったら只の惨めな脂肪だぞ?
  一つ賢くなって人間にまた一歩近付いたな、雌豚さん」
「あら随分とよく鳴くワンちゃんね。この近くに保健所ってあったかな?」
「そっちこそ。人間様に偉そうな口を叩くな、この腐れ生ハム」
「な」
  表情を見て、緑の心が沸騰してきているのが分かる。
  いつもより口汚く罵った甲斐があったというものだ。これなら弁当を落とす必要もなかったかなと
  少し反省をする。だが雪にも、相手をしている緑にも悪いと思うが更に続けた。
「大体、伸人も何でこんな奴…」
「豚よりはマシなんだろう。だから…」
  私はニヤリと笑みを変えると、
「夜も私に独占されているんじゃないのか? お前は一生写真と道具を共にしろ」
  言いきると同時に、私は殴り飛ばされていた。

 しかも平手ではなくグーパンだった。だが、計画通りに来る痛みすら今の私には快い。
  この位じゃないと足りない位だ。そして悪役になると決めたときに必要だと決めたものは、大体揃った。
  唇の端に浮かぶ血を拳で拭いながら立ち上がり、視界に入るのは怒っても尚綺麗な緑の姿と、
  困っていても尚可愛い雪の顔だ。端にはきちんと伸人の姿も見える。
  そこからはシナリオ通り。最後は少し怖かったが、皆にキスした事と、
  伸人が去年誕生日プレゼントにくれたナイフのお陰でやり遂げる事が出来た。
「これで、やっと…」
  緑や伸人と対等、同じステージに立てる。私は晴れやかな気分で病院へ向かった。

4 緑Side

 気まずい雰囲気のまま私と雪、伸人は早退した。原因はあの娘、釜津・芹だ。
「何でさ…」
「うん?」
  伸人の家のリビング、そのテーブルの向かいから雪が声を返してきた。
  伸人は居ない、私と雪の二人きり。あいつが一人でふらふらと出かけるのはしょっちゅうだ。
「あんなこと、したんだろ」
「…どっちが?」
  数秒。
「私も、セッチンも」
  言ってからテーブルに突っ伏す。混乱した頭を冷やすような、木材の冷たさが快い。
  数秒。
「何でさ」
「うん?」
「こんなことになったんだろ?」
  チクタクと時計が音を刻む。
「あたしはセッチンじゃないから分かんないけどさ、一番悪いのは伸人ちゃんじゃない?
  次はアンタとセッチンが同率二位」
「どゆこと?」
  顔を上げて雪を見る。「推測だけどさ、伸人ちゃんがどっち付かずだから、
  それをチャラにするか進めるかする為だと思うんだ」
「うん」
「優しく甘く誰にでも公平な伸人ちゃんは、誰も傷付けたくないと自主的に宙ぶらりん。
  セッチンの中は、伸人ちゃんの腕のことを許せない自分と許してほしい自分が居る」

 雪は私を指差すと、
「そしてアンタは大好きな伸人ちゃんをいつも罵倒してるし、優しいくせに一年前のことで
  セッチンも罵倒する。ひねくれ者が三人も居て、どうすんの」
  言われて私は溜め息を吐いた。そのまま再び突っ伏して目を瞑り、浮かんでくるのは好きの人の顔だ。
「どうしましょう」
「あのね、一つ良いことを教えてあげる」
  雪は溜め息一つ。
「あたしが何で伸人ちゃんを名前で呼んでるか知ってる? しかも、他人のようにちゃん付けで」
  私は首を傾げ、雪は髪を掻き上げると、
「あたしの初恋は伸人ちゃんなの。大分昔に諦めようと思った、ここ一年で諦めきれた。
  まぁ今でもオカズに使ったりするけどね、要はその想いの名残」
  結構生々しい話を聞いてしまった。しかし、それがどう繋がるんだろうか?
「でね、私は所詮妹だから恋人になるのは無理だけと、アンタは可能でしょ?
  その事実と、幼馴染みの実績、そして自分の気持をしっかり考えて行動しなさい」

「具体的には?」
「甘えんな」
  一言で切り捨てられて、ここ数分で三度目の突っ伏しをする。
  アンタはあたしより頭良いんだから自分で考えろ、なんて声もするが気にしない。
「どうしましょう」
  小声で呟きながら、目を閉じる。今度暗闇の中に浮かんできたのは、小柄で華奢な体を持つ、
  長い髪が良く似合う少女。綺麗さと可愛さが同時存在する、鋭い表情の恋敵。
「憎いあん畜生」
  何と無く懐かしい言葉を言ってみる。
  そう言えば、夜の相手を独占というのはやはり性方面なのだろうか? 思考がぐちゃぐちゃになる。
「邪魔だなぁ」
  何気無く自分の口から漏れた声を聞きながら、意識が落ちて行くのを感じる。
  それにしても、私の声はこんなに冷たかっただろうか?

5

 あれから三時間、釜津は部屋に戻っているだろうか。入院は性格的にしていないだろうが強制的に、
  という事もある。しかし、まずは連絡と思って彼女の携帯にコーリング。
  数秒。
『どうした?』
「いや、お前がどうしただろ。 面倒いのは嫌だから簡潔に、今どこだ?」
『自分の家だが』
「そこを動くな、話がある」
『…携帯からじゃ駄目か?』
「駄目だ」
『…メールで住所を送る』
  数分後に送られてきた住所に訪れると、偉く高級そうな高層マンションだった。
「…何だこりゃ」
  外壁も中身も汚れ一つ無い純白、床なんか大理石だもの。弩ノーマルな家庭で産まれ育った
  ワタクシなんか、気後れしてしまいますのコトよ。
  ……。
  しまった、一瞬帰ろうとしてた。
  回れ右してエレベータへ。指定の階は十階、お金持ち万歳、資本主義万歳。降りたら廊下の突き当たり。
  ベル、応答なし。
  ノック、応答なし。
…………。
「出てこい!!」
  激しくドアを蹴ってみた。
「何をしているんだ?」
  振り向くと私服と相まって一際可愛い笑顔、ただし眉間に青筋。
「まぁ恐い」
「会話をしよう、な」
  元からそのつもりだ、僕は溜め息を吐くと彼女のジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
「な、おい止めろ。尻を…ふぁァッ」
  ジーンズは全て無し、胸のポケットは…
「何故目を反らす、そんなに貧乳が憐れか」
「馬鹿言うな、乳は直視せずに楽しむのが紳士のたしなみだ」
「帰れ変態紳士」
「帰らん。これからは真面目に、鍵どこだ?」
「開いてる」
  言いながら左手でドアを開けた。

 開く音と共に軽い音をたてたのは、手首にかかったコンビニ袋。
「リビングはそこ…何故深呼吸をしてるんだ?」
「いや、基本っぽく?」
  彼女は華の独り暮らし。
  彼女は首を傾げたままテーブルに袋を置くと、僕に投げてくるのはいつもの缶コーヒー。
  しかし、僕は受け取ると缶を開けて立ち上がり彼女に返す。
「奢りだぞ?」
「片手じゃ開けにくいだろ」
  僕も一年前には色々と苦労した。手が小さい彼女なら尚更だろう。突然片手が使えなくなる、
  その不便さは実体験でよく分かる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
  僕が適当にソファに座ると、彼女も僕の左に腰を下ろした。テーブルに灰皿があるのを確認する
と僕は煙草を取り出して火を点ける。
「で、何の話かは分かるな?」
「これか?」
  釜津は滅多に浮かべない薄笑いを浮かべて、右手を軽く上げた。
  既に止血はしてあるが、厚く巻かれた包帯が痛々しい。
「それだ」
「気にするな、全部私のせいだ」
  数分。
「僕は馬鹿だから巧く言えんが…」
「学年首席だろうに」
「茶茶を入れんな。今日ので色々と吹っ切れたか?」
「…あんまり」
「そうか」
  再び、数分。
「僕のことはもう気にするな、明日からは対等だ」
「……ありがとう」
  釜津は顔を上げると満面の笑みを見せた。

「それと…」
「何だ?」
  顔を赤くして急に向きを九十度、左に旋回。鈍感と言われている僕でも、これの意味は大体分かった。
  僕も体を右に回し、背中併せに座り込む。溜め息でハズレと言われた気がしたが気にしない、
  逆方向という選択肢は自分的に不可能だ。
「伸人」
「何だ?」
  目を閉じて、余計クリアに声が聞こえる。
「頼みが3つあるんだが良いだろうか?」
「どうぞ?」
「これからは名前で呼んでくれ」
「良いよ、芹。はい次どうぞ」
「明日、いつもの面子で遊びに行きたい。仲を持ってくれ」
「いつものことだろ、はい次どうぞ」
  数秒。
「……恋人になってくれ」
「…ごめん」
「緑か?」
  問いはすぐに来た。
「違う」
「雪か?」
「違う」
  数秒。
  僕は前もって用意していた答えを頭の中で反芻して吐息を一つ。
「僕はまだ自分で自分を一人前だと思えない。だから、僕が自信を持てるまで待っててくれ」
「私は気が短いぞ」
「分かってる」
「そうか、ありがとう」
  数分。
「そろそろ帰れ、皆が心配する」
  一年前のように、「私なんかと違い」と言わなくなった分ましなのだろうか、と思いながら立ち上がる。
「また明日な、伸人」
「オゥ。明日を楽しみにしてろよ、芹」
  僕は雪への言い訳を考えながら芹の家を後にした。

6

 芹の家から約30分、自宅に着いた僕を待っていたのはコメカミとレバーへの痛烈な打撃。
  言い訳の猶予を与えられず、無言でシチューを食わされた。
「で、どうだった?」
  17年も家族をやっていれば相手の考え程度は分かるらしい。
  僕が芹の所に行っていた事などは軽くお見通しらしく、吐息と共に訊いてきた。
「一年前の僕だ、問題しかない」
「重症な上に重傷ね。回復の見込みは?」
「心も体も笑えば癒える」
「そう、良かった」
  雪は安心したように笑うと手早く食器を片付ける。僕と言えばその後ろ姿を無意味に眺めて一服。
「携帯鳴ってるよ」
「おぅ」
  開いてみると緑から、『お話が有ります』と一言。いつもの冗長とも言える文章が無いシンプルな
  内容に少し不安を覚えたが、これから行く旨を返信。緑の家に行くことを軽く雪に伝え、そのまま玄関へ。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
  そしてドアを開けようとして、不意に走る鈍痛。いつもより強い痛みに暫く利き手を使うのを諦め、
  左手でドアを開けた。

 

 ノックノック
  少しして階段を降りる音、続いて玄関が開きまだ制服姿の緑が出てきた。
  さっきの階段の音もそうだが、今肩で息をしていることといい、少し落ち着きが足りない。
  そして何より、
「視線が怖いです」
「ウルサイ」
  こちらを睨むように見ているんですもの、逃げたくなりました。まぁ嘘だが。
「とりあえず私の部屋に来て」
「おぅ」
  昔から緑の部屋は物が多いが、雑多な感じはしない。適当に置いてあるようで、整理されていた。
「そこに座って」
  言いながら投げてきたクッションを下に敷き床に座る。位置的には緑と向かい合わせで、
  何故かお互い正座状態。
  無言。
  ………超気不味い。
「なぁ」
「な、何?」
「赤巻紙青巻紙黄巻紙、はいっ」
「嫌」
  更に気不味い!
「あのね」
「はいっ」
  思わず敬語。
「せっちんの事なんだけどシンプルにね」
「はい」
「セックスしたことある、せっちんと?」
  覚悟はしていた。なので頭の中身を真面目に切り替え高速思考、結果素直に話すという答えが出た。
「している。今でも、たまに」
「……そう」
  緑は一度目を伏せると、こちらを押し倒してきた。筋力では圧倒的に勝っている筈のこっちが
  押し倒されたのは、多分心の弱さ。
「そうなんだ」
  その言葉に続いて来るのは、初めての筈なのに舌を入れてくるキス。
  緑が唇を離すと吐息と共に、唾液の橋が出来上がる。
「こんなこともしてた?」
「してた。謝りはしない」
「謝ってよォ」
  緑から、再びキス。
「何のつもりだ」
  理由なんか、自分が一番分かっている。
「最低ェ」
  最低なことは、自分が一番解っている。
「このゴミ虫」
  そんなこと、自分が一番判っている。
  彼女を傷付けたのは、僕だ。

「でも」
  僕の胸に顔を埋め、緑は泣いていた。
「でもね」
  僕の肩に置かれていた手が握り込まれ、爪が皮膚に食い込む。鋭い痛みが走るが、
  敢えて受け入れることにした。
「好きなの」
  泣いている頭を感覚の無い手で撫でながら、僕は言葉の続きを待つ。
「好きなの」
「うん」
「ずっと、好きだったの」
「うん」
「昔から、好きだったの」
「うん」
  顔をあげて、こちらを見る。大粒の涙を流しながら顔を歪める表情を、しかし僕は綺麗だと思った。
「好きだったの、好きなの」
「うん」
「やっと、告白できた」
「おめでとう」
「えへへ」
  数分。
  突然、頭を撫でていた右手を取られ左胸の上に押し付けられた。しかし、感覚は無い。
「鼓動が激しくなってんの分かる?」
「分かる」
「本当に?」
「すまん」
  笑顔だった表情が急に消え、緑の目つきが険しいものへと変わった。
  しまった、ここは嘘を突き通すべきだったか。
「あの泥棒猫」
「芹は悪くない」
  不味い、目つきがどんどん険しくなっていく。
「呼び方、変わったね。そんなにあの娘が大事なの?」
「違う」
  表情が、再び泣き顔へと変わっていく。
「私じゃあ、駄目なの?」
「お前はお前だ」
  こちらからキスをすると、緑は無理に笑顔を作る。その痛々しさが、とても可愛い。
「ありがとう」
  そしてその夜、僕は緑を初めて抱いた。

7

 学校に居る間、何も起こらなかった。昨日の出来事がまるで無かったかのように、
  釜津と緑は小競り合っていたし、飯も普通に食えた。
  とにかく、不自然な位にいつも通りだった。
  しかし、それは間違いだった。いくら僕にとって普通の光景でも、ドンパチの片方は
  この学校最強の暴君で、緑も緑でその暴君にサシで張り合える数少ない人間なのだった。

 所変わってここは放課後のカラオケ、その一室で、今は切り込み隊長として芹と緑が歌っている。
  しかも、よりにもよって芹の得意な曲『ピエールとカトリーヌ』だった。
「上手いんだがなぁ」
  何だろう、この感情は。素直に誉めることが出来ない。昨夜に緑を抱いた事を、
  嫌が応でも思い出してしまう。
「どうだった?」
  訊きながら、緑が僕の右隣に腰を下ろす。いつもの流れで芹はその反対、僕の左隣へ。しかも、
  それ程狭いソファでもないのに何だろうこの圧迫感は?
「おい、伸人が眉をしかめているだろう。離れろこの雌豚」
「そっちこそ、伸人にかわいそうな病気が伝染るから離れたら?」
  相も変わらないいつもの口論、しかし不自然すぎる。緑の表情が、いつもと違う。
  緑は嗜虐的に目を細めると、やけに冷たい声で、
「この泥棒猫」
  嫌な予感が、的中した。

 中学時代に何度か聞いた、鉄の声。僕に依存して、僕以外の全ての人間、それが例えば僕の妹の雪や
  彼女自信の母にまで嫉妬と敵意を見せていた時の声。
  そして、誰も勝った事の無い策士の声だ。
「ほう、泥棒猫。随分と面白い事を言うな。まるで、伸人がお前の所有物のようだ」
  乗ったらいけない、と思うが僕が声を出す前に芹が更に口を開く。
「口を出される筋合いは無い。確かにお前が幼馴染みだというのは事実だが、お前の所有物ではない
  だろう」
「確かにね」
  言葉と共に、緑は笑みを浮かべた。
  不味い。
  この表情は、策士の装備が整った顔だ。
  それはつまり、この関係と相手を倒す方法が揃ったと言う顔。
「幼馴染みが必ず結婚する訳じゃないし、その後に普通恋愛も有るだろう?
  だから、緑に口を出される筋合いは無い」
  芹の言葉を聞いて、緑は更に笑みを強くした。はっきり言って、恐ろしい。
「そうよね、正にその通り」
「なら…」
「だから、セックスの回数や順番も適用出来ないわよね」
  僕はその冷たすぎる声に愕然とした。昔の声どころじゃない、それ以上だ。
「それに、あなたとのセックスは両者の愛情で行われたものじゃない」
「それなら」
  芹が怒りを溜めて緑を睨みつけるが、当の本人は涼しい笑顔のままだ。
「互角なのよ、ここからが始まり」
  そう、これが策士の戦い方。強制的に自分の場に引きずり込み、自分の位置と同じに立たせ、
  相手の武器を封じ込める。

 今回の場合、身体能力だと芹との差は火を見るより明らかだが、それが一切関わらない。
  そして一番えげつないのは、
「それにセックスなら昨日の夜、私もしたから色仕掛けも無駄よ」
  相手の武器を潰し、自分の武器を作るためには依存の相手である僕すらも利用することだ。
  最悪だ。
  しかし、今回ばかりは僕の仕切りだ。本当にこの関係は心地良いから、崩したくない。
「待てよ、緑も芹も」
  場の勝負で関係が壊れるなら、場の存在なんて不要だ。
「争うよりも、笑おうぜ。今日は過去を水に流すお祝いだ」
  勝負なんてそもそも必要無い。
「これからも、僕の前では争うな」
  その為に、僕は悪役にだってなってやる。
  策士を転がして、暴君を叩き潰して、踊りきるのが悪役だ。
  憎まれてなんぼならいくらでも憎まれるし、死んで済むなら死んでやる。
「まずは楽しく歌わなきゃ」
  僕は静かに決意した。

8 雪Side

 学校に居る間、何も起こらなかった。昨日の出来事がまるで無かったかのように、
  せっちんと緑は小競り合っていたし、ごはんも普通に食べていた。
  とにかく、不自然な位にいつも通りだった。
  でも、伸人ちゃんと違って私は見逃していない。
  なにしろ、たきつけたのはアタシだ。その本人が気付かないなんて、お笑い草にも程がある。
  長年連れあった同性だからというのもあるだろう。
  私ははっきり確信した。
  緑の目が、昔と同じになっている。

 

 ここは放課後のカラオケ。頼まれたのか自発的なのか、伸人ちゃんの提案でいつものメンバーでの
  寄り道。今せっちんと緑が歌っているのは、せっちんの得意な曲『ピエールとカトリーヌ』だ。
「上手いんだがなぁ」
  伸人ちゃんとは違う意味でだが、感想は同じだ。下品なこの歌詞はとても嫌いだ。
「どうだった?」
  訊きながら、緑が伸人ちゃんの右隣に腰を下ろす。いつもの流れでせっちんはその反対、
  伸人ちゃんの左隣へ。しかも、それ程狭いソファでもないのに伸人ちゃんを中心に詰めている。
「おい、伸人が眉をしかめているだろう。離れろこの雌豚」
「そっちこそ、伸人にかわいそうな病気が伝染るから離れたら?」
  相も変わらないいつもの口論、しかし不自然すぎる。緑の表情が、いつもと違う。
  あたしが望んだ展開に、心が弾む。
  緑は嗜虐的に目を細めると、やけに冷たい声で、
「この泥棒猫」
  思わず、叫びそうになった。
  中学時代に何度か聞いた、鉄の声。伸人ちゃんに依存して、伸人ちゃん以外の全ての人間、
  それが例えば親友のあたしや、彼女自信の母にまで嫉妬と敵意を見せていた時の声。
  そして、狂いに狂った策士の声だ。
「ほう、泥棒猫。随分と面白い事を言うな。まるで、伸人がお前の所有物のようだ」
  乗せられたように、せっちんは喋り始めた。
  その言葉一つ一つがあたしの心を弾ませる。
「口を出される筋合いは無い。確かにお前が幼馴染みだというのは事実だが、お前の所有物
  ではないだろう」
「確かにね」
  言葉と共に、緑は笑みを浮かべた。
  たまらない。
  この表情は、策士の装備が整った顔だ。
  それはつまり、この関係と相手を倒す方法が揃ったと言う顔。
  祭りの始まりの最後の狼煙。

「幼馴染みが必ず結婚する訳じゃないし、その後に普通恋愛も有るだろう? だから、緑に口を出される
  筋合いは無い」
  芹の言葉を聞いて、緑は更に笑みを強くした。
「そうよね、正にその通り」
「なら…」
「だから、セックスの回数や順番も適用出来ないわよね」
  あたしはその冷たすぎる声に驚喜した。昔の声どころじゃない、それ以上だ。
「それに、あなたとのセックスは両者の愛情で行われたものじゃない」
「それなら」
  せっちんが怒りを溜めて緑を睨みつけるが、当の本人は涼しい笑顔のままだ。
「互角なのよ、ここからが始まり」
  二年前とは比べ物にならない程の愉悦が心の中に溢れてくる。
「それにセックスなら昨日の夜、私もしたから色仕掛けも無駄よ」
  最高だ。
  最高だ最高だ最高だ。
「待てよ、緑も芹も」 伸人ちゃんが二人の勝負に口を挟む。
「争うよりも、笑おうぜ。今日は過去を水に流すお祝いだ」
  当然だろう。
「これからも、僕の前では争うな」
  伸人ちゃんが完璧なのは完全主義者だからではない。
  二年前の出来事を忘れるため、勉強とスポーツに逃げ続け、八方美人を貫き続けた結果の副産物だ。

 

 しかし、あたしは繰り返しを望む。
  伸人ちゃんは緑が一度も負けたことのない策士だと思っているが、それは大間違いだ。
  緑は二年前に一度だけ負け、しかしその事実が知られる前に勝者は死んだ。とても下らない理由、
  女の嫉妬だ。
  誰にも知られずあたしが殺した。
  それがスイッチになってたように緑は策士を辞めたし、伸人ちゃんは少し壊れた。
  大した量では無いものの、直せないように狂っていった。
  この時点で、あたしの目標は決まった。
  妹、という理由で勝負の場にすら上れなかったあたしは、だからこそ漁夫の利の資格を手に入れた。
  憐れな道化で構わない。
  自身の恋愛沙汰には関わらず、他人の実りを噛み砕き、壊れていく伸人ちゃんの側でただ一人夢想を
  続ける。
  なんて甘美な世界だろう。
  しかし、壊れるのはまだ早すぎる。
「まずは楽しく歌わなきゃ」
  あたしは場を取り持つように言うと、計画を練り始めた。

9

 目覚まし時計の高い電子音と共に目が覚めた。今日は土曜日、だからと言って特に遅く起きる訳でもない。
  朝が極端に弱い僕は鈍った思考で階段を降りる。顔を洗いリビングに行くと、既に朝食を食べていた
  雪に目が行った。
「おはよ」
  挨拶に頷きのようなもので曖昧に返すと、テーブルに着く。渡されたトーストをかじり、珈琲で一息。
「今日の予定は?」
  少し考え、
「ない」
「なら、せっちんの所に行ってあげれば? 独り暮らしだし、片手使えないの大変でしょ?」
「うん」
  何だか可哀想な子のような返事で返すと、僕たちは再び朝食を食べ始めた。

 歯を磨き、煙草を一本吸うと大分頭が冴えてきた。普段着に着替えると、僕は芹の家へと向かう。

 

 ノック。今回は穏便にドアを開けてもらおうと思う。前回は少し手荒にしたせいで、
  しこたま殴られたからだ。
  数分。
  やはり少し激しい方が良いかと思い、片足を上げた瞬間、ドアが開いた。
「はい、どちらさまで…おはよう伸人。何故片足を上げてるんだ?」
  超寝起きだった。
  髪の毛とか服の皺とかがかなり酷い状態になっていた。表情も、いつもの鋭さが欠片も無い。
  こんなの僕の芹じゃない!!
「寝起きだな」
  僕が呟くと、芹は顔を真っ赤にしてドアを閉める。
「五分…いや三分待ってくれ」
  三分後。
「おはよう伸人、どうしたこんな朝っぱらから。まぁ上がれ」
  余裕の表情でいつもの芹がそこに居た。どうやら、さっきの事は無かった事にするらしい。
  それでこそ、『暴君』釜津・芹だ。
  僕は芹に続いてリビングに入る。座るのは、いつもの豪華なソファ、家にも一台欲しい逸品だ。
「珈琲で良いか?」
「僕がやる」
「…ありがとう、こんな作業も大変でな」
  立ち上がり、芹と入れ替わりにキッチンへ。珈琲メイカーをセットすると、芹の向かいに座った。
  芹は薄笑いを浮かべて、
「一人で来て良かったのか? どこぞの女におっかない目で見られたり…」
  獲物を見付けた爬虫類のように、舌舐め擦りをして前に体を乗り出し、
「襲われるかもしれんぞ?」
「今の僕にその手の話は通じない。冗句ならよそをあたれ」
  芹は溜息を一つ。
「で、どうした? 告白の返事にでも来たのか?」
「そうじゃない。いや、そうと言えばそは煙草を大きく吸った。肺に煙が溜っていくと同時に、
  思考がシャープになっていくのが分かる。
  煙を一気に吐き出し、
「僕はこの前までの状態が一番好きだ。だから、それを崩したくない。悪いとは思っているし、
  何を言われても構わん」

 

 僕は喋るのを一旦止め、芹を見た。
  芹本人は否定するが、こいつだって馬鹿じゃない。むしろ良い方だ。どんな言葉が出てくるかと
  思ったら、無言だった。
「代わりに、ある程度の要求には答えよう。只で事を済まそうなんてムシの良い話は僕も嫌いだ」
  芹は少し考えていたようだが、ある程度まとまったらしく顔を上げると薄い笑みを浮かべた。
「良いだろう、いつも通りに過ごしてやる。ただし、その日常に私とのセックスが入っていた事や、
  ほぼ毎日二人で話をしたことも入っているんだよな?」
  この程度なら予想済みだ、答えも当然用意してある。
  僕は軽く笑みを作ると、
「僕はいつもの、と言った筈だが? それも当然だ」
「そうか。なら私からの要求は只一つ、私が伸人を好きだと言う事実を片時も忘れるな」
「交渉成立だな」
  丁度珈琲が出来上がったらしく、僕はマグカップ二つに珈琲を注いでテーブルへと置く。
「芹、忘れるな。お前が少しでも緑と昨日みたいな事したり、色恋沙汰を口に出したら絶縁するぞ」
「分かっている。そっちも契約は守れよ」
  互いに言い合い珈琲を飲む。
  これで取り合えず、一時凌ぎだろうが日常と時間を手に入れた。
  次はいよいよ策士の相手だ。

 次はいよいよ策士の相手だ。
  そう僕が考えていると、芹が思い出したように僕の顔を見た。
「そうだ伸人、これから買い物に付き合ってくれ」
「…何でだよ」
「片手が使えなくて不便なんだ」
  そう言えばすっかり忘れていたが、今日来た本来の目的は芹の補助だった気がする。
「それに…」
  芹は少し間を置き、
「『友達』だろう?」
  残酷な笑みを浮かべた。

10

 芹との買い物を終え、部屋に戻ると先客が居た。ニヤニヤと笑っていた雪が僕を見ていた時点で
  予想はしていたが、いざ会うと気後れがする。
「おかえり、伸人。せっちんとのお出掛け、楽しかった?」
  緑が冷たい声で、しかし表情は楽しそうだという矛盾を孕んで笑いかけてくる。
  一緒に出掛けた、というのは朝一で芹の所に行ったのを雪に聞いたからなのだろう。
  そして帰りがこの時間なら推測は簡単だ。
  監視をしている訳じゃない、と自分に言い聞かせる。
「いきなりご挨拶だな」
「それよりも、まずはただいま、でしょ?」
「はい、ただいま」
  その一言で緑は笑みを強めた。
「で、何か用か?」
  緑はクスクスと笑いながら、
「用があるのはそっちじゃないの?」
「質問を質問で返すな」
  僕は警戒と苛立ちの混ざった声で言った。相手のペースに巻き込まれている、と自覚するが警戒心は
  どうしても取れない。
「怖い怖い、そうね。じゃあ私から」
  怖いのはこっちだ。一挙一動に何か裏があると思ってしまう。
「伸人が何か話があると思ったから来たの。無いなら帰るよ」
「待てよ」
  これもきっと作戦だ。相手の準備が整う前に奇襲を仕掛ける、緑の常闘手段。
「まわりくどいことは嫌いだから簡単に。今から交渉開始だ」
  一瞬。呆気に取られた表情をしたが、すぐに元に戻すと、
「良いわよ」
  こっちに乗ってきた。

 

「そっちの要求、と言えばこれまで通りにしろ、ってのとせっちんと争うな。
  あと、攻撃の全面停止と伸人の行動の黙認ってところ?」
  鋭い。
  それに、先に言うことで話術による膨らみの禁止をする。日本語の醍醐味である曖昧表現の停止を
  強制的に行ってくる。
  僕は煙草に火を点けると、緑を見た。僕なりのささやかな抵抗だ。
「煙草、止めた方が良いよ? 百害有って一利無し。煙草止めま響かず。
  打たないと響く。
「それよりも、要求はこんなもので良いの?」
  こんなもの、と言われた。緑にとっては些細な問題なのだろう。
  しかし、今のところこれ以上の要求は無い。むしろ、緑が自分で自分の首を絞めているようにさえ思える。
「…そんなところだ。そっちの要求は?」
  だが、言ってから後悔した。
  相手がこっちの要求を複数言うということは、相手も複数だということだ。
  だとすると、相手の要求は、
「こっちからも四つ」
  頭に浮かんでくるのは、激しい後悔。
  相手の言葉に肯定をしたからこれ以上の要求は出せないし、相手も同じ数なのでそれに対抗して
  増やすことも出来ない。
  しかも、逆に言えばこれ以上の要求をすると、相手の手札も増えることになる。

「一つ目、毎朝私にキスをする」
  いきなり辛い問題が出てきたが、一回肯定したら覆すことなど出来はしない。したら余計に泥沼だ。
「二つ目は、毎晩私とセックス」
  反論出来ない強い声で緑は続ける。
「三つ目、私が伸人を好きだという事を片時も忘れないで」
  芹にも言われた言葉だ。常に相手が意識の中に居るということは必要以上に意識をさせられる。
  今日の買い物で、それは嫌という程実感させられた。
「四つ目」
  緑は笑みを強くして、
「二年前、あの娘に関わった人。私、雪、伸人ちゃん、そしてあの娘。皆を許してあげて」
  心に冷たい痛みが走った。
  何故今ここでその事を言う。
  昨日カラオケで緑が互角と言ったが大嘘だ。芹以外の皆が知っている僕の初恋の記憶、それが一番の手札。
  忘れて良いのだろうか?
  許して良いという緑からの甘い誘いに、僕は言葉を失った。
  ただ、無言で頷く。
「契約は成立ね。そっちが守る限り、私もけして破らない。セックスは、今日は疲れているみたいだから
  勘弁してあげる」
  そう言うと、緑は部屋を出ていった。
  『悪役VS策士』は、僕の、完敗だった。

2006/05/16 To be continued...

 

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