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不義理チョコ



1

 朝の教室。
二月十四日だからってそうそう何が変わる訳ではない。学校内でチョコが飛び交ってるぐらいで。
そして今目の前――悪友とも言える三沢智子がややぶっきらぼうにチョコを差し出していた。
「ああ神崎、コレ。義理じゃなくて一応ホンメイだから」
ホンメイ――本命……。
「トモコォォォー!」
半ば奇声となりながら彼女の名前を叫びつつ彼女に抱きつく。
バレンタインデーの勝利者の証とも言える本命チョコ。ついに貰える日が来た。
「ちょ、ちょっと!」
彼女が慌てながら何かを言おうとするが無視して強く抱きしめる。
「もう、何も言わなくていいから。
ごめんよ、今まで悪友ぐらいにしか思ってなくて。
でももう大丈夫だ。お前の気持ち全部受け取ってやるから」
「落ち着きなさいって!」
「はっはっは、恥ずかしがるなって。オレもお前の事好きだから」
三沢の頭が少し後ろにいった。
「つぅ!」鼻先に頭突きをくらった。鼻を押さえる為抱きしめていた手を離してしまった。

 何故か罪人の取調べのお白州の如く、オレは教室の後ろで正座させられていた。
同級生達からは先ほどの奇行から視線を多く集めていた。ああ、またこいつら何かやっているなって目で。
「お奉行様、ワタクシめの行動の何が間違っていたのでしょうか」
三沢は腕組みをしたまま正座したオレを見下ろす。
「裁きを申し渡す――」
「おい、途中カットかよ!」うっかり突っ込んでしまった。
「これはミカからの」
ノリも人の突っ込みを無視した答えをしながら、チョコを団扇の様にヒラヒラさせる。
「――誰?」
ひょっとしたら今自分達に向けらている視線の中にミカちゃんはいるのかもしれないけれど、本当に覚えがない。
ひょっとしら名字とかあだ名で呼んでいるから下の名前を覚えていないだけかもしれないけれど。
「月島美香。私の友達。電車の中で何度もあっているでしょ?」
確かに居た。違う高校だが同じ電車を利用していて、三沢といつも一緒に話している。
オレとも何度か話したことがある。でも二人いた。
一度紹介された記憶はあるが名前自体は完全に忘却の彼方へ行っていた。
「髪短い方?それとも三つ編みの眼鏡かけている方?」
「眼鏡かけている方――まあ細かい事色々は付いているメッセージカード読んで。
さっきみたいに行き成り抱きついたら今度は蹴るからね」
ようやく名前と顔が一致した。
彼女は少しばかり呆れた顔になりつつ、ようやくチョコを差し出していた。
「あー、うん。考えとく」
――さて、どうしようか。正座したまま受け取ったチョコを睨んでみた。もちろんチョコは何も言ってくれない。

 

 ちょうど一週間前にミカから頼み込まれた、神崎君にチョコ渡してくれって。
電車の中で見る彼、そして私からの話で興味を持ったと言った。
多分ミカは私の気持ちなんか気づいていなかったのだろう。神崎が好きだと言う事。
入学してから直ぐ仲良くなって、気が付いたら好きになっていた。
いつまでも言い出せずウジウジしているのは私らしくない。ふっきる機会には丁度よいのかもしれない。
そう思って笑いながらミカの頼みを受け取った。

 休み時間、何気なく尋ねる。
「……ねえ、ミカとは付き合うつもり?」
「……うーん、わからないな」
煮え切らない返事だ。
「それって朝にチョコ一つでいきなり抱きついてきた男の言う言葉?」
「彼女の事よく知らないからさ。でもお前の事は結構分ってるつもりだから」
「ふーん。さっきも言ったけど今朝みたいな冗談はミカにはやらないように」
この馬鹿は念入りに釘刺しておかないと本気でやりかねない。
「冗談じゃなくて割と本気だったんだけどな、お前の事結構好きだしさ」
軽く笑いながら神崎は返事する。
体中がゾクリとする。彼の言ってる好きは友達としての好きではなく――
なんで今まで言わなかったんだろう。一言言えばきっとあいつは馬鹿が付くほど正直に答えてくれたに違いない。
――今からでも間に合うかな私。

 授業が終る同時に走って屋上まで駆け上がってきた。
走った為――いや不安と期待で心臓の鼓動は極限にまで高まっていた。
冬の屋上はとてもじゃないが人のいる場所ではなかったが体の熱さと外気の関係が不思議と心地よかった。

 神埼が席を離れた隙にそっと彼の机にチョコを忍ばせた。
朝あんな事があったせいで渡し損ねていたチョコ。
義理にするつもりだったが突如本命へと変わったチョコ。
ノートの切れ端に『もし私の事が好きなら放課後屋上まで来てください』と添えて。
ミカには悪いとは思った。でも選ぶのは神崎だから――そう自分に言い訳をした。
もし来たら何て言おうか。自分の気持ちを伝えたら彼は朝みたいに抱きしめてくれるのだろうか。

「よお、三沢。何やってんだ?」
なんて鈍感な男だろう。寒風吹きすさぶ屋上で待っている理由なんて一つしかないのに。
「そっちこそ何やりにきたの」
「手紙で呼び出されてきた」
二人して屋上のフェンスにもたれ掛かる。
「ねえ――手紙の子とミカどっちと付き合うつもり?」
まるで人事のように言葉が口から出た。
「さっきも言った気がするけどわかんない。
ミカちゃんの方はそんなに知らないし、手紙の子に至ってはは誰かも知らない」
やっぱり鈍感な上に煮え切らない男だ。手紙の子は直ぐそこにいるのに何故気づかないのだろう。

 何も言わない、何も言ってこない。
フェンスにもたれかかったまま、ボンヤリと流れる雲を見ながら、そんな時間を過ごす。
外気は黙っていても私の体温を奪っていく。朝みたいに抱きしめてくれたらこんな日でも暖かく感じられのだろうか。
「来ないな」空を見上げたまま神崎は呟く。
「――そう」
もう来ている、目の前にいる。どうしてわからないのだろう。自分から言わなきゃ駄目なのに言えない。
「オレはそろそろ帰るけど、お前は?」
「――もう少しここで空見てる」
今ここで言えなかったら多分このままずっとズルズル引き摺って一生言えないに決まっている。
呼び止めなきゃいけない。そして言わなきゃいけない――私の気持ち。
でも出来ない。出来なかった。
「ふーん、風邪引くなよ」
そういって神埼は屋上から去っていった。

「何やってるんだろ私」誰も居なくなった屋上で空に向かって一人呟く。
――結局言えなかった。
二月の風は冷たかった。

2

「本当に私何やってんるんだろう……」
  誰も居なくなった屋上で一人呟く。辺りはもう暗くなって部活で学内に残っている人間も殆ど居ない。。
  それでも神埼がヒョッコリ戻ってきて、笑いながら「いい加減ハッキリ言えよ」なんて言って来るかもしれない、
そんなありえない期待をしていた。
  吐く息が白い。マフラーを巻きなおす。
  このマフラー、あいつからのプレゼントだった。

 寒気が酷くなってきた日、あいつはマフラーを巻いてきた。それも手編みで名前入りのマフラー。
「彼女からのプレゼント?」ってからかってみたら自前だと憮然した顔で言った。
じゃあ証拠見せなさいよって言ってやった。
  そしてそんな事を忘れかけた頃のクリスマスに、あいつはその証拠を持ってきた、手編みのマフラーを。
無駄に気合を入れた様な柄で、人のイニシャルを入れて。
  変な奴かと思っていたが編み物が得意だなんて益々変な奴だと思った。
「あんたにしてはセンスいいじゃん」――本当はとっても嬉しかった。大好きだよって言ってみたかった。
でもそんな言葉しか言えなかった。

 ――なんであの時素直に言えなかったんだろう。
  ずっとそうだ、文化祭の時も、初日の出を見に行ったときも、何度も一緒に遊びに行った時も、
いくらでもチャンスあったのに。ずっと言えなかった。
  今日もただ単に、いつもの言えない事が、またあっただけど。そう――いつもの。でも
何で今更涙出ているんだろう。
  吹っ切るつもりだったの、吹っ切ったつもりだったのに、馬鹿みたいに未練たらしく考えている。
「馬鹿みたい」
  自然と口から出ていた。

 

        *        *        *

 そういえばあいつ何で屋上にいたんだろう。一時間近く二人してボケーっと空を眺めていたが結局聞くの忘れた。
「――まさかな」
  一瞬ある考えが浮かぶが即座に否定する。いくらなんでもそんな話がある訳がない。
  手紙の子は現れなかった。何かの理由で来れなかったか、単にイタズラか。まあ、十中八九後者だろう。
ノートの切れ端なんかに書いてくるぐらいだから。
  そっちはそれでいいとして、ミカちゃんの方だ。
  メッセージカードはご丁寧に彼女の携帯の番号とアドレスも添えられていた。
  ――返事はしなきゃいけないよな。
  何て言えばいいのかな。正直よく知らない子だし。もし相手があいつのだったら悩む必要ないのに。
  ミカちゃんに何ていったらいいかわからないまま、駅についてしまった。

 駅のホームにいる人に気づいた。同じ学校の人間もいるが一人違う制服の女の子。
「あ――」
  悩みの原因の相手がそこにいた。
「えーと、ミカちゃん?」
「あ、あの――」彼女は小さくクシャミをした。
「ごめん、ひょっとしてオレ待ってたの?」
「……はい」
  この寒い中待っていたのか――屋上で待ちぼうけしている間に酷く悪いことをした気がする。

「どのぐらい待ったの」
「学校終ってからずっとです」
  約束なんかしてなかったのに待たせていた事に何故か罪悪感を感じるのは何故だろう。
「電話してくれれば良かったのに」
「あの、私神崎さんの番号知りませんから」
「そうか、そうだよね。えーと、オレの番号」
  携帯のオレの番号を見せるとすぐさま彼女も自分の携帯を取り出し登録し始めていた。
「えと……あの――」登録を済ませてから何かを言おうとかけていた彼女はまたクシャミをした。
  ――オレのせいだよな。
「まあ、これでもつけてろ」
  少しは暖かくなるかと思い自分のマフラーを外して、彼女にかけてやろうとしたら彼女少し驚いた顔になっていた。
「あー、ごめん。男のお古なんて嫌だよね」
「そんなことないです」
  慌ててマフラーを戻そうとしたら、彼女が慌てて否定した。
「このマフラー手編みなんですよね……」
  マフラーを受け取った彼女は何ともいえない顔をしてマフラーを巻いていた。
  間もなくして電車がやってきた。

 

 電車の中。
「あの――それから読んでもらえましたか……」
「食べた」
「あ、はい――」
「お手紙読まずに食べた。割と美味しかった」
「え?手紙なんか食べてお腹壊さないんですか?」
  彼女の眼鏡の奥の瞳は冗談を言っているものではない、本気で言っている。
  軽い冗談のつもりだったが真に受けている。
  ――天然かよ、この子。
「いや、ごめん。冗談だって。チョコはまだ食べていない。手紙の方は読んだ」
「あの、それで返事は……」
  彼女は顔を紅潮させ期待と興奮と恥ずかしさに満ちた落ち着かない様子でオレの言葉をグッと待つ。
  ――言わなきゃ駄目だよな。
「うーん、ミカちゃんの事よく知らないからさ。友達からってことでいいかな?」
  えらい無難な言葉だな自分でも思ったが他に適当な返事は結局思いつかなかった。
「はい」
  彼女は大きく二度頷いた。

 しばらくお互い何を話していいかわからず電車に揺られながら無言の時間が流れた。
「ああ、そうだホワイトデーのお返しに何かリクエストある?」
  無理やりにでも会話の切っ掛けを作ってみる。
「あ、あの、トモちゃんみたいなマフラーが欲しいです!」
  トモちゃん――三沢の事か。
「ああ、あのマフラーね。わかった」
  ――あのマフラー結構自信作だったからな。

 電車が止まる。
「あの、私この駅ですから。後――明日の朝も同じ時間の電車ですか」
「……寝坊しなければね」
  その目、明日その電車で待ってますからと言っていた。
「あと、それから……今晩電話かけていいですか」
「別にいいよ」
  ――まあ、友達だから。

 ――なんか少し疲れた。

        *        *        *

 電車の中でヨーコと会った。中学の頃はミカと三人でよく遊んだ。
高校では私だけが違う学校に行くことになってしまったが今でも機会があればよく遊んでいる。
「トモ、珍しいね。こんな時間になんて」
「あー、うん。ちょっとね」
  本当の事なんて言えやしない。
ミカが好きだって言ってた男の子に告白しようと一時間立ち続けて結局何も言えなかったなんて。
「そうそう、ミカの行方はどうなりそう」
「まだ、わかんないかな。渡すことには渡したけどチョコ貰ってから酷く煮え切らない感じだったし」
  ――もしあの時ミカのチョコを差し出して抱きつかれた時、訂正しなかったらどうなっていたのだろう。
  ずっとそんな事ばかり考えている。
「――多分、うまくいかないかな。なんか相性悪そうな気するし」
  二人が付き合ったりしなければ、まだ私にもチャンスがあるから。
  吹っ切るつもりだった筈なのに――
  あきらめるつもりだったのに――
「――ひょっとしたら煮え切らない理由は他に好きな子がいたからかな」
  ――その好きな子は私。
  気がついたらヨーコの話なんか聞かず、ずっと一人で喋っていた。
  自分の言っていることが希望的憶測の混じった――いや願望による意見になっていることに気づいた。
  ――ホント馬鹿みたい。

 携帯にメールが来た。ミカからだ。
  ――『友達からなら』か。
  えらく平凡で無難な了承の言葉だ。
「今日の所はまずまずって感じだね」ヨーコは届いたメールを見て楽しげに笑う。
「――うん、そうだね」
  笑うべきなのに、笑わなきゃいけないのに。友達の幸せなのに。
  顔がうまく笑ってくれない。
「トモ、ひょっとして調子悪い?」
  ヨーコが私の顔を覗き込む。
  彼女は昔から勘がいいというか人の事がよく気づいた。でも今は気づいて欲しくなかった。
「――なんでもない」
  ――本当の事なんて言えやしない。

        *        *        *

「はい、コレ」
  自宅に戻ると姉ちゃんがチョコを差し出していた。
  ――いらねえよ。
  昨日、姉ちゃんはやたら気合を入れて手作りチョコを作っていた。それもとても一個や二個と思えない数を。
そしてそれの試食の為に散々食わされた。そのせいで今日になってもチョコを食べたい思わない。
  何故か頭を小突かれた。
「何すんだよ」
「あんた今いらないって思ったでしょ」
  ――エスパーかよ、って思ったが、いらないオーラは自分でもハッキリ出していたな。
「どうせ義理しかもらってないんだから素直に受け取っときなさい」
  ――義理なら昨日の分だけで十分です。
「いや、今年は義理以外もらえた」
「――その話詳しく聞こうかしら」
  姉ちゃんの目が猫科の動物を思わせる輝きを見せていた。

 姉ちゃんの部屋で何故か正座させられた。
  ――なんで朝教室で正座させられて、帰ってきても正座させられているんだろう。
「で、誰から貰ったの」
  ――人が正座させられているのに、なんで姉ちゃんはベッドに座って見下ろしているのだろうか。
  まるで尋問されているようだ。
「友達の友達からと、もう一つは差出人不明」
「前のはいいとして後者の差出人不明ってのは何よ、何で本命ってわかるの」
「『もし私の事が好きなら放課後屋上まで来てください』って書いた手紙ついてたから」
「えらくレトロな手段ね。で、その子はどんな子だったの?」
「放課後行ったけど居なかった」
  おまけに寒空の下一時間近く待たされたが無駄だった。
「こっそり隠れていたとかは?」
「隠れてそうなところって――貯水タンクの中ぐらいかな」
  頭を殴られ小気味良い音がした。
「それだとホラーになっちゃうでしょ。他に誰か居たりしたとかは?」
「ああ、そういえば友達がいた、でも――」
「男友達がいたとかいうのは却下」
「いや、女友達だって。でも、さっき言った『友達の友達』の友達の方だから」
「――ふうん」
  姉ちゃんは意味ありげに鼻を鳴らした。
「で、友達の友達の方はどうした訳?」
「学校も違うし、よく知らない子だったから友達からならって」
「あんたにしちゃ普通の返答ね」
  褒められているか馬鹿されているのか――多分後者だろうな。

3

        *        *        *

「シロウちょっと待ちなさい」
  尋問が終ったようなので姉ちゃんの部屋から一刻も逃亡を試みようとした瞬間に声がかかった。
「なんだよ」
  思いっきり嫌な顔をして振り向いてやる。
「あんた、その友達のことどう思っているの?」
「どうって?」
  自分の右手が軽く鼻先をかいていてた。
「……胸に手をあてて考えて見なさい」
  左胸に手を当ててみる。
  まあ、あいつの事嫌いじゃないし、その気がないと言ったら嘘になるけど、向こうにはその気がないんだろうし。
「先生……不整脈が……」
  真面目に答えるのも癪だから適当に返してやる。
「……一度病院行ってきなさい」
  姉ちゃんの顔は呆れて何もいえないって顔になっていた。

 夕食をとってから間もなくしてミカちゃんからメールが入った。
  『今電話していいですか?』――普通メールで聞いてくるような内容なのだろうか。
素直に返信してもよかったが面倒くさいから、こっちから直接電話することにした。
「オレだけど――」
「あ、あの、神代さんじゃなかった神崎さん!」
  電話越しで何かパニック状態になっているようだった。
「えーと、ひょっとしてタイミング悪かった?」
「そんなことないです。えっ、えっとですね――」
  会話の内容に対して会話時間は長くなる気がした。
  そして、その予感は正しかった。
 

 学校から帰ってきてからずっと泣いている。
  忘れようとすれば、忘れようとするほど――
  あきらめようとすれば、あきらめようとするほど――
  何故か涙が溢れてくる。
  何で今更泣いてたりするんだろう――馬鹿みたい。

「あ、トモちゃん?私だけど今日はありがとう。それから――」
  電話がかかってきたので半ば無意識に出てしまった。
  電話の向こうからミカの楽しげな声が聞こえてくる。今の私とは全く逆の感情に満ちた声が。
「ごめん――私今日疲れてるから……」
  それだけ言って電話を切った。
  聞きたくない。聞いているだけで涙が出てくるから。
  ――馬鹿みたい。

 

 朝起きて、鏡を覗き込んでみると目が真っ赤に充血していた。
  昨日あれだけ泣きはらしたら、いい加減この未練がましい思いも少しはスッキリするはずだ――
無理にでもそう思う事にしていた。
「おはよう」
  なるべくいつもどおりに、無理矢理にでも元気に駅のホームで待っていたミカとヨーコに挨拶する。
「ミカ、あんたの巻いてるマフラーって……」
  私のよく知っているマフラー。今自分が巻いているマフラーにも似ているマフラー。
ミカとは別の名前の入っているマフラー。
「そーなんだ、コレ。もらっちゃったんだよ、昨日駅で待っていたら寒いだろう、ってコレくれたんだ」
  ミカは溢れ出さんばかりの笑みを浮かべ、とても大切な宝物の様に、自分のマフラーの中の名前を見つめていた。
「ふーん、そう」
  ――でも似合ってないわよ貴方には。
「それでね神崎さんがね――」
  電車が来るまでの間、普段のミカからは想像出来ない勢いで昨日あったことを機関銃の様に喋り続けた。
  ――嫌な顔。

 

 ――ダルイ。
  東日が部屋に差し込む。体がどういう状況であろうと朝は朝だ、まだ布団から抜け出るのに根性の要する寒さのある。
  体の芯が重い。精神的な疲れが全然抜けきっていない。
  女友達も普通にいるし話もしていたが、ミカちゃんとの会話は今まで経験したことのない感じのものだった。
お互いの事をよく知らないという点もあったが、迂闊な事を言ってはいけないとか、
そういう感じのある種の緊張感は始終立ち込めていた。
  ――どうしようかな。
  いつもの通り出れば彼女と必ず鉢合わせすることになる。
  昨日別れ際では期待全快の眼差しで言われ、電話で朝待ってますからなんてハッキリと明言された。
  ――まあなるようになるか。
  そう思いながら、時計の針の位置を確認して、ようやく布団から抜け出ることを決意した。

 彼女たちのいる駅は一つとなりの駅である。
  それこそあっという間の距離である。そのあっという間の間とは言え少しだけ考える事にした。
  ――何話したらいいんだろう。
  昨日話したことは、確か家族の事とか、学校の事とか無難な内容だったはずなのに、
えらく慎重に話題を選んだ気がする。
  ――普通に話して良いんだよな。
  よく考えればその筈だ。昨日は彼女のペースに巻き込まれていただけだ。普通のノリでいいんだ普通で。
  そうこう考えているうちに次の駅に着いた。
「おはようさん」
  いつもの友達にする感じの軽い挨拶。
「おはよう」
「お、おはようございます」
  軽く手を上げて返す三沢と隣の子に対して
ミカちゃんはまるで何処かの重役相手にするかのように深々と頭を下げていた。
「いやさ、そんなに畏まらなくていいからさ」
  そうだ、昨日はこの雰囲気に呑まれて、こっちのペースまで狂わされたんだ。
「え、で、でも……あ、後マフラーありがとうございます」
  ――確か昨日の電話内だけで五回以上出てきたと思われる言葉が聞こえた。
「ミカね、昨日私に電話かけてきたと思ったらそればっかり喋ってるんだよ」
  三沢の隣の髪の短い子が言う――彼女の名前が思い出せない、胸の名札を盗み読む深井か。

 電車の中での会話は友達が居たおかげか、昨日よりもかなり楽に話せた気がした。

       *        *        *

 電車から降りるとき、挨拶もそこそこに降りようとしていた神埼に対して、
ミカは彼に後でメールすると言って、いかにも名残惜しそうな顔をしていた。
  ――一方通行の行為なんて見苦しいよ。
  駅から出て私たちはいつもの様に肩を並べて歩き始めた。
  一年近く続いている時間。ミカには絶対出来ない時間。
「ミカとはどうだった」
  なるべく普通に、なるべく自然に声を出してみた。
  ――嫌だったんでしょ。
「なんか話し慣れてないせいか、少し疲れた」
  彼はそれこそ本当に疲れたって感じの表情をしてみせる。
  ――疲れるような人間と無理して付き合う必要ないんだよ。
「あとさ、最初は何話していいかよくわからなくてな」
  彼は少し困った感じをしてみせ鼻先を軽くかく
――彼が考え事や悩んでいる時には必ずやるミカは絶対知らない筈の癖。
  ――じゃあ、話さなきゃいいじゃない。
「まあ、普通に話していいんだよな」
「そうだよね」
  ――私となら無理する必要ないのに。
「うー寒い」
  彼は寒そうに首元をさする。
  ――だったらマフラーなんてあげなければよかったじゃない。
「寒いなら……私の――貸そうか?」
  そう言いつつ私は自分のマフラーは解こうとしていた。私の匂いの染込んだマフラー。
「ほー、人の送ったもの突き返そうとは、いい根性しているじゃねえか」
  彼に拒絶された。怒られた。嫌われた。
  そんな事はない、いつもの感じで笑いながら言う冗談の筈なのに何故かそう感じてしまう。
「なに?自分で送ったマフラーで絞殺されたい?」
  ――このマフラー大事しているんだよ。私の宝物なんだよ。
  無理矢理笑って、顔に出ようとしていた表情を隠し、湧き上がってくる感情をごまかす。
「そいつはごめん被る」
  いつもの感じで笑うあいつ。いつもの通学風景。何だかんだいいながらもズルズル続いていくと思っていた関係。
  ――あきらめたハズ。
  ずっと一緒に歩いてくれるよね。遊んでくれるよね。
  ――私とこいつは友達だから。

4

        *        *        *

 いつもの朝の教室。
「そういやさ、あんた達付き合ってなかったの?」
  田中がそんな風に訪ねてくる。
「なんでまた?」
「よく一緒に遊んでるし」
「お前だってオレとよく一緒に遊んでるじゃん」
  田中はよく一緒に遊んでいる面子の一人だ。三沢と遊びに行くときは大抵一緒だ。
「いや、なんて言うのかな。空気というか距離というか、そんなものが近いって言うか
  ――なんかとにかく付き合っているって感じがしてんのよ」
「できれば、こんなんじゃなく、もっと可愛い子と付き合っている感じになりたかった」軽く鼻で笑ってみせる。
  言い終わるか言い終わらないかのタイミングで三沢からボディーブローが飛んできた。
「ごめん。手が滑った」何食わぬ顔で三沢が言った。
  体がくの字になる。
  腹筋を締めそこなって、モロに喰らった。

 ――こいつが悪友たる由縁がここにある。
  入学式の日にまで遡ることになる。
  中学からの友達と話すもの、新しく友達を作ろうと頑張るもの、
そんな人々がいる教室へいざ一歩踏み込もうとした瞬間、見事に躓いた。
  そして躓いた先には三沢がいた。付け加えるなら自分の顔は都合よく胸元へと飛び込む形になった。
  すぐさま離れて謝ろうとする暇もなくボディーブローが入った。それも腰が入った重く強烈な奴が。
  後で聞いた話だが中学までは空手をやっていたらしい。
  痛みで悶えに悶えまくった挙句、近く窓にぶつかりガラスを割った。
  幸い体は無傷で澄んだが、入学式そうそう二人して呼び出されるはめになった。
  初日にしてみんなから名前を覚えられた。

 人が痛みで七転八倒しているのに周りはいつもアレとしか見てくれない。
「前みたいにガラス割らないように」と田中。
  ――ひでえ友人だ。
「神崎いつまでもふざけてないで早く自分の席につけ」
  ――先生、校内暴力はいいんですか。
  まともに喋れなかった。

 

 昼。
  サンドイッチを咥えながら、ミカちゃんから来たメールに何て返信しようかと考えていたところで声をかけられた。
「そういや、朝言い忘れたんだけど」
「何?」
  田中が話しかけてくる顔に少し嫌な予感がする。
「あんたや三沢のマフラーって神崎の手編みだよね」
「……一応」
  嫌な予感センサーの針が大きく触れる。
「私チョコあげたよね」
  田中の笑顔の裏の意思がありありと感じる。
「私も欲しいなマフラー」
「三月ぐらいになると結構暖かくなっているよな」
  視線を外し窓の外を見ながら、適当に呟いてみる。
「欲しいなぁ」
「ホワイトデーはクッキーとマシュマロどっちがいいかな?」
  引いてはいけない。一歩でも後ろに下がったら負けが確定する気がする。
  話を合わせてはいけない。一気に相手のペースに飲み込まれてしまう気がするから。
「セーターの方がいいかな?」
「――義理一枚が高くつくじゃねえか……」
「えー、気持ちこもってるよ。じゃあマフラーでお願いね」
  ――義理に気持ちもクソもあるか。
「ってオイ!オレは一言もやるとは言ってないって」
  人の抗議も虚しく田中は鼻歌混じりに席から離れていった。
  ――負けた。
  まあマフラーの一つぐらい適当にやれば直ぐ終るか。
「みんな、神崎君のホワイトデーのお返しは手編みマフラーだって」田中は他の女の子にそう公言していた。
  ――訂正マフラー五枚。

「いい加減、嫌なら嫌だとハッキリ言ったら」
  先程までのやり取りで黙々と弁当をつついていた三沢は、そんな事をボソリと呟いた。
  その声にはあまり元気がなかった。昨日から少し変な感じがしていた。
朝の時だって無理矢理元気なふりをしている感じがした。
「うるせーな」
  少し気にはなったがいつも通り接することにした――風邪でも引いたんだろう。

        *        *        *

「なんだ、今日も屋上に来ていたのか」
  その声に全身に電流が走った。多分神崎はいつもの感じで話しているのに、
私は無理矢理笑っていなければ耐えることが出来ない。
  辛い。苦しい。
  二人の間の関係は何も変わっていないって言うのに。
「昨日さ、姉ちゃんと話して何故手紙の子が来なかったか気づいたんだ」
  あいつはいつもの顔、いつもの口調。
「うん――」
  ――この馬鹿ようやく気づいたの。
  私は胸が高鳴る。呼吸が荒くなる。体中から汗が噴出している。
  返事への期待と不安で神埼の顔を見ていられない。顔を俯け返事を待つ。
「なあ貯水タンクあるだろ」
  上目遣いで神埼の方を覗き見ると私の方へは向かず貯水タンクを見ながら話し始めていた。
「貯水タンクの中ってさあ、結構カラスとか猫とかの水死体があるんだよ。
  田舎の方とかいくと狸も入ってたりするわけでさ。
  ――学校の貯水タンクの中なら女の子の一人ぐらい入っててもおかしくないと思わないかな?」
  あいつは軽く笑いながら話している。私の気持ちなんて全く気づかずに。
  ――この鈍感。その子はここにいるのに。
「……貯水タンクの中の男子生徒Kになってみる気ある?」
  いつも通りの冗談。でも今、私の口から出るそれはとても白々しく感じる。
「その時はお前も一緒に引き摺りこんでやるよ」
  ――そうなればずっと一緒にいられるのかな……。
  ぼんやりとそんな事を考える。
「おい――」
  気がついたら神崎が目の前にいた。あと少し踏み込めばキス出来るような距離。
「目赤い。風邪でも引いたか?」
  少しだけ心配そうな顔になって私の顔を覗き込んでいる。
  私の気持ち気づかないなら、そんな事は気づかないでいて欲しかった。
  放っていて欲しい。構わないで居て欲しい。いつも通りにして欲しい。
  心配なんかされていると変な期待しちゃうから――あきらめよう、忘れようって頑張っているのに。

 

 帰りの電車の中で神崎とミカは話をしていたが、お互い言葉を選んで遠慮しあっている少し固い空気があった。
  ――無理して付き合う必要ないのに。
  心の中の何かが呟く。
  私は二人から少し離れていた――二人の邪魔しちゃ悪いから。
  でも心の中の何かはまた呟いた。
  ――私と一緒の方がきっと楽しいんだから、そうしよう。

「ねえトモ、ひょっとして失恋した?」
「なんで――?」
  夜にヨーコからかかってきた電話は私の今の問題を真正面から捕らえていた。
「バレンタインの帰りから元気ないって感じだから。私で良かったら相談に乗るよ」
「ありがとう――でも今はまだ話したくない……」
  ――言える訳がないじゃん。今ミカが付き合っている相手は、ずっと前から私が好きで、結局何も言えなかったなんて。
「――そう、でも私たち友達だから。いつでも言ってきてよ」
  友達だから言いづらいのに。
「うん……」
「そうだ、週末遊びに行こう。ミカと三人で一緒にパーっと」
「うん……」
  何で後悔しているんだろう。ミカからあいつの仲介引き受けた時に割り切ったのに。覚悟してたのに。

 ミカからメールが入っているのに気づいた。
  週末のデートは何処がいいかと尋ねていた。少しだけ考えてビリヤードがいいと返してやった。
  あいつビリヤードは下手糞な癖に大好きだから。
  前に五連敗したらなんでも言うこと聞いてやると言ったので勝負に応じたら、
あいつは見事五連敗した――そう言えば、この約束まだ守ってもらっていない。
  気がついたらまた、あいつの事ばかり考えている自分がいた。
「もうあきらめよう」
  昨日から何度心の中で誓ったか忘れない言葉を呟いた。
  何故か涙がこぼれた。

 気晴らしに窓を開けてみると冷気が肌を刺した。少しだけ湿気を含んだ空気だった。
  ――本当に馬鹿みたい。

 

        *        *        *

 ――かったるい。
  そう思いながらも夜な夜な田中達にチョコ一枚の代価のマフラーを編み続ける。チョコ一枚分相応に手を抜いてやる。
「あんた、自分のやりたくない事は本当に嫌そうな顔してやるのね」
  後ろから何時の間にか近づいていた姉ちゃんが人の頭に手をのせていた。
「ええ、ワタクシは義理一枚でマフラー編まされている哀れな愛の奴隷です」
  頭の上の手を無視して編み続ける。
「あのさ――」
「ヤダからな代理で編まされるなんて」
  中三の時クリスマス前に突如彼氏に贈るからなどと言って編まされた。人が受験勉強に必死こいている最中にだ。
「そうじゃなくて、あんた前にクリスマスに送るんだって言って子とは結局どうなったの?」
「別に――」
  ただの友達だよ――良くも悪くも。
「――ふうん」
  姉を覗き見れば意味ありげに鼻を鳴らしていた。
  そんなものを横目に目の前の面倒なマフラーをさっさと片付けることにした。

 そう思った矢先、携帯がなる。知らない番号だ。
「あの私だけど、ちょっといいかな?」
「えーと、深井さん――だっけ?」
  多分当たっていると思っている。
「うん、そう。ミカから番号聞いてかけてるんだけど、ちょっとトモの事で聞きたいことあるんだけど、いい?」
「別にいいけど」
  肩で電話をはさみながらも編み物は続ける。
「あのさ、トモなんだけど最近おかしくない?」
「まあ今日は何となく元気なかった」
  放課後の屋上を思い出す。
「どうも失恋したみたいなんだけど、あんまり詳しく話してくれないんだよね。
神崎君って仲いいし同じ学校だから何か知らないかなって」
「――知らない」
「あー、そう。ありがとう。それからミカともちゃんとなかよくしてやってね」

 目が赤かったのはそっちが原因か。
  誰なんだろう相手。考えてみるが思い当たる節がない。
  ――そういや、あいつからチョコもらってないや。
  電話が切れてから少しの間手が止まっていたことに気づいた。
  明日学校ででも話せばいいかと思い、その事は頭から追い出すことにした。

 

        *        *        *

 ――嫌な雨。
  昨日の夜遅くから振り出した雨は今朝にはバケツをひっくり返したような大雨になっていた。
  その雨はただでさえ憂鬱になっている気分を更に酷くさせるのには十分な理由だった。

 今朝電車の中で神崎は、紙袋傍らにイソイソと編み物に専念していた。
「おはよう」
  朝の挨拶もそこそこに神崎は直ぐに作業に戻った。
「それ、田中達の?まだ一ヶ月あるんだからそんなに急がなくてもいいんじゃない」
「嫌なことはさっさと済ませる主義なんだよ」
  神崎は、こちらに顔を向けることなく黙々とマフラーを編んでいた。
  小中学校の頃、学校で編み物をしている女の子は何度か見ていたが、編み物している男の子はやはりはじめてみた。
  慣れた指先でテキパキと進めていく。
それはトップアスリートの一見単調な繰り返しにも見えるが無駄がない動きにも思えた。
「凄いんですね」ミカの目はその無邪気な子供の様に、その作業光景に吸い寄せられていた。

 雨の中を歩くって最悪。傘をさしていても多少は濡れてしまう。靴から染込んで靴下も濡れてしまう。
「ミカとはどう?」
  何気なく尋ねてみる。二人の友達だから。ただ男女の関係が気になる年頃の女の子だから。
  ――嫌ならミカの方には諦めるようにそれとなく言ってあげるから。
「まだ少しとっつきにくい所あるけど――まあ可愛いと思う、あと誰かに似てるんだよな……」
  神崎は薄暗い雲をボンヤリと見ながら言う。
  ――可愛いなんて私には一度もそんな事いってくれなかった。
「なに惚気てんのよ!」
  少しだけ怒ってみせる――無理にでも表情を作っていないと泣き出してしまいそうだから。

 神崎は学校につくなり黙々と編み物を再開し始めた。
「よしよし、ちゃんとやってるな」田中はその光景を見て満面の笑みを浮かべていた。
「一本は既に出来て、そこの紙袋の中に転がっている適当に持っていけ」
  神埼はいかにも面倒だという顔をしてぶっきらぼうに言った。
「むー。三沢と同じ感じのが欲しい」田中は少しだけ渋い顔をして唸っていた。
「義理チョコ一個分なら、それ十分お釣り来るだろ」
  田中の方には一切視線を向けず、黙々と作業を続ける。
  ――私のでもお釣りはくるのかな……。
「うー」田中は渋々と言った感じながらもマフラーを見つめていた。

 

 ――本当に嫌な雨。
  放課後になり次第、自然と足は屋上へと向いていた。しかし外は土砂降りの雨。外に出る気にすらならない。
そして何故か隣には神崎がいた。
「あんた、ひょっとしてまだ手紙の子待ってたりするの?あきらめ悪いよ」
  半ば自分に言い聞かせるように言葉をかける。
  ――そう私もあきらめが悪い。
「今日はお前に会いに来た。中々邪魔されない二人きりなるチャンスってなくてさ」
  鼻先を軽くかいて、少しだけ言葉を選んでいる感じ。
「――なによ、それ」
  ――あきらめるつもりなのに。
「オレの生まれ故郷って凄い田舎でさ、山と田んぼしかなくて、こんな風に雨降ると蛇口から泥水が出てくるんだよ」
「――なにが言いたいのよ」
  こいつのいつもの冗談。期待しちゃいけないのに何故か期待していしまう。
  ――本当馬鹿みたい。
「まあ最後まで聞けって。
  五歳かそのぐらいだったかな。まあ小学校あがる少し前まで、そんなとこに住んでいたんだよ。
  その頃両親がいつもケンカばっかりしていてさ子供心なりに家に居たくなかったんだよ。
  そこで近くの同い年の子のいる家にずっといたんだ。近くっていっても田舎だから滅茶苦茶距離あるんだけどさ。
  まあ、そこの家の子、女の子といつも一緒に遊んでたんだけど、
まあ結局離婚することなって母親についていくことになって、その子と離れ離れになっちゃったんだ。
  離れ離れなってから、その子に会いたい会いたい泣くに泣いてさ、母さん困らせたんだよ。
  そんな子も今となっちゃロクに顔も思い出せないんだ……」
  神崎は何か少しだけ困った顔で天井を見ていた。
「それが?」
「いやさ、昨日深井さんから電話かかってきて、お前が失恋したって聞いたから――
その何というかこんな感じの言い方でしか言えなくてさ」
  少しだけ照れている。こんな顔している神崎は初めて見た。
  そう思うと少しだけ笑えて来た。
「なによ、それ慰めてるつもり?」
  ついつい噴出してしまった。
  ――思い出の女の子か、そんなのもいつか色褪せていくんだ。

「じゃ、そろそろ帰るか」神崎はもう顔をみせたくないって感じをしていた。
「ねえ神崎」
  あることが――少しだけ気になった事。少しだけ確かめたい気持ちがあった。
「なんだ?」廊下を降り掛けていた彼が振り返る。
「私のマフラーだったら――義理チョコだったらいくつぐらいかな」
「――さあな」
  神崎は少しだけ何かばつの悪い顔になっていた。

 

 相変わらず電車の中で神崎とミカの間には少し硬い空気があった。でも少し、少しずつその硬さは解けつつある。
  この二人の間に入って行ってもいいんだよね――二人の友達だから。
「じゃあね、神崎」
  いつもの駅、ここで私達は神崎と別れる――はずだった。
「いや、オレ今日はここで降りるから」
  神埼から変な言葉が聞こえた。
「え?」
  ――何で?わかんない。
「昨日ミカちゃんい編み物教えて欲しいって頼まれてさ。今日の帰りに教えていく約束してたんだよ」
「そうなんだよ」
  ――馬鹿じゃない、男の子に編み物教えてもらうなんて。
  心の中の黒い何かが呟いた。

 駅を出ようとしたところで、ミカがあるものを忘れていることに気がついた。
「……傘、電車の中に忘れた」
  土砂降りの雨を目の前にしてミカもようやく気がついた。
「電車もう行っちゃったよ?」
  雨の日に傘忘れるなんて本当にしょうがない子。
「家まで近い?」神崎がミカに尋ねる。
「――うん」ミカが小さく頷く。
「じゃ、一緒に入っていく?」
  そう言いながら神崎は傘を広げていた。
  ミカは恥ずかしそうに少しだけ頷いて見せた。
  ――傘ぐらいその辺で買えばいいのに。
  何故か私は二人から少し後ろに離れて歩いていた。
  後ろから見る、一つの傘の下で並んで歩く二人は初々しい恋人そのものだった。
  ――馬鹿。無理して傘をミカの方によせたりするから、あんたの肩濡れてるよ。

 「じゃあね」
  そう言ってミカは私に別れの挨拶をする。少し恥ずかしそうで凄く嬉しそうな顔。
それ以外は邪念もなにもない純真な笑顔。
  神埼とミカが家へ入っていく。
  そう様子をずっと見つめていた――何故か拳を強く握り締めている自分に気がついた。

        *        *        *

「おかえりなさい。あら、友達もご一緒?」
  ミカちゃんの母親と思われる人がいた。
  なんとなく見覚えがあるような。誰かに似ているのかな、少しだけ気になった。
「ども、お邪魔します」
  軽く挨拶をして上がらせてもらう。
  別に女友達の家に遊びに行ったことがないわけではないが一人で来るってのは初めての経験だ。
  そう思うと何か緊張してきた。

 女の子と部屋で二人きり、更に編み物を誰かに教えるなんて始めての経験だった為、二重の緊張が強いられている。
  いいかげん緊張の糸が限界まできている。そんな折トイレに立った際、偶々居合わせた白猫を捕まえて帰ってきてみた。
「この子の名前なんて言うの」
  猫の一匹でも同じ空間においておけば少しマシになる気がしていた。
「シロツグだよ」
「シロちゃんか、オレは士郎だよ」そう猫に語りかけてやる。
「神崎さんって下の名前シロウなんですか。私の幼馴染にもシロウって人いるんですよ」
  彼女は嬉しそうに語る。シロウなんてさほど珍しい名前ではないとは思うが、
そんな突っ込みを入れるのはあまりにも無粋な気がした。
「ちょっと待ってて下さいね、今写真見せるから」
  そういって彼女はアルバムを出してきてページめくっていた。
「あった、コレですよ」
  随分昔の写真だ。確かオレが五歳ぐらいの頃の奴だ。
「こっちが私で、こっちがシロちゃん」
  懐かしそうな目で写真を見せながら指差す。
「確か、この写真とって直ぐぐらいかな、オレ引っ越したの?」すっかり忘れていた思っていた昔のことが段々思い出してきた。
「うん、そうなんだ」
「あーそうだ、よく綾取りで遊んだっけ――」
  そこまで話していてある事に気がついた。
  何故彼女の持っている写真に、子供の頃の自分が彼女と一緒に写っているのか。
「……これ、オレだけど」少し自分の声が震えている。
「神崎さん?これ、シロちゃんは山城士郎ですよ」彼女は不思議そうな顔している。
「えーとさ、オレ、親が離婚して再婚で神崎になって、昔の苗字は山城なんだけど……」
  彼女もようやく答えに気がついたらしく、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。
「や、やあ。ミーちゃん久しぶり……」
  強張った顔になりつつ、そんな事を言って見る。
「シロちゃん久しぶり……」
  二人して固まっていた。
  しばらくして二人同時に笑い出していた。

「じゃあな、ミーちゃん」
  幼馴染である事に気がついたら、何か今まで二人の間にあった壁みたいなものは一気に消し飛んでしまった。
「シロちゃんと私……付き合ってるよね」
「うん、まあそうだけど」
  改めて言われる恥ずかしいものがある。その視線を真っ直ぐ受け止めることが出来ずついつい視線を逸らしてしまう。
「――キスしてくれるかな?」
  横目で彼女を見れば恥ずかしそうに懇願している。
  ――やらなきゃ駄目だよな。
「目閉じてて」
「……うん」
  息を止める。一気に顔を近づけ、唇が触れた瞬間にすぐ顔を戻す。
「……じゃあな」
  彼女の顔、恥ずかしながらも満面の笑みがあった。
  オレは恥ずかしいから小走りでさった。

        *        *        *

 ――なんで私こんな所でたっているんだろう。
  二人が家に入ってからずっと雨の中、立っていた。
  どのぐらい待っていたか、ようやく神埼が小走りで出てきた。
「よ、よお、三沢。こんなところで何しているんだ?」
  神埼の顔は恥ずかしげなものだった。
  ――二人きりで何してたの?
「私の家そこだからさ……」
「ああ、そうか」
  そういいながらも神崎の顔には何か恥ずかしいそうに隠していることがあるのが見て取れた。
「あのさ、私の家遊びに来る?」
  ――来てくれたら私にも同じことしていいから。
「今からか?門限はないけど、あんまり遅くなると晩飯消えていることがあるから駄目だって」
  ――ご飯ぐらいうちに来ればいくらでも作ってあげるのに。

「じゃあな」
  私は小走りに去っていく神崎の姿をずっと見送っていた。
  見えなくなってようやく、ずっと拳を握り締めていたのを思い出した。
  開いた拳の中では汗をかいたせいか湯気が立ち上っていた。

5

        *        *        *

 今朝のミカはいつになく幸せそうな顔だった。世の中の暗い事、嫌な事なんて存在すら知らずに育ってきたような顔。
  ――どうしたらあんなに幸せそうな顔になるんだろう。
「トモちゃん、昨日私達凄い事あったんだよ。聞きたい?」
  ――聞きたくない。
  言いたくて言いたくてしょうがないって顔。ヨーコはもう聞いたのか、もう聞き飽きたって顔をしていた。
「電車、来たね……」
  ミカの顔は見たくなかった。近づいてくる電車に顔を向けていた。

「おはようさん」
  電車の中で神崎は待ってましたばかり顔だった。
「久しぶりにこれやろうか?」
  満面の笑みを浮かべた神埼の指には毛糸で作られた輪がひっかかっていた。

 電車の中で神埼とミカはまるで小さい子供の様にあやとりで遊んでいた。
  ついこの間まで殆ど話したこともなく、お互い言葉を選んでいた関係ではなかった。
  二人の間に昨日までの距離はなかった――昨日二人きりで何をしていたんだろう。
「あのさ、トモ、大丈夫?」ヨーコが心配そうに声をかけてくる。
「ただバカップルの気にあてられて、イラついてるだけだよ」無理にでも笑ってみせた。
「――そう?」少しだけ渋い顔になって覗き込んでいた。

「シロちゃんまたね」
「じゃ、またな」
  ――呼び方まで変わっていた。
  少しだけ名残惜しそうな二人の瞳。別れを惜しむ恋人の顔。
  ――二人の間に私の居場所はない。

 いつもの通学風景――のはず。
「お前もあやとりやるか? 結構童心に帰って面白いぞ」
  歩きながら神埼は私に糸をとれと言わんばかり手を出していた。
「いい……」
  そんな事しか言えなかった。

 

        *        *        *

 昼。
「行儀悪いよ」
  サンドイッチを咥えながらミーちゃんからのメールを返信しようとしていたら、三沢がそんな事を言ってきた。
  お前も時々やっているだろ――そう言い返そうとしたが、元気のなさそうな顔を見るとあまり軽口を叩く気にはなれなかった。
  ミーちゃんと一緒にいる間は気づかなかったが、意識すればするほど変に思えてくる。昨日の放課後屋上で話した時笑ったので少しはマシになったと思ったが今朝になるとやっぱり元気がなかった。
  少なくとも向こうからは失恋話については全く話してくる気配はない。
  人が付き合い出したばかりだから気を使っているのかもしれない。でも、こいつはとは気兼ねなく話せる関係だとは思っていた。
  そんな事を考えていると、彼女に言えずに結局心の引き出しの奥にしまいこんでいた言葉が出てきかけていた――慌ててそれを再び奥にしまい込むことにした。

「週末空いてる?」
  田中が尋ねてくる。いつも通り遊びに行かないかの誘いだ。
「オレ、空いてない」
  ――デートの先約が入っているから。
「私、友達と遊びに行くから」
  三沢はきわめて普通の振りをして言っている――がやっぱり変な感じがある。
「今日の放課後は?」
「ついさっき用事が入った」
  さっきのメールで編み物教室二日目決定したから。
「ふーん――例の彼女?」
「まあな」
  少しだけ勝ち誇った顔で笑ってやる。
「私達女の友情なんてそんなものなのね!
  このケダモノめ!ケダモノめ!
  英語で言うとアニモー!家畜人ヤプーめ!」
  田中は少し怒った振りして、そんな事言いながら消しゴムを投げてくる。
「意味わかんねーぞ田中」
  笑いながら返すいつもの冗談。いつもなら乗ってくる三沢は全然のってこない。
  横目で見れば、無理矢理頑張って笑ってるふりをしている――痛々しい。何とかしてやりたかった。

 放課後の屋上。
  ――やっぱりいた。
  フェンス越しにずっと遠くの風景を見つめている。
  そういえば、こいつ何で屋上にいるんだろう。ふとそんな疑問が浮かぶが今は大した問題ではない。
「お前今、相当変だぞ。相談ぐらいならいくらでものってやるからさ」
「あんまり言いたくない……」
  話しかけても、こちらにすら向こうとはしなかった。
「アドバイスしてやる自信はないけど、愚痴ぐらいだったらいくらでも聞いてやるぞ――まあ友達だから」
  三沢の方は俯いたまま何も言わない――まあ言いたくないのならしょうがないか。
  お互い何も言わない、二人きりの屋上に気まずい空気だけが流れる。
「好きなった奴には私以外に好きな奴がいて、そいつとはもう付き合ってる――それだけ」
  聞こえるか聞こえないか程度の、長い沈黙の後になってようやく搾り出された小さな声。
「そりゃ仕方ないか……」
  出来るとは思っていなかったが、やっぱりアドバイスなんて出来なかった。
  再びフェンスにもたれかかって流れる沈黙の時。
「……オレ、そろそろ帰るけどいいか?」
  向こうから何もいってこないんじゃ、オレなんかじゃもう何も言いようがない。
  頭をかきつつ屋上を後にする事に決めた――思いっきり後ろ髪を引かれていたが。
  背を向け重い足をどうにか動かし始めた時に、背中から何かが飛びついた。
  その何かが何であるかを理解するのに若干遅れた――三沢に抱きつかれている。
  ――何だよこの展開。
  頬が外気で冷やされ、まだ暖かいとは言えない気候の中なのに背中だけが熱い。彼女の体温を感じている。
  その事に気づいた時、自分の心臓の鼓動が早くなっているのに気がついた。
「おい……」
  声を出そうとするが、うまく声が出ない。
  何と言っていいかわからない。
  振り向けない。
  どうしたらいいかわからない。
「少しでいいから……少しでいいから背中貸してよ……」
  背中からの声は泣いていた。
「……ちゃんと後で返せよ」
  背中の方では泣かれているから、前の方では少し無理して笑ってみせた。

        *        *        *

 人前で遠慮なく泣いたのっていつ以来だろう――。
「ありがとう……すこしはスッキリした」
  ――意外と広かったんだ、こいつの背中。
  ハンカチで自分の顔を何度も拭く。
  あいつは少し困った顔を見せながら鼻先をかいている。
「なんかあったら、今度は私の胸貸してあげるから」
「いらねえって」
  自然と笑い零れ落ちていた。多分バレンタインデー以来だ、自然に笑っていたなんて。
「髪切ろうかな、私」
  ――今度こそ忘れなきゃいけないから。
「ま、そんときゃ付き合ってやるよ」
  軽く笑うあいつ。
「あんた馬鹿じゃない?」
  また自然と笑いがこぼれる。ようやく何でこんな奴が好きになったのかわかった気がした。
  二人でいる時間が心地いい。

「ミカとさ――仲良くなったよね」
  ――最初の頃は絶対長続きしないと思っていたのに。
「ああ? 昨日話さなかったっけ?
  昨日話した思い出の女の子がミーちゃんだったんだよ。
  十年ぶりだからお互い全然気づかなくて初対面と思って緊張してさ、スゲー馬鹿みたいだろ」
「なに、それ」――笑ってみせる。
  ――思い出の女の子か。
「ほら、あんたミカ待たせてんでしょ」
  そう言いながら神崎の背中を押してやった。

 ――ホント小さな子供みたい。
  電車の中であやとりしながら遊ぶ二人は体こそ大きいものの、まるで子供みたいだった。
「トモちゃん、またね」
「またねって、ミカあんたもこの駅でしょ」
  相変わらず、どっか抜けている子。
「昨日私の家だったから、今日シロちゃんの家でやるんだ」相変わらずの無邪気な笑顔。
「まっ、そういう事」少しだけ恥ずかしそうな神崎。
「そっか……」
  ――恋人だもんね、一応。

 ――何で私、ここにいるんだろう。
  神埼とミカを見送った後、何故か私は一本後の電車に乗った。
  私の足は自然と神埼の家へ向かっていた。
  前に一度だけみんなと行ったことのある神崎の家。
  まるで誰かに誘われるように住宅街の路地を迷うことなく突き進んでいる。
  そして直ぐに神崎の家の前へ来ていた。
  ――わからない。何でここに来たのか。ここで何をしたいのか。
  今頃二人きりで何をしているんだろう。そんな事を考えて神埼の部屋を見上げる。
「うちに何か用?」
  後ろから女の人に声をかけられた。その一言で全身の気が逆立ち、ボンヤリとしていた頭が覚醒をした。
  後ろを向けば制服を着た知らない女の人。
「シロウの友達? そのマフラーってもしかして――」
「ごめんなさい」
  何を言っていいか分らず、怖くなってその場から全力で逃げ出した。
  少し走って息が切れて足を止めた。
  ――私何をしているんだろう。
  その疑問に答えてくれる人は誰もいない。

        *        *        *

 母親が帰ってくるのが遅い日。彼女と二人きりの我が家。
  ――よく考えれば滅茶苦茶美味しい状況じゃないのか、コレって。
  オレの家でやりたいと言った時は全く意識してなかったが、今になってようやく気がついた。
  そんな事を意識し始めた頃になって一階から短い間隔の音。それは一気に階段を駆け上がってくる音。
  ――なんでこういう日に限って早く帰ってくるのかな。
「――変なのが来るかもしれないけど気にしないでね」
  思いっきり嫌な予感がするから彼女には予め警告しておくことにした。
  嫌な予感の発信源である足音は一直線にこちらに近づいていた。
「ただいまー。あ、シロウ、友達来てたの? よろしく」勢いよく背後のドアを開け、
  いかにも誰か来てたのしりませんでしたって振りして話しかけてくる。
  なんでワザワザ、オレの部屋へ直で帰って来るんだろう。
  このわざとらしい言い方は多分玄関の靴で気づいたんだろうな。
「おかえり。じゃあね、バイバイ」
  大体どんな顔をしているが想像出来たので振り向くことなく返事をする。
「シロちゃん、この人って?」
「シロウの妻です」声色一つ変えることなくさらりと言ってくる。
  ――何でこういう冗談いうのかなこの人は。
「えっえっ? 結婚してたの?」目の前のミーちゃんは目を白黒させている。
  ――何でこういう冗談を真に受けるのかな、この子は。
  天然とか純朴を通り過ぎて素直に馬鹿と言ってやったらいいかも知れない気がする。
「義理の姉、神崎涼子。歳は一つ上。以上」
  放っておくと何をしでかすかわからなくなってきたから腰を上げ、無理矢理部屋を追い出すことに決めた。
「ちょっと待ちなさい、そっちの子の紹介終ってないでしょ」
「月島美香、オレと同い年。以上」
  それだけ言って部屋の外まで追い出す。
「シロちゃん、お姉さんと結婚しているの?」本気で尋ねている目だ。
「――違うって」
「え、お姉さんじゃなくて――」
  ――本当に大丈夫かな、この子……

 ――なんだろう。嫌な予感が収まらない。
  また階段を上ってくる音がする。ただ今度は普通に上ってくる。それがかえって嫌な予感を膨らませた。
  キッチリノックをしてからドアを開ける――でも返事を待たずに開けていた。
「いやー、悪いわね、愚弟はお客様にお茶の一つも出さない子で」
  かなり早いご帰還だ。紅茶を淹れて来たのか――体の良い侵入理由だ。
  ミーちゃんに一つカップを渡し、自分に一つ。
  ――盆の上に何故かカップが一つ余っている。
  盆の上の方にある顔は不敵な笑みを湛えている姉の顔があった。
  しばしアイコンタクトでの会話。その結果、無言でそのカップをとり自分の前に置く。
「サービスしてくれたんだ。ありがとう」
  盆の上にある顔の口元が歪む。
「じゃ、じゃあね」
  背を向けた今となっては顔は見えないがきっと歯を食いしばっているに違いない。
  ――勝った!
  拳を握り締め小さくガッツポーズをとる。
「シロちゃんのお姉さんって一個多く持ってくるなんて親切なんだね」彼女は真顔でそんな事を言う。
  ――ひょっとしてコイツは会っていなかった十年間の間に体は成長しても頭は成長していなかったのかもしれない。

 

 ――まだ嫌な予感がする。
  そもそもあの程度で尻尾みせていくような性格だとは思っていない。
「なにやってんだよ姉ちゃん……」
  カーテンを開けてみると隣の部屋から繋がってるベランダを通ってオレの部屋の前にいた。
「シロウちゃんは、もうお姉ちゃん嫌いなんだ」
  やたら芝居がかった話し方で泣きまねすらしてみせる。
「生まれた時からずっと見守っていたのに」
「――オレ姉ちゃんと初めて会った時にはもう8歳だったんだけど」
「私なんかよりずっと小さかったのに、背ばっかり大きくなって……」
「――初めて会った時は目線の高さ同じだった気がするんだけどさ」
「虐められて時、守ってあげたのに」
「――姉ちゃんに虐められてた記憶なら一杯あるんだけど」
  ――訂正。これは現在進行形。
「小さな頃は一緒にお風呂入ったのに」
「――入ってない」
「大きくなったらお姉ちゃんのお嫁さんになるって」
「――言ってない」
  過去を次から次へとどんどん捏造しながら身振り手振りが段々大袈裟になってきた。
「姉ちゃん、嘘はそのぐらいにしてよ」
  ――後ろにいる子がうっかり信じちゃうから。
「怖いテレビ見たから一人で寝れないって言ってきて」
  ――それは言った。
「中学に上がるまでヌイグルミと一緒に寝てて――」
「……姉ちゃんゴメン」
  放っておくとエスカレートしそうな気がしてきたので素直に頭を下げた。
  上目遣いで姉を顔を覗き見ると腕組みをし勝ち誇った顔があった。

 結局、彼女は小姑にとって格好の玩具だったらしく、変な事を吹き込む、
  オレが訂正するのローテーションが帰るまで延々と繰り返された。
「姉ちゃん……もう変な事を言うのやめてくれよ……」
  彼女を見送った後、滅茶苦茶疲れた体で意味のないであろう釘を刺しておく。
「『この泥棒猫め』『このさかったメス豚め』『私のお腹にはもう赤ちゃんが』とか言って欲しかったのかな」
  楽しくってしょうがないって顔だ。
  ――神様なんでこんなのが一つ屋根の下に住んでいるんですか?
「そういや、言い忘れてたけど」
「なんだよ?」
  どうせロクでもないことに決まってる。
「今日他の子と遊ぶ約束とかしてた?」
「いや、別に」
  一応誘われてたけどキッチリ断ったし。
「――ふうん」
  何か意味ありげな笑顔だった。

        *        *        *

 ――なんでここにいるんだろう。
  自分がここにいる理由がわからなかった。あれから意味もなく神崎の家の周りをうろついている。
「トモちゃん、ここで何しているの?」ミカだ。
「……ちょっと――ね」
  自分でもなんて答えたらいいかわからず、返答にならなかった。
「じゃトモちゃん一緒に帰ろうよ」
  今まで一度も人に対して疑いを抱いたことのない顔。
  裏切られたり騙されたりなんてした経験は一度としてないのかもしれない。
「……一緒に帰ろうか」
  ――私がここにいる理由なんてないんだから。

        *        *        *

 人がせっせと編んでいる中、こいつは人の部屋で漫画など読んでいる。
「シロちゃん」人を猫なで声で呼んでくる。
  無視して手元の作業に集中する。
「シロウ、彼女にどんな事教えてあげたらいいと思う?」
「……なんだよ」
  思いっきり嫌な顔をして睨んでやる。
「前にあんたがマフラー上げた子って今どうしてる?」
「別に――」
  只今失恋で落ち込んでいて、今日背中で泣かれましたなんて正直に言ったら何言われるかわからない
  ――そんな事を考えていたら知らず知らずのうちに眉間に皺がよっていた。
「――ふうん、そうか」
  少しだけ何かに納得した顔をしてうなずいていた。

6

       *        *        *

 ――負けている。
  ミカちゃんにビリヤードで負けている。現在二連敗中――多分今のゲームもヤバイかもしれない。
  彼女の方からビリヤードに誘ってきたからてっきり得意かと思ったら、初めてだと言った。
  その為、今日ルールの説明までした。
  ビリヤードは物理だ。多分偉そうな誰かがそう言っている気がする。
  基本は入射角と反射角を考え、突く――それでいいはずなのだが球の真芯を狙っても、
  何故か球は明後日の方向へ飛んでいく事がある。
  そして今日はその明後日の方向へ行くのが連発している。
  ――三沢の奴からはよく四球続けて外したら一塁へ歩かなきゃいけないよとか言って笑われていた。
「シロちゃん、ビリヤードって面白いね」
  悪意はない。悪意はない無邪気な彼女の一言。でもそんな言葉がわずかばかりの男のプライドを崩す。
  彼女のビリヤードの腕前は初めてというだけあってオレから見ても明らかに下手だった。
  そしてそんなド下手に全力で向かっていっても負けている自分。少しだけ泣きたくなった。
「これ終ったら何処か行きたいとこあるかな?」
  そう言いつつ突いた手球は意思に反して見事ポケットに直行した――このキュー歪んでいるじゃないのか?

 結局、初心者相手に連敗という情けない記録を打ち立てた後、その場を後にした。

 外に出るなり背中に抱きつかれた。抱きつかれた途端電流でも走ったかの様に体中が一瞬ビクッっとする。
「あったかーい」人の背中で甘えた声でそんな事を言う。
「……なんだよ」
  今日は日も出ていてそれほど冷え込んでいる訳ではない。
  そしてこれは昨日の放課後を思い出す――人にしがみついて泣くだけ泣いてたあいつ。
「えっ? こうすると喜ぶってシロちゃんのお姉さんが――」
「……姉ちゃんの言っていた事は忘れてくれ」
  確かに嫌いじゃない――でも今は背中にいる彼女ではなく昨日背中で泣いていた女の子が頭の中にいた。
  ――今はデート中だ。
  そう心の中で呟き、頭を大きく振るい頭の中からその事を追い出そうとした。

 遠く三沢と深井さんが並んで歩いているのが見えた。
  ――タイミング悪いな。
  何故だかわからないが、頭の中にそんな考えが頭に上った。
  それはミカと一緒にいるからか――それは違うはずだ。二人ともオレ達がそういう関係だというのは知っているから。
  それとも今背中に彼女が抱きついているからか――あまり見られたくない。
  恥ずかしいから――何か少し違う。……何か心が後ろめたい、そんな感じがした。
「ミカ達デート中?」半ばからかうような感じで向こうから深井さんが声をかけて来た。
「うん、そうだよ」人の背中に張り付いたまま恥ずかしげもなく言うミカ。
  三沢と目線が会うが、彼女はすぐさま視線を下に落とした
  ――何がスッキリしただよ、また逆戻りしてるじゃないか。
「どうせだから一緒に遊ぼうよ」背中から出る屈託のない声。
「いやデート邪魔しちゃ悪いから、私達は退散するよ」
  そういって深井さんは去ろうとしたが、三沢の奴は足元に視線を落としたまま聞こえていなかったらしく
  立ち止まったままだった。
「ほら、行くよ」
  立ち止まったままだという事に気づいた深井さんは三沢の手を掴んで引っ張られて歩き始めた。
  引っ張られて歩く三沢の背中は酷く力がなかった。
  ――重症じゃねえかよ。

「――なあミカ、そろそろ離れてくれないかな」
  二人が遠くに消え去るまで見送ってからようやくミカが背中から抱きついたままだということを思い出していた。
「あ――うん」彼女は名残惜しそう呟きながらようやく背中から離れた。

「――あのさ、三沢から何か聞いてるかな?」
  友達になら何か言っているかもしれない、そんな期待をこめて歩きながらミカに聞いてみた。
「何かって?」
  何も知らない顔。普通に雑談している時となんら変わらない愛らしい顔の彼女。
「……なんか失恋したらしい」
  言うか言うべきか迷ったが結局言う事にした。
  あいつとはオレ以上に長い付き合いの筈だからきっと力にはなってくれる――そう思ったから。
「……トモちゃんがそんな事になっているなんて知らなかった……」
  急に顔を曇らせる。自分の事ではないというのにまるで今自分が失恋したと言わんばかり
  今すぐ泣き出しそうな感じすらしていた。
  ――デート中の話題としては不適切だった。
  そう思いながらも今思っているのは目の前にいる彼女ではなくて昨日背中で泣いてたあいつだった。
「まっ、お前からも何か言っといてくれ――」
  そんな事をいいつつ、今の空気を払拭すべく、頭の中の三沢を追い出すべく何か適当な話題がないか考え始めていた。
  ――でも何故か背中は熱かった。

「ミカはデートだって。意外と男が出来ると付き合いの悪くなるタイプだったね」
  昨日ヨーコから電話がかかってきた。前に言ってたパーっと遊ぼうと言ってた話だ。
  そして今日はミカ抜きでヨーコと一緒に遊びに来ていた。
「中学の頃はいつも三人一緒に遊んでいたのにね」
  そんな事言いながら私自身、随分ヨーコ達と一緒に遊んでいないのを思い出していた。
  ――そうだ、いつも神崎達と一緒に遊んでいたから。
  そんな事を思い出すと、つい先週も神埼達と一緒に遊んでいたのに、その事が凄く昔みたいに感じられた。
  ――距離できちゃったのからかな。
  多分あいつはそんな事を意識していないに違いない――そしてミカも。
  昨日の時点でそれは確信に変わっていた。
  二人きりで居る時は私なんか見ていない――ミカが居なくなれば私だけを見てくれるかな。
  そんな事ばかり考えていて、ヨーコの話には生返事をしていて気づくのが遅れた。
  目の前に神崎がいた――そしてミカが抱きついていた。
  ――そうだよねこいつら付き合っているんだもん。
  その事は認めても見ていたくはなかった。だから視線を落とし見ないようにした。
  何であそこで抱きついているのは私じゃないんだろう。
「行くよ」
  ヨーコに手を引っ張られた。
  ――ああ、そうか。もうここに居なくていいのか。
  引っ張られるまま足を進めた。このままこの場所にいたら自分が矮小で惨めな存在に思えてくるから。

 カラオケボックスに入ったというのに私もヨーコも歌わない。
  私は歌いたい気分じゃなかった。ヨーコも何故か自分から入れようとはしなかった。
  ただ密室でお互い黙っているだけ。
  ――変なの。
「……トモ、あんたが好きだった相手って――もしかして神崎君?」
  長い沈黙を破ったヨーコの私を覗き込む顔は少し険しかった。
  私は何も言えなかった――いや言わなかった。何か言い繕おうかとも思ったが、
  どうせ口から出る見え透いた嘘なんて簡単にばれるから。
  少しの沈黙の後ヨーコは深い溜息を吐いた。
「――黙っているってことは当たりか……。
  ミカがいないのは幸いというか何と言うか……」
  ヨーコは少し困ってて少し呆れてて少し優しい顔だった。
  多分さっきの時誘えばミカはそのままついてきたに違いない――きっと何も考えていないから、何も疑っていないから。
「――いつから?」
  それだけ言ってからヨーコはまた黙った。
  その顔は言いたければ言って良いよとでもいう柔らかい感じで、じっと私の返答を待っていた。
「……気がついた時にはもう好きだった。……でもずっと言えなかった」
  また沈黙が訪れる。
  そしてヨーコの深いため息。
「あんた馬鹿だね。無理して友達だからって好きな奴との仲介役なんてやらなくていいのに。
  ミカだっていい子だからさ、あんたが先に好きな相手って一言言っとけば、
  それ以上どうこうしようなんて思わなかった筈だよ」
  ――そう馬鹿だよ私。あきらめるつもりで仲介したのに全然あきらめず気持ちばっかり大きくなっていった。
  そんなことばかり考えていると涙が溢れていた。
「言えないよ……もう言えるわけないよ……」
  駄目だ、もう涙が止まらない。
「……仕方ないか」
  ――そう仕方ない。
  ヨーコはもう泣くことしかできなくなった私の頭をずっと優しく撫でてくれていた。

 結局今日は遊びに行くって言ってもずっと泣いててヨーコに慰めてもらっていただけだった。
「――士郎」
  誰も居ない部屋で彼の名前を呼んでみる――少し変な感じ。
  その呼びかけに答えるように突如電話がなった。まるで私の呼びかけに答えるように。
  反射的に電話に出ていた。
「トモちゃん、私だけど……」
  ――なんだミカか。
  どうせ惚気話だろう。
「ごめんね、私失恋したなんて全然気づかなくて……」
「あんたにまで心配されるなんてね――あんたは彼と適当にやっていればいいのよ」
  少しだけ無理して強がってみる。
  明日から乗る電車一本ずらそうかと思っていた。二人を見ているときっとまた悲しくなるから。
「ねえ――なんて言ったの……」少しだけ遠慮がちの声。
「ううん、言ってない。そしてもう言わない事に決めた」
  ――私あなたの為に我慢する事に決めたから。
  自分の瞳に涙が溜まっているのに気がついた――最近私泣いてばっかりだ。
「駄目だよ。ちゃんと言わなきゃ。私応援するから」
  ――応援してくれるの? じゃあ言っていいんだよね? 士郎に好きだって。
  何故かその時、私の頬は緩んでいた。

7

        *        *        *

 義理チョコの代価としては法外な要求となったマフラーは日曜の夜に最後の一枚はとうとう終えた。
  さてミカの分、ちゃんと作ってやらないとないけない。
  『トモちゃんみたいなマフラーが欲しいです』
  ――あれは時間がかかるから多分編み上がる頃には結構暖かくなっている気もするがプレゼントは気持ちの問題だ。
  ――前のプレゼントでは気持ち届かなかったんだよな。
  そんな事を思い出していると頭の中に元気のない顔を思い出してしまった。
  電話をかけるべきか、かけないべきか。そもそも何て話せばいいんだろうか。
  携帯電話を見つめながらどうしたらいいか考えてみるが、話したところで自分ではどうしようもない気がしていた。
  ――かかってきたら愚痴ぐらいは聞いてやるかな。
「あんたさ、彼女から電話待っているぐらいなら自分から掛けなさいよ。それとも彼女とケンカでもして掛けづらい?」
  そうだ、今部屋には姉ちゃんが人の漫画を読みに来て居座っている。こいつの居る所でそういう話が出来る訳がない。
「別に――」
  彼女とはケンカなんかしていない。相手は彼女じゃない――そう、ただの仲のいい友達だから。
「――ふうん。やるか、やらないか悩むんだったらやってしまって後悔しなさい」
  達観した顔。姉って感じがした。いや血こそ繋がらないものの名実とも自分の姉ではあるものの、
  もっと抽象的な意味で庇護してくれる存在――代理母とも言うべき感じの姉って感じがした。
  多分どっかの漫画で使われていた気もする言葉だが雰囲気に飲まれていた――ちょっとだけ感動している自分がいた。
  少しだけ自分の中で時間が止まっているのに気づいて慌てて時間を動かし始めた。
「じゃあさ、さっさと部屋から出て行ってくれ」
  とりあえず、いまやって欲しい事を素直に言ってみた。
「うん、わかった」
  意外にも素直に姉ちゃんは腰を上げた。
  ――確かにやってみるものだ。
「ああ、そうだ。これ上げる」
  部屋を出て行きかけた頃思い出したように振り向いて、何か小さなものを放り投げた。
「――なんだよこれ?」
  くすんだ銀色のメダル。表はデフォルメされた二頭身の仔猫、裏は――何かで削られた後があった。
  何処かのゲーセンのメダルかなんかだろうか。
「裏か表。二択でどうしても自分で選べないなら――コイントスで決めなさい」
  ――オレそんなにギャンブラーな生き方するつもりないから。
  そう思いながらも素直に好意として受け取ることにした。
  一人きりになった部屋でもう一度携帯を見つめる。メモリを呼び出す――やっぱり止めた。
  何を話していいかわからなかったから。
  少しだけ悩んだ後、ミカへのマフラーを編み始めることにした。

 

「それでさ士郎はどう思う?」
  三沢はいつもの様に一緒に学校へと歩きながら屈託なく笑いながら話してくる。
  今朝は電車に滑り込むように飛び込んでから、こちら側に一言も話させないとばかりにマシンガンの様に喋っていた。
  先日の元気のない顔はそこにはなかった――別に悪いことではない、むしろいい事のはずだ。
  肘が隣を歩いている三沢にぶつかった。距離が近い。別に肘や肩ぶつけたからって謝るような間柄ではない。
  でも、いつもはこんなに近くを歩いてなかった気がする――そしてこの近すぎる距離は忘れようとしていた、
  忘れかけていた彼女へのある感情を思い出しそうになっていた。

 『どうせ今日もサンドイッチだよ』っと。
「……なに笑っているんだ」
  ミカへのメールを返信した後、三沢はじっとこちらを見つめて笑っていた事に気がついた。
「士郎の顔見てた」
「顔になんかついてるのか」
  今朝ちゃんと顔を洗ったはずだし、さっきトイレ行った時も鏡を見た。変なものはついてなかったはずだ。
「へへー」
  何やら意味ありげな笑いで誤魔化された。
  ――なんなんだよ、その笑い方は。

 

 よく話す。よく笑う。客観的にみれば極々普通の元気な女の子だ。それが今日の三沢だった。
  でも少し何か変な気がする。一年間一緒に遊んだ仲だから多少はわかっているつもりだ。
  うまく人に説明する自信はないが、一言で言うと元気すぎる。無理して笑っていた空元気とも違う少し異質な感じ。
  失恋で塞ぎ込んでいた反動かもしれない――そう思うことにした。

「士郎、これ読んどいて」
  本日最後の授業が終るとともに人の机の上に折りたたまれたノートの切れ端を置いたかと思うと
  人が何かを言おうとする前に三沢はさっさと教室を出て行った。
  さっきの言葉で今朝からの僅かばかりの違和感の正体に気がついた。

 『士郎』って呼ばれている――でもそれだけじゃない気がする。
 
  折りたたまれたノートの切れ端を開いてみると一言、放課後屋上に来て――それだけが丁寧な字で書かれていた。
  屋上に来いと言うことはあんまり他人に聞かれたくない話か――多分失恋の話だろう。
  屋上に来いぐらい口で言えばいいのに。
  ――ノートの切れ端。
  差出人不明のチョコが机に何時の間にか放り込まれていた事――
  あいつからのチョコをもらっていない事――
  ノートの切れ端の手紙に屋上に来てと書いてあった事――
  何故かその日あいつが屋上にいた事――
  頭の中で勝手にピースが組み足てられようとしている。何度か頭はよぎったがその度否定するように言い聞かせてきた答え。
  そんなんじゃない――そう心で呟きながら屋上へ歩き始めた。
  体が重いのか軽いのか分らない――不思議な感覚が体を包んでいた。

 

 朝からずっと不思議な気分だった。幽体離脱したみたいな感じで自分が誰か別人みたいな感じ。
  体が凄く軽い。気持ちいいぐらい動いている。まるで生まれ変わったみたい。
  昨日の夜はいつも以上に念入りに体を洗った。
  今日の朝はいつも以上に念入りに鏡を見つめて身だしなみを整えた。
  今日はいつも以上に笑って、いつも以上に士郎と話した。
  今日の私は誰より可愛らしく映っている自信があった。

 私は一足先に屋上にいた。先週の時と殆ど同じ状況だ。でも今日は先週言えなかったことがハッキリといえる自信があった。
  多分数分と待たなくていいはずなのに、彼がここに来るまでの時間がとても満たされた時間であると感じていた。
  待ち遠しい――足音が近づいてくるの聞こえる。
「よっ、三沢」軽く手を上げて来たことを知らせる士郎。
「――ト・モ・コ」
「は?」
  何を言っているのか分らないって顔――やっぱり鈍感。
「智子って呼んでよ」
  ちゃんと言わないと分らないみたいだから言ってあげる。
「いや、いいけどさ――なんでまた急に?」
「本当は気づいているんじゃないの、私がここに居た理由」
「……何のことだ」彼の顔色が変わったのが見て取れた。
  ――無理して隠す必要なんかないのに。
「まだわかんないの? あの手紙の子が私」
  ここまで言っても彼の顔色はさっきのままだ。やっぱりわかっていたんじゃない。
  あんたもずっと黙っているなんて悪い奴――でも好き。
「私の事嫌い?」
「そんなことない!」即答だった。
「じゃあ付き合ってよ。私はあなたの事好きだから」
  なんだ簡単に言えるじゃない。何でこんな簡単な事言うのに時間を無駄に費やしていたのだろう。
「――いまミカと付き合ってるし……」彼は首を俯けながら言った。
「じゃあ、別れればいいのに」――悪魔が囁く。
  彼は首をあげようとせず黙ったままだ。
「言いにくいなら私の方から言ってあげるよ」
  ――返事はなかった。
  相変わらず煮え切らない奴。バレンタインの日なんかいきなり抱きついてきた癖に。
  非常に不本意な事ではあるが、煮え切らない返事を待ってはいられないので仕方なく譲歩することに決めた。
「じゃあさ、学校の中だけ――二人きりの時だけでいいから恋人になろう。もちろんミカには黙っててあげるから」
  そう言って胸の中に飛び込んでみた。
  恐る恐る背中へと伸びて来る彼の手――なんだ。やっぱり私の方が好きだったんだ。
「……ありがとうね、士郎」
  彼の腕の中は暖かく、短い間隔で彼の存在を感じられる鼓動が心地よかった。

        *        *        *

 わかっていた。心のどこかで期待はしていた。でも別のどこかが否定していた。
  好きだった――だから気合入れて編んだ手編みのマフラーまで贈った。
  しかし自分からハッキリ言い出せないまま友達という関係に甘えてズルズル引き伸ばしてきた。
  でもバレンタインに友達の仲介を受けたと言われて向こうからは、
  その気は欠片もないと無言で言われた気がして少し落ち込んだ。
  そして告白失敗して友達でいられなくなることだけは回避できたと少しだけ心のどこかで安心していた。
  ミカのことが好きかと問われたら好きだって言える。最初こそぎこちなかったが、今では全然そんな事はない。
  でも――
  でも――今もっと好きだった子から告白された。
  そしてその彼女は今自分の胸の中にいる。今すぐ抱きしめてくれと言わんばかりに。

「二人きりの時だけでいいから恋人になろう。もちろんミカには黙っててあげるから」
  聖者を誘惑する悪魔もこのように甘く囁くのだろうか。
  良識ある人間ならミカへの為彼女と距離を離すべきだ。
  しかし自分は聖人君子などではない――自然と手が彼女の背中へ回っていた。
「……ありがとうね、士郎」
  胸の中の彼女はその行為を了承と受け取っていた――そしてオレも口には出さないが答えは同じだった。

 

「シロちゃん、今日は遅かったね」
  ミカは駅のホームで待っていてくれた。
「えと……」
  ――あの時オレは何であんな行動をとってしまったんだろう。
  彼女の顔を見ていると途端に罪の意識を感じ始めていた。何を言っていいのかわからない。
「ちょっと帰り際に先生に雑用頼まれちゃってね。それで遅れたのよ。ね、士郎」
  智子の口から出た言葉は何でもない言葉だった。まるでさっきまで屋上で言った事なんて忘れてしまったように。
  でもその事を言った後にこちらを向いて目で何かを言った。
「――ああ」
  今のオレはそんな相槌を打つしか出来なかった。
  そして頷いた首はそのまま上がろうとはしなかった。
「どうかしたの?」
  考えている事が顔の方に出ているのに違いない。そんなオレを思ってかミカが心配そうに下からオレの顔を覗きこんでいた。
「いや――なんでもないって……」
「じゃあ、よかった」
  彼女はまるでスイッチが切り替わったかの様に明るい顔に切り替わった。
  オレが今言ったことを何の一片の迷いのことなく信じている――

「……また明日な」
  ホームに下りた二人に別れの挨拶。別にいつもと変わらないはずなのに。
  それだけのはずなのに――
「夜電話するね」
  手を振りながらミカはそういった。別に断ってまでするような関係ではないのに――
「――うん」
  その返事の時オレはミカではなくその隣、智子を見ていることに気づた。
  本当はミカに言わなければいけない事があるのに。
  電車が動き出す前に顔を背けた。

 嘘なんて今まで一度もついたことがない訳ではない――でも嘘をついてこんなにも心が痛くなったのは初めてだった。
  そして本当の事なんて言える訳がない――今日人を騙すという罪を犯した。

        *        *        *

 駅を出てミカと一緒に帰り道を歩いていた。ミカとは友達になって以来ずっとこうして一緒に歩いていた気がする。
「ねえ――ミカ」
「なに?トモちゃん」
「――あなたの言うとおりだった。言ってみるもんだね」
「え? ホント? よかったね!」
  まるで自分の事の様に喜んでいた。
  今日私達の思いは通じた。でもまだちょっと邪魔な事が一つある。
「関係ないけど、もし好きな人が別な人が好きだったりしたら、あなたはどうする?」
「シロちゃんだったらそんなことないよ」
  無邪気に少し笑い。決してそんなことは絶対ないと心の底から信じているから出来る裏表のない言葉と顔。
  ――放っておいてもいいか。
「それとね、明日……」ミカは何か言いたくて言いたくて堪らないって顔だ。
「何よ?」
「やっぱり秘密」恥ずかしそうに口を閉じた。
「もったいぶらないで言いなさいよ」
  いつもの談笑。
  まだ私とミカは――

8

        *        *        *

「しちゃったね――」
  誰も居ない部屋で鏡を前にし唇をなぞる。
  本当はもっと先まで行ってもよかったけど煮え切らない態度だったからあのぐらいでよかったのかな。
  それとも煮え切らないからこそ最後まで行ってしまった方がよかったのかもしれない。
  ――続きはまた明日。
  そう思いながら布団に潜り込むことにした。

        *        *        *

「――じゃあ、また明日」
  ミカとの電話を切った。
  結局智子との一件は言わなかった――言えるわけがなかった。
  マフラー製作を再開しようとして気づいた。
  指先が震えている。
  ――クソ。
  行き場のない苛立ちだけがあった。

 

 こいつはなんでこんなにも普通にしていられるのだろう。電車に揺られながらそう思った。
  無理矢理表情を作っている自分に対して、いつもと何ら変わることなく話の輪の中にいた。
  そして彼女の手をオレの肩の上になんでもないよう置かれていた。
  ――一体何を考えているんだ。

「じゃあね、ミカ」
  なんでもない別れの挨拶。いつもの挨拶。ただの友達の挨拶。
「また放課後な」
  なるべくいつもと同じようにする別れの挨拶。いつもなら別れを惜しむはずの挨拶。
  ――でも何かがいつもと違う。

        *        *        *

 駅を出るなり士郎と腕を組んでみた。
「オイ――」
  照れてるのかな。彼は動揺している。
「――同じクラスの奴とかいたらどうするんだよ。
  ……みんなオレが付き合っている相手いるって知っているだろ」
  ――なんだ、そっちの心配か。
「大丈夫だって。
  田中なんか私達つきあっているって勘違いしてたぐらいだよ。
  これぐらいで変な噂なんて立たないって」微笑みかけてあげる。
  彼は黙って頷いた。
  学校までの距離がもっとあればいいのに――そう思った。

 

 昼休み、私達は肩を寄せ合って屋上にいた。
「私もっと早く士郎とこんな時間過ごしたかった。士郎もでしょ?」
「――うん」躊躇いがちな返事。
  体重を彼に預ける。
  教室に居る時はなるべくいつも通り『仲のよい友人』を演じてみせた。
  だから二人きりでいられる時間がずっと待ち遠しかった。
「キス――しようか?」
  顔を近づけ唇を重ね――舌で士郎の唇を開ける。
  士郎は抵抗はしない――そうだよね、私の事好きなんだから。士郎の口の中を味わってみる――変な感じ。不思議な感じ。
  そんなに長い時間やっていたとは思わなかったが士郎の方から顔を離された。
「……この辺にしとこうか」言い訳でもしているような顔。
  これ以上続けていると、きっと二人とも抑えきれなくなる――さすがに昼休みに学校の屋上で最後までは不味いか。
「じゃあ、続きはまたね」

        *        *        *

 ミカの為のマフラーを編んでいるはずなのに全然指先がのってこない。ぎこちない。
  ――あの時拒否するべきだったんだ。
  頭の中で理性とも倫理観とも言うべき何かが呟いてくる。
  あの時っていつの時だ。
  バレンタインにミカから告白された時――
  昨日智子から告白された時――
  そして今日の事――
  いったい、どれだよ――わからない。
  多分今の関係をズルズル続けていくと自分は最低な人間になってしまう。
  しかし、その行為は必ずどちらかを傷つけることになったしまう。
  ――どうすりゃいいんだよ。
  『二択でどうしても自分で選べないなら――コイントスで決めなさい』
  机の上においてあったメダルを手に取ってみる。表なら――心の奥で呟く。
  コインは空中に――投げることが出来ない。出来なかった。
  自分で決めるような覚悟がない奴にはそんな事で決める度胸すらあるわけがなかった。
  ――最低だな。
  口の描かれていない筈のコインの中の猫はチェシャ猫の様に嘲り笑っているように見えた。

 

「シロちゃん――これ」
  朝、電車内でミカからそういって手渡されたのは弁当箱だった。
「あ、ありがとう」弁当箱を受け取る。
  本当なら心の底から嬉しいはずなのに――後ろめたいものが背中にあった。
「本当は昨日から上げようとしてたんだけど上手く行かなくて……」
  彼女の恥じらいながら語る純真な言葉の一つ一つが今のオレの心には痛かった。

        *        *        *

 昼休み、私達は昨日同様に肩を寄せ合って屋上にいた。
  なんでそんなものがここにあるのだろう――私は士郎の弁当をずっと睨みつけていた。
  食べ終わった後も士郎は喋ろうとせず空を見上げていた。
「何か面白い形の雲でもあるの?」
「別に――」
  それだけで会話は終った。
  最近士郎の口数は少ない気がする、いつもなら暇さえあれば冗談でも言っていたような奴なのに――なんでだろう。
「なあ……お前はこんな関係でいいのか?」ふいに彼は口を開いた。
  どっちの意味で言っているのだろう。今の私にはその言葉は期待を呼ぶものではなく恐怖のものとしか考えらなかった。
  ――そこに空になったミカのお弁当箱があるから。
「……私はこのままでもいいよ」
  嘘をついた――そうとしか言えない。もしかしたら捨てられるかもしれないと恐怖があったから。

9

        *        *        *

 空になった弁当箱を見ると彼女の顔が浮かぶ。味は殆ど分らなかった。只、胃にモノを詰め込める感覚。
  隣にいる女の子の視線を感じて内心気が気でなかった。
  殆ど忘れかけていた子供の頃を思い出す。
  アイツはオレだって事がわからなくても好きだって言ってくれたんだよな。こっちなんて名前すら忘れかけていたのに。
  ――こいつの事好きだった筈なのに一緒にいても何で楽しくないのだろう。
  雲を見上げながらそんな事を考える。
  考えるまでもなく答えは分っている。彼女――ミカへの罪悪感。
  智子とは中途半端な関係。これなら友達のままの方がずっとよかったのかもしれない。
「なあ……お前はこんな関係でいいのか?」
「……私はこのままでもいいよ」
  もし、『そんなことない』と一言でいいから言ってくれれば、
  どちらか一人を選ぶ踏ん切りがついたのに――そんな事を思う。
  ミカはオレ達の事には気づいていない。
  智子と決別する事になっても彼女はきっと今まで通りの関係でいられる――嫌な考え、自分勝手かもしれない。
「なあ――本当にオレの事好きなのか?」
  何処かまだタチの悪い冗談か何かだと思っていたい自分がいた。
「好きだよ――世界中の誰よりも」即答だった。
  こいつは何で今頃好きだなんて言ってきたのだろう。もっと早く言ってくれればこんな事に悩む必要なかったのに。
  しかしオレも同罪だ。こんな事で悩むのだったらあの時屋上でハッキリと拒絶するべきだったんだ。
  いや、ミカとも付き合うべきではなかったのかも知れない。
  ごめん――誰に向けて言うべきかわからない言葉が胸の中で勝手に響いた。
  ただどうしようもない後悔だけが胸の中にあった。

 

 放課後になっても昼の弁当は胃につかえていた。
  弁当が悪かったのか、オレの胃の調子が悪かったのか――多分後者だろう。多分ストレス性のものだろう。
  こんな関係がいい訳がない。
  別れるべきだ――どちらと?
  どっちが好きだなんて分っている筈だ。でも行動できないでいる。決められないでいる――最低な男だ。
  どんなに迷っていても時間はただ流れ、彼女の乗っている電車は近づいてきていた。

「シロちゃん、美味しかった?」
  電車の中でこっちの考えなんて気づかないのか、いつもの無邪気な顔をして尋ねてくる。
「ああ――うん」
  ――ごめん、味なんて殆ど分らなかった。
「そう? よかった。明日も頑張るからね」
  天にも浮かび上がらないかという喜びを包み隠さず表現してくる。
  もし別れるなんて話を切り出したら彼女はどんな顔をするのだろう――言える訳がない。

 三人で電車の中でやる別に何でもない会話、昨日見たテレビや学校であった事。
  そのはずなのに、自然と口数が少なくなっていた。
  関係ない話でも話していれば話すほど嘘をついている気になってくるから。

「えとね――シロちゃん?」
「なんだよ?」
  顔を赤くして恥じらいながら何かを期待している彼女の目。
「もうすぐ駅だよね」
「――ああ」
  もうすぐ彼女達の降りる駅。減速している、もう目と鼻の先だ。
「別れのキス……」
  真っ赤にした顔を俯けながら言った。
「ごめん、さすがにちょっと人前じゃ恥ずかしいから」
  ――本当は智子からの視線が気になっていたから。

「じゃ、またな」
  軽く手を振って二人を見送る。
「士郎――えっと……やっぱり何でもない」
  智子の思わせぶりな態度。いかにも何かありますって態度。
「……なんだよ」
  ――ハッキリしてくれれば楽になるのに。
  いや、本当はオレの方がハッキリするべきなのかもしれない。

 ――お前はこんな関係でいいのか。自分に問うべき問題だった。
  わかっているさ、そのぐらい――

 

         *        *        *

 ――私は別に二番でいいとか、そういう考えとかは全くない。
  本当は私だけを見ていて欲しい。私だけを好きになって欲しい。
  あの時屋上で『学校の中だけいい』なんて言ったのは煮え切らない彼の背中を押すため。
  本当は私の方が好きだっていう自信があったから。
  私と一緒にいればミカなんて直ぐ別れようって思うように考えていたから。
  その自信が今はない。
  私と一緒に居るとき士郎は困っている顔している事が多い。
  本当は私なんかよりミカの方が好きなのかもしれない。ミカのお弁当を美味しいって言っていた。
  私はこんなに好きなのに――

 士郎が望むなら何でもしてあげる。
  ミカなんかよりずっと上手に――

 いつもより早く目覚ましをセットして、いつもより早く眠ることにした。

10

        *        *        *

 ミカへのマフラー。全然進まない、集中できていない。別の子の事を考えている。
「シロウ、彼女とケンカでもしたの?」
  いつものように人の部屋で漫画を読みながら姉ちゃんが、
まるで今日の夕飯は何かを聞くか、そんな感じそんな事を言ってきた。
  多分、顔に苦悩の色が出ているのだろう。
「別に――」
  彼女――ミカとは何もない。むしろケンカでもしている方がよかった。
そっちの方はもっと単純でオレが謝ればいいだけだから。
「……どっかで完全に吹っ切って忘れた方が楽だよ――それが自分の意志ならね」
  こちら側からは何も言ってないのにまるで何かわかったような口調。
  知った風な口を言って欲しくない。
「――別にケンカなんかしていない」
  これ以上は説明する気はない。したくない。放っておいて欲しい。
「頭の中で下手な理屈捏ね上げてると本質から遠ざかるからね――」
  何処か悟った様な思わせぶりな言葉を吐いて、そのまま部屋から出て行った。
  ――人の事何もわかってないくせに。
  結局マフラーを編む手は止まっていた。
  何でこんないい加減な奴の事好きだ何て言う奴がいるんだ――

「はい、これ。昨日より頑張ってみたんだ」
  電車の中で満面の笑みでミカは昨日と同じ包みの弁当箱を渡してくれた。
「……ありがとう」
  ――頑張らなくていいのに。こんな嘘つき相手に。
  本当はもっと気の利いた感謝の言葉を出すべきなのに、それ以上言葉が続かない。
「お母さんが、久しぶりに会いたいから、また連れてきなさいって」
「あ――うん」
  なんでもない会話の筈なのに心が痛い。
  受け取った弁当箱はとても重く感じた。

 そういえばいつも一緒にいるはず智子の姿が見えない。風邪でも引いたのか――
「あのさ、神崎君」
  深井さんから話しかけられた。そういえば朝の電車ではいつも一緒にいるとはいえ殆ど話した記憶がなかった。
「なに?」
  顔を向ければそこには何か睨むような形相があった。
「……いや、やっぱり何でもない。多分気のせいだと思うから」
  彼女はミカの方へと視線を一度移してから結局口を閉じた。
  言いたいことがあるならはっきり言えよ――それはオレも同じか。

 

 空が高い――昼休みの屋上でそんな事を考えていた。
  日が沈むとまだまだ寒いが、風のない日中はうっすらと春の陽気すら感じさせるものがあった。
  別に友達同士が一緒に昼を過ごすなんて普通の事だ。でも今オレがやっている事は背信行為以外の何者でもない。
  今手元にある弁当箱、それが罪悪感を増大させていた。
  もうやめよう――って言えたら楽なのに。
  ――誰に言うんだ。
  本当はわかっている癖に――

「……これ」珍しく控えめな声。
  差し出されたのは弁当箱。
「どうしたんだ、それ」
  ――聞かなくても意味ぐらいわかっている。
「今日早起きして作ったんだ。でも流石に遅刻しそうになってね」
  そうだこの顔、今朝のミカと同じ顔。
  手元には既に蓋のあいた弁当箱。
  今手元にある弁当箱と彼女の手の中にある弁当箱、二つの間を目は何度も往復していた。
  目を彼女の方へ向ければさっきまでの表情は小さく震えていた。
「いや――もうあるし……」
「捨ててよ!そんなもの!」
  そういうなりオレの手から強引に奪い取り中身をぶちまけた。

 ――ごめん。
  この場にいない彼女に心の中で謝った――でもこんなこと彼女には言えない。
そんな勇気も覚悟もない。ただ無理にでもいつもの顔をして一緒に過ごすことしか出来ない。

 彼女は泣きながら激昂していた。
  彼女の顔――知っている顔。
  ずっと昔見たことのある顔。忘れてしまいたいぐらい昔――
  思い出したくない頃の――

「なんで!なんでよ!どうして私を見ていてくれないの!」
  変な物思いにふけっているいる時じゃない。彼女の両肩をつかみ体を揺さぶる。
「おい、おちつけって!」
  その一言で我に返ったのか今度は急に黙り込んだ。
  俯いたまま彼女は何も言わなくなっている。
「……ごめん」小さな声
  それだけ
  無理にでも引き止めるべきなのだろうか。
  ――結局出来ないまま屋上を立ち去る彼女を黙って見送った。

 一人残された屋上
  残ったものはぶちまけられた弁当とまだ手の付けられていない弁当箱。
  指先で残された弁当箱を二度叩く。
「なあ――こういう時ってどうしたらいいのかな」
  物言わぬ貯水タンクに話しかけている。
  意味のない行為――わかってる。

 ――悪いのはオレだ。

 

        *        *        *

 昼が終ってからも士郎からは話をしてこようとはしてこなかった。
  放課後になっても黙ったままだった。

 ミカにお弁当箱を返している――私のじゃ駄目なのかな。
  二人は何か話しているけど聞こえて来ない。
  惨めだ――

 嫌われた――かな。
  何で私あんな事しちゃったんだろう――
  困らせようとかそういう気はなかったのに――
  喜んで欲しかっただけなのに――
  一緒に話して、一緒に笑っていたかっただけなのに――

「トモちゃん」
「え、あ、うん?」
  ミカから声をかけてようやく降りなきゃいけないこと気づいた。
  慌てて電車から飛び降りる。
  士郎も別れの挨拶ぐらいしてくれもいいのに――

 ――謝ったら許してくれるかな。
「ごめん、ミカ。用事思い出したから」
  駅を出てから踵を返した。ちゃんと話そう。駄目だったらその時は――
  最後にもう一度、さっきまで隣にいたミカの方を見る。
  なんであのコが士郎の心の中にいるんだろう――

 

        *        *        *

 無言でベットに寝そべったまま天井を見上げる。
  何をしていいのかわからない。
  本当はやらなきゃいけない事がわかっている癖に、その覚悟がない――
  電話が鳴る。相手が誰かも確認しないまま電話に出る。
「もしもし、私メリーさん。今あなたの家の前にいるの」
「……変な冗談はやめてくれよ」
  電話は智子からだった。
  そういえばこの冗談オレが昔やった奴だった。
「――ごめん。顔見てちゃんと話したかったから……今家の前にいるけど会ってくれるかな?」
「……上がって来い」
  ――何話したらいいんだよ。
 
  玄関から上がってきた彼女は何も言わずに只ついてくるだけ。
  部屋の中で腰を下ろしても黙っているだけ。
「なあ上着ぐらい脱げよ」
「……うん」
  それだけ言ってマフラーを外して上着を脱いだだけ。それだけだった。
  オレの送ってやったマフラー。なんであの時好きだって言えなかったんだろう。
  オレもあいつも座り込んで貝のように口を閉じたまま。
「……ごめん」ようやく彼女から聞けた言葉はそれだけ。
  ――こんな関係嫌だって一言言ってくれればオレの中での決着はつくのに。
「何か飲む物淹れてくる」
  多分今日はこのまま何もないまま終る。そんな気がした。
  腰を上げようとした瞬間両肩を掴まれていた。

 しばらく何が起きているのかに時間が必要だった。
  目の前に彼女の顔があった――
  自分が仰向けに倒れていた――
  彼女が自分に馬乗りになっていた――
「ねえ――しようか?」
  彼女はなんで泣きそうな顔になりながらこんな言葉を吐くのだろう。
「……そういう気分じゃない」
  彼女の顔を見ていられず顔を背けた。
  衝動だけに任せて生きられたらどれだけ楽なのだろう。
  今その衝動に従うと大事なもの全部壊れてしまう気がした。

 

「私の事嫌いになっちゃった……」泣き声がした。
  ――お母さんの事嫌いになった?
  その声で顔を戻すとなやはり泣いていた。そうだ、この顔だ。
  ようやく思い出した昼間のコイツの顔。子供の頃お父さんとケンカしてた頃の母さんの顔だ。
  大嫌いだった顔。でも母さんは嫌いになれなかった。
  ケンカした後ボクと二人きりになった時、そう――今のこいつと同じ様な顔をしてそんな事を言っていた。
  この時の顔を見ていたら辛いことも少しは我慢できる気がしていた――
「……そんな事ない」
  こいつの事嫌いになれたら楽なのに。何のためらいもなくこの体を押しのける事が出来るのに。
  こんな関係止めようって言えるのに。
「じゃあさ――抱きしめてくれるかな」
  そういいながら彼女の体重は既にオレの体に預けられていた。
  自分の手は無言のまま彼女の背中にまわっていた。
  ――最後までやらなければいいって理屈か、ただの偽善だ。

 抱きしめている体が震えているのに気がついた。
  オレか震えているのかもしれない――
  それとも彼女か――
  ――どっちでも変わらない。中途半端な状態をズルズル引き摺っているオレがいるだけ。

 彼女を抱きしめたまま仰向けの状態で天井を見上げる。
  今抱きしめている彼女ではなく別の女の子の事を考えていた。
  ――お前はこんな関係でいいのか。
  いま心はどこか遠くにあった。

 最低だな。

 

        *        *        *

 視界の隅に編みかけのマフラーがあった。私のとよく似ている、ミカへのだ――
  こいつはまだミカと付き合っているから。ミカと私、どちらが好きと言う質問は出来ない。
  もし私じゃなくてミカを選んだら、私きっと――

 でもいい――
  今こうしていられるから。
  こうして抱きしめられていると嫌な事何も考えずに幸せな気持ちになれるから。
  こうしている間は私の事だけを考えていてくれている。私だけ見ていてくれている。
  ずっとこうしていたい――

 体が震えているのがわかった。
  ――士郎もひょっとした怖いのかな、だからさっき拒絶したのかな。
  そう思うと彼との境界線である服がとても邪魔に感じてきた。
  でもやらない――士郎を困らせたくないから。

 十分か一時間か、とにかく時間は流れていた。
  彼の手が背中を軽く二回叩いた。
「そろそろ姉ちゃん帰ってくるから――そろそろ、な……」
「……うん」
  ずっとこうしていたいのに――
  でもしかたないよね。
  士郎から体を離そうとすると不思議な感覚だった。
  まるで一つに溶け合っていたものを無理矢理引き剥がしていく感覚。体は一緒にいたいって言っている。
  やっぱり嫌だ――ずっとこうしていたい。
  本当はこんな中途半端で人目を忍ぶような関係じゃ嫌だ。
  いつも一緒に居たい。みんなにこいつは私の恋人だって自慢してやりたい。
  なんでもっと早く言わなかったんだろう。そうすればもっと一緒にいられた。
  ミカの事なんて気にする必要なかったのに。士郎をこんな風に困らせる事もなかった。

 ――馬鹿だよね。

 そんな事を考えていると自然に涙が流れていた。

「ねえ、土曜空いている?」
  今士郎の方を向いちゃいけない。泣いている顔をみせる事になるから。
「ごめん――」
「……ミカと?」
  士郎の返事はなかった。返事してくれないって事はそうなんだろう。
  ――私何をしているんだろう。

To be continued..

 

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