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沃野



1

「でさぁ、洋平、やっぱり三組の綾瀬さんと付き合ってるんだろ?」
「……違うって言ってるじゃないか」
  何度となく繰り返されてきた質問に、いつもと同じ返事をする。
  が、信じてもらえた様子はない。
「けどさっきだって弁当一緒に食ってただろ」
「それも手作りの。しかもベタベタくっつきながら『よーくん、はい、あ〜ん』って」
「おいおい、今時バカップルでもしねぇよ、あんなの」
「……あいつは単なる世話焼きなんだよ。昔からそうだったし」
  自分でも理由になってないと分かるが、そう言って躱す。
  高校生にもなって、左手を添えながら「はい、あ〜ん」をしてくる数年来の幼馴染み……
  それを「世話焼き」というだけで片付けるのは、いかにも無理があった。
「ったく、お前がそうのらくら逃げるから他の男子が無駄に希望持っちまって玉砕するんだよ」
「何人も告白しては『ごめんなさい』って断られてるんだぞ」
「ありゃどう考えたって他に好きな奴がいるからだろ」
「で、思い当たるのはお前しかいないわけで……」
  寄ってたかって強弁されるうち、否定するのが億劫になってくる。
  黙り込んだせいで勢いづいたのか、いっそう執拗に絡んできた。
「洋平、俺たちがムカつくのはな。お前が綾瀬さんとイチャイチャ仲良く話しながら登校するのとか、
睦まじく弁当をつつくところとか、たまに他人が口を挟めないふたりっきりの時空を築いたりするから
じゃなくて……いやそれも充分殺したくなるくらいムカつくが……なんと言っても、
お前の態度がはっきりしないところだっての」
  そうだそうだと、周りで聞き耳を立てていた奴らまでが同意し、
「ただの幼馴染みなんて言い訳、納得できるかよ」
「お互いの呼吸が当たるくらいの距離に顔を寄せるとかありえなくね?」
「綾瀬さんが名前で呼ぶ男子って洋平くらいじゃん」
「名前で呼ばせる男子も洋平だけだぞ」
「なのにお前ときたら……」と口々に責め立てる。

 ──針が。

 無数の針が視える。級友たちの鼻からメカジキみたいに突き出している。
「お前、綾瀬さんの好意を知っていてわざと無視してんだろ、このヘタレが」
「あーあ、なんでこんなヘタレにあんな可愛い子が……」
  責める声、嘆きの声に内心で頷く。
  知ってる。胡桃の奴が俺にどういった想いを寄せているかぐらい、誰よりも知ってる。
  それに、客観的に見て胡桃がどれだけ優れた子か──
  柔らかな顔つきに相応しい人当たりの良さと、黒くて長い髪の重さを引きずらない明るさ、
  よく通る声とはきはきした口調、しなやかで細い長身は適度な丸みに帯びていて、
  体育の時間は特に目を引き寄せられそうになる。
  普通に考えれば、そんな子が自分に好意を示しているなら喜んで受け入れるところだろう。
  でも、俺は、意識的に避けている。
  他でもなく、あいつの想いを知りすぎているからだ。

 俺にはちょっとだけ特異なところがある。
  普通の人間が見えないようなものが「視える」のだ。
  別に、幽霊とか妖怪とか、おどろおどろしい存在ではない。俺が「視える」のは、人の感情だ。
  例えば母親に叱られたとき。その頭に角が視えた。縁日で売っている鬼のお面みたいな黄色い円錐の角。
  今思うと間抜けな光景だが、子供心には文字通り角を生やした母の姿が異様で恐ろしかった。
  帰ってきた父に「おかあさんの頭に角があった!」と言っても笑われるだけで取り合ってもらえなかった。
  俺は当然他の人も似たようなものが視えていると思っていたし、噛み合わない会話にもどかしさを覚えていた。
  似たようなことを繰り返すうち、近所や親戚の間で「洋平は空想癖の強い子供」と言われるようになった。
  あんなにはっきりと視えているのに、空想だなんて……俺は躍起になって主張した。
  結果はいつも虚しかった。友達と思って遊んでいた子にも信じてもらえなかった。
  小二の時、夏休みの読書感想文を書くために借りた児童向けの本で、不意に悟った。
  それは周りの人間の心が読めてしまう、いわゆる「読心術」を持った少年の話だった。
  彼は常軌を逸した能力のせいで不幸になっていく。待ち受けるのは孤独な破滅……
  自分と少年とを重ね合わせ、次第に自分の視えるものが他人にはどうやっても視ることのできない
  ものなんだと納得するに至った。
  秘密を明かすとろくなことにならないことも学び、以来誰にも話すことなく過ごしている。
  変なことを口にしなくなり、家族も、親類も、俺が空想癖を卒業したと思ったことだろう。

 さて。人の感情が視えるとは言ったが、実のところ、あまり便利な能力ではなかった。
  いや、そもそも能力とすら言えないのかも。
  自分の意志で使えるものではなく、勝手に視えてしまうものだから、能力というより体質に近い。
  視えるのも相手の感情がこちらに向いているときだけで、よそに逸れているときは何も視えない。
  つまり、「相手がこちらをどう思っているのか」だけが視覚イメージとして伝わってくるのだ。
  差し当たってこの現象を「隠喩」と呼ぶことにしている。
  怒りが角、やっかみが針と、意味するところは分かりやすい。
  だが、明確に喜怒哀楽が分類されるわけではなく、いちいち読み取る必要がある。
  便利ではないが、厄介でもない。
  元より相手の顔色をいちいち窺って行動するほど殊勝な性格ではなかったから、どんな隠喩が見えても
  少しばかりの注意を払うだけで気にせずやりすごしてきた。
  所詮は視えるだけだ。目をつむってやりすごせばそれで済む。日常生活に支障はなかった。
  そして隠喩は隠喩に過ぎない。相手が具体的にどういったことを考えているか、までは分からない。
  抱える悩みなど、望まずとも他人の本音が聞こえる読心術者よりかは、ずっと軽かった。

 初めて綾瀬胡桃と出会ったのは十歳になる直前の夏だ。春生まれの胡桃は既に十歳になっていただろう。
  隣の家に引っ越してきた彼女は、偶然にも俺のいたクラスに転校生としてやってきた。
  おかげで顔を合わせる機会が多く、最初に対面したときはやけに意地っ張りだったあいつが仕掛けて
  くる喧嘩を躱したり、あいつの作った料理をお裾分けされたりしているうちに親密になっていた。
  真性の幼馴染みではなかったけど、たまに物心ついた頃から一緒にいた気がしてくるほどだった。
  出会って間もないときから胡桃の好意は察していた。
  彼女は俺を見るたび、胸に白い花を咲かせた。
  道端に咲いているような、ありふれていて小さく質素な花だったけれど、温かみのある素朴さが心地良かった。
  折れてしまいそうな繊細さの中に、しっかりと根を下ろそうとする力強さがあった。
  どんなにあいつが生意気な言葉を口にしても、根を生やした好意ばかりは偽れなかった。
  白い花弁に徐々に赤味が差し、色が変貌していったのは小六のあたりだったか。
  ふと視線を向けると胡桃が熱っぽい目をしていたり、ぬらぬらと瞳が潤んでいることが多くなった。
  さりげなく、と見せかけて体を寄せてくる割合も高くなっていた。
  誰よりも胡桃の想いを知っているつもりだった俺は困惑した。
  そこで露骨に無視したり、冷たい言葉をかけたり、体を引き剥がしたりすると、胡桃の花は捩れた。
  針金細工みたいに捩れて、そのまま止まってしまう。
  本能的な恐怖に胸を衝かれ、それとなく謝って優しくし、機嫌を取ると捩れはゆるりと解消された。
  綺麗な花に戻ってホッと胸を撫で下ろすが、胡桃の縋るような視線とともに赤味はいっそう増している。
  中学に上がって制服を身にまとうようになると、胡桃の膨らみ始めた胸の奥にはショッキングピンクの
  大輪が咲き誇った。道端なんかでは生き残れない、過剰に養分を欲する花。毒々しいまでの鮮やかさ。
  俺が少しでもつれない素振りを見せると、己の茎を捻じ切らんばかりに乱れた。
  他の女子と会話をしただけで、葉が紅蓮に染まって火を噴くのだ。
  それでいて表情はといえば、平静に穏やかな微笑みを保っている。胸の花ばかりが赤い。
  胡桃の内心で荒れ狂う感情と取り繕った顔の差には、幾度となく背筋が凍りついた。
  付き合っていると明言したわけでもないのに胡桃の独占欲は日に日に強まり、花は奇形に育っていく。
  周りは誰も気づかない。俺だって、隠喩がなければ何一つ知らずにいただろう。
  知っていてわざと距離を一定に保ち続ける俺のことを、胡桃はただ鈍いだけと思っているみたいだ。
  しかし、それもいつまで続くだろうか……
「よーくん」
  驚いて振り返ると、背後に胡桃がいた。
  まただ。こいつはいつも、狙ったように現れる。放課後は図書館で過ごす俺と弓道部で部活をする胡桃。
  時刻を約束してるでもなく、携帯でも使わなきゃすれ違いかねないのに、いつもばったり出会う。
  休日でもそうだ。ストーキングを疑ったこともあるが、尾行を確認したことはないし、四六時中
  俺の後を付け回していられるほどこいつも暇じゃないはずだ。
  なのに、なぜ……
「さ、一緒に帰ろ」
  俺の狼狽も知らぬげに微笑んで手を取り、ぎゅっと指を絡ませて引っ張る。
  外野で級友が揶揄の口笛を吹くが、彼女は一向に気にしなかった。
  抗わず、手を引かれながら、俺は胸を……今やだいぶ大きくなって、無造作に制服を押し上げている
  隆起の向こうをそっと覗き見た。
  高校に入学して一年ちょっとだろうか。

 ──胡桃の花はもう、食虫花になっている。

2

 翌朝。胡桃と連れ立って登校し、昇降口をくぐって下足場に辿り着いた。
  彼女は繋いでいた手を名残り惜しそうに離すと、三組の教室へ入っていく。
  背中を見送り、息をついた。
  さすがに朝起こしに部屋まで乗り込んでくることはないが、俺が靴を履いて玄関を出て行くと
  毎度タイミングを計ったように隣の家からも胡桃が出てきて「奇遇だね」と笑いながら手を掴んでくる。
  当然の行為と思っているかのように。何の躊躇いもなく、滑らかな仕草で指を絡める。
  柔らかい肌の感触に心が躍るが、制服の奥では食虫花が粘液を垂らしている──気持ちも冷める。
  手を繋いで登校するのは譲歩だった。胡桃が腕まで組みたがったのを俺が拒否したのだ。
  できることなら「手を繋ぐのもちょっと……」と断りたかった。
  頼めばたぶん、胡桃も聞き分けてくれるだろう。少し残念そうな顔をしながら。花を荒れ狂わせて。
  そんな様を見たくなかったからこそ、落としどころと弁えて子供みたいな要求に従っていた。
  別に俺も胡桃が嫌いなわけではない。彼女が俺の手を握って笑顔になるのを見ると、嬉しくなってくる。
  余計なものが視えるせいで過度に踏み込むのを躊躇しているだけに過ぎない。
  いっそ、隠喩される彼女の想いを知らずにいたらすんなりと付き合っていたのかも。
  ……それが幸せなことかどうかは、大口を開ける異形の花を見る限り断言しかねるが。
  苦笑しながら履き替えた靴を下駄箱に仕舞うと、自分の教室に向かった。
  高校に上がって一年目は同じクラスだったが、二年になって入れ替えがあり、別々になった。
  それが胡桃にとって相当なショックだったようで、一時期は部活もガタガタになったらしい。
  「家が隣同士なのは変わらんでしょーが」と友達に慰められ、二ヶ月経った今は回復している。
  離れ離れになることで他の女子に気が移ることでも心配したのだろうか。
  入学以来、時折束縛をイメージさせる鎖や檻の隠喩が胡桃に見え隠れして、戦々恐々としてる。
  おかげで「部屋に上がっていかない?」と誘われても言い訳して断ったものだ。
  今はそれも見えなくなったが、安心するには程遠い。
  教室も違っているのに特殊な情報の伝手でもあるらしく、俺がクラスの女子と口を利いたり
  仕事を手伝ったりすると帰りには確実に機嫌を損なっていた。
  ひと気がないところで見知らぬ女子とふたりきりになると、どこから聞きつけたのか何食わぬ顔で
  やってくる。彼女はいつも探知機でもあるみたいに俺の居場所を把握している。
  あいつの目ざとさは異常だ。小学生で会った頃から特技は失せ物探しでどんなに探し回っても
  見つからなかったものを一瞬で発見しやがったし、中学生のときは俺が知恵を振り絞って隠した
  エロ本の在り処をズバズバと看破しては掘り当て、にっこりしながら捨てることを強要した。
  人の持ち物を捨てさせるなんて横暴だが、写真の裸体にまで嫉妬心を燃やし蠢いている赤い花を
  目にして逆らえるわけもなかった。
  だからこうして胡桃のいない教室で席についていても、まだ落ち着かない。
  別段クラスの女子に疚しい気持ちなど抱いてないが、こうも行動が筒抜けになっている有り様では
  おちおちと言葉を交わす気にもなれない。自然、男ばかりと話すことになる。
  が、男も男で俺が「三組の綾瀬さん」と付き合ってると信じて疑わないから言葉に揶揄が挟まれる。
  針の筵といったところだ。隠喩も正に針の山、剣山に落ち着く。気力が削げること甚だしい。
  だから、休憩時間にそいつが言葉をかけてきたときもろくな返事をする余裕に欠いていたし、
  何よりそいつが女子である以上は会話も最低限に済ませたかった。
「先輩、英語の辞書を貸してもらえませんか──?」

 なんと、下級生だった。あっさりと入ってきたので、肩を叩かれるまで気づかなかった。
  上級生の教室を訪ねるともなれば普通、緊張を強いられるはずなのに物怖じした気配は微塵もない。
  呆れるやら感心するやら、態度を決めかねた。が、あまり話が長引いては胡桃の耳に入る。
  知らない間柄でもなかったし、さりげなく「ほい、五時間目までには返せよ」と辞書の貸与を済ませる……
  ……つもりだったが、それは周りが許してくれなかった。
「おい、洋平、この子誰だよ! ま、まさか愛人ってやつか!?」
「むしろこっちが本命?」
「てっきり三組の綾瀬さんとくっついてると思ってたのに、まさか一年の子に手を出していたなんて!」
「神は死んだ……! 死んでなきゃ俺が殺してやる!」
  クラスの連中がギャアギャアと騒ぎ出した理由は一つ。単純に、その子が可愛かったからだろう。
  ハーフだかクォーターだか、よく知らないが日本生まれなのに緩やかに波打つ金髪と青い瞳を持った小柄な少女。
  一年生というより、小学六年生といった風情。高校二年生の教室に入り込み、浮き立つこと夥しい。
「むう、あの子は……!」
「知っているのか、都電!」
「あの幼さは間違いない、一年五組の荒木麻耶!」
「荒木麻耶!? 噂に名高い『暴れロリ』か!」
  以下、解説モードに入った都電の話を要約すると、一年男子たちが好奇の目を向けてくるのに対し
  最初は丁寧に応じていた彼女が「荒木さんってちっちゃいね」の一言でブチギれ、声がした方にいた
  男子三人をまとめて叩き伏せたところ、三人中二人に「金髪ロリに足蹴にされることがこんなに気持ちいいなんて」
  とM属性を植えつけたとか。残りの一人はもともとMだったからノーカンらしい。
「そんなキモいことがあったせいか男子をヘイトして関わろうとせず、あらゆるクラス、あらゆる学年の
  アプローチを断っていたというが、まさかこんな身近に二股をかけている奴がいようとは……」
  二股って。辞書を貸しただけでえらい言われようだった。
「あー……その、荒木。気にするな。聞き流しとけ」
  他人の色恋沙汰を無理矢理にもでっち上げようとするうちのクラスのノリは、理解不能で不快だろう。
  早く退出するよう目で促した。

 別に、連中が騒いでいるほど荒木とは親密じゃない。接点と言えば荒木が図書委員を務めている縁で
  何度か言葉を交わしたり、廊下で行き合って二言三言喋ったりしたくらいだ。
  他の図書委員から「男嫌い」と聞いていた評判通りにツンケンしていて取りつく島がなかったし、
  高いところにある本を取ってやっても無愛想にそっぽを向き「……ぁりがとぅ」と礼を言うくらいで、
  下手なことをすると鼻で笑われたりする。
  なるほど、外見を別にすれば扱いにくくて可愛げのない下級生に見えることは確か。
  彼女の隠喩は、身を守る殻のような鎧だ。年相応ではない小躯を気に病んでか、対人に際しては
  舐められぬよう自分を一回り大きく見せる気概でいるのだろう。なかなかいじらしい心構えだ。
  その顔が無表情で、冷たく見えても、鎧の下からは尻尾を立てて威嚇する仔猫のような懸命さが伝わる。
  強がりであることが分かってる以上、荒木の振る舞いに腹が立つはずもなかった。
  狙って打ち解けようとも思わなかったが、胡桃以外に気軽に話しかけられる女友達がいない寂しさ
  からか、ついつい構いすぎることがあった。おかげで会うたび彼女は硬化し、鎧が厚みを増していった。
  まあ、隠喩が視えるってことは感情がこちらに向いてるわけで、無視されてないだけ充分だったけど。
  ただ、どう見たって俺と荒木が仲良く映るはずもないのに、「あの子と恐れず会話できるのってお前だけ」
「これがニブチンのパワーか」「やがてデレ期が来る、未曾有のデレ期が……」と周りから感心されてしまった。
  いや、こんな微笑ましい子を恐れたりするお前らの方が鈍いんじゃないかと思うがな。

 ちみっこいのに威風堂々として、しかも金髪碧眼。
  気圧されながらも興奮してしまう男子どもの心情は、分からないでもなかった。
  日本人離れした容貌と低身長に反する威圧感が醸し出す魅力が、倒錯的な欲望に火をつけるのだ。
  構いたくて、構われたくて、仕方なくなる。なのに、構う切欠も構われる切欠もないもどかしさ。
  遠巻きに騒いでいる連中からは、彼女と接点を持っている俺への滾るような妬みが感じられる。
  針──どころか、吸血鬼も殺せそうな杭を隠喩として突き出す奴までいた。
  恐らく、胡桃との関係もあって怒りが倍加されている。
  このまま荒木と会話を続けるのはヤバい。さっさと彼女を帰らせてから即座に誤解を消すのが得策だ。
  騒ぎが伝播して胡桃のところまで届いたら……って思うとゾッとする。
  既にあいつは荒木の存在を嗅ぎつけていて、しかも警戒している節がある。雑談でなんとなく「荒木って
  下級生がなぁ……」と話題にした途端、顔が無反応なのに食虫花の方が暴れ出した。宥めようとして
「い、いや、実に可愛げのない奴で……」とごまかしても花の憤激は収まらなかった。
  もうあいつは見境がなくなってきている。これ以上刺激したらどうなるか、知れたことではない。
  だが、荒木は俺のアイコンタクトも、周りで騒ぐ連中も無視して突っ立ったままだった。
  頬がわずかに紅潮し、唇が小刻みに震えている。
  どうしたんだ? 訝りながら、起伏に乏しい荒木の体へ視線を下ろす。
  視える隠喩は甲冑。優美な曲線を孕んだ西洋の鎧が首から下を覆い、荒木の頑なな感情を象徴していた。
  それは初めて会ったときと同じだ。あのときも視えていた、硬い鋼。
  けれど、おかしい。いつもは艶々と光沢を放ってどんな干渉も跳ね返しているはずなのに、今は
  ところどころが綻びて穴まで空いており、全身がギシギシと軋んでいる。
  一秒後にも決壊して、中から何かが溢れ出してきそうな、追い詰められた感情──
  不吉な予感が頭をよぎる。
  だいたい。そう、だいたい、なんでこいつは英語の辞書ごときで上級生のクラスにやってきた?
  「男嫌い」でも同性の友達はいる。別のクラスに行って借りれば済む話なのに、なぜ?
  分からない。だが、きっとろくなことじゃない。それだけは分かる。
「ちょっ……荒木、やめ……っ!」
  制止の声は間に合わなかった。

「好きです──先輩」

「付き合って、ください」

 一瞬の沈黙を経て迸るどよめきとともに、鎧は粉々に砕け散った。
  晒される──秘められていた植物。
  細く長い蔓と紅に色づいた葉。
  蔦だ。鎧の裏にびっしりと張り付いていたそれが宙を泳ぎ、新たな居場所を求めて俺に絡みついてくる。
  呼吸が止まる。捕縛されて、指一本まで静止した。
  いや。隠喩は隠喩に過ぎない……絡みつかれても身動きは取れる。
  俺が動けなかったのは、驚愕のせい。
  ああ……こいつ、なんてことを……。呆けた心地のままに見上げた。

 荒木は、頬を赤く染め、見たこともないような笑顔を嫣然と浮かべていた。

3

「………ッッ!!」
  顔面神経が狂奔しそうになるのを必死になって堪えようとした。
  堪え切れなかった。
「ぶはっ!」
  隣の梓は飲んでいたペットボトル緑茶を噴き出した。
「えほっ、げほっ……び、びっくりさせるなよ胡桃! 急に物凄ぇ顔しやがって……!」
「ご、ごめんね……」
  謝りながら、平静を取り戻そうとする。深呼吸。叫びたくなる気持ちを押し留め、努めて冷静な思考を試みる。
  ……無理だ。どうしても心が波打つ。よーくんのことになると、わたしは平常心でいられなくなる。
「いったいどうしたってぇのよ……ほらそこ、本が破れてるじゃない」
  指摘されて見ると、確かに手に持っていた本が無惨に裂けていた。
  無意識の力で引き裂いてしまったらしい。まったく記憶になかった。
  ああ、どうしよう、図書館のなのに。弁償かな?
  ──いや。それは後回し。今はよーくんのことだ。さっき視たことを思い返す。苛立ちに手が震える。
  わたしはいつも通り、よーくんを「視」ていた。彼は周りの男子との話にも飽きたようで、
  椅子に座ってぼんやり黒板を眺めていた。
  そこに、あの、金髪で、ちっちゃくて、いかにも「可愛い」と言われ慣れているようなあの子が来て……
  ああ。駄目。思い出しただけで目の前が真っ赤になる。呼吸が乱れる。
  嫉妬深いのはいけないことだと思うけど、よーくんのそばに女が寄るとカッと血が沸き立つのだ。
  しかもあの子。馴れ馴れしく、よーくんと見詰め合って、おまけに吐いた言葉が、
  ──好きです──
  ──付き合って、ください──
  わたしが、どれだけ、言おうと思って、言えなくて、よーくんって鈍感だから仕方ないよねと
  自分で慰めながらなかなか眠れない夜に何度も何度も目蓋の裏で予行演習してうん、明日こそは、
  と誓って興奮したせいで余計に眠れなくなった心を鎮めるため隣のうちのよーくんの寝顔を覗き視て
  ようやく安心して寝付いて結局翌日には断られるのが怖くて言い出せない、ってことを繰り返してきた
  セリフなのに、あの子はいともあっさりと言ってしまった。
  悔しい、そして、それ以上に憎い。熱さを通り越して寒気すら覚える憎悪が腸から突き上げてくる。
  荒木麻耶──知っている。目立つ子だし、何より彼女はよーくんと接触したことがある。
  わたしが知っているだけでも三度ほど。もっとあるのかもしれない。
  よーくんが図書館にいるとき、わたしは弓道場にいて、つい監視が疎かになってしまう。
  その隙をついて、こっそり会っていたのかもしれない。だからあんな言葉を。
  許せない。
  許せるわけ、ないよ。
  今すぐにでも立ち上がろうとしたわたしを、休憩時間の終わりを告げる鐘が遮った。
  忌々しいウェストミンスターチャイム。咄嗟に舌打ちしたくなった。
  けど、まぁ、いい。視れば、あの子も鐘の音に従って教室を出て行くところだった。
  次の授業が終わって、昼休みに入るまではお互いおとなしくしなきゃね。
  でもこんな調子だととても授業に集中できそうにない。ああ、よーくんも途方に暮れた顔してる……
「──おーい、また遠くを見ちゃって、どうしたの」
「あ、えっと、なんでもないよ」
「なんでもないってなぁ……確かに胡桃はしょっちゅう遠い目をしてボーッとしてるけどさぁ」
  ぶつぶつ言ってくる梓に生返事をしながら、わたしはこれからどうすべきか考えていた。

 千里眼っていうのかな。遠くを見通す、超能力みたいなの。
  わたしは生まれつきそれを持っている。使いこなせるようになったのは小学生になってからだけど。
  昔から「胡桃は目がいい」とよく驚かれた。どんなに遠くにあるものでも、角度が悪くなければ
  米粒程度の文字さえ読み取ることができた。「アフリカの人は視力が10.0」とかいう話も聞いたことが
  あるけど、わたしの視力は数字で表せばどのくらいだろう。4.5km以上先、地平線の彼方でも視ることができた。
  それってもう、視力がいいとかそういう問題ではない気がする。
  よーくんもわたしの目の良さは知っているし、失せ物探しが得意なのも覚えているだろう。
  けど、「眼」のことまで話すと気持ち悪いって思われてしまうような気がして、失せ物探しについては
「なんとなく分かる」としか言っていない。

 わたしの「眼」は胸のあたりにある。
  本当はどうなのか知らないけど、使っているときはそのあたりに熱を持つ。
  「眼」で視るときに目を閉じる必要はない。両目を開けたままで遠くを見通せる。
  ただ、集中力はどちらか一方に傾いてしまうので、両方の視覚を同時に処理するのは不可能だ。
  セカンドサイトに意識が行っているときは五体の感覚が希薄になるし、体に意識を戻そうとすると
「眼」は閉じてしまう。便利だけど、一種の余所見なので気をつけないと結構危ない。
  その「眼」で、暇があればいつだってよーくんを視てきた。
  よーくんと初めて会った頃。わたしは特別な能力があることを自慢にしていて、他人を見下していた。
  実に嫌な子だった。「はんッ、ムシケラどもめ」系オーラを周囲に放つ漫画みたいな悪役。
  前の学校ではかなり威張り散らしていたし、よーくんと会ったときも生意気なことを言った。
  思い出すと顔が赤くなったり青くなったりする。身悶えを禁じえない。過去に返って自分を叱りたい。
  でも、よーくんはそんなわたしを嫌ったりしなかった。
  分かっているのかいないのか、はっきりしない口振りで応じて、どんなに嘲っても柳に風、糠に釘、
  暖簾に腕押しだった。ムキになって言い返してきたところを誘導し、「眼」の力で屈服させ、従わせる
  ……そんな計画を思い描いていたわたしは、まったく手ごたえがないよーくんの態度に苛立った。
  なんで、自分がそれほどよーくんに固執するのか。
  大きな疑問からあえて目を逸らしながら、挑むような口調で突っかかっていた毎日。
  遂に我慢ができなくなり、癇癪を起こして叫んだ。
  ──洋平なんか、嫌い──!
  すると、笑われた。
「胡桃は面白い嘘をつくね」
  って。何一つ疑わない、確信に満ちた声で。
  そう。本当に嫌いなら、顔を真っ赤にして、面と向かって、そんなことは言わない。
  ようやく悟った。ムキになっていたのはわたしだって。
  気を引きたくて。構ってもらいたくて。それを認めるのが恥ずかしいから生意気な口を利いて。
  そこにいたのは特別でもなんでもない、ただ素直になれないだけの女の子だった。
  素直になることが恥ずかしいと思って、隣の家にいる男の子と単に仲良くしたい気持ちを隠したがっていた。
  そんなの、とっくに見抜かれていたんだ──
  遠くを見通す「眼」を自慢にしていた自分が不甲斐なかった。大事なものを見落としていたんだ。
  だから、お詫びもかねて、一生懸命つくった料理を、まだ温かいうちに食べてもらおうと運んだ。
「お、お裾分けだからねっ。ただ、その、つくりすぎちゃっただけ……なんだから……」
  分かっていてもまだ素直になれないでいた自分を持て余しながら。

 以降はずっとよーくんを視ながら成長してきた。
  わたしの「眼」は単に遠くを視るばかりじゃなくて、壁とか屋根とかの障害物も通り越して視る、
  言わば透視能力も含まれていた。
  プライベートを侵害するいけないことだって分かっていたけど、何度もよーくんの部屋を覗き視た。
  自室で誰の目も気にせずに寛いでいるよーくんの姿にはドキドキした。
  休日も、よーくんがどこにいるか、周囲を360°精査して探した。いつもすぐに視つかった。
  わたしが失せ物探しが得意なのは、視ようと思うものを、方角さえ合えばほぼ自動的に発見できるから。
  携帯なんかで連絡を取り合う必要もなく、町にいるよーくんを視てはそこを目指して走ったものだ。
  一刻も早く会いたくて──
  「眼」に集中してすぎて転んだり、電柱にぶつかったり、側溝にはまったりすることも一度や二度じゃ
なかった。

 部屋で着替えるよーくんを視て興奮するようになったのはいつ頃からだったかな……
  前はそういう場面に出くわすたび顔を赤らめて「眼」を逸らしていたものだったけど、友達を通じて
  性の知識を吸収するたび、よーくんへの肉体的関心が深まってしまった。
  だからって正面切って「裸見せて」と頼むのは恥ずかしすぎる。
  いくらなんでもそこまで素直になる勇気はなかった。
  せいぜいが、ふざけているように見せかけて体をすり寄せるくらい。その程度で限界だった。
  そこで、よーくんと一緒に下校して玄関先で別れるや、脱兎の如く階段をのぼり、制服を脱ぐ暇も
  惜しんでよーくんの部屋がある方角に張り付き、わたしより少し遅れて上がってきた彼が物憂げに
  溜息をつきながら気だるく着替える一部始終を「眼」に焼きつけた。
  さすがに下着までは着替えなかったけど、それはお風呂の時間を狙うことで解決した。
  わたしの「眼」はいかなる距離も無にするけど、角度は常に一定だ。
  ベストショットを得るためのポイントを求めて夕方に家をうろうろする娘を母も父も不審がって
  いたけれど、「難しい年頃だから……」と理由になっていない理由で無理に納得していた。
  よーくんと会ったのは十歳のときだから、揃ってお風呂に入ったりしたことはもちろん一度もない。
  初めて視るよーくんの裸……!
  緊張するやら興奮するやら、感極まるあまりにガクガクと震えながら涎を垂らす娘を見て父も母も
「難しい年頃だから……」と言いつつ受話器に手を伸ばすべきか迷ったことだろう。
  そんなこんなでわたしがよーくんの裸に異性を感じ出すのに前後して、よーくんも異性への興味を
  抱き始めたようだった。ふたりとも中学に上がり、よーくんの声変わりも始まった頃だ。
  こともあろうに本である。いかがわしい写真が乱舞する書籍に、よーくんの視線は釘付けだった。
  誰のものとも知れぬ裸に欲情するよーくん。それを覗き視るわたし。
  耐えられるはずもなく、よーくんが卑猥な本を部屋に持ち込むたび押しかけ、廃棄を強制した。
  隠し場所に工夫を凝らそうとするよーくんの努力は涙ぐましかったけど、わたしの「眼」に敵う道理はない。
  モノがモノとはいえ私物の廃棄を求められることはよーくんにとっても不快だったようで、
  何度か苛立ちの素振りを見せたこともあったけれど、こちらを見ると諦めたように何も言わなかった。
  よーくんは、なるべく平気な顔をしているわたしが内心で耳鳴りがするほど激昂していたのを
  察していたみたいだった。よーくんは鈍いくせに、そういう察しはやけにいい。
  鈍い──そう、彼はわたしの気持ちを知っててわざと無視してるのでは、と勘繰るほど鈍い。
  なんでこんなに甲斐甲斐しく干渉しているのに、よーくんは反応してくれないんだろう?
  もっと露骨じゃなきゃいけないのかな?

4

 よーくんが自慰をしているのに気づいたのは、中一の秋だった。
  その頃、よーくんが寝付くのを視守ってから眠りに就こうと頑張っていた。
  でも、わたしは十時前に寝てしまうのに、彼はもっと遅くまで起きてるようで、なかなか難しかった。
  よーくんの寝顔を見てから眠ったら気持ちいいだろうなぁ、と思いつつカーテンの彼方を眺めていた。
  すると、まだ十時前なのによーくんは消灯してベッドに潜り込むところだった。
  これはチャンスだ。よーくんが寝付く瞬間を捕捉しよう。
  多少浮き立った心で観察したけれど、彼は輾転反側と寝返りを打つばかり。
  もう涼しくなって寝苦しい季節でもないのに、どうしたんだろう?
  じっと「眼」を凝らしていると、よーくんは掛け布団を跳ね除けて起き上がり、電気を点けた。
  眠れないのかな……何か悩みでもあるのかな……て心配していたら。
  突然、パジャマのズボンを下ろした。パンツごと。
  思わず「眼」が丸くなった。無論、比喩だけど、実際そんな心地がした。
  部屋で寛いでいるときはだらしなく股間を掻いたりお尻を掻いたり、なぜか腋の下や足の裏を嗅ぐ
  ような奇行に及ぶよーくんだけど、パンツを下ろしてアレを剥き出しにするのは初めて見た。
  半ば思考が止まっているわたしをよそに、よーくんが晒し出したものに手を伸ばす。
  何度か視たものではあった。が、まさか「勃起」という現象があれほど凄いとは思わなかった。
  よーくんのそれは普段とはまるで別物で、自分の体内に飼っている動物を引っ張り出したようにも視えた。
  慣れた指つきで皮をめくると、ゆっくりとしごく。日課のように、ぎこちなさを感じさない動き。
  事実、日課だったんだろう。たまたま、その日がいつもより始めるのが早かっただけで。
  いつもはわたしが眠ってからの時間帯にしていたというだけで……
  「オナニー」という言葉は聞いていたし、概ねどんなものかも知っていたが、いざよーくんが
  しているところを視るとショックを受けた。よーくんが男の子なのは当たり前だし、わたしだって
  異性として意識しているし、求められれば、えと、その、やぶさかではないつもりだった。
  しかしそれはそれ、だった。知識としてしかインプットしていなかった事柄を「眼」の前で堂々と
  (そりゃ、視られてるとは思ってないだろうけど)遂行されると、動揺しすぎて思考がポッカリ空白になった。
  これは、さすがに、視ないでおいた方がいい……遠くから理性の訴えが響いた。
  でも、蠢く指に翻弄されて跳ね回るよーくんの秘密めいた場所から「眼」が離せなかった。
  テスト勉強しなきゃいけないと分かっているのに他のことがやりたくなる、あの気持ちを百倍強化した感じ。
  よーくんはきつく目をつむって指を動かし続けた。
  静かに。黙々と。

 ……ねえ   よーくん、
   その脳裡に  何を    誰を
      思い浮かべているの  ……?

 思考の空白が埋まり、足早に訪れたのは興奮ではなく、虚しさと哀しさだった。
  こんなに、わたしが視ているのに、そばに感じているのに。
  手が届かない。わたしの手が、伸ばしても伸ばしても、どこにも届かないのだ。
  やがて言葉もなく欲望を吐き出し、気だるげに脱力した後で処理にかかる一部始終を、
  泣きたくなる気持ちのまま視守っているしかなかった。
  どんなに遠くが視えたって、すぐそこにいるよーくんの頭の中を視ることはできない。
  彼が何を考え、思っているのか、分からないままただ視ていたってどうにもならない。
  ──わたしは、手を届かせたかった。

 行動を起こさないといけないのは自明だったけれど、さりとて具体的な方策はなかった。
  昔からずっと露骨なくらい好意を示してきたのによーくんが反応してくれないのはただ鈍いだけじゃなく、
  知っていてわざとわたしから距離を置いているんじゃ……って考えると告白には踏み切れなかった。
  よーくん、好き──胸の裡でなら、何千回、何万回と呟いた。
  舌に乗せる直前まで行ったこともあった。でも、断られるのが怖くていつも後回しにしてきた。
  頑張ろうとは思ってみても、勝算を見積もる材料が乏しくて、不安だったのだ。
  自分に自信は持っていた。よーくん以外の男子にだったら何人も告白されたし、
  よーくんだってチラチラとわたしの体に視線を這わせるようになった。
  満更興味がないわけでもないだろうし、まったく異性として意識していなかっただなんてありえない。
  よーくんがあくまでわたしという存在を欲しいと思っているのか、
  それとも不特定の女の子に対する関心がたまたまわたしの方にも向いているだけなのか、
  その判断はつかなかったにしても。
  別にどっちでも良かった。よーくんがわたしを「綾瀬胡桃」としてではなく
  「手近なところにいる女の子」として見ているのでも構わなかった。
  よーくんが他の子を見さえしなければ、わたしはそれで充分なのだ。

 他の子を、見さえしなければ──?

 ああ、なんだ……簡単なことじゃない。
  わたしはようやく方針が見えた気になって笑った。
  よーくんに、わたし以外の女の子との接触を断たせればいいんだ。
  性欲を持て余している彼は「女の子なら誰でもいい」って思ってるかもしれない。
  選択問題みたいにいくつかの候補があればよーくんの気持ちはどこに向こうか予想できないけれど、
  わたし以外の子と関係を深めることができない状況に追い込めば、彼は自然とわたしを唯一の候補と
  見做すようになるはず。選択肢が一つしかなければ、誰だってそれを選ぶしかないんだから。
  よーくんの人間関係を封鎖する。見えない檻に閉じ込める。それが、中学生の間に心血を注いだこと。
  席替えのときは籤引きの中身に「眼」を向け、必ずよーくんの隣を確保した。
  存在を近くに感じられる点でもうってつけの位置だったけど、
  よーくんに近づく女を汀で迎え撃つ絶好のポジションでもあった。
  行動を監視するのは当たり前。そばを離れているときによーくんが他の子と会っていても、
  偶然に見せかけて駆けつける。携帯の番号を交換するような女友達は絶対につくらせなかった。
  ただ視ているだけでは無益な力も、行動と結びつければ役立つにことこの上ない。
  いつもよーくんを視てる、という安心感があった。彼がわたしの知らないどこかでよからぬことを
  しているのでは、という不安に苛まれることもなかったから余裕も湧く。自慰に飽き足らなくなって
  悶々とするよーくんは遠からずわたしに食指を伸ばすと信じて疑わず、泰然と構えていたわけだ。
  その安心感と余裕が仇となったのかもしれない。持久戦に耽っているうち、中学を卒業してしまった。
  ──このままでは駄目だ。もっと積極的な策を取らなくちゃいけない。
  募る想いと焦りから、警官だった祖父の部屋に忍び込んで手錠を調達した。
  然る後、よーくんを部屋に誘い込もうと試みた。
  オナニーばかりを繰り返すのはよーくんの体にも良くない気がしたのだ。彼のためを思うからこそ、
  手段なんて選んでいられない。わたしから襲うみたいな形になるのは内心忸怩たるものがあったし、
  よーくんの自由意志を蔑ろにするみたいで心苦しかったにしても、こっちにはちゃんと愛情があるわけで
  結果的にはよーくんも満足してくれるに違いないから別に犯罪じゃないよね。うん、完璧な理屈。
  でもよーくんはどんなに誘っても部屋に上がろうとはしなかった。
  もう気軽に部屋を出入りできる年頃ではないんだ、と気づいた。ああ、もっと早くやっておけば……
  悔やんでも仕方ない。
  しかし諦めることもできなくて、鍵の掛かる引き出しにはまだ手錠が仕舞ってある。

 周りのみんなはわたしをよーくんの彼女って見てくれている。
  残念ながらよーくんは「違う」って否定するけど、形成された包囲網が一種の圧力になっていたはずだ。
  しかし今、それも綻び始めている。
「おい、胡桃。あんたの彼氏が一年の子と浮気したとかしないとか、やたら噂になってるよ」
「よーくんが浮気だなんて、そんなまさかぁ」
  心配そうな梓に、繕った笑みで応えながら、穏やかな気持ちではいられなかった。
  千里眼で声まで聞くことはできない。でもちょっとだけなら唇を読める。
  「せんぱい・すき」「つきあって・ください」──何かの間違いなら良かったのに。
  荒木、麻耶。ちっちゃくて可愛くて、遠い国のお姫様みたいな下級生。
  男の子に対して冷淡で、つれない素振りが得意な子だけど、だからって安心はしていなかった。
  よーくんは生意気な女の子を転ばす素質があるから……昔のわたしみたいに。
  用心して早めに釘を刺しておかなきゃって思っていたら、タッチの差で先を越されてしまった。
  今からでも刺せるかな。うん、刺さないと。
  何を?
  釘を。
  刺したいな、あの青い目に。刺したいな、あの高い鼻に。
  顔中、釘・釘・釘で埋め尽くしてあげたいな。
  あはっ──喩えだけどね?
「うっ。胡桃の表情……なんか怖くね?」
「そう?」
  昼休みになったことだし、お弁当を小脇に抱えてよーくんの教室へ向かう。
  ごはんを一緒に食べるのはわたしたちにとって日常の一部だ。誰にも邪魔はさせない。
  教室の前まで来た。開け放たれた入口から中を覗く。

 あの女が。よーくんのそばに立って、あろうことか──手まで握っていた。

 体温が下がる。口のあたりが強張りそうになる。訳が分からない。
  ねえ、荒木さん。あなた、誰の許可を得てそんな近くにいるのかな?
  よーくんにはわたしという存在がいるってこと、分かっていてふざけた真似をしてるのかな?
  冗談も度を越すと、笑えなくなるよ?
「…………あはっ」
  笑えないと思いつつ、込み上げてくるのはおかしさだった。
  怒りや憎しみが歴然としてある一方で、笑い出したくなる気分もどんどん湧いてくる。
  ずっと待ち望んでいた、「好き」って告白を口にする機会、先に取られちゃって。
  わたしだけが握ることのできたよーくんの温かい手を、べたべた触られちゃって。
  ここまでやられちゃったらさ……なりふり構っていられないよね?
  なりふり、構わなくていいよね?
  今まではよーくんとの関係が壊れるかもって恐れていたけど──もう箍を外そう。
  決心すると、なんだか、わたしがようやく「本当の自分」になれたような……解放感と充実感を覚えた。
  聖書の言葉にあったっけ。土は土に、灰は灰に、塵は塵に、ゴミはゴミ箱に。
  掃除の大切さが身に沁みるね。実力行使だって厭わない心境でGO、だね。
  例えば。雑菌だらけというより雑菌そのものな手を切り落としてやるとか。あはっ。
  他にも、よーくんを誘惑する猫なで声が二度と出せないよう、あの子の声帯でも切っちゃうとか。
  なーんてね。
  ふふ……でもわたし、声帯ってどのへんか知ってるよ……
  だって、視えるもの。

5

 言っちゃいました、言っちゃいました。
  先輩に、好き──って。
  言っちゃいました!
「時間がありませんし、返事はまた後でお願いしますね」
  と余裕ぶり、澄ました顔でお辞儀して出てきましたけど。
  心臓はもうバックバク。すぐにも破裂してしまいそうな有り様です。
  顔が熱くなってるのも分かります。冷めろ〜、冷めろ〜、と念じても無理です。冷めません。
  少しでも興奮を紛らわせようと深呼吸したり髪をいじってみたりしました。
  ふう、と物憂げに溜息をついて窓の外を眺めたりもしてみます。落ち着いたふりではありますけど、
  ちっとも落ち着いていないのは震える肩からして明らかです。息もまだちょっと荒い。
  こんなに緊張したのは入学以来初めてでしょう。
  殿方に交際の申し込みをすること自体が初めてですから仕方ないと言えば仕方ありません。
  いくら私が周りとは趣を異にする外見だからって、心の中身は高校生。
  いえ恋愛経験が不足気味というかゼロなことを勘案すれば中学生レベルかもしれません。
  念願の告白……前夜に鏡の前でこれでもかと練習してはみましたものの、やはり本番はキツいです。
  いっそナシにして辞書だけ借りて帰ればいい、と弱気の虫を跳ね返すのに難儀しました。
  そもそも辞書なんて口実に過ぎないんです。本当は持ってます。告白のために乗り込んだんです。
  あそこで引き下がったりしたら自分の情けなさに涙を流すところでした。
  まずは第一段階が終了ってところでしょうか。いかにも人の気を知らない、鈍そうな先輩に向かって
  私の想いを吐露することができただけでも上出来。これであの人は嫌でも私が気になりますよね。
  先輩に決まった人がいる、という噂は会って間もない頃から耳にしていました。
  最初は「ふーん、あんな男に」と比較的無関心でした。色恋沙汰にはまだ興味がなかったから。
  無関心でいられなくなってからは、「決まった人」が誰なのか気になり出しました。
  噂は有名だったので、友達にちょっと聞いてみただけで相手の方が分かりました。
  先輩とはクラスが違う、三組の綾瀬胡桃さん。長くて黒い艶やかな髪、すらりと伸びた背。
  弓道部という所属に負う凛とした立ち振る舞いの中に、活発で朗らかな性格が垣間見えます。
  発育も大変によろしく、凹凸のお手本みたいな体は男女問わず注目の的でした。
  友達に「憧れる」と述べる子もいましたけど、私は羨望より妬みが勝ちました。
  いつになってもずっと「外人」扱いの見た目と、一向に成長しない体。
「外人なのになんで成長が遅いの?」みたいな眼差しを受けて何度傷ついたことか。
  私服で歩いてるとき「あの子、小六くらいかな?」「外人だから上に見えるんだって。本当は十歳未満だろ」
  と無茶苦茶なこと言われました。
  誰も彼もが子供っぽく見えるクラスメートの男子に「子供みたいだ」と思われる屈辱がどれほどか、
  ちょっと表現し切れないものがあります。
  そんな体験を一度もしないでチヤホヤされてきただろう綾瀬先輩。
  よりによってそんな人がなんで彼のそばにいるの? と二重の妬ましさに苦しみました。
  私自身「あんな男」と思った時期があるように、彼は取り立てて目立つ生徒ではありません。
  運動も成績もパッとせず、見た目も性格も格好いいわけじゃなく、純粋な注目度は低い。綾瀬先輩を
  語るついでに「ヘタレ」呼ばわりされるのが関の山。あたかも料理に添えられたパセリです。
  なのに綾瀬先輩は彼に付きっ切りで、昼食も一緒、登下校も一緒です。「はい、あ〜ん」をやったり
  おてて繋いで歩いたりしてるんですからもうバカップルそのもの。
  そんな光景を他人事と切り捨てることができずに悩み、胸を苦しませるようになったのは。

 私が、パセリの味に目覚めてしまったからです。

 大して劇的な切欠はありませんでした。なんてことのない積み重ねで、私は恋に落ちていました。
  彼は図書館によく来ました。うちの高校は併設されている図書館の規模がそこそこ大きく、当番は
  組まれていますが基本的に図書委員が総出になります。おかげで私も目にする機会が何度もあり、
  自然と話しかけられる関係になりました。
  私は殿方に対する不審が根強かった。彼らは、見下すことをやけに好むから。
  「可愛い」「綺麗」という言葉は同性の友達からも掛けられますし、
  愛玩動物を見るような意識が感じられるとはいえ誉め言葉として受け取ることに抵抗はありません。
  しかしそこに珍獣か何かを調教しようとするような不快な好奇心を覗かせるとあっては、
  到底応える気になれません。
  どうも私は相手の征服欲を無闇に煽るところがあるらしいです。
  金髪で碧眼という未だに日本人のコンプレックスを刺激してやまない要素に加えて、
  体が未成熟で幼く見えることがいけないようです。
  私だって、別に恋愛に興味がないわけではありません。
  ただ、「したい」と思える人がいなかった。
  だからもちろん、先輩に対しても最初は好感を抱いておりませんでした。
  警戒心が解けず、随分と突慳貪な受け答えをしてしまった記憶があります。
  ここで怒ったり萎縮したりする人もいますけど、先輩は軽く受け流していました。
  ひょっとして鈍い人なんだろうか、って確かめる意味で何度も露骨に冷ややかな態度を取ってみました。
  それでもめげません。どころか、高いところにある本を取ってくれたりするとき、
  恩着せがましくもわざとらしくもない雰囲気で向き合ってくれます。
  男の子へお礼を言うことに慣れていない私の小さな声にも気にした風がなかった。
  そこで上向き修正が加わったのは確かです。
  ふさふさした金髪や青い瞳という、私の一部分に過ぎない場所ばかりを注目せず、
  ありきたりの友達として接してくれるような異性を求めていた……って想いが漠然とありましたから。
  むしろ、あったはずなのに、です。
  不思議なことに、彼が自然な優しさや思いやり、時にからかいを示すたび、私の身は硬くなりました。
  体を覆う不可視の殻──好奇の視線や不躾な言葉から守る、精神的な防御。
  対人関係においてそれをまとう傾向にある私ですが、彼と会話するたびに殻の存在を意識し、
「もっと厚くしなければ」と思うのです。いささか過剰なくらいに。
  そうしないと、私の「中身」が溢れ出してきて、こぼれてしまうような……そんな気がしました。
  なんだかとても息が苦しくなりました。
  いっそ先輩なんて無視してしまえばいい、と思ったこともあります。黙殺してしまえば、苦しまない。
  けれど、話しかけられるたびに反応せずにはいられない自分がいました。
  どんなに殻を強固にしても、無視することはできなかった。
  むしろ無視したくなかったからこそ、殻を補強したのかもしれません。闇雲に、頑なに。
  そして。綾瀬先輩という非の打ち所がない人が彼の傍らに寄り添っている瞬間を目にしたとき。
  私は諦めることにしました。
  彼を、ではありません。殻を保持し続けることを、です。
  たぶん、彼は私の築いている殻に気づいているはずです。
  決してその殻を壊そうとはしません。殻ごとの私を見てくれているのだと思います。
  でも、私は。
  楽しげに笑って彼の手を引っ張る綾瀬先輩を見て。
  どうしてもあの位置に立ちたい、と願ってしまったんです。
  ──話しかけられるばかりで、身を硬くして自分から喋りかける言葉を持たない私が嫌でした。
  ──廊下で会っても、挨拶程度しか交わせずに通り過ぎるだけの関係が嫌でした。
  私はあの人のことをよく知りません。
  だからこそ。もっと知るために殻を脱ぎ去ろうと決心しました。
  それは、あの人なしでは生きていけないような女になるってことかもしれないけれど。
  剥き出しの私を見て欲しくなったのだから、どうしようもありません。

 綾瀬胡桃が別に先輩と付き合っているわけじゃないことを先輩本人の口から聞いたとき、
  思わず小躍りしたくなる気分を抑え込むのに苦労しました。
  胡桃は幼馴染みだよ、別に彼女ってわけじゃない──
  図書館で他の人にそう言っているのを耳にした私は、いよいよ自信を持ったわけです。
  たとえ先輩と綾瀬胡桃が本当に男女交際しているのだとしても、玉砕する覚悟ではいましたが。

 そんなこんなで昼休みになりました。
  愛しの……と言い切れるほどの自信はまだありませんが、ともあれ先輩の教室へ急行します。
  コンパスの短い足が今はもどかしいばかり。
「き、来たぞ! 魔性の下級生が!」
  入って行くと、私は注目の的になりました。
「おいおい、すっげぇ自信満々だぜ、あの目つき。まるで映画の子役みてぇだ」
「こんなちっちゃい子が男を寝取るだなんて世も末だなぁ」
「洋平のバカタレがモテる時点で世の中終わってるよ……」
  なんでも告白した休憩時間以来ずっと私の話題で持ち切りだったそうで。
  「略奪愛の旗手」とか「いたいけな泥棒猫」とか、大層な名前までいくつも得てしまいました。
  略奪も何も……先輩はフリーのはずなのに。まあ、先輩以外の発言は特に気になりません。
「しかし、相手が三組の綾瀬さんよりも格下なら話にならなかったところだが……」
「うむ、格上格下以前にタイプからして違う。この勝負、読み切れん!」
  うるさい外野はシカトしましょう。
  ここは脇目も振らずに駆け寄るのが恋する乙女の嗜みです。
  たったっと小走り。先輩はぐったりした感じで椅子に座ってます。どうやらかなり詰問された様子。
「ええっと、で、さ。荒木。悪いけど俺は……」
「先輩!」
  いきなり断りの言葉から始めようとした口を慌てて塞ぎます。出鼻を挫かれるのは最悪のパターンです。
  あの女を引っ張り出すまで間を持たせないと。
「えっ、何?」
  大声に反射的な質問を返す先輩。戸惑っているその顔に向け、

「だ──抱いてください」

 ぶほわぁっ、って壮絶な音とともにごはんを吐き出すクラスのみなさん。汚いなぁ。
「……は……?」
  先輩まで土偶のような顔をしています。少し予想外です。
  いくら衆人環視だからって「抱き締めてほしい」とお願いするだけでここまでびっくりするなんて。
  緊張で少し言葉は違ったかもしれませんがニュアンスはちゃんと伝わったはずですよね?
「……駄目ですか?」
「そりゃ……駄目だろう……普通……」
  驚きすぎたのか、他人事みたいな口振りです。
「じゃあ、いいです。代わりに手を握らせてください」
  大きな要求を突きつけて拒ませた後に譲歩して小さな要求を行うと、相手はついそれに応じてしまう、
  いわゆる「ドア・イン・ザ・フェイス」の心理テクニックを活かした戦法です。我ながら完璧。
  言われるままに差し出してきた先輩の手をはっしと両手で掴み、挟み込むように握ります。
  伝わり合う素肌の感触……ふふ、ちょっとだけ親密度アーップ。
  あの女もそろそろ来る頃合ですね。

 さあ──勝ちに行きましょう。

6

「道を開けろ……! 本妻の出頭(おでまし)だ!」
「来たか、全クラスに勇名を轟かせる最強の世話女房!」
「現代に甦った那須与一!」
「浮気者は射殺すまでッ!!」
「見せてくれ、『情けなし』の心!」
「──二年三組、弓道部所属、綾瀬胡桃さん!」
「おおお──!」
  相変わらずこのクラスの方々は騒がしいことこの上ありません。
  当の綾瀬先輩は自分の名前を呼ばれたのも耳に入らないようで、
  奇妙に強張った笑みを顔に貼り付かせて立っています。
  手を握られたことがそんなにショックだったんでしょうか。たかだか手ぐらいで。
  ふふ、ショックですよね……私だってあなたと先輩が手を繋いでるの見たとき、結構キましたもの。
  きっと今、私の手首を切り落としたいとか思ってますよね。あははっ。
「く、くるみ……これ、は……その……」
  喉をひくつかせて呻く先輩。なんだか本当に浮気が見つかった亭主みたいです。
  むー。不満です。納得いきません。
  彼氏でもなんでもないんなら、もっと毅然とした態度を取ってほしいところですよ。
「よーくん、」
  つかつかと歩み寄ってきます。私と違って背が高いので迫力ありありです。
  なにげない手つきで髪を掻き上げましたが、指先が僅かに震えているのを
  動体視力のいい私は見逃しません。
  手にはお弁当袋があります。自分のに加え、先輩のも用意してきたんでしょう。
  と。いきなりでした。

 ゴッ

 私の腕を殴りつけたのです。肘のあたりを、こう、無造作にスイングした拳で。
  ジーンと痺れます。
  思わず力が抜けて離してしまった手──蠅でも叩くみたいに押しのけて、体を割り込ませました。
「おべんと、食べよ?」
  にっこり笑って先輩に向かい、私の方はアウト・オブ・サイト。
  存在を強制的に無視されてしまいました。いやはや。これは難敵ですね。
  でもこれしきで引く気はありません。逆襲してやります。
「先輩、一つお聞きしたいのですが」
「えっ?」
  彼はまだ混乱から立ち直っていない模様。
  一気にカタをつける必要がありそうです。畳み掛けましょう。
「綾瀬さんは、先輩の幼馴染みであって──別に恋人ではありませんよね?」
  ひくり。肘叩き女は片っぽの頬を痙攣させました。
  ここで否定されたら彼女は立つ瀬がなくなる……のですが、
「う……えーと……その……」
  先輩は言葉を濁すばかりで答えようとしませんでした。
  目から「恋人って言いなさい」ビームを放つ綾瀬胡桃の威容に恐れをなしたのでしょうか。
  む。あれだけ鈍い先輩ならズバッと確言するって思っていたのにあてが外れちゃいました。
  まあいいです。気長に攻めましょう。
  勝算はゼロじゃありませんし。
  何はともあれ今は。
「──お昼、ご一緒させてもらえませんか?」
  チャンスに食いつくのみ。

 かくしてギスギスした昼食会に出席することと相成りました。
  綾瀬胡桃の放つオーラが重いです。「あっち行け」系の圧力を無言でのしかけてきます。
  それでも先輩の心は離したくないからか、顔は懸命に装ってにこやかな表情を浮かべています。
  よっぽどつくり笑い慣れしてるんでしょう。倒すべき牝犬ながら、尻尾振りにかける情熱は見事だと
感心させられます。お爺さんの時計並みに何年も休まずパタパタと振り続けてきたに違いありません。
  ご苦労様です。もうすぐ千切ってあげますからね、その尻尾。
「でね、よーくん、さっきの休憩時間に梓が緑茶噴いちゃって……」
  巧みに私の存在を無視しつつ雑談を披露する牝犬。
  私は黙々と食事。今ここで先輩に話しかけても、牝犬に妨害されるのがオチです。時間の無駄。
  仕掛けるのはもう少し先です。
  そろそろ。そろそろ来る頃ですよ……。
「よーくん」
「ん?」
「はい、あ〜ん」
  出ました! ダダ甘幼馴染み流必殺の型、「食べさせてあげる」の構え!
  左手を添え、おかずをグリップした箸を周りの目も気にせず悠然と突き出しています。
  この態勢から繰り出される一撃はあらゆる殿方を骨抜きにし、ことごとく幼児化せしめる威力を持つとか。
  口を半開きにして「あ〜ん」とかほざく女は同性から見ればキモいだけですが、異性には違うみたいです。
  というかこの女、相当「あ〜ん」慣れしてますね……口の半開き具合が絶妙ですよ。
「う……あ〜ん」
  逆らっても無駄だと学習している先輩は素直に従っています。
  親鳥から餌を受ける雛のように口を開けて。
  ああっ……悔しいっ。起こると分かってても間近で見ると毛が逆立ちそうになりますよ、これ!
  周りにどんなに人がいても構わずふたりだけのラブ時空──
  衆人環視の密室をつくりだす威力は傍から眺めてると「おへえ」とか呻きたくなります。
  脳がムズムズする感じで、目の裏が痒くなってきます。
  ぐぐぐ。牝犬め、毎日毎日来る日も来る日もこんな不埒の悪行三昧に及んでいたとは。
  即座に予定を変更して彼女のお弁当を引っ掴み、窓の向こうへダイブさせたくなりました。
  我慢……ここは我慢の子ですよ、麻耶! あなたは我慢のできる人です! 耐えよ!!
  己に言い聞かせて必死に自制をかけます。傍らで行われるおぞましい儀式からも目を背けません。
  既に彼女が使って唾液が付着している箸を、先輩の唇に触れるよう動かされても我慢。
  先輩の伸ばした舌がねっとりと箸や具材に絡みつくのを傍観させられても我慢。
  そもそもお弁当自体があの女のつくったもので、材料に腐れた愛情が混じっている件も我慢。
  綾瀬胡桃が勝ち誇ったような視線をこちらに投げて含み笑いするのにも我慢──
  すみません、やっぱり屠殺していいですか、この牝犬?
「どう? おいしい、よーくん?」
「あー、塩加減がちょうどいいな、うん」
  にこっ。照れっ。阿吽の呼吸で遣り取りされる常習犯スマイル&はにかみ。
  がああ……っ! 腸が煮えくり返るとはこのことですか……っ!
  無理、もう無理! これ以上は耐えられません! 反撃の狼煙を上げさせていただきます!
「せ、せんぱいっ!」
「な、何?」
  いけません、緊張と憎悪でつい声が裏返ってしまいました。
  コホン、と一つ空咳をしてから。
「……はい、あ、あ〜ん……」
  やられたんだからやり返します。私も先輩に食べさせてあげるのです。
  座高でも差がありますから、ちょっと腰を浮かせていますよ。手もプルプルですよ。
  恥ずかしいせいで口も半開きどころか四分の一開きですよ。
  ええきっと傍から見れば不恰好で無様ですよ。
  でも私だって必死なんです。必死になってる乙女を笑わないでいただきたい。
  摘むは丹精を込めてつくりあげた、彩りも鮮やかな塩茹でブロッコリー。
  今、先輩の口元へ参ります……!

 と見せたのはフェイントですよ、綾瀬胡桃!
「…………ッ!!」
  一瞬物凄い形相を覗かせた牝犬めが机の下から蹴りつけてきます。
  はははっ、引っ掛かりましたね、罠とも知らず!
  あらかじめ読んでいた私は難なく避けます。
「あっ!?」
  そしてバランスを崩したかのようにフラついてみせるわけです。
  少しだけ持ちこたえるフリをしてから先輩めがけて倒れ込みます。
  ここで先輩が避けたりしたら私はただのイタい子というか椅子に激突して痛い目見る子になりますが、
  先輩は避けません。これには確信があります。はじめから分かっていて賭けたのです。
「わっ……荒木!」
  ほうら、狙い通りに腕の中へぽすん、です。
  このときばかりは小さくて軽くて受け止めやすい我が身を幸いに思うことしきりでございます。
  一連の所作においてもグリップしたブロッコリーを取りこぼさなかったのは執念の為せる技。
  抱き止められ、見上げる形になった私はすかさず箸を先輩の口に向け、食べてもらいます。
「どうですか?」
「もぐっ……ああ、これも塩加減がなかなか……ハッ!?」
  殺意が篭もった視線に気づいて振り返る先輩。
  綾瀬胡桃は慌てて嫉妬まみれの表情を消しますが、一瞬チラッと見えたはずです。
  ふふ、先輩、あれがあの女の本性ですよ。付き合うには重過ぎる奴って分かりますよね。ふふ。
  今度は私が勝ち誇る番です。お箸を持ったまま先輩の腰に腕を回しギュッと抱きつきます。
  鼻孔に伝わってくる汗の混じった匂い。これが先輩の体臭──嗅覚に刻み込みました。
  容姿のせいか「気紛れな猫」と言われたりする私ですが、むしろ心性は犬に近いと自覚しています。
  匂いには敏感なんです。今後はこの匂いを「ご主人様」と認識して帰巣する所存にございます。
  こっそりしたつもりでしたが鼻をスンスンさせている私の仕草に綾瀬胡桃は気づいた模様です。
  敵もさる犬。「匂い」に関しては鋭敏なんでしょう。マーキングされることも警戒してるはずです。
「よーくん……ちょっと、聞いてくれるかな」
  いよいよ腹に据えかねたのか、彼女は重々しい口振りになりました。
  ゴクリと喉を動かす先輩。周りの方々も固唾を呑んで見守っています。

「わたしね、よーくんのことが──好き」

「愛してる。ずっと、ずうっと昔から。口にするのは初めてだけど、気持ちは最初からあったよ」

「だから、ね。お願い。早くその目障りな子をフッてくれないかな──?」

 ああ……言っちゃいましたね。
  いいんですか、綾瀬さん。覆せませんよ。
  あなたがそれなりに大切に思っているかもしれない、幼馴染みとしての距離。
  二度と取り戻せないのかもしれませんよ……?

 脱幼馴染みを目指す牝犬から宣戦布告が為されてより七時間後。
  夕食も終わって寛いでいるところです。
  遂にあの女との全面戦争が始まったとなると気持ちもそわそわしがちですが、
  適度な弛緩もなければ勝ち抜けません。気を張るばかりがすべてではない。
  肩の力を抜いたまま携帯を取り出し、先輩の番号へ掛けます。既に短縮に登録済。
  でも掛けるのはこれが初めて。先輩の方には見知らぬ番号が表示されているはず。
  名乗らなくては、と思うのにドキドキして第一声がなかなか出ません。初TELって緊張しますねー。
『……荒木か?』
「な、なんで分かったんですっ!?」
『蔦が……いやなんでもない』
「はぁ」
  なんか別の意味でドキドキしました。
『ていうか、なんでお前が俺の番号知ってるんだよ?』
「秘密です」
『えっ、秘密?』
「はい」
『秘密って、え?』
「秘密です」
  断固として口を割るつもりはありません。
『まあいいや……で、どうしたんだ』
「単刀直入に言うとですね、私の告白の返事を延ばしていただきたいんです」
『延ばすって、なんでまた』
「牝い……コホン、綾瀬胡桃さんまで告白したせいで事態がもつれているからです。
仮に先輩が私を受け入れてくれたとしても今の段階で彼女が聞き分けてくれるとも思えません。
必ず荒れます。既に荒れ気味ですが、もっと荒れること請け合いです。
少し時間を置いて私たちの気持ちが整理できるまで保留すべきでしょう。
でないとこの三角関係は血を見ることになりかねません」
『あのな、荒木。気を持たせないように言っておくが、俺はお前のこと……』
「先輩に恋愛感情がないのは承知してます。でもですね、考えてみてください。現在の状況はほぼ二択に
なっているんです。つまり、先輩が私をフッたら自動的に綾瀬さんと付き合うことになりますね。
『あの子を捨てたってことはわたしを選んでくれるのね! 嬉しい……!』
って彼女は絶対に言ってきますよ」
  これまでは想いを口にしなかったので曖昧な関係でもすんだわけです。
  しかし、一度明言してしまったからには彼女も後に引けません。吐いた唾は飲めないのです。
  そう仕向けることが私にとって、か細い勝機を掴むことに繋がる──
「私を選べとは言いません。先輩に考える時間をつくってほしいだけです。
私をフッたせいでなし崩しに綾瀬さんと付き合うことになるとか、
そうした流れにはなってほしくありません。消去法ではなく、あくまで先輩が自分で考えて
どちらを選ぶか決断する、そのための猶予として返事を保留していただきたい」
  逡巡の時間は一分とかかりませんでした。今日のこともあったからでしょうか。
  彼も、綾瀬胡桃には危惧すべきところがあると分かったみたいです。
『……分かった。それでいいんだな』
「ええ」
  二、三言交わした後、通話を切りました。途端に静寂が身を包みます。
  なんて淋しいんでしょう……先輩の声が聞こえなくなっただけで、こんなにも。
  ふふ、強く持とう、強く持とうと願っていても、剥き出しの心は脆いみたいですね。
  私は強くありません、ちっとも強くありません、強いフリをしていただけです、痛感せざるをえません。
  一人だけの体温がひどく心細いです。殻を脱いでしまったせいか寒さが芯まで沁みてきます。

 せんぱい。はやく、あなたが私の殻になってください──

 情けない欲求と、それを許そうとする憐憫の中で、静かに頬を濡らしました。
  私はこの弱さを肯定し、強さに変えられるまで、負けるつもりはありません。
  たとえ相手があの綾瀬胡桃であっても。吐いた唾が飲めないのは私もです。
  一度孵化してしまったからには。
  殻の中へ戻ることなどできません。

7

 両手に花と人は言うが。俺にとっては花の牙に狙われ蔦に絡みつかれる秘境の密林な日々だった。

 随分とこちらにとって都合のいい提案をしてくれた荒木は、明くる朝に俺ん家を強襲した。
  夜中に突然電話を掛けてきといて、そのうえ自宅まで押しかけてくるとは。夜討ち朝駆けの精神か。
  チャイムの音に「は〜い」と玄関のドアを開けた母は、そこに外国人風の少女を見てたまげたことだろう。
  え、なに、宗教の勧誘? こんなちっちゃい子が? みたいな。
  彼女が息子の後輩と聞いて腑に落ちないながらも俺を呼びにきた。
  着替えもまだだったせいで対応に困り、「ちょっと待たせてやってくれ」と伝えたら母は気を利かせて
  しまったらしく「じゃあ、上がってもらいましょう」という運びに。
  そうして朝の食卓の席に荒木麻耶が鎮座ましましている。湯気の立つコーヒーを前に行儀良く、しかし
  物怖じせず。俺や両親の方がよっぽど落ち着かない。
「え、えーと、あの、その、なんだ……」
  動転したのか、父は目をキョロキョロさせながらあらぬことを口走った。
「きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
  金縛りの呪文。
  ツッコミどころが多すぎて俺と母は絶句した。
「いえ、英語は不得意でして。日本語なら話せます」
  澄ました顔で答える荒木。目の前のコーヒーには手をつけない。
  と、そのときだった。
「ごめんください!」
  玄関のドアを荒々しく開けた胡桃が言い放った。姿は見えないが声で分かった。
  お隣さんだけあって両親ともに面識がある。これはさすがに遇しやすく、いささかホッとした面持ちで
「あら、胡桃ちゃん、いらっ……」「お邪魔します!」と迎え入れられた。
  普段、家に上がり込むことなんてないのに。やはり荒木の存在を感知したからか?
  胡桃の情報網はいったいどうなってるのだろうか。
  ズンズンと食堂に入ってきた胡桃は荒木を睨みつけた。父が「ひっ」と呻いて新聞紙を取り落とす。
  涼しげな目で見詰め返す荒木。すぐに興味なさげな仕草で目を逸らし、湯気の減ったコーヒーに
  ドボドボと牛乳を注いで啜った。ひょっとしてこいつ猫舌なのか。
「おばさん、わたしの分もコーヒーお願いします」
  言うや否や椅子を引き、座り込む。このまま粘って牽制を続けるつもりらしい。
  意識が完全に荒木へ向かっているせいか隠喩は何も見えない。そのことを幸いに思う。
  母は新しいコーヒーを用意しながら「あのね。母さん、二股はイケナイと思うなっ」と叱るような
  口調で囁いた。父も新聞を拾いながら頷いた。俺は半笑いで否定した。
  人間は追い詰められると半笑いになるらしい。
  できあがったコーヒーを渡されるや、胡桃はそのまま飲み始める。ブラック無糖、
  そして地獄の熱さがこいつの好みなのだ。辛いものは苦手なくせに。どんな舌をしているのやら。
  会話は絶えた。そらぞらしく話題を振る気にもなれず淡々と食事を取った。
  素で拷問みたいな朝だった。
  登校時間が近づいてきたので三人揃って外に出る。母は目で「ガンバレ!」と伝えた。いや何に頑張れと。
  歩き出す寸前、さっと右手を握られる。指と指とが絡み合う。胡桃恒例の「手繋ぎ刑」だ。
  やられたことのない奴には分からないと思うがこれは刑と呼びたくなるほど恥ずかしい。
  見せつける意味が強いのだろう、食虫花が満足げにゆらゆら揺れている。
「よーくん、遅刻しちゃうよ。要らない子は道端にほっぽっといてガッコいこ?」
  満面の笑顔で言えるあたり、肌寒い。

 いや、胡桃だって昔はいい子だったのだ。気遣いがあった。配慮があった。俺が他の女子と遊んでいても
  面罵せずそれらしい理由をつけてから追い払ったり俺の手を引っ張って連れ去ったりしていた。
  「もう、よーくん、メーッだよ」と冗談っぽく抓るに留めた。割合痛かったけど。花もよじれてたけど。
  ……あれ?
  なんか本質的には変わってなくない?
  気づいてちょっと憂鬱になった。
  一方、俺が胡桃と手を繋いでいる間もぐるぐると蔓を巻きつけてくることに余念がなかった荒木は、
  この攻撃にもへこたれていない様子だ。
「先輩、鞄をお持ちします」
  申し出るというより通告だった。巧みに取っ手から俺の指を引き剥がしてもぎ取る。
  持ち替えて左手に保持した。荒木自身の鞄は背負う方式になっているから両手フリーなのだ。
  ランドセルじみて余計に幼く見えるってことは、言わない方がいいんだろうな。
「あっ、こんなところに先輩の空いた手が。僭越ながら握らせていただきます」
  わざとらしい言い草とともにギュッとしてきた。小さな手だ。しかも白くてすべすべ。
  俺のと対比してみるとそのへんがいっそう際立つ。胡桃とはまた違った心地良さだ。
  あ、ヤバ、ちょっとドキドキする……
「よ・お・く・ん?」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ! 軋むっ、軋んでるっ、骨がっ!」
  絵に描いたような嫉妬っぷりだなぁ、おい! 顔は笑ってるけど目が笑ってないし口角引き攣ってるし
  食虫花さんもプンスカ湯気を発してるぞ。えらくコミカルな隠喩だ。
  そろそろこいつに名前つけたくなってきた。
「綾瀬さん、そういう怒り方はみっともないと思いますよ」
  猫系のスマイルを浮かべながら荒木が嘯く。しかし、こいつもこいつでギュウッときつく握ってきてる。
おいおい、実はお前も内心胡桃と一緒なんだろ……蔦の絡まり方が尋常じゃないぜ。
  なんかもう、他人事ならげらげら笑って指をさしたくなる情景だった。
「あはっ。ねえ荒木さん、さっさとよーくんから手を離してちょうだい?
  よーくんの手、汚れるじゃない」
「ふふ。お断りです。あなたが離したらどうですか。先輩、歩きにくそうですよ」
  それぞれ、自分が優位であることを示そうとする威嚇的笑声を交わす。
「えっとな、両方離してくれるとありがたいんだがな」
  提案にいらえはない。
  隠喩が消えている──どうやら本格的な睨み合いに発展してきたらしい。
  ふたりに挟まれながらふたりに無視される形となった俺。
  それは蔦や食虫花からも解放される、奇妙な安息だった。
「げええ、洋平が本妻と愛人を並べて仲良くおてて繋いでる!」
「なんてことだ、3Pへの黄金フラグか!?」
「いかん、このままでは洋平のハーレムが建立されてしまう……!」
  安息はすぐに掻き乱された。通学路なのだ。登校時間なのだ。人目はある。
  注目されるのは当たり前だった。
  ああ、もう、どうしよう。

 そうだ。
  諦めよう。

 即座に無の境地へ達することができた俺は我ながら見事なヘタレだった。
  「そばに女の子たちがいなかったら石を投げてやるのに」
  という目で睨めつけて来る男子のことごとくをスルー。
  下足場まで来ればもうゴールだ。胡桃とはクラスが違う。荒木とは学年からして違う。
  手を離した二人は残された僅かな時間を使ってガンをつけ合い、
  最後に何か語りかけるような目をして去る。
  ようやく、平穏な朝が訪れた。
  すぐに級友たちに囲まれてボコボコにされたり詰問されたりする儚い平穏だったが。

 心休まるのは授業中だけ。高校生は「勉強なんてやってられるか」とほざくのが本分なのに泣ける話だ。
  休憩時間に入るとすかさず胡桃が乗り込んでくる。少し遅れて荒木も。
  距離と足の短さが反映されてるのか。
  ふたりはがっちりと俺の両脇を固め、互いに微笑みと毒の利いた言葉で牽制し合い、
  たっぷりと睨み合ってからチャイムの音で帰っていく。
  ちゃんと押しかけないと相手に抜け駆けされるとでも思っているように、
  毎時間毎時間律儀に同じことを繰り返すのだ。俺は恐怖のサンドイッチに心臓が縮こまって
「あ……その……」「う……えと……」など言葉を濁すしかない。ヘタレ人形だった。
  級友たちの好奇心と嫉妬心も最高潮だ。二人が帰ってから授業が始まるまで、ほんの一分足らずの間に
  俺に罵詈雑言を投げかけたり制裁を加えたりと忙しない。おかげで心と体がボロボロだ。
  世界中が敵になったと誇大妄想に陥っているうち、昼休憩がやってくる。
  およそ学校生活において誰もが待ち詫びるオアシスの時は、しかし俺には殺伐たるラブコメ地獄だった。
  三組側の戸から胡桃が。階段側の戸から荒木が。僅かな時間差でやってくる。
  ふたりとも、お弁当を二つ持って。花と蔦が嵐をスパークさせながら。
「小学校の頃から食べ慣れた味だもんね、『幼馴染みの味』だからね、当然わたしの方を取るよね?
  薄汚い雌狐の何を材料にしたか分かんないよーなごはんもどきはゴミ箱にポイしてさ?」
「小学校からじゃいい加減食べ飽きてますよね? 波風立たないよう仕方なく口にしてるだけですよね?
  そんな腐れ縁の糸引き飯よりかは拙作の弁当がまだマシであると断固謙遜いたします」
  隠喩じゃなく表現として火花が散る争いの後に突き出される二つの弁当箱を「どっちも美味しいから」
  とフォローしつつ食す俺は、なるほど男子たちの「殺したい」「代わりたい」
  という杭の視線を向けられるに足るどっちつかずの態度だった。
  どちらを優遇することもなく、答えをはぐらかす。余計に事態がねじれていくばかりで
  収束する気配がない。無論、この事態を楽しんでいるわけではない。
  可愛い女の子に囲まれるなんてウハウハだなぁ、なんてことは、まったくとは言えないが
  それほど感じていない。心痛と胃痛に苛まれて食欲も減るばかりだ。
  要するに、どちらかを選ばなければならない。荒木が言った通りの二択めいた状況。これだけ好意を
  受け取っておいて「やっぱどっちとも付き合わない」と切り出すのは
  当人も周りも納得しない雰囲気が築かれてきた。
  数年来の幼馴染みを取るか、知り合って二ヶ月足らずの下級生を取るか。
  もし「両方くれ」と言ったら包丁を二本、腹にもらうことになるだろう。
  天邪鬼な抜け道としては「第三者を取る」って手もあるが、これだと騒ぎが拡大するだけか。
  いや、そもそも第三者に当たる子なんていないけどさ……いないよな?
  のらりくらりと答えをはぐらかしていられるのも今だけだ。やがて決断を迫られる日が来る。
  そのとき、俺はどっちを選ぶのか……
  はっきり言って、全然目算が立っていなかった。俺は女子に欲情したことがあっても、
  恋心を抱いたことなんて一度もない。胡桃に付きまとわれながらも、
  男女交際なんて異次元の行為だと思っていた。
  告白すれば俺は胡桃を異性として強烈に意識した時期がある。
  覚えたてのオナニーに夢中になっていた中坊の頃、いつだって脳裡に思い描くのは
  あいつの裸体だった。中学に上がってからも仲良くやっていた俺らだが、
  冗談めかしてヘッドロックを仕掛けた日の夜に胡桃の髪から伝わってきた匂いを思い出して
  自慰に耽った。膨らみ始めた胸をチラチラ横目にして、何度あいつの風呂を覗きに行きたいと
  悶々としたことか。ヤりたいって頭下げたら、案外簡単にヤらせてくれるんじゃないか、
  と思い詰めたこともあった。
  性欲を持て余しながらも踏み切れずにいた理由の一つは、胡桃の異常なまでの嫉妬深さや執着心。
  一線を越えてしまえば二度と後戻りできなくなると直感していた。
  もう一つは、あいつの胸に揺れる隠喩──毒々しくてケバい色合いの花を、それでも自分の欲望で
  踏み躙りたくはなかったのだ。むしろ、かつて咲いていた野の花の白さを取り戻したかった。
  あまりにも困難で、どんな手を使えばいいのかもよく分かりはしないのだけれど。
  ひょっとすると俺は、失われたあの花にこそ恋をしかけていたのかもしれないから。

 荒木に関しては特に性欲を覚えない。そっちの趣味はない。
  ただ、下級生の女の子としては可愛いと思っている。できれば恋だの愛だのといった事柄が絡まない
  仲で適度な距離を保って付き合いたかった。そうしているうちに俺の感情が変化して、もしかしたら
  荒木に気持ちが傾くこともあったかもしれないが、今となっては虚しい推測でしかない。
  だから荒木にはどうあれ断りの返答をすることになるだろう。けど、そのタイミングを計るのが難しい。
  今の三角関係は「どっちかを選ぶ」ことが大前提になっているので荒木をさっくりフったら
「じゃあ綾瀬さんと付き合うんだな」って言われて結論を急がれることになる。
「もうちょっと考えさせて欲しい」と申し出ても胡桃が聞き分けてくれるかどうか。
  そうならないための時間稼ぎとして、荒木への返答は先送りにする。
  下手な対応をすれば胡桃と荒木、今は侍らせているかに見える二人を一気に両方失いかねない。
  ──俺の本音を腑分けすると、行き着く先にあるのはそこだった。
  つまり、俺は恋愛云々なんてよく分からなくて。
  以前の、胡桃がいて図書館に行けば荒木と会える状態をなるべく取り戻したいだけなんだ。
  虫が良すぎる。分かっている。そんな自分に折り合うためにも、今は時間が必要だった。

「……なんてことを考えるうちに放課後だ」
  今日の授業は終わっていた。周りに妬まれるほどの少女二名に心を決めかねて、無為に時間が過ぎた。
  ふと思う。本当に時間は必要なのだろうか。俺はただ逃げてるだけで、
  結論なんて一秒で出せるような性質なのではないか。
  さっさと胡桃と付き合うなり荒木と付き合うなり、サイコロでも振ってケリをつけてしまえば早い。
  一天地六、賽の目に運を任せるのも人生だろう。
  まあ、そんな都合良くダイスなんて持ってないけど。時間を稼ぐことばかり考えててもいけないし、
ここは順当に誰かに相談でもするかな。
「……というわけで数年来の幼馴染みか知り合って二ヶ月足らずの下級生を選ばなくちゃならんのだが」
「死ね」
  非常に簡潔な返事をおっしゃる。
「いや、こう、なるべく生きる方向で発言を増やしてくれるとだな、」
「死んでしまえ」
  増えたが内容は一緒だった。
  図書館の奥まった席に座り、図書委員の中でも特に親しい男子をつかまえて相談を持ちかけたら
  この体たらく。 あてが外れてしまった。
「我らが図書委員のアイドルにして金のふわふわ髪を持つ現ロリ神と、全学年男子に『えてしがな』と
  言わしめる嫁カーストの最高位にして煩悩無限生産な肢体を持つ女子を秤にかける行為自体が
  貴様の如きヘタレ愚凡には万死に値する。考えるだけ無駄につき今すぐそこから飛び降りろ。
  お前は死ぬかもしれんが、少なくとも世界はちょっとだけ平和になるぞ」
  と、マジな目をしながら窓を指す。隠喩はゴム紐……バンジージャンプか?
  本当に死んでほしいとは思っていないが、「飛び降りろ」という言葉に篭もった怒りは本物らしい。
  ホッとしていいのか、嘆くべきなのか。なんであれ参考にはならなかった。図書館を辞し、帰路に就く。

「よーくん、今帰り? 奇遇だね、わたしもなんだー」
  あっという間に捕捉されて手を繋がれた。本当に、こいつはどこかで俺を見張っているのか?
  付き合ってない段階でこれなんだから、いざ彼氏彼女の関係になったらって考えるとゾッとする。
  どれだけ拘束が厳しくなるか、想像もつかない。最悪、高校を出たら「同棲」と称して部屋に飼われる
  ハメになるかも。こう、首輪とか付けられたりして……いや、さすがにそれはギャグか。ははは。
「よーくんってチョーカーとか似合うかもね! 今度買ってみない?」
  散歩なのか、飼い主に引っ張られていく犬の首元あたりをにこにこしながら見てそう聞く胡桃に対し、
  ちょっと笑いが渇き始めたが、い、いや、まだギャグの範疇だよな。
  隠喩に座敷牢が視えたのは気のせいだろう、きっと。
  きっとね。

8

「先輩。遅参ながら荒木麻耶、ただいま駆けつけました」
  いつの間にか下級生の頭がちょこんと横に来ていた。背が低くて視界に入らなかったのか。
「呼びもしないのに……本当、邪魔なときだけ来るよねー」
  と頬に手を当てて溜息をつく胡桃。口振りは冗談めかしていて、
  わざと憎まれ口を叩いているように装っているが、目は笑っていなかった。
「はい、目を離している隙に先輩が頭のおかしなビッチさんに咬まれて
  狂犬病になってはかないませんので」
  まじめくさって頷く荒木は、早速俺の鞄を奪って手を握ろうと虎視眈々の構え。
ゆら〜りゆら〜りと脱力させた腕でしきりに間合いを計っている。
「あはは、荒木さん、ヤンキーゴーホームって言葉知ってるかな?」
「おや、もしかすると綾瀬先輩は戦前とか戦中とかのお生まれですか?
ははあ、さすが昭和製は違いますねえ。なんとも秀逸なアナクロニズムに言葉を失います。
何せ、ほら、私と先輩は平成生まれの人間ですから。温故知新の驚きでいっぱいです」
「頭がおかしいのはあなたじゃないかな荒木さん、わたしも平成生まれよ?」
「なら言わせてもらいますが綾瀬さん、私も日本人ですよ? ヤンキーと言われても何十年か前に
絶滅・化石化した、深夜の学校の窓ガラスを割って盗んだバイクで走り出す種族のことしか
連想できません」
「バイクは盗まないけど、人の男は盗む気満々な子なら、わたしも簡単に連想できるよ」
「盗むだなんて……綾瀬さん、洋平先輩はモノじゃありませんよ? 取った取られたとか
子供の喧嘩みたいな言葉を使うのはやめていただけませんか」
  罵り合いの中でさらりと言われたものだから、俺はうっかり聞き流してしまった。
  聞きとがめた胡桃が文句をつけたことでやっと気づいた具合だ。
「……ちょっと、荒木さん? いま、よーくんのことなんて呼んだの?」
「え? 洋平先輩、って。いけませんか?」
「何、それ」
  わなわなと全身が震え出している。
「なんであなたがよーくんのことを洋平なんて呼ぶの?」
「いえ、ちゃんと後に『先輩』ってつけてま」
「黙って!」
  叫ぶ胡桃。何かが彼女の逆鱗に触れたようだった。
「おい、胡桃、どうし……」
「よーくんのことを……よーくんのことを……よーくんのことを……」
  息が荒くなっていく。取り乱そうとする自分を抑えるかのように目をきつくつむっている。
「よーくんのことを、名前で呼んでいいのは……」
  搾り出すような声で。
「……わたしだけなんだから……!」
  ゆるゆると目蓋を開き、細目の、激昂をギリギリで耐えている表情。繋いだ手にも震えが伝わる。
「だから……! よーくんに向かって図々しい呼び方、しないでくれる……!?」
  まったく余裕のない、必死な声。
  それを、荒木は。ちょうど俺と出会った頃の頑なで冷ややかな顔つきで迎え。
  見下ろされているのに見下しているような、不思議に高圧的な光を目に湛え。
  鼻で笑いながら言った。

「バカみたい」

 瞬間、荒木の頬が鳴った。
  止める間もない、流れるような平手打ちだった。
  手を振りぬいた胡桃は、荒木に対抗して温度の低い表情を顔に貼り付かせていた。
  ゾッとする。
  こいつは出会った頃の生意気な時期ですら、こんな顔をしたことはなかった。
  けど、一度だけ。胡桃がこうやって体温をなくした相貌に変じたのを見た記憶がある。

 

 小学校五年生。親しくはなったがまだ胡桃の花は色づいてなくて、
  何の衒(てら)いもなくあいつを「友達」と呼ぶことができた、ひどく穏やかな時代に
  その記憶は収められている。 俺とあいつは同じクラスだった。
  俺は今と変わらずヘタレで、成績も運動もパッとせず、周りのウケを取れるような
  面白い子供でもなかった。胡桃と遊んでいてからかわれたり冷やかされたりしても、
  本気のやっかみはほとんどなく、なんにも気兼ねしないで過ごしていられた。
  けれど、胡桃の方はそうもいかなかったようで。男子をガキ扱いして大人ぶる早熟な女子たちに、
  彼女は少し妬まれていたようだ。まだ体は大して膨らんでいなくて発育の度合いは並程度にしても、
  周りと比べて容貌が綺麗だったのだ。「可愛い」ではなく一歩先に進んで「綺麗」の域に達していた
  胡桃を、特別気に掛ける女子児童がいた。
  その子は際立って美人でもなかったが、不美人というほどでもなかった。大人だったら君だって
  充分可愛いし綺麗なんだから自信を持って、と個性尊重めいた言い回しで励ますところだろうが、
  つまるところ、女子の社会は比較論だったみたいで。きっと、「充分」では不充分なのだ。
  容姿以外での面に優れていたのに付け加えて、その子が気になっている六年の男子が
  胡桃へ想いを寄せているという噂もあった。その噂の真偽については寡聞(かぶん)にして知らないが、
  噂があったこと自体は聞いている。その子の内側で妬みが何倍にも増幅されたに違いない。
  鬱屈の結果として彼女が採択したのは真っ向勝負ではない。単なる憂さ晴らしだった。
  端的に言うと、胡桃とやたら仲の良かった男子──つまり俺にベタベタとまとわりつき、
  馴れ馴れしくすることで胡桃にイヤガラセしようと考えた。
  尋常な仕掛け方では勝てないと悟ったからそんな真似をしたのだと思えば少し哀れに思うが、
  憂さ晴らしで仲の良いフリをされるのは俺にも迷惑だったし、胡桃にとっても不快だったようだ。
  しばらくは我慢を強いていた様子だったが、やがて口論になった。
  別に付き合っているわけじゃないんでしょ、本気になってバカみたい──
  笑われて胡桃はグッと詰まった。当時の俺はガキすぎて付き合うとかどうとかってことを
  意識する頭はなかったから、胡桃とてうまく言い返せなかったのだろう。
  いや、よく考えると今も同じ状況か。
  とにかくそれで当の子はいっそう調子づき、何ならあたしと付き合わない──と媚びてきた。
  冗談なのは分かりきっていたし、「やだよ」とすげなく断ってやった。
  えー、んなこと言わないでさー、洋平──
  そいつが俺の名前を口にした瞬間。胡桃の表情がスッと削げ落ちた。

「よーくんを……呼び捨てにするな」

 怒気を顕わにするよりも怖ろしい、何かが欠けた無表情だった。
  生意気だった時期の胡桃は平気で俺のことを「洋平、洋平」と呼び捨てにしていたが、
  険が取れて朗らかな笑顔を見せるようになったあたりから、親しみを込めて
  「よーくん」と口ずさむようになった。
  いくら小学生たってそのあだ名は恥ずかしい、と抗議したけど聞き入れてくれなかった。
  いっそ以前と同じく呼び捨てにしてくれた方が楽なのに、俺も胡桃をそうしてるし、って言ったら。
「ダメだよ、あの頃のわたしとはケツベツしたんだから」
  と胸を張り、「うーん、でも」と考える素振りを見せて。
「もし……わたしとよーくんが、恋人としてお付き合いするよーになったら、そのときは改めて
よーくんのことを、『洋平』って呼ぶようにするから、それまで待ってくれないかなぁ」
  と。にっこり笑って、「だから、よーくんも、他の子に名前を呼ばせないでね」とも付け加えた。
  てっきり新手のジョークだと思って間に受けなかった。すぐに思い出さなくなった。
  単に胡桃以外で女友達ができなかったから、野郎にしか「洋平」って言われなかったのだ。

 ひょっとすると、胡桃にとっては。
  「洋平」という、俺のありふれた名前が聖なる盟約になっているのかもしれない──

 胡桃が本気を出してしまったから、あの喧嘩はあっさり幕を引いて後に続くということがなかった。
  そして今思えば胡桃の花も、あの時から肥大化を始めたような気がする……

9

 あの雌狐を合法的に消す手段はないのかな──
  思いながら弦を引き、矢を放つ。
  ──的中。
  余韻を静かに咀嚼する。
  どうしてだろう。
  あの子のことを思い浮かべるたび、気持ちが研ぎ澄まされていく。
  普通なら、こういうのは雑念として消さなければならないものなのに。
  よーくんではなく、あの子──荒木麻耶を頭蓋の中に呼び起こすことで、
  無心の境地に近づいている気がする。
  一矢射るたび、奇妙に充実感を覚えるのだ。撃てば撃つほど、心が安らぐ。
  的ではなく、脳裡に過ぎる顔を見ているからかな。
  そこに向かって射掛けるイメージで。
  けど、まだ足りない。
  もっと豊かな心で立ち合わなければいけないのだと思う。
  新しい矢をつがえ、的を睨む。
  それを、「的ではない」と胸に言い聞かせる。強く強く、言い聞かせる。
  弓は引き放つ腕と中てる技、二つを結びつける心が何を願うかに依る。

 正面から──肝臓と膵臓。

 見るのではなく、視るイメージで放つ。
  ドッ
   ドッ

 背後から──腎臓二つと脾臓。

 ドッ
   ドッ
  ドッ
  とどめに──心臓。肋骨の隙間を掻い潜るように。

 ド──ッ!

 六連射。身を包む心地良さは、弓を初めて以来最大と言って良い。
  やがて短く濃厚な時間は過ぎ去り、二十射が終わった。
「なんか、精が出るというか……雰囲気がサイレントすぎて却って鬼気迫るような」
  梓が恐る恐るといった口振りで言葉を挟んだ。
  彼女もわたしが最近ゴタゴタしているのを知っているが、そのことに関してはあまり口を出さない。
「気が済むまでやればいいじゃん〜」と言って鼻歌を始めたくらいが唯一の言及か。
  大雑把な性格だけど、それはなかなかに救いだったりする。
「ん、ちょっとね」
  心境の変化、と言っていいのかな。ただ下級生の子に対して苛ついて、よーくんの気を引こうとして、
  空回りしている日々から一歩離れて俯瞰した心地になってきた。
  切欠はやっぱり、あの子の頬を叩いたときかな。ついカッとなってやっちゃった。
  もちろん謝るつもりはさらさらない。あの子の方も、謝罪を求める風ではなかったし。
  逆に、もっと本気を出してくださいよ先輩──って、なんだか挑発してる気配さえ窺えた。
  意図は不明だ。耳を隠し、尻尾を隠し、本心を隠している。
  いったい何を考えているのだろう。あの雌狐は。
  冷静に考えればあの子に勝ち目なんてないはずだ。いくら可愛くてもよーくんとの付き合いは浅いし、
  わたしとの間に付け入る余地はない。体で釣る……のも無理だろう。
  よーくんはわたしの胸とかをチラチラ見ることがあっても、あの子の方に目を遣ることはなかった。
  よーくんが彼女を性的対象に捉えてないのは火を見るより明らか。
  告白から今に至るまでの経緯も強引で、デタラメで。勝てる布石はどこにも見当たらない。
「あー……」
  それがとても不気味だ。最初は頭に血がのぼって見境なかったが、今は違う不安に苛まれる。
  あの子はなんなのだ。分からない。無視していい小石なのか。分からない。
  ただとにかく取り除きたい。靴に入った小石は、危険じゃなくてもすごく不快なものだから。
「なんだか狐狩り、したくなってきちゃったなぁー……」
  虚空を睨んだ。
  射るべき的は、その方角にあった。

 なんであれ、このままでは埒が明かない。
  よーくんを間に挟んで綱引きしてばっかりじゃ事態は停滞するばかり。
  動き出さなきゃ。

 そこで昼休憩、よーくんにお弁当を渡してから教室をすぐに出た。離れていくわたしを見てよーくんは
不思議そうな顔をしたけど何も言わなかった。せめて一言でも引き止めてほしかったのにな…… 
  廊下で、階段からやってくる荒木麻耶を待ち受ける。
  訪れた彼女は少しだけ意外そうな顔をした後、くすっ、と笑った。
「ははあ、なるほど。私とサシでの話し合いがしたいんですね、綾瀬さん」
「……察しがいいね。で、どう?」
「構いませんよ。場所はどうしましょうか」
「屋上、いこっか?」
  わたしの提案に、すんなりと従ってきた。あまりにもスムーズに進むので気味が悪い。
  屋上にはぽつぽつと人影があった。給水塔の付近が空いていたから、そこに行く。
  さて。なんと切り出そう?
  もうよーくんに近づかないで、と脅しても聞くような子じゃないのは分かっているし。
  どういう話をしたらいいのかな。もうだいぶ手段を選ばないつもりにはなってきたけど、
  具体的に何をどうすればいいのかまでははっきりしなかった。
  まあ、とりあえず懐に彫刻刀は忍ばせているし。どうとでもなるかな。
「言いあぐねているみたいですね。ふふ……なんならここで一戦交えても別に構いませんが、
  先輩のいないところであなたと口喧嘩しても詮がありません。一つ、腹を割って話しましょう」
  僅かに釣りあがった口角に奇妙な余裕が滲んでいる。
  なぜ、この子は劣勢においてこうも泰然としていられるのだろう。
「私がどれだけちょっかいをかけたところで、先輩の気持ちがこちらへ傾くはずはない。
  ……あなたが察している通り、分の悪い勝負だと思っています。
  先輩はただあなたと付き合い出すべきかどうかの踏ん切りがつかなくて、
  考える時間を確保するために返事を保留しているだけなんでしょう」
「よーくんの眼中にないって分かってて、なんで諦めないの?」
  けら、と笑う。
「眼中にないなら……入り込めばいい。難しい話ではありません。セールスマンが
  まずドアの隙間に足を突っ込むところから始めるようなものでしてね」
「……はぐらかしているの?」
「そんな、まさか。私の方針を開示しただけですよ」
  苦笑している。わたしが恋敵なんてこと、まるきり忘れたみたいな表情で。
  分からない。この子の考えていること。わたしを化かそうとしているのは分かるのに、化かし方が不明だ。
  問答無用で射殺せるならそうしてしまいたい。
  けど法治国家では殺人になる。
  そしたらよーくんに会えなくなってしまう。非常につらい。
  たとえ相手が雌狐とはいっても、単純に叩き殺しておしまいというわけにはいかないのだ。
「怖い顔をしますね……法律の目を掻い潜れるなら、ぶっ殺しても構わないって言わんばかりです」
  怯えた風もなく、くすくすと楽しげに声を漏らしている。
「……お願いだから、よーくんにも、わたしにも近づかないでくれる? 不愉快なの、あなた」
  不愉快というより不気味だった。しかし、そのことを告げては弱気を見せることになる。本音を隠した。
  結局、策も何もなくて芸のないセリフを口にしてしまった。到底聞き入れるような子じゃないのに。
  いざという場合に備えてそっと彫刻刀を握る。
「いいですよ」
  けど、あっさりと。拍子抜けするほど簡単に金髪の頭が頷いた。
「え……?」
  まったくの予想外れ。皮肉の一つも返されることなく受諾されるなんて、希望してもいなかった。
「あなたから言い出したことなのに、そんなに驚かれるのは心外ですね」
「で、でも……えっ、本当に?」
「無期限、とはいきませんが今日明日くらいなら譲歩します。おふたりに近寄らず、干渉を避けましょう」

 取り付けることのできた口約束──けれど湧き上がる感情は安堵よりも不安が濃かった。
「二日間だけ、退いてくれるってこと?」
「それ以上は待てません。あなたは何十年も付かず離れずの幼馴染み関係で
  満足してきたのかもしれませんが、私はそこまで我慢強くありません。早く結果を出してしまいたい。
  あなたにも時間をあげます。だから、さっさと決着をつけてきちゃってくださいよ……失恋するなり、
  玉砕するなり、惨めに捨てられるなり」
  随分とふざけた反復だ。まるでわたしがよーくんとくっつく可能性なんてないと断言している。
  腹立たしかった。けど声を荒らげる気にはなれなかった。
  彼女の確信はいったいどこから来ているの……?
「じゃあ、用も終わったことですし、失礼しますね。今日は友達とお弁当を食べることにします」
  わたしの疑惑などそ知らぬ風情で歩み出す。
  引き止めようとしても、引き止める理由がなかった。問い質したかったが、適切な言葉が思い浮かばない。
「いいですか、二日だけですよ。くれぐれも早急に、結論を出してくださいね」
  念を押しながら、彼女は扉の向こうへ姿を消していった。

 すっきりしない気分でよーくんの教室に行くと、彼はお弁当に手をつけていなかった。
  すぐに帰ってくるだろうと思ってわたしを待っていたらしい。少し嬉しくなった。
  周りを見渡してみる。あの子の姿はない。目立ちすぎるくらい目立つのだから見落とすのは却って
  難しいぐらいだけど、確認しなくては落ち着かなかった。
  よーくんに聞いても、さっきの休憩時間以降は荒木さんに会っていないという。
  「眼」を使うと、彼女は宣言通り教室で女子たちと一緒にお弁当を食べていた。
  本当に距離を置いてくれるのだろうか……
  半信半疑、上の空で昼食を摂った。

 要するに、焦ったわたしがよーくんへのアプローチに失敗して自滅するのを待つ作戦なんだろうか。
  期限を短く切ったり、「くれぐれも」と念押しして急かせるあたりにそういった意図は感じられる。
  ここでよーくんに積極的な行動を起こすのは相手の思う壺なのかもしれない。
  いや、そう思わせることで逆に牽制しているとか……? まさか、迂遠すぎる。
  悩めば悩むほど、術中に嵌まってるような不安が拭えない。
「よーくん、さ、帰ろ」
「あ、ああ……」
  校門を過ぎてからしばらく経つのに未だ姿を見せない荒木麻耶が不思議なのか、
  よーくんはキョロキョロと周りに目をやっている。当たり前のように横にいた存在がいなくなって、
  落ち着かないんだろうか。不在が、実在よりも存在を際立たせる──倒錯した状況に、
  わたしたちふたりは陥っている。
  図書館の方を視た。黙々と、小さな体で委員の作業をこなしている。
  近くの茂みで虎視眈々と監視したり尾行したりしているわけではなかった。
  不審の念は消え去らない。でも、あまり気にしすぎたってしょうがない。
  今は──彼女が発した離脱期間を、わたしがどう消化するかがポイントなのだ。
  焦りは禁物。でも、のんびりしていたらすぐに終わってしまう。
  どうしよう。
  横目によーくんを見る。ちょうど彼もこっちを覗き見る風にしていて、目が合ってしまった。
  別に、珍しくとも何ともないのに。久しぶりにふたりだけで歩いているせいだろうか。
  変に意識しちゃって、気恥ずかしくなって同時に目を逸らした。心臓の鼓動が駆け足気味になっている。
  ……なんだかむしろ。
  あの子いなくなったおかげでわたしたちの雰囲気、それっぽくなってきてない?

10

 決めた。
  朝。ベッドから上体を起こし、心に誓った。
  今日、よーくんに突撃する。
  罠かもしれない。疑いは捨て切れなかった。でも、足踏みしていたところで何も変わらない。
  ゆっくり地歩を固めて……なんて考え方をするには、もう時間が経ちすぎている。
  よーくんと出会った日から既に七年。小学中学の時に何もできなかった恨みを、
  一年生の頃に決定打を出しあぐねた悔やみを、今ばかりは晴らなきゃダメだ。

 わたしは、ようやく決めた。

 穿った見方をすればあの下級生のおかげかもしれない。彼女がよーくんに
  余計なちょっかいを掛けてきたからこそ、踏み切る気になったんだから。
  なりふり構わないという覚悟もついた。もしあの子の介入がなければ、
「そのうちよーくんの方から……」という待ちの姿勢を崩すことができなくて、
  消極的に誘うことしかできないまま時間が過ぎていたかもしれない。
  そういう意味では、感謝していいのかな。
  憎らしくて、弓射の的にしたい雌狐だけど、後押しの要因にはなった。
  いや……感謝なんてしない。
  あの子は敵だ。
  たとえこの勇気が与えられたものだったとしても、あくまでわたしのもの。
  敵には感謝しない。容赦しない。
  あげるのは、報いの矢だけ。

 とはいうものの。いざアタックするとなるとよーくんは難物だ。
  わたしだって知り合ってからずっとまごまごしていたわけではなく、「あ、いい雰囲気だな……」と
  肌で感じ取ったときはそのまま押し切ろうと頑張ったこともあった。
  けど、よーくんの鈍さは鉄壁だった。「いい雰囲気」を平気でぶち壊すような真似をしてしまう。
  無神経といっていいくらいの言動で、わたしの気勢を一瞬にして削いでしまうのだ。
  それでなんだか冷めてしまって、「今はよくない、またにしよう」って気分にさせられる。
  よーくんは熱情を萎えさせるスペシャリストだ。
  よほど強い気持ちを保っていかないと、有耶無耶な結果に終わりかねない。
  一気呵成に攻め込んで瞬時に落城させることが肝要だと思う。

 そこで梓に相談してみた。
「ねえ、よーくんを確実に陥落させるにはどうしたらいいと思う?」
「背後から棒で叩きのめして動けなくなってる間に既成事実をつくればええんでないの」
  うわ、乱暴すぎ。わたしはせいぜい睡眠薬を盛るくらいしか考えてなかったのに。
「というかもっとまじめに考えてよ」
「知るか。こちとら生まれたときから彼氏がいないんでい。モテない女の考え休みに似たりぜよ」
  チューチューと紙パックの苺牛乳を啜りながら眉を顰める梓。
  ストローから口を離すと、わたしをじろじろ眺め出した。
「? なんなの?」
「いや、さ。ふと思ったんだけどな。あんたみたいな子がそばにいて手ェ出そうとしないってのは、
  ひょっとしてよーくんイン──」
「ああそれはないから」
  さらりと答えてしまってから気づいた。
  やば。この回答は不適当だ。
「え? なにその確信に満ちた言葉。ねえねえ、見たことあんの? 見たことあんの?」
「なんで二回聞くの。ないって。だからないってば。それよりもよーくんのことだけど」
  否定して話を戻そうと試みる。
「だーかーらー、あたしに恋愛相談なんてお門違いだっての。童貞踊り食いの方法なんか聞かれたって
  答えられるわけねーだろ。気合と根性でなんとかしろよ、けっ」

 梓は参考にならなかった。あの子は恋愛経験皆無なうえちょっと頭の弱い体育会系の人だ。
  仕方ないのかもしれない。
  気合と根性──それでどうにかなるなら今頃わたしは一姫二太郎に恵まれ子育てに忙しい時期だろう。
  精神論では頼りにならなかった。
  さりとて。好きと言っても、ふたりきりになっても、一向に手を出そうとしないよーくんを
  振り返らせる手段は簡単に思いつきそうもなかった。当たって砕けるのは勘弁なのだ。
  当たるからには落としたいのだ。
  幸い、今よーくんの両親は家を空けている。帰ってくるのは早くとも明後日の朝だと言っていた。
  本気で攻略するなら今日をおいて他にない。
  失敗はしたくなかった。
「あー、どうしてもっていうんなら、一つやれるもんがあるけど」
  参考にならない相談相手が、空になった紙パックを捨てるとごそごそとポケットを探った。
  財布を取り出し、その中から引っ張り出したのは──錠剤のヒート。
「なに、これ?」
「興奮剤の一種だって。塩酸だかクエン酸だか知らないけど、まあそんなの。
  服用すりゃ一時間で効くとか」
「ひょっとして、違法なやつだったりする?」
「さあ。知り合いから『どんなインポでもケダモノになる』って触れ込みで押し付けられたけど、
  あたしにゃ使う機会ないからな、捨てようかと思ってたとこ。一錠だけやるよ。
  全部やるとなんか結果が見えて怖いしな」
  パチリパチリと鋏で一錠分だけ切り取る。
「……飲んでも大丈夫なの、これ」
「知らん。保証はしない。聞いた話じゃなんでも劇薬指定されてるらしいから気をつけろよな」
  迷ったけど、受け取るだけなら別にいいか、と思って頂戴しておいた。

 で。今まさに、よーくんの夕食にそれを混ぜ込むところだった。
  はじめからそれを狙っていたように仕込む指を見て、わたし自身が驚いた。
  ──下校して、よーくんのお父さんとお母さんが不在であることをいかにも今思い出したとばかりに
「あ、じゃあ、今日はわたしが晩ご飯をつくってあげるよ」と提案したら、すんなり受け入られた。
  これまでも何度かあったことだった。よーくんはわたしの手料理を食べることが半ば習慣化していて、
  ご飯をつくるためにキッチンへ入っていくのに違和感を覚える気配はなかった。
  支度をしている最中、ふと午前中に梓からもらった薬を思い出し、流れる仕草で放り込んでしまった。
  何も本当に使うつもりではなかった。いくら信用できる友人がくれたものとはいえ、処方薬でもなく
  出所のはっきりしないものをよーくんに飲ませるのは抵抗があった。
  薬の力に頼らなくたって……と気負って発奮するところもあったのだ。
  それが自覚する間もなくあっさり挫けてしまったのは、焦っていたからだろうか。
  荒木麻耶という恋敵の出現に全力で取り掛かる気になって。
  彼女が、不可解な離脱を表明して、よーくんとふたりきりでいられるようになって。
  なのに過ごした昨日という日は、あの子が出てくる以前の日々とまったく変わりなくて。
  たとえあの子に負けないとしても。このままではよーくんとの距離が詰められないんじゃ……?
  そんな不安が高まっていたからかもしれない。
  なりふり構わないつもりでいた。
  けれど、それは要するに。なりふり構っていてはよーくんを口説き落とすことができない
  自信のなさの裏返しではないかと、わたしは自分の弱さに目を背けることができなくなってきた。
  弱い──だから、道を踏み外そうとしてしまうのかな。
  でも今更後戻りをする気にはなれなかった。このまま突き進むしか手立てはなかった。
  わたしがしたことを知ったら、よーくんは怒るかもしれないね。
  ……うん、いいよ。
  よーくん──好きなだけ怒って。
  その怒りのすべてをぶつけて、骨の髄まで罰してほしい。
  嫌がるつもりはなかった。どんな責めでも受けるつもりだった。
  どんな責めかと考えていると、楽しくなって口の端がにやけて止まらなくなった。

 

 夕食の終わりから一時間が経過した。
  よーくんと一緒に食器の片づけを終え、ソファに並んでテレビを見ながら食後のお茶を飲んでいた。
  ──そろそろ、帰った方がいいんじゃないか。
  これまでならそう切り出していた時間帯。言われるとわたしは、強く抗う気もしなくて引き下がってきた。
  けど今日は違う。母にも「友達の家に泊まる」と言っておいた。
  よーくんとは、悔しいけどまだ友達の段階だから、別に嘘はいっていない。
  これから嘘にしていくつもりではあるけれど。

 で。

 こんな時間になってもよーくんがお決まりの退去勧告を切り出さないのは、それどころではないから。
  目が充血している。顔も赤くなっている。下半身を「視」ると──
  いや、肉眼でも硬く膨らんでいるのが分かる。
  こういう状態を「ギンギン」と言うのだろうか。梓がくれた薬は、効果があったようだ。
  さっきからずっと落ち着かない素振りを見せている。隣に座ったわたしとの、微妙な距離を意識しながら
  離れることもできず近づくこともできずに迷っている感じ。
  画面の中では恋愛ドラマが演じられていて、ちょうどキスシーンが映るところだった。
  普段のよーくんなら恥ずかしげに俯いたり、咳をしながら気にしてないフリをして
  そっとチャンネルを変える。
  今は、食い入るように重なり合った唇と唇を凝視していた。
  破顔しそうになるのを堪えた。もはやだいぶ理性が溶けてきている様子のよーくんだけど、
  ここで訝しく思われるのは避けたい。むしろよーくんの行動を不審がって、
「どうしたの?」と心配そうに声をかけたりしてみた。よーくんはハッとしたような顔になって
「な、なんでもない」と声を震わせた。
  あと一押し。ほんのちょっと背中をつつくだけで、彼の自制心は決壊する。手に取るように分かった。
  王手をかけた気分。生かすも殺すもわたし次第って状況。
  なんだか無性によーくんをいじめたくなってきた。
「さっきからおかしいよ。顔も赤いし、熱でもあるの?」
  無造作に手を伸ばして額に触る。咄嗟に跳ね除けようとしたよーくんは、触られた途端ビクンと跳ねて
  体を硬直させた。
  ああ、こんなに敏感になっているなんて……あの鈍感なよーくんが……
  掌に熱が伝わってくる。ひどく心地良かった。
「わ。本当に熱があるんじゃないの?」
  白々しく言って顔を近づける。前髪を上げ、晒したおでこをくっつける。間近で見詰め合う形になる。
  目を見開いたよーくん──瞳孔が散大した。
  あと何秒持つかな……ふふ……
「く、胡桃……はなれ、ろ……」
  理性の軋みが聞こえる。愉快すぎる。
  駄目を押そうと、そっと吐息をついて彼の産毛を揺すり──
「胡桃……っ!」
  次の瞬間。バッと、逃げようとしても逃げられない凄い勢いで、唇を奪われた。
  強く強く押し付けられる。歯もぶつけられた。荒々しい衝動的なキス。慣れていないことが丸分かりだ。
  よーくんからされる、初めてのキス……寝てるよーくんにわたしからそっと口付けした回数は
  数え切れないけれど、彼の方が奪ってきたのはこの一度だけ。嬉しくて涙が滲んだ。
  窒息するほど長い時間をおいてやっと唇を離したよーくんは、わたしが泣き出しているのに動揺した。
「ご、ごめん……」
  謝っても、背中に回した手を離そうとしない。密着した姿勢からドクドクと早足の鼓動が聞こえる。
  このまま、最後まで──もう確信は揺らがなかった。
  よーくんの目を覗き込み、笑いかける。
  よーくん……いや。

「よ……ようへい……洋平!」

 何年も。何年も何年も何年も封印し続けきた想いを彼の名前に乗せる。
  ずっとずっとずっと言いたかった、
  洋平、好き、愛してる、
  好き好き好き好き好き好き好き好き好きちょっといじわるでわたしの気持ちに
  ちっとも応えてくれなくて嫌いになりそうになったこともあるけどその百倍は好きで好きで
  愛してるんだもの、
  洋平が、洋平が、応えてくれるなら何だってしてあげるよ恥ずかしくても痛くても何でも何でも何でも、
  ああ洋平洋平洋平、なんでもっと早くわたしに振り向いてくれなかったの手を伸ばしてくれなかったの
  唇を舐めてくれなかったのいやらしい本を見て想像するようなことをわたしに何もしてくれなかったの
  今までずっと淋しくて淋しくて何回洋平のこと恨んだか分からないよ涙で枕を濡らした夜が
  いくつもあったよ洋平が勝手に自分で自分を慰めた翌日の朝に家から出てきたときはもう
  そんなことしないでって路上で押し倒したくなったこともあるよ握り合わせた手が
  昨日洋平のあそこを擦っていたところだと思うとすごく興奮して手をほどいた後に
  そっと嗅がずにはいられなかったけど汗の匂いしかしなかったよ目を閉じてると洋平が
  達しているときの顔が脳裡をよぎってドキドキしたよ早く目の前であの顔が見たいと願い続けてきて
  それが今ようやく叶うんだ洋平ねえ洋平がわたしの体を見ていやらしいことを考えてるのも
  知っていたよ当たり前じゃない洋平が持っていたエッチな雑誌とか本とか全部捨てさせたけど
  胸の大きくて髪の長い子のところにしっかり折り癖がついていたのはちゃんと視たよああいうのが
  洋平のタイプなんだよねだから髪も切らないで伸ばし続けたしお風呂に入った後は血行が
  良くなるようにマッサージもしたよ発育にかけては自信があるよ文字通り胸が張れるよ
  あの板きれみたいな荒木麻耶なんかに負けてるとこなんかどこにもないよあんな巻き癖がついた
  柔らかそうな金髪と海色の瞳と白くてすべすべしていて赤ちゃんみたいな皮膚と見下ろすのに
  適していてぬいぐるみのように抱き締めて眠るのにちょうどいい体しか見所がない子なんかには、
  ダメ、あの子なんかじゃダメ、絶対にダメだよ
  わたしが満足させてあげる明日は休日だし一日中ずうっと一緒だよ誰にも邪魔させない
  たっぷり愛してあげるよおじさんとおばさんが帰ってきても気にしないよずっと繋がってようよ
  絶対離れないよ赤ちゃんの名前考えようよ

 わたしは、
  わたしが、
  洋平の一番なんだからぁっ!

 感情が爆発して止められなくなった。洋平よりも先に襲い掛かって衣服を剥ぎ取り唇を貪りたかった。
  わたしの方がよっぽどケダモノめいている。
「洋平っ! 洋平っ! ようへぇっ!」
  唇を奪い返そうと彼の肩を掴み、

 突き飛ばされた。

 ……えっ?
  ソファから転げ落ちていく自分の体を、不思議そうに見てるうち背中に衝撃がきた。
  息が詰まる。けほっ、と咳をした。痛みはそれほどない。ただ、呼吸が苦しかった。
「ようへい……?」
  ゆっくりと体を起こす。わたしと同じようにソファから転がり落ちた洋平が、俯けていた顔を上げる。
  そこにあったのは、強い怯えだった。あれだけ赤かった顔が青ざめ、震えている。
「……か、」
  後ずさりしながら呟く。
「怪物……!」
  かいぶつ──その四文字に、ドロドロと魔女の鍋みたいに混濁する感情を見抜かれた気がした。
  わたしの、よーくんが欲しくてご飯に興奮剤を混入してしまう浅ましさが見破られた気がした。
  今度はこっちが青ざめる番だった。
  気づかれた……何に? すべてにだ。すべてに気づかれて、すべてを失おうとしている。
  死ぬまで隠し通さねばならなかったモノを、よりによって彼の前で曝け出してしまったのだ。
  なんで。なんでバレたの? 惑乱するわたしに、よーくんは顔を背けて言った。
「──帰ってくれ」

「あれ? 胡桃、あんた友達の家に泊まってくんじゃなかったの?」
  母の呼びかけにも返事をすることができず、ふらつく足取りで部屋に辿り着くとベットに倒れた。
  何も考えられなくて、意識を失うように眠り込んでいく。

 その夜──わたしは、悪夢を視た。

To be continued....

 

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