嫌だ。円香さんの方には行きたくない。
写真以外で二人のツーショットを見たくない。
しかし、その場を動こうとしないわたしをお兄ちゃんはなかば無理矢理引きずっていった。
ゆっくりと一歩づつ、前に歩を進める。
一歩一歩が果てしなく長く、そして重く感じられる。絞首台に登る死刑囚はきっとこんな気分なのだろう。
しかし、わたしに死刑の瞬間が訪れることはなかった。
一向に立ち止まる気配のないお兄ちゃん、それどころか円香さんを見ていない。
そして、まるで路上の石を通りすぎるように、そのまま円香さんの横を通り過ぎた。
……え?
驚いて後ろを振り返るとうつむいたままキリキリと唇を噛む円香さんの姿が見えた。
どういうこと?
わたしはグルグル回る頭で必死に状況を整理しようとした。
お兄ちゃんは円香さんと付き合っているんじゃないの?
何で円香さんを無視するの?
いくら考えても整理されない思考を投げ出し、わたしは無言の疑問をお兄ちゃんに投げ掛けた。
"どうした?"
わたしの視線に気付いたお兄ちゃんが話しかけてくる。
"さっきの人……"
"病院の前にいた女の子のこと?茜の友達なのか?"
……えっ?
何言ってるの?円香さんはお兄ちゃんの恋人でしょ?
お兄ちゃんはわたしをからかっているのだろうか。
しかし、お兄ちゃんの態度から察するに到底お兄ちゃんと円香さんが付き合っているとは思えない。
でも円香さんはお兄ちゃんと付き合っていると言っていた。
病院の待合室で話したお兄ちゃんの部屋から消えた写真。
円香さんがわたしに見せたお兄ちゃんと円香さんの寄り添う写真。
円香さんに関するいろいろな情報が頭の中でグルグル回る。
それらはひとつひとつが重なり合わないパズルのピースのように思えた。
しかし意外なところでそのピースは線で繋がった。
翌日、まだ少し熱はあったがわたしは無理をして学校に行くことにした。
お兄ちゃんは休めと言っていたけど、三日連続でお兄ちゃんを休ませるわけにはいかない。
何より一度円香さんの様子を確認しておきたかった。
そして、一言伝えたい。
今までわたしを騙してくれたお礼をね。
わたしは少しふらつく足で、お兄ちゃんに支えられながら校門をくぐり抜ける。
恐らく、円香さんはどこかでお兄ちゃんを見ている筈だ。
少なくとも、わたしが円香さんの立場ならそうしてる。
キョロキョロと円香さんの姿を探す。
……いた。やっぱりわたしの思った通りだ。
ふふふ、円香さんはもうここにはこれない。公平に考えても、わたしと円香さんではわたしが有利だ。
わたしには積み重ねてきた年月がある。いきなり出てきた円香さんに負けるはずがない。
ギュッとお兄ちゃんの強くしがみつく、円香さんに見せつけるように。
どう?うらやましいでしょ?
円香さんは風邪をひいてもこんな事できないんだよ?
円香さんはすごく恐い顔でわたしを睨んでいる。
う〜怖い。まるで鬼みたい。
わたしは余裕の笑みを浮かべて、円香さんに向けてゆっくりと手を動かした。
"ストーカー"
その後の生活はわたしが期待したほど大きな変化はなかった。
強いて言えば円香さんをあれっきり見なくなった事くらいか。
ストーカーは自分の姿を認識すると出来なくなるらしい。
それでも、初めは円香さんが何かしでかすんじゃないかと心配だったけど、
後さたない事を考えると円香さんはお兄ちゃんを諦めたのだろう。
わたしとお兄ちゃんとの間にもごく小さな変化があった。
お兄ちゃんの帰りの送りがなくなったのだ。
お兄ちゃんにとっては最後の大会だし悔いは残してほしくなったからわたしから断わった。
そして何より、少しでもお兄ちゃんにイイところを見せたかったから。
ひとまず、わたしは"いい妹"を演じなければならない。
そこからでも、遅くはない。わたしには誰よりもお兄ちゃんの近いところにいれるんだから。
ほとんど人影のない教室から空を眺めた。
どんよりと曇った空は今にも泣き出しそうだった。
早く帰った方がいいかも、一応傘はあるけど濡れるのはやだし。
なんとかふんばっていた空も、わたしが電車に揺られている間に雨が降りだしていた。
わたしは鞄から取り出した折り畳み傘を広げ、できるだけ体を濡らさないように、注意して歩き出した。
閑静な住宅街を抜けた先の大きな橋。
わたしの街はこの橋が境目になっている。
この橋を渡ると近代的な街並みがいっきに田舎っぽくなるのだ。
その橋は空と海の間の静かにあいた世界のように幻想的な雰囲気をかもしだしている。
わたしはこの橋に魅せられているのかもしれない。
もうすぐ橋を渡り終わるって所まできたころ、雨の向こうに人影が見えた。
どこか様子が変だ。
こんな土砂降りの雨の中で傘をさしていない。
少し嫌な予感がしたが、家に帰るためにはこの橋を渡らなくてはならない。
わたしは覚悟をきめ、不安のため高鳴る鼓動と共に前に進んでいく。
ゆっくりとぼやけた人影がはっきりとしてくる。
わたしと同じ制服。
長い間雨にうたれていたのだろうか、その制服はピタリと体に張り付いていた。
少しうつむいた顔には長い髪がかかり、よく顔が見えない。
そして……右手に何か持ってる。
それが何か分かった時、わたしはかな縛りにあったように動けなくなってしまった。
額には雨以外の冷たい雫が浮かんでいた。
右手に妖しく光るそれは……刃物だ。
何あれ?何であんなのがいるの?
わたしが恐怖のあまりその場から動けなくなると、うつむいていた影がわたしに向かって
ゆっくりと顔をあげた。
鬼のような表情とほとばしる殺気。その殺気が全てわたしに向けられていた。
しかし、それは見覚えのある顔だった。
鬼のような険しい表情を浮かべながらも、崩れていない上品に整った顔立ち。
そして雨に濡れてはいるが長くしなやかな髪。
まどか……さん?
間違いない。あれは円香さんだ。
円香さんは相変わらずの殺気をわたしに向けたまま、顔には笑みさえ浮かべて、
ゆっくりとわたしに近付いてきた。
逃げなきゃ。今の円香さんは普通じゃない。逃げなきゃ……殺される!!
しかし、わたしが逃げようと思えば思うほど足が鉛のようになっていきうまく動かない。
もう、いつのまにか円香さんとの距離は5mもない。
そこまできて、ようやくわたしの足が動いた。
しかし、頭からの命令は神経がシャットダウンしているから足に届いていない。
今は頭が強制的に足を動かしている状態……。
だから、足があまり早く動いてくれなかった。
お願い。わたしの体でしょ動いてよ!!
もつれる足を強制的に早く動かそうとしたため、足が交わりわたしはその場に転んでしまった。
すぐ後ろからは、最高の笑みを浮かべた円香さんが近付いてきていた。 |