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もし、神様がいるのなら……。

本編
外伝 『星を見てれば』


11

パッチリと目が覚め、視線の先に見慣れた天井が写る。
どうやら、いつの間にか眠ってしまったみたいだ。

……何か悪い夢を見ていた気がする。 理由は特にない、ただなんとなく。
ひとまず悪夢から解放されたのだ。
目が覚めてよかったと思う、だけど、すぐに目が覚めなければよかったとも思う。
ここもまた悪夢のつづきだから………。

 

 

布団がずいぶんと湿っている。
大分うなされて汗をかいたみたい、それに喉もカラカラだ。
わたしは時計を確認すると、ベッドから起き上がり、何か飲み物を求め台所へ向かった。

階段を下りている途中、居間から光がもれているのに気付く。
現在午前二時、こんな時間に誰だろう?

わたしは静かに居間へ近付き、わずかなドアの隙間から中の様子をのぞきこむ。

あっ……………。

中ではお兄ちゃんが真剣な表情でTVを見ていた。

……そうか、今日はサッカーがあったんだっけ。

現在ヨーロッパではヨーロッパ最高のチームを決めるチャンピオンズリーグが開かれている。
スカパーのない我が家では地上波で見れる数少ない世界トップレベルのサッカー。

 

ところで、わたしはサッカーをよく見る方だ。少なくとも年40試合は見ている(お兄ちゃんの試合も含めて)。
だけど、サッカーを詳しく知っているかと聞かれたら、答えはノーだ。

理由は主に二つ。
まず一つ目の理由はわたしの耳。音のない世界に生きるわたしにとっては、
試合中に得られる情報が極めて少ないのだ。
そのため、解説を聞けないので今のプレーがいいプレーなのか、
それとも悪いプレーなのかも分からないし、メンバーも最初に字幕で現れるが、実況が聞こえないので、
試合中誰がどこにいるかも分からない。頼りのお兄ちゃんもだいたい試合に熱中してしまい、
わたしにかまってくれない。

二つ目の理由(実は十中八九こっちの理由なのだが)はソファーだ。
今もお兄ちゃんはお気に入りのソファーに座りサッカーを見ている。
あのソファーは生前お父さんが買ってきた物で、曰く二人用なのだそうだが、
実際のサイズは一人で座るには広く、二人で座るには狭いと何とも微妙だ。
お兄ちゃんとわたしは子供の頃からよくあのソファーに座りながらサッカーを見ていた。
高校生になった今でもそれは変わっていない。ただ、わたし達の体が大きくなるにつれ、
肩を寄せあうようになっていった。
サッカー観戦中、お兄ちゃんがすぐそばにいる。そのため、どうしてもサッカーに集中出来ないのだ。
いつもは見せない真剣な表情に、わたしの心臓はいつも高鳴る。
気付くと、わたしはお兄ちゃんの事ばかり見ていた。

 

今すぐ、あそこに行きたい。
お兄ちゃんを独占したい。
だけど、もうあの場所に行くことは出来ない。
お兄ちゃんには恋人がいるから。
唇をかみ、必死で欲望を抑える。

なぜか自分がひどく惨めな存在に思えた。

 

……もう、お兄ちゃんの事は諦めよう。

だから、せめて今だけはこのままお兄ちゃんを見させて。

わたしの頬に一筋の涙が流れた。

12

喉をやられた。

夜、わたしはお兄ちゃんに見とれてしまったため、喉を潤すという本来の目的を忘れてしまった。
そのためか、最近の乾燥した空気はわたしの喉をおかしくした。

 

妙な気だるさまで感じたる。
どうやら、喉だけではなく、高熱までだしてしまったらしい。

風邪、ひいちゃった。

……この体調じゃ学校は無理か。
とりあえず、この事をお兄ちゃんかお母さんに知らせなくちゃ。
時計で時間を確に……時計、止まってる。わたしは携帯で時間を調べた。
今は朝の七時。この時間なら二人とも起きているだろう。
ひとまず、どちらかに学校を休む事を伝えようと立ち上がりかけたがすぐに考え直した。
気だるさもひとつの理由だか、それ以上にお兄ちゃんと顔をあわせたくなかったから……。

じゃあ、どうやって伝えようか。
わたしは少し考えた後、ベッドの脇のメモ帳から一枚紙をちぎり、
簡単な用件だけを書き部屋のドアの前に置いておいた。

これで、大丈夫。
わたしはふらふらとベッドに戻ると、再び目を閉じる。深い闇がわたしを侵していった。

 

 

オレンジ色の光があたりを包んでいる。
もう、夕方なのだろうか。
熱のためか、いまいちはっきりしない頭で状況を確認していく。
ふと、おでこと後頭部に冷たくて少し気持ちいいモノを感じる。

何だろ?

この問いは少しずつ覚醒しだした頭が正解を教えてくれた。

いつの間にか、わたしのおでこの上には湿ったタオルが乗せてあり、枕は氷枕に変わっていたのだ。
そして、ベッドの脇にはわたしがすぐに水分をとれるようにポカリが置いてあった。

今が夕方だとすると、恐らく全てお兄ちゃんがやってくれたのだろう。

 

やっぱりお兄ちゃんは優しいな。
わたしの胸に感謝の念が沸き上がってくる。
しかし、それ以上に円香さんに対する悔しさも沸き上がってくる。

お兄ちゃんはわたしを女の子として見てくれていない。
それは、お兄ちゃんに円香さんという恋人がいることで証明された。

これからは、わたしにだけ向けられていた優しさが少しずつ円香さんに流れていくのだろうか。

……嫌っ。考えただけでもゾッとする。

そんな事は許されない。
わたしのわがまま?違う。
そもそも全てお兄ちゃんが悪いのだ。
妹としてしか見ていないくせに、わたしに勘違いさせるようなそぶりを見せたお兄ちゃんが……。

 

ねぇ、お兄ちゃんは知ってる?
アフリカで飢餓に苦しむ子供に絶対にあげてはいけないもの。

それはね、ジュースなんだよ?

飢餓に苦しむ子供がジュースを飲むとその味を忘れられなくなるの。
だから、一度ジュースの味を覚えたらもう濾過水では満足できなくなる。
やがて、その子供はジュース飲みたさに犯罪を犯すようになってしまう。
だからね、もし子供にジュースをあげてしまったらその責任を取らなくちゃいけないんだよ?

お兄ちゃんはわたしに濃くてあま〜いジュースを沢山くれたよね?
だから、わたしもう濾過水では……ううん、薄いジュースでも満足できないの。
あの、濃くてあま〜いジュースじゃないと……。

だからお兄ちゃん?
責任、取ってね?

13

翌日、わたしの体温は39度を超えるほどにまで上がっていた。
あまりの高熱にお兄ちゃんがわたしの看病をすることになり、今、学校に電話をかけている。
本来なら、お母さんが家に残るところだが、仕事の関係上どうしても休めないらしい。

……でも、これでよかった。
お兄ちゃんをひとり占め出来るから……。

 

 

ボンヤリと見慣れた天井が浮かび上がってくる。
薬のおかげでずいぶんと長い時間眠っていたみたい。
恐らく、もう深夜だろう。
熱はお兄ちゃんの看病のおかげか大分下がった。
この調子なら、明日は無理でも明後日には学校に行けるようになるだろう。

 

ふふふ、それにしても今日は最高の一日だったなぁ。
今日の出来事を思い出すだけで、顔がついニヤついてしまう。
お兄ちゃんが、学校のヒーローであるお兄ちゃんがわたしのためだけに動いてくれた。
病院まで支えてもらったり、おかゆを食べさせてもらったり、わたしが寝るまで手を握ってもらったり……。
お兄ちゃんはわたしに、風邪のおかげの特別に濃くて甘いジュースを与えてくれたのだ。

 

こんな日が毎日続いて欲しい、毎日このジュースが飲みたい………。
しかし熱が下がり、少し冷静になった頭はその可能性を否定する。

無理……。もう熱は下がっちゃった。
今日のことは、わたしがひどい熱をだしてたから。
それに、きっとお兄ちゃんは明日学校へ行ってしまう。

 

そしたら、円香さんはわたしがいないのをいいことにお兄ちゃんと……?
最悪の夢想が頭をかすめる。

 

嫌っ!!!
そんなの、駄目……だよ。

どうしようどうしようどうしようどうしよう?
わたしはほとんど泣きそうになりながら答えを探した。

 

答えはとても簡単だった。

わたしは携帯で時間を確認し、ふらつく足でお風呂場へと向かっていった。

熱が下がったならまた上げればいい。

脱衣所で服を脱ぎ、お風呂場に入る。
お風呂場はまだ前に入った人の熱気が残っていた。
しかし、今はこの熱気も邪魔なだけだ。

わたしはシャワーを冷水に設定し、蛇口を回した。
勢いよく冷たい水がわたしにふりかかる。

わたしは、念入りに冷水シャワーを浴びた。
それこそ、足の先から髪の毛一本まで……。

はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
息が白くなってきた。

そ、そろそろいいかな。

わたしは十分ほどシャワーを浴びた後、静かに脱衣所に引き返す。
お風呂場にさっきの熱気は全く残っていなかった。

 

頭がわれそうに痛い。
裸のままふと鏡を見ると、顔面蒼白のわたしが写っていた。
その顔色からは明らかに正常な状態でないことが読み取れる。

ひとまずこれでよし、と。

わたしは体をタオルで軽くふき、自分の部屋へと戻っていった。

部屋までの距離が果てしなく長く感じる。
それでも、頑張ってなんとか部屋までたどり着き、自分の布団にもぐり込んだ。

わたしは布団のなかで、確実に風邪が悪化するのを感じる。

ふふふ、これで、きっとまたお兄ちゃんが……。

わたしは意識を失った。
意識を失う寸前、なぜか悲しそうなお兄ちゃんの顔が頭にうかんだような気がした。

14

いつも通り、ひとりの朝食。
両親はいない。父の単身赴任に母がついていってしまった。

両親は私を愛していない。
だからこそ、聾唖の娘ひとり残して行けるのだろう。
でも、ひとりの方が気が楽。
あいつらがいると空気が重くなるだけだから……。

 

何故両親は私を愛してくれないのか?
それはきっと私が人形にならなかったからだろう。
両親よりいい大学を卒業させ、両親よりいい会社に就職させる。
二人はそんな私の将来を期待したに違いない。しかし、私は人形にならなかった。
……いや、なれなかった。

 

現代社会において聾唖はかなり不利だ。
そもそも人間は言語を耳で聞いて覚える。
しかし、耳の聞こえない私は言語を習得するのに通常の子供より長い時間を要した。
小学生にもなってあいうえおを勉強している私を両親は歯がゆく思っていたにちがいない。

しかし、私はいつまでも落ちこぼれというわけでもなかった。
中学三年になる頃には学年の中位にまで学力を上げた。
ただ両親に認めてもらいたかったから。そのために勉強を頑張った。恐らく、他の誰よりも努力しただろう。
しかしそれでも、両親は私を認めてくれなかった。

どうしてお父さんとお母さんは私を認めてくれないの?私はあんなに頑張ったのに!!!!

いつしか私は両親を憎むようになっていた。

15

中でも、父に対する憎しみは母の比ではなかった。
父はいまだに手話ができない。いや、そもそも一度も手話の勉強すらしたことがない。
だから、私は父と会話を持った事がない。
結局、私はその程度の存在だと言うこと。
そんな父を好きになる事など不可能だ。

 

朝から嫌な事を思い出してしまった。
心がモヤモヤする。全てあいつらのせいだ。死ね死ね死ね死ね
私は力いっぱい玄関のドアを叩きつけた。
ドアに挟まれてあいつらが潰れて死んだような気がした。

しかし、そんな事をしても気持ちが晴れる筈もなく、やり場のない怒りが悶々と心に沈殿している。

ひとまず気持ちを鎮めないと。
私は携帯を取りだし、待ち受け画面に目をやる。

昨日、屋上で茜ちゃんに見せた私と純也くんが肩寄せあっている写真。
何枚か作った写真の中でもこれは抜群に良くできている。
他人はもちろん、作った私ですら騙されそうなほどに……。

 

しばらく携帯の中で幸せそうに笑う私と純也くんを眺めていると、いつの間にか気分が落ち着いていた。
私は携帯を静かに閉じ、朝焼けの道を学校へと向かっていった。

 

 

いつも通り、少し早めに学校に着き校門で純也くんをまつ。
今日は昨日の作戦の結果がでる日だ。
あ〜ドキドキする。

テストでもこんなにドキドキした事はなかったのに。
少し心の準備が必要かも……。
純也くんもう少し待ってて!!

しかし、私の願いも虚しく純也くんと思われる人影が校門に近付いてくる。

 

純也くんは………ひとりだ!!!
やった、作戦は成功したんだ。

私はホッと胸をなで下ろした。

実はあの作戦は失敗の可能性も大いにり、昨日の夜には私のずさんな計画を悔やんだりもした。
しかし、それもただの杞憂だったようだ。

 

ふふふ、ありがと茜ちゃん。
大好きなお兄ちゃんのために自ら手を引くなんて本当にいい子。

 

でも、それと同時に馬鹿な子。
昨日の事、お兄ちゃんに話せばよかったのに。
だってね、私と純也くんはまだ付き合っていないんだよ?

 

ううん、それ以前。
実は純也くんはまだ私の事を知らないの。
一度も会った事ないから。

 

でも、よかった。一番ウザい蝿が消えてくれて。
これから、私と純也くんはゆっくり愛を育むから、茜ちゃんはどこか草場の陰からでも私達を見てなさい。
おこぼれがもらえるかもよ?まぁ、まず有り得ないけどね。ふふふ。

 

 

私は生まれて初めて飲んだ勝利の美酒に酔っていた。
茜ちゃんが未だに姿を見せないのは少し気になったが、
そんな事も忘れさせるほどに勝利の美酒は甘美な物だった。

16

初デートはどこにしようかしら?
公園?遊園地?映画館?純也くんはサッカー選手だからサッカー観戦何てのもいいわね。
今が授業中であることも忘れて、不健全な妄想が次から次に沸き上がってくる。
今朝の一件以来純也くんのことで頭がいっぱいだ。
でもホントこういう時だけ耳が聞こえないと便利。
余計な雑音がないぶん自分の世界に入って行けるから。
ひとまず、初デートは公園がいいなぁ。
お昼ご飯は私がお弁当作っておいて………。

妄想はどんどんエスカレートしていき、授業が全て終わるころには、妄想の中で出産までしていた。
ちなみに男の子。わたしは女の子のほうがよかったのに……。

ホームルームも終わり帰り支度を整え、教室を出ていく。
先生の冷たい視線が少し気になったが、まぁいいや気にしない。
悪いが今日は純也くんの練習を見に行かなきゃならないのだ。
先生との会話で時間をさくことはできない。
夕日で赤く染まる校舎の中をグラウンドに向けて歩いていく。
そろそろグラウンドではサッカーの練習が始まるはずだ。

たしか今日は紅白戦だったわね。
純也くんのプレーしている姿を想像して思わず顔がにやけてしまう。
多くのメディアは純也くんを"妖精"と例えている。確かに"妖精"とはよく言ったもので、
彼のプレーにはまるで本当の妖精のダンスのように人を惹き付ける何かがある。

 

そして、ブラジルの目が大きくて出っ歯な曲芸使とは違いどこか貴族のような上品さも持ちあわせていた。
しかし私を惹き付けたのは、純也くんの妖精のようなプレーでも貴族のような上品さでもなく、
むしろサッカーをしている時の彼の表情だった。

サッカーをしている時の子供のように純粋な笑顔。
その笑顔はサッカーの楽しさを私にも教えてくれた。
もしかしたら、妖精のあだ名は子供のように純粋にサッカーの楽しさを享受する
あの笑顔から来ているのかもしれない。

そして子供の頃から常に"障害者の物差し"ではかられていた私にとっては、
その笑顔は暖かい毛布のようにも思えた。
障害者という事に少なからずコンプレックスを感じていた私は、
純也くんの笑顔にひとつの光明を見い出したのだ。

彼なら私のコンプレックスの源である"障害者の物差し"をとっぱらって
私を見てくれるのではないだろうか?

その考えは県大会決勝でピッチをステージに変えて楽しそうに踊る純也くんを見た時、確信へと変わった。
間違いない。この人なら障害者としてではなく、一人の人間として私を見てくれる。
特に確証があるわけではなかった。ただの直感である。しかしその直感は確実に私をとらえ、
私を変化させた。

純也くんは神様が私の耳の代わりにくれたんだ。

この日から、世界に男は純也くん一人になった。
だから、純也くんだけは絶対に譲れない。純也くんは………私のモノだ。

17

グラウンドではサッカー部が黙々と練習をしていた。
よかった。まだ始まってないみたい。
私は少し急いで試合がよく見える場所に移動をはじめた。
全国大会出場ということで人気急上昇中のサッカー部、辺りにはすでに何人かが観戦しに集まっている。
いつもの場所に着き、遠巻きにサッカー部を、いや純也くんを観察する。
えーと、純也くん……は…と。
あれ?……いない。
少なくとも私の目では、体操をしているサッカー部の中に純也くんの姿を確認することは出来なかった。
おかしいな。今日は練習に参加するはずなのに……まだ部室にいるのかな?
私は一端その場を離れ、サッカー部の部室を見に行くことにした。

丁度グラウンドの裏側、サッカー部が体操している場所の少し奥にそれはある。
途中、サッカー部の横を通る際、今一度純也くんの姿を探したが、やはりいなかった。

部室は何故かグラウンドの反対方向に入り口がある。
設計者は一体何を考えていたのか?普通にグラウンドと向かいあう形にすればよかったのに……。
でもまぁ、外部からは死角になっているため今の私には都合がよかった。
回りこんだその部室は少々立てつけが悪いようで、入り口は少し隙間を残して閉まっている。
特にドアを開ける必要もなく、その隙間から容易に中の様子を確認できた。
中は少々薄暗くて、あまりよく見えなかったが、どうやら誰もいないみたい。
……おかしい。純也くんは何処に行ったのだろう?

 

純也くんの情報を集めたいが、耳が聞こえない私には周りから情報が入ってこない。
かと言って誰かに話しかけるにしても、手話を話せる人が私の周りにはまずいないだろう。
仕方なく、私は下駄箱を見に行くことにした。
……また、歩くのか……。いっそグラウンドをわたっちゃおうかしら?

純也くんの下駄箱に皮靴はなかった。
つまり、校舎内にはいない。でもグラウンドにもいない。
という事は……。

 

溜め息とともに私はホームに降り立ち、いつもより多い人並みに流されるように駅を後にする。
あまり大きいとは言えない駅前の繁華街はゆっくりと夜のネオンの準備を始めていた。

結局、純也くんはもう帰ったみたい。
練習にでてこなかったし、靴もなかった。まぁ、まず間違いないだろう。

あ〜あ、家帰ったら晩御飯作らなきゃいけないのか〜。面倒くさいな〜。

今日の楽しみを潰された私にとって、晩御飯を作ることがものすごい重労働に思える。
そんな時、不意に駅前のコンビニが目に入った。
たまには、コンビニ弁当でも……。
そう思い、私はコンビニの不思議な引力に引かれていった。

確かご飯はあったから、おかずだけ買えばいいかな。
そんな事を考えながらコンビニの自動ドアの内側へと入って行く。
外よりも幾分暖かい空気が私を包み、独特のおでんの匂いが私の鼻をくすぐる。
もうおでんの季節なんだな。
ちょっとおでんが食べたいな〜とか思いつつ、私は自動ドアのすぐ側に置いてあったカゴをとると、
レジの前を通って弁当売り場へと向かおうとした。

その折りに、パッとレジに並ぶ人影が目に入った。
足が動かなくなった。というより、頭が私に動けと指令をだせなくなった。
いっこうに閉まる気配のない自動ドアの前で私は文字通り固まってしまった。

そう、レジに並んでいたのは今日の練習を休んだ純也くんだったのだ。

少し、と言うかかなりびっくりしたけど、後ろから吹き付ける外の空気が私を正気に戻してくれた。
ひとまず自動ドアから少し離れ、ドアを閉める。
そして、覚悟をきめ私は高鳴る心臓とともに出来るだけ平静を装いレジを通り抜けた。

うがい薬、冷えぴた、ロックアイス、ポカリ。チラッと盗み見た純也くんのカゴの中身。不思議な買い物だ。

……純也くん風邪でもひいたのかな?

でも、本当に風邪だとしたら……。純也くん一人で帰れるかな?

急に心配になり、私は純也くんを送ってあげることにした。
純也くんが買い物を終え、店を出ていくのを確認すると、私は密かに純也くんの後を追って店をでる。

……少し肌寒いな。
今まで暖かいコンビニの中にいたせいか、外の空気は思った以上に冷たかった。
もう秋風が冬の空気を運んできたのだろうか。
そんな事を思いつつ、私は少し震えながら純也くんの後を追った。
沈みかけの日の光は大分前を歩く純也くんの影を少し離れた私のところまで届かせた。
影の純也くんはまるで私の横を歩いているみたいに見えた。
しかし、私の隣を歩く細い伸びきった影は、風が吹いたら倒れてしまうんじゃないかと思うほど
細くてかよわかった。

ふふふ、でも大丈夫だよ純也くん。途中で倒れてもすぐ助けてあげるから。

いろいろと純也くんの救出パターンをシミュレートしだが、結局私の夢想もむなしく純也くんは
特にふらつきもせず、いたって普通に家路についた。

まぁ、とりあえず無事に着いてよかった。
だけど、少し残念。倒てくれてもよかったのに……。

純也くん。あなたの身体はもうあなただけの身体じゃないんだから、くれぐれも体調には気を付けてね。
お大事に、純也くん。

おかずを買ってなかった事に気付いたのは我が家に着いてからだった。

18

今日も純也くんは来ないのだろうか。

純也くんを送ってあげた日の翌日、純也くんは学校を休んだ。

そして、今のところまだ純也くんの影は見えない。

そして人影がほとんどなくなった校門で一人たたずむ私。
学校に着いてから大分動いた時計の針は、すでにホームルームの開始の時間まできていた。

……どうやら、今日も純也くんは来ないみたいだ。
純也くん大丈夫かな?お見舞いに行こうか。学校は休むことになるけど……。

ガタゴトといつもより大きく揺れる電車の中。
初めて学校をサボったうしろめたさと、純也くんに対する心配な気持ちがごちゃまぜになり、
わずか十五分足らずの電車での移動がとても長く感じられる。

電車が駅のホームにつくと、私はそこから飛びおり、急いで駅を出た。

私の家とはほとんど逆の方向にある純也くんの家への道のりを散歩には少し早いペースで私は足を進めた。
駅前に広がるまだ始まっていない朝の繁華街をすりぬけて、広大な住宅街へと入っていく。

そして住宅街にたたずむこの病院の角を曲がり、200メートルほど先の橋を渡る、
そうすれば純也くんの家はすぐそこだ。

少し息を弾ませて、わたしが病院の前を通過しようとした時に脇の自動ドアが開いて中から
人が見覚えのある二人が出てきた。

………え?

 

今日も熱は下がらなかった。まぁ、昨夜あんな事したんだし当然と言えば当然か……。

昨日、お兄ちゃんはわたしを一生懸命看病してくれた。それなのにわたしはお兄ちゃんを裏切った。
今、隣にいるお兄ちゃんはそんな事を知らない。ただ、いつものようにわたしを心配してくれている。
胸が痛い。
本来なら、わたしにはお兄ちゃんの隣にいる資格はないんだ。
だけど、それでもわたしはお兄ちゃんの隣にいたい。

病院の待合室。わたしたちは二人で座っていた。
会話はほとんどない。
唯一、お兄ちゃんの写真について聞かれた。何でも大切な写真がアルバムから抜けおちていたらしい。
もちろん、わたしは知らなかった。

 

無事に診察も終わり、わたしはお兄ちゃんに支えられ出口へと進む。
まちがいなく昨日より症状は悪化している。その証拠に歩くのがツラい。
お兄ちゃんの支えなしではまともに歩けないだろう。
開くのが少し遅い自動ドアをすり抜けて、冬の気配感じる外界へと降り立った。

中のくぐもった空気をはきだそうと大きく深呼吸をした。病院のとは違い少しひんやりした外の空気が
肺に突き刺さる。

頭がフラフラする。
わたしがお兄ちゃんにより強くしがみつき、歩きだそうとした瞬間、たまたま目の前にいた人と目があった。

 

その人は今、一番会いたくない人。
わたしからお兄ちゃんを奪っていった人は少し呆然としながらわたしを見ていた。
何しにきたの?
わたしのささいなこの瞬間まで奪おうと言うの?
わたしはキリキリと嫌な感触をあじわいながら、唇を噛んだ。
しばらくその場で呆然とする円香さんを睨んでいると
グイグイとわたしの裾が引っ張られた。
引っ張られた方を振り返るとお兄ちゃんが不思議そうな顔でわたしの顔を覗きこんできた。

19

嫌だ。円香さんの方には行きたくない。
写真以外で二人のツーショットを見たくない。
しかし、その場を動こうとしないわたしをお兄ちゃんはなかば無理矢理引きずっていった。

ゆっくりと一歩づつ、前に歩を進める。
一歩一歩が果てしなく長く、そして重く感じられる。絞首台に登る死刑囚はきっとこんな気分なのだろう。

しかし、わたしに死刑の瞬間が訪れることはなかった。

一向に立ち止まる気配のないお兄ちゃん、それどころか円香さんを見ていない。
そして、まるで路上の石を通りすぎるように、そのまま円香さんの横を通り過ぎた。

……え?

驚いて後ろを振り返るとうつむいたままキリキリと唇を噛む円香さんの姿が見えた。

どういうこと?
わたしはグルグル回る頭で必死に状況を整理しようとした。

お兄ちゃんは円香さんと付き合っているんじゃないの?
何で円香さんを無視するの?
いくら考えても整理されない思考を投げ出し、わたしは無言の疑問をお兄ちゃんに投げ掛けた。

"どうした?"
わたしの視線に気付いたお兄ちゃんが話しかけてくる。
"さっきの人……"
"病院の前にいた女の子のこと?茜の友達なのか?"

……えっ?
何言ってるの?円香さんはお兄ちゃんの恋人でしょ?

お兄ちゃんはわたしをからかっているのだろうか。

しかし、お兄ちゃんの態度から察するに到底お兄ちゃんと円香さんが付き合っているとは思えない。

でも円香さんはお兄ちゃんと付き合っていると言っていた。

病院の待合室で話したお兄ちゃんの部屋から消えた写真。
円香さんがわたしに見せたお兄ちゃんと円香さんの寄り添う写真。
円香さんに関するいろいろな情報が頭の中でグルグル回る。
それらはひとつひとつが重なり合わないパズルのピースのように思えた。
しかし意外なところでそのピースは線で繋がった。

 

翌日、まだ少し熱はあったがわたしは無理をして学校に行くことにした。
お兄ちゃんは休めと言っていたけど、三日連続でお兄ちゃんを休ませるわけにはいかない。
何より一度円香さんの様子を確認しておきたかった。
そして、一言伝えたい。
今までわたしを騙してくれたお礼をね。

わたしは少しふらつく足で、お兄ちゃんに支えられながら校門をくぐり抜ける。

恐らく、円香さんはどこかでお兄ちゃんを見ている筈だ。
少なくとも、わたしが円香さんの立場ならそうしてる。

キョロキョロと円香さんの姿を探す。
……いた。やっぱりわたしの思った通りだ。
ふふふ、円香さんはもうここにはこれない。公平に考えても、わたしと円香さんではわたしが有利だ。
わたしには積み重ねてきた年月がある。いきなり出てきた円香さんに負けるはずがない。
ギュッとお兄ちゃんの強くしがみつく、円香さんに見せつけるように。
どう?うらやましいでしょ?
円香さんは風邪をひいてもこんな事できないんだよ?

円香さんはすごく恐い顔でわたしを睨んでいる。
う〜怖い。まるで鬼みたい。
わたしは余裕の笑みを浮かべて、円香さんに向けてゆっくりと手を動かした。

"ストーカー"

その後の生活はわたしが期待したほど大きな変化はなかった。
強いて言えば円香さんをあれっきり見なくなった事くらいか。
ストーカーは自分の姿を認識すると出来なくなるらしい。

それでも、初めは円香さんが何かしでかすんじゃないかと心配だったけど、
後さたない事を考えると円香さんはお兄ちゃんを諦めたのだろう。

 

わたしとお兄ちゃんとの間にもごく小さな変化があった。
お兄ちゃんの帰りの送りがなくなったのだ。
お兄ちゃんにとっては最後の大会だし悔いは残してほしくなったからわたしから断わった。
そして何より、少しでもお兄ちゃんにイイところを見せたかったから。
ひとまず、わたしは"いい妹"を演じなければならない。
そこからでも、遅くはない。わたしには誰よりもお兄ちゃんの近いところにいれるんだから。

 

ほとんど人影のない教室から空を眺めた。
どんよりと曇った空は今にも泣き出しそうだった。
早く帰った方がいいかも、一応傘はあるけど濡れるのはやだし。

なんとかふんばっていた空も、わたしが電車に揺られている間に雨が降りだしていた。

わたしは鞄から取り出した折り畳み傘を広げ、できるだけ体を濡らさないように、注意して歩き出した。

閑静な住宅街を抜けた先の大きな橋。
わたしの街はこの橋が境目になっている。
この橋を渡ると近代的な街並みがいっきに田舎っぽくなるのだ。

その橋は空と海の間の静かにあいた世界のように幻想的な雰囲気をかもしだしている。
わたしはこの橋に魅せられているのかもしれない。

 

もうすぐ橋を渡り終わるって所まできたころ、雨の向こうに人影が見えた。

どこか様子が変だ。
こんな土砂降りの雨の中で傘をさしていない。
少し嫌な予感がしたが、家に帰るためにはこの橋を渡らなくてはならない。
わたしは覚悟をきめ、不安のため高鳴る鼓動と共に前に進んでいく。

ゆっくりとぼやけた人影がはっきりとしてくる。
わたしと同じ制服。
長い間雨にうたれていたのだろうか、その制服はピタリと体に張り付いていた。
少しうつむいた顔には長い髪がかかり、よく顔が見えない。

そして……右手に何か持ってる。

それが何か分かった時、わたしはかな縛りにあったように動けなくなってしまった。
額には雨以外の冷たい雫が浮かんでいた。

右手に妖しく光るそれは……刃物だ。

何あれ?何であんなのがいるの?

わたしが恐怖のあまりその場から動けなくなると、うつむいていた影がわたしに向かって
ゆっくりと顔をあげた。

鬼のような表情とほとばしる殺気。その殺気が全てわたしに向けられていた。

しかし、それは見覚えのある顔だった。
鬼のような険しい表情を浮かべながらも、崩れていない上品に整った顔立ち。
そして雨に濡れてはいるが長くしなやかな髪。

まどか……さん?

間違いない。あれは円香さんだ。

 

円香さんは相変わらずの殺気をわたしに向けたまま、顔には笑みさえ浮かべて、
ゆっくりとわたしに近付いてきた。

逃げなきゃ。今の円香さんは普通じゃない。逃げなきゃ……殺される!!

しかし、わたしが逃げようと思えば思うほど足が鉛のようになっていきうまく動かない。
もう、いつのまにか円香さんとの距離は5mもない。

 

そこまできて、ようやくわたしの足が動いた。
しかし、頭からの命令は神経がシャットダウンしているから足に届いていない。
今は頭が強制的に足を動かしている状態……。
だから、足があまり早く動いてくれなかった。

お願い。わたしの体でしょ動いてよ!!

もつれる足を強制的に早く動かそうとしたため、足が交わりわたしはその場に転んでしまった。

すぐ後ろからは、最高の笑みを浮かべた円香さんが近付いてきていた。

20

ストーカー。
茜ちゃんは確かにそう手を動かした。
ストーカー?私が?
何を言ってるの?純也くんは私のモノなのよ?
ストーカーはあなたの方でしょ?
私は茜ちゃんをキッと睨んだ。
すると茜ちゃんはイヤな笑みを浮かべると私の純也くんに抱きついた。
その笑みは私に向かって"あなたはここにはこれない。どう?うらやましい?"と語っているように思えた。
私ではあそこに行けないの?
何で?
茜ちゃんがいるから。
茜ちゃんが私の邪魔してるの?
そう。その通り。
じゃあ、私はどうすればいい?

答えはとても簡単。

茜ちゃんが消えればいいんだ。

プツンと私の何かが切れた。

 

あの橋の上。
近代的な街並みと前代的な風景を分ける橋は、今日天国と地獄を分ける事となる。

茜ちゃんの家へはこの橋を通らないと行けない。だから、茜ちゃんは必ずここを通るはずだ。

どのくらい待っただろうか?いつのまにか空から雨が降ってきていた。
私は傘をもってこなかった。雨は激しく私にうちつけ、服がビショビショになってしまった。
でも、いい。どっちにしろ濡れる事になるのだから。

しばらくすると、遠くから傘をさした人影が近付いてきた。こんな人通りの少ない橋を渡る人は
限られている。
恐らく茜ちゃんだろう
茜ちゃんはまだ知らない。この橋が自分の家ではなく、地獄に繋がっていることを。

ゆっくりと近付いてくる人影との距離はもう10mもない。
そこまできてようやく私はおもむろに顔をあげた。

久しぶりだね茜ちゃん。

 

茜ちゃんは私を見てるのに動かない。いや、どうやら動けないみたいだ。
それは私が右手にもつコレのせいかな?

私は笑みを浮かべガチガチに固まる茜ちゃんにゆっくりと近付いていく。

そして、いまだ動けずにいる茜ちゃんに対し刃を向けた。
あはははははは。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
私は茜ちゃんに向かってやみくもに包丁を振り回した。
あははははははははは、ふふふふふ茜ちゃん、その顔最高よ?
恐怖で引きつった顔は私にとって最高の快感だった。
そしてもうすぐ茜ちゃんは肉の塊になるという事実。それが堪らなく嬉しかった。

茜ちゃんさえいなければ、茜ちゃんさえいなければ純也くんは私のモノだ!!!

必死に逃げまどう茜ちゃん。でも残念ながら頭と体が別の動きをしようとしている。
そんなんじゃ、逃げられないよ?

あっ、ついに茜ちゃんが転んだ。
それでも必死に逃げようとする茜ちゃん。でもうまく立てないみたい。
あらあらあら、どうしたの?もう逃げないの?
茜ちゃんはガクガクと震え、顔を気持ち悪いくらいに青くさせていた。

そんなに怖がらないで大丈夫だよ?茜ちゃん。すぐに楽になるから。

私は茜ちゃんにゆっくり近付き、その頭に狙いを定めると、そこに向かって刃をつき立てた。
刃が突き刺さる正にその瞬間、茜ちゃんはとっさに横に顔を流した。
包丁は茜ちゃんをかすめて宙を切った。

そして私が体勢を崩しているその隙に、茜ちゃんは再び茜ちゃんを切り刻もうとうごく私の手首を掴んだ。

 

火事場の馬鹿力ってやつだろうか?茜ちゃんはその細い腕からはとても信じられない力で
私の手首を押さえつけていた。
なかなかしぶといわね。でもね体勢が悪いよ茜ちゃん。
私はあえて、そのまま包丁を自分の手元に引き、再び茜ちゃんの額に狙いをさだめた。
ふふふ、私がこのまま体重を乗せれば体勢の低いあなたでは受けきれないでしょ?
私はジワジワと体重をかける。
すると少しずつだが確実に切っ先は茜ちゃんへと近付いていく。

もう終わりだよ?茜ちゃん。
私は止めとばかりに全体重を腕にかけた。
しかし、まさに私が全体重をかけたその瞬間、茜ちゃんは握っていた私の手首を返した。
肉を貫く嫌な感触。その感触は私から発せられているモノなのか、
もしくは茜ちゃんから発せられているモノなのかもはや分からなかった。

ただ私は妖精を見た。

妖精は本当にいたのだ。純也くんのことではなく、本物の妖精。

想像とは違い赤くいびつな形をしたそれは、わたしの喉元から現れ、妖艶なダンスでわたしを迎えてくれた。
薄れゆく意識のなかで私はそのダンスにしばし酔いしれた。

 

はぁはぁはぁはぁはぁ。
これは……ゆめ?
キュッと手をつねる。突き刺すような痛みがわたしの手を駆け抜ける。

しかし、いくら強くつねってもわたしの目の前に転がる物体。
喉に包丁が突き刺さり、いまだびゅうびゅうと赤い液体を吐き出している物体は消えなかった。

はぁはぁはぁはぁはぁ。
息が苦しい。運動をしたわけではないのに……。

ドクンドクンドクンドクン。
心臓が激しく高鳴る。ここはお兄ちゃんの前ではないのに……。

全ては異様な存在感を示すこれのせい。
かつて円香さんだった物体。

わたしが……やったの?
グルグル回る頭では、五分前の事すらよく思い出せない。
ただ、包丁が喉に刺さる時の嫌な感覚が全てをリアルに感じさせる。
そして、わたしの手を体を赤く染める円香さんの血。

嘘でしょ?何で、何でこうなるの?
どうしよう、わたし、わたし……

円香さんを殺してしまった。

 

気が付いたらわたしは家の玄関前にいた。
あの後、円香さんをどうしたのだろう?
橋の下につきおとしたような気もするし、そうでもない気もする。
体が冷たい。服がビショビショだ。
わたしは傘をもっていなかった。
あの場所に忘れてきてしまったのだろうか?
だとしたら、早くとりにいかなきゃいけないのかもしれない。
しかし、そんな事しなくてもいいと思った。
帰り血が流れ落ちる程の雨に打たれたわたしには冷静さが残っていなかったから。

 

玄関を開け中に入る。
どんよりと曇った空が光を閉ざし、家の中は薄暗かった。
そのもの言わぬ闇はわたしを歓迎しているように思えた。

ぶちゅぶちゅっと濡れた靴下が嫌な感触を廊下に残す。
シャワーを浴びたい。その一身でわたしは浴室に急いだ。
血は雨のおかげで大分流れ落ちたが、円香さんがわたしの体をはいずり回る変な感覚を流し落とすために。

浴室からは光が見えた。
誰かいるみたい。でもいい。この時間にお風呂に入れるのは一人しかいないから。

わたしはそのまま脱衣所でビショビショの服を脱ぎ、浴室への扉を開けた。

 

暖かい。
わたしは今、お兄ちゃんの胸の中にいる。二人とも産まれたままの姿で。
無駄な肉のない綺麗な体……。
そしてお兄ちゃんの熱った体は冷たい雨にうたれてきたわたしにとって最高に気持ちいい。
できる事なら、このまま熱に身をまかせお兄ちゃんととけあいひとつになりたい。

しかしわたしの望みが叶うはずもなく、しばらくしてお兄ちゃんがわたしの体を突き放した。
驚きと焦りの共存した複雑な表情を浮かべるお兄ちゃん。
ただその意識が外に向けられていることはすぐにわかった
待って、お兄ちゃん。わたしを見てよ。
しかし、お兄ちゃんは素早く、そして少し慌てた様子で出口へと消えて行った。

誰もいない浴室と閉ざされたドア。静かに床を打つシャワー。呆然とするわたし。

やっぱり、わたしはお兄ちゃんにとって妹でしかないんだ。
わたしに優しくするくせに、わたしが本当に欲しい優しさはくれない。

本当は抱き締めて欲しかった。
もう、大丈夫だって慰めて欲しかった。
だけど、いつもお兄ちゃんは何もしてくれない。
しかしそれでも、わたしはお兄ちゃんから離れられない。
お兄ちゃんのくれるジュースがあますぎるから。

……ずるいよ、お兄ちゃん……。

To be continued...

 

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