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妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる

第1章
外伝
第2章

 

11

 東京に戻ってきても、相変わらず楓とは顔を合わせることができずにいた。
もちろん携帯で話すこともできるのだろうが、
当の楓がそれを望んでいないような気がしてそのままだ。
樹里ちゃんは本当によくしてくれるし、それについて不満はまったくないからこそ、
このままでいていいはずがない。
結局、おれは何の覚悟もできていなかったのだろう。
人倫を踏み越え、それを維持していくだけの根性も甲斐性もないのに、いたずらに楓を傷つけた。
今さら何を言って許してもらおうという気もないし、その資格はないのだとわかっているけれど……

 ……?
見覚えのある若草色の包みがおれの机の上に置かれている。
「ああ、それ。奥さんが置いていったよ」
澤田さんが火の点いていない煙草を手の中で弄びながらこっちにやってくる。
「いやー、何だか護ってあげたくなるタイプの娘だね。きみにはお似合いだと思うよ。
それにしても、愛妻弁当を忘れていくとはきみも大概にひどい奴だねえ。
わざわざ届けにきてくれる、っていうのも甲斐甲斐しいけど……」
……楓だ。
ということは、ここまで来たんだ。
「……早く、ちゃんとしてあげなよ?」
肩を叩かれる。
……そういうことで悩んでいた日々が、何だか凄く昔のことのように思える。
同僚たちに冷やかされながら包みを開くと、二つ折りにしてあるメモが床に落ちた。

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一度ちゃんとお話したいので、今日は寄り道せずに帰ってきてください。
お仕事、がんばってくださいね


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……。
今の楓が何を考えているのかは正直わからない。
おれにできることは、楓の言葉を真摯に受け止めてやることだけだ。
その上で、できること、できないことをきちんと伝えよう。
弁当箱は高校時代から愛用している、楓のそれの二、三倍近い容積を誇る“どかべん”で、
中身はきちんと色味と栄養のバランスを考えてあるのがよくわかる。
思えば楓の作る飯を食うのも久しぶりだ。あいかわらずうまい。
最近は外食か弁当ぐらいしか食べられなかったからな……
料理ができないわけじゃないが、疲れて帰ってきて自炊するほど体力が有り余ってるわけでもないし。
うちのお袋から継承されたこの味がいつか、どこかの家庭の味になるんだと思うと、何だか不思議な気分だ。

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フライドチキン。
オムライス。
グラタン。
ハンバーグ。
洋梨のケーキ。

そんな、年端もいかない子供のおつむをひっくり返したようなメニューの数々が、
狭いテーブルの上に溢れんばかりに並んでいる。
「……なんか、すごいな」
「思いつくままに作ったら、こんなことになっちゃって」
エプロンを外しながら、楓が台所から出てくる。
しばらく見ない間に、少しやつれてしまったようにみえる。

「……うん、じゃあ、ちょっとだけ、お話、させてくれますか?」
「……ああ」
いつかのように、ふたり向き合って正座する。
「まず、勝手に部屋を開けて出歩いたこと。ごめんなさい、心配おかけました」
「うん」
「それと、……色々、酷いこと言ったり、その、しちゃったりして、ごめんなさい」
「……うん」
楓の雰囲気からとげとげしさや、悪意のようなものは感じられない。

「……あれからいろいろ、本当にいろいろ考えました。
いったい何が正しかったのか、間違っていたのか、
結局わたしは何がしたかったのか、まともに寝ないで、ずっと考えてました。
……その、兄さんは、……森川さんのことが、好きなんですよね?」
「……ああ」

「兄さんのいないところで、一度だけ会ったんです。
……ものすごい喧嘩しちゃって、それっきりですけど。
もちろん、最初は許せませんでした。
わたしを裏切った兄さんも、兄さんをそそのかした森川さんも。
ふたりに対する憎しみで、こころが真っ黒になりました。
しばらくはそのままでいました。
ずっと、ずっと、ずーっと、
黒い絵の具みたいなどろどろした気持ちにまみれたまま、いました。
自分の中に、こんなに醜い部分があるってことに驚いて、それすらも怒りに変わっていきました。
……森川さんとも、その頃喧嘩しました。
その後も、その、ちょっと辛いことがあって、ますます気持ちは沈んでいきました。
でも、どんなに兄さんのことを憎んでも、嫌いにはなれなかったんです。
いっそ嫌ってしまえば楽だったのに、できなかった。
いっぱい、いっぱい、いっぱい考えました。
何千回、何万回同じことを考えても、それでも答えは結局変わりませんでした。
……やっぱり、わたしには兄さんが必要なんです。
女として愛してくれなくてもいい、他に恋人がいてもかまいません。
昔と同じように、妹としてでいいですから、そばに、いさせてください。
ほんとうに、それだけで、十分です。
だから、おねがいします。
それが、かえでの、望みです」

……楓。

 
「兄さん、覚えてますか?
本当に小さい頃―――わたしが幼稚園くらいの頃、兄さんに言ったんです。
兄さんのお嫁さんになりたい、って。
そうしたら兄さんったら、なんて言ったと思います?」

「……ぜんぜん憶えてない」

「『ぼくは料理の上手なおよめさんがほしい、そうしたら好きなものを毎日作ってもらうんだ。
だからぼくのおよめさんになりたいなら、料理がうまくならないとだめだ』、
って。それからわたしは、母さんに料理を習い始めたんですよ」

楓は微笑む。
男に媚びるそれではない。
家族に向ける、親愛の表情だ。

「……お嫁さんにしてくれなくてもいい。
これからも、ずっと、楓のお兄ちゃんでいてください」

楓が膝の上で握った拳が、ぶるぶる震えている。
笑った口元が、小刻みに痙攣している。
目元に少しずつ涙が溜まり、それを懸命に抑えようとしている。
血を流し、激痛に襲われながらも、楓は歩き出そうとしている。
自分で決めた道を、自分の力で。
それはあたかも、生まれたばかりの仔牛が、自分の足で立ち上がろうとするように。
一体誰が、それを哂えるというのだろう?

「―――ああ。いつまでも、おまえはおれの妹だよ」

何度も立ち止まり、後ろを振り返り、道に迷い、崖から転げ落ちて、
隣を歩く人間はおろか、世界中のすべての人間の足音さえも信用できなくなって、
それでもおれたちは辿りついた。
ここからすべては始まっていくんだ。
おれたちのすべてが。

妹よ。
寂しいときは甘えていい。辛いときは泣いていい。
それでもいつか、傷口は乾くから。
その時がおまえの、本当のはじまりだ。

それまでは、おれがそばにいるから。

「―――それにしても、随分たくさん作ったな。しかも子供の好きそうなもんばっかり」
「“子供の好きなもの”じゃありませんよ。“子供の頃の兄さんが好きだったもの”です」
「その頃のおれがこの光景を見たら、嬉しさのあまり気絶していただろうな……」
「この年になって、やっと叶えてあげることができました」
「うれしいよ、すごく。ただ、いっぺんには食いきれないだろうな」
くすくすと楓はわらう。
「食べたい分だけ食べて、後は冷蔵庫にしまっておきましょう。
作った側の人間としても、味わって食べてもらいたいですから」

ふたりで向かい合って、どれもこれも力作ぞろいの料理たちを味わう。
これだけ大量でも食べる口は二つしかないので、どうしても冷めてしまう。
申し訳なく思いつつも電子レンジで小刻みに暖めながら、子供の頃の思い出話に花を咲かせる。
思えば遠くに来たものだ。
日々の生活に忙殺され、世の中の裏側のえぐさを知り、
どうしようもなく空虚な感覚に押し潰されそうになったこともあった。
そんな時はいつも、昔を思い出して耐えた。
あの頃はあんなにも無鉄砲で、何を恐れることもなく日々を生きていた。
団地の連中とあたりを駆けずり回り、毎回のように擦り傷をこしらえて帰ってくるおれを手当てしてくれる、
もみじの葉っぱのような、小さな手のひらのぬくもりを憶えている。

その日は結局、別々に風呂に入り、同じ布団で眠りについた。
楓がそれ以上何かを望むことはなく、平穏に夜は更けていった。

12

 元樹さんの言うところによれば、事態は一応の終結をみたらしい。
  もう何も心配は要らないよ、と彼は穏やかな顔で言うが、
  あれがそんなに簡単に彼を諦めるとは到底思えない。
  策謀の限りを尽くし巡らし、彼の枕元で好機を今か今かと息を潜めて待っているに違いない。
  元樹さんは優しい。優しすぎるほどだ。
  だからこそ、あの雌狐がまた何かしでかしたら、きっと形勢はあっさり逆転してしまうだろう。
  そうなればまた私が追う番だ。そんなのはまっぴら御免である。
  私にアドバンテージがあるうちに、完膚なきまでに、叩き潰す。
  もともと倉井楓という女性は“そういうたち”である。
  どんな状況であれ、用心のしすぎということはないのだ……
 
  都内でも有数の大きさを誇るこの書店で、彼の妹君は働いていた。
  長い黒髪を後ろでまとめ、白いシャツの上に深緑のエプロン、
  グレーのデニムパンツという出で立ちで本棚に立ち向かう彼女は、
  かつての浮世離れした雰囲気をもはや纏ってはいない。
  背丈が自分の半分ほどしかない少年少女に、
  しゃがみこんで笑顔で応対するさまは、まるで年若い保母のようですらある。
 
「“ご苦労様です”」
  後ろから耳元に囁きかける。
「―――あ、はい、お疲れ様で―――す」
  上司から労いの言葉を掛けてもらったと勘違いしたのか、
  営業スマイルのまま振り返ったはいいが、口元が引きつっている。
「……お仕事終わったら、ちょっと時間いいですか」
「今さら……今さら、何も話すことなんてありません」
  憤懣やるかたなし、といった表情を浮かべる楓さん。
「貴女になくても、こちらにはあるんですよ」
「……今、この場で聞くわけにはいかないの?」
  何が何でも差し向かいで私と会話するのが嫌らしい。
「本当に言ってもいいんですか? 仕事にならなくなりますよ」
「……兄さんのこと?」
「それ以外に何があると?」
「……わかったわ、終わったら連絡します」
「あれ、私の連絡先(アドレス)、知ってるんですか?」
「……最低ね、貴女」
「何を今さら」

 

 会合の場所に指定したのは路地を入った所にある、あまり人の寄り付かない喫茶店だった。
  客の入りは決して良いとは言えないがちゃんとしたものを出す、いわゆる穴場というやつで、
  元樹さんに教えてもらったお店である。
「……で、お話って何かしら。森川樹里さん?」
  目の前でゆらゆらと香ばしい湯気を立てるブレンドに手を付けすらしないうちに、楓さんは切り出す。
「落ち着いてコーヒーくらい飲ませてくださいよ」
  ガラスのポーションケースから角砂糖をカップにひとつ落とし、攪拌する。
「……はっきり言いましょうか。今こうしてるだけで凄く不快なの。
  貴女がどれだけ酷いことを言うつもりなのか知ったことじゃないけど、」
「いつまで先輩と一緒に生活してるつもりですか?」
  あくまでさらりと。
  野原で摘んだ花束を差し出すような調子で、中には蜥蜴という悪質。
「……兄さんに出て行け、って言われるまでです」
「ふざけないでください、彼がそんなこと言うわけないでしょう」
「別にふざけているつもりはないんだけど」
「単刀直入に言います。邪魔です。この上なく邪魔です。
  貴女が彼の部屋に居座っているかぎり、いつまで経っても遊びに行けないじゃないですか」
「……不潔」
「貴女にだけは言われたくないですね」
  これだけは譲れない。
「……話はそれだけ? もう行ってもいいかしら」
「あくまで立ち退く気はない、ってことでいいんですね?」
「貴女に指図される謂れはありませんからね」

「後悔しますよ」
「……今でもしてるわ。十分ね」

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 わたしの周期はわりと正確だったから、一ヶ月も遅れた時点で半ば確信していた。
  バイトの帰り、薬局に寄って買ってきた“それ”を目の前に、しばし瞑目する。
  歯ブラシと体温計を足して割ったような、珍妙なフォルムのそれにどれだけの信頼を置いていいものか。
  心臓がばくばくいっている。いっそ身を投げてしまいたい衝動に駆られるが、そうもいかない。
  兄さんと約束した。きっと立ち直り、いつかあの日の兄妹に戻ると。
  それまでは、わたし自身さえも、わたしが勝手に決着してはならないのだから……
 
  きっかり一分後。
  わたしは判定窓を覗き込み、そのままテーブルに崩れ落ちた。
  入学試験の受験番号、就職内定の厚い封筒、人生を左右するシンボルは多々あるだろうが、
  女として生まれてきた以上、これを超える通告は恐らくあるまい。
(妊娠した―――)
  思い返せばずさんな避妊だった。避妊具は一応付けていたが、無ければ無いでそのまましていたのだから。
  やっと歩き出せる、ここから前に進めると思った瞬間にこれだから、運命というやつはかくも残酷だ。
 
  どうすればいい。
  どうすれば、いいんだろう。
  兄さんに、言える?
  兄さんの子供ができたって、本当に、言える?
  ……言えない。
  ぜったい、言えない。
  なら、黙って堕ろす?
  兄さんが授けてくれた、この小さな命を、殺せる?
  ずっと昔から、心の奥底で望んでいた、この奇跡を、手放せる?
  無理。できない。そんなことするくらいなら、死んだほうがまし。
  じゃあ、どうすればいいって、いうの?

 タンクトップにトランクスという、うちのお父さんと同じ格好をして、
  駅の近くの屋台で買ってきたという焼き鳥とビールで、野球中継に夢中の兄さん。
  こうしている間にも、わたしの下腹に宿った新しい命は、
  わたしの血中から栄養を吸収し、着々と成長しているのだ。
  異物だ。
  異物である。
  わたしの意志とは関係なく、この子は十月十日を目指しこんこんと眠り続けるのだ。
「食うか?」
  兄さんが串の一本を差し出す。どす黒く濁った肝臓に、甘辛いたれで味をつけ焼いたものが四切れ。
「……い、いい。要らない……うぷ」
  猛烈な勢いでトイレに駆け込んだわたしの背中を、兄さんがさすってくれる。
 
  だめだ、ぜったい、殺せない……
 
  結局その日は一睡もせず、先のことを考えていた。
  同じ部屋で暮らす以上、そう隠し通せるものでもないだろう。
  お腹が大きくなってくれば絶対に気付かれる。
  だが、母体保護法によって定められている二十二週を守りきれば私の勝ちだ。
  それ以降の堕胎は業務上堕胎罪にあたるため、気付かれたところでもう堕ろすことはできない。
  あとは両親に泣きついてでも絶対に出産してみせる。
  利用できるものは何でも利用してやる。鬼にでも畜生にでもなってやろうじゃないか。
  兄と愛し合うことを決めてからというもの、
  人の道を外れることに躊躇などなくなって久しいのだから。
 
  翌日、バイトを休み産婦人科へと赴いた。
  待合室は若い女性たちで一杯だった。
  マタニティドレスを着たひとはやはりというか全体的に表情が明るい。
  人の世は移り変われど、妊娠出産は自身の女性性を完全肯定される事象であることに変わりはない。
  むしろ、いかにもできるオンナといった趣の女性が俯いている姿を見ると、暗澹たる気持ちになる。
  わたしのような人種にとって、彼女らの心象を理解することは難いが、幸せになってもらいたいものだ。
  ……なんだろう、この余裕は。
  実の兄の子を身篭ってしまった妹なら、もっとこう、悲壮な雰囲気を纏っていてもいいんじゃないのか?
  自問自答して、可笑しくて、思わず吹き出してしまう。
「何ヶ月ですか?」
  隣に座っていた、ポニーテールの女性に声を掛けられる。
  彼女も薄桃色のマタニティに身を包み、かなり大きくなったお腹をさすっている。
「まだわからないんです。初めてここに来たもので」
「あら、じゃあ検査薬か何かで?」
「ええ、どうやらおめでたみたいで」
  おめでた、が肯定表現であることを理解したのだろう、女性の表情がぱあああっと明るくなる。
「おめでとうございます、ほんとに」
「ありがとうございます」
  ふたり顔を見合わせながら笑う。
  女性が妊娠すると綺麗になる、ってほんとだな、って思う。
「お姉さんは妊娠何ヶ月ですか?」
「これで7ヶ月目なんですよ」
  おっきいなあ。
「旦那さまがね、熱心にかまってくれるからすごく嬉しいの。
  結婚する前はすごくクールなひとだと思ってたのにね」
「わたしも、寂しがり屋だからかまってもらえるとすごく嬉しいです」
「大丈夫、パパになると、びっくりするくらい男性って変わるから。いっぱい甘やかしてもらえるよ」
  それは、わたしには、ないことだと、わかっていたけれど。
「楽しみです」
  いいんだ、そんなものは。
  本来わたしの妄想の中でしかありえなかったことが、
  今こうして現実として私の目の前に横たわっているのだから。

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 仕事が忙しく、帰って寝るだけの生活が続いた。
  別々の布団で寝るようになった。
  一緒に風呂に入ることがなくなった。
  食事のメニューが元々立派な内容だった。
  楓は元々、あまり身体が丈夫なほうとはいえなかった。
  気付けなかった理由はいくらでも後付けで用意できるだろうが、事実だけは変わらない。
 
  楓が妊娠した。しかも既に堕ろせない時期に差し掛かっているという。
  後悔は後ですればいい、とるものもとりあえず実家に連絡した。
  報せを聞くなり田舎からすっ飛んできた両親も、僅かに膨れた楓のお腹を見るなり泣きだしてしまった。
  老いはじめた親二人に縋りつかれながらも、楓は超然としていた。
  それはむしろふてぶてしさすら感じさせる微笑であり、
  母の強さともまた違う、もっと子供じみた虚勢だったように思う。
 
  ひと段落すれば、あとはお袋の独壇場だった。
  やれ腰は冷やしてはいけないだの、薬は絶対飲むなだの、
  楓にひとつひとつ出産の心得を伝授している。
  それにふんふんと頷きつつ神妙に聞き入る楓を、
  頬杖をつきながら眺める野郎ふたり。
 
  親父の表情は読めない。
  ただ一言ぽつりと、すまなかった、とだけ聞き取れた。
  それが何についての謝罪なのかはっきりしなかったが、おれは頷いた。
 
「……で、だ」
「……ああ」
「……男の子か女の子か、聞いたか?」
「多分、女の子だってさ」
「名前は決めたのか?」
「……今日初めて何もかも聞いたのに、考えてるわけないだろ」
「それもそうか」
「……」
「……」

「……孫の顔が、楽しみだ」
「親父……」

 しんみりとした空気が流れたその瞬間、玄関のドアがばたーんと盛大な音を立てた。
 
「先輩先輩! 私妊娠しましたっ! これでこれで、楓さんと一緒に住むわけにはいきませんよね!
  責任とって結婚してくださいっ! 何なら入り婿でも結構です! 両親に挨拶に来てください! 今すぐ!
  新婚旅行はどこにしますか? やっぱり海外ですか? ハワイ? グアム? 
  両親はシンガポールだったらしいのでそれもいいですよね! 元樹さんは煙草吸わないし!
  式は前も言ったとおり神前式がいいです! でもやっぱりウェディングドレスも捨てがたいですよねっ!
  いずれにせよお腹が目立つ前にやっちゃいたいので次の休みに一緒に式場の下見に行きましょう!
  さー楓さん、これで元樹さんは私のものです! 正攻法ですよね? 常道ですよね?
  文句はないですよね? いくらなんでも嫁入り前の身体を傷物にした上に身篭らせて、
  その責任を取らせないとは言わせませんよ?
  あンだけどぱどぱ中に出しておいてまさかとは言わせませんよ?
  証拠のビデオも、ボイスレコーダーも、 ついでに言うと使用済みの近藤さんもいらっしゃいます!
  嘘だと思うならDNA判定でもなんでもどうぞ! 悔しいですか、悔しいでしょう、
  でも貴女は元樹さんの妹だからどうしようもありませんね、大丈夫、
  貴女くらい魅力的な女性ならいくらでも男性が言い寄ってきますから。
  ちぎっては投げ、ちぎっては投げっぱなしブレーンバスターって感じですよええ。
  よろしければうちの事務所にいい男がいますから紹介しますよ?
  さえない感じですが根はいい人です。保証します。
  さあ元樹さん、下にタクシーを待たせてますので来てください!
  まずは元樹さんのご両親にご挨拶に参りましょう!
  こういうことは早ければ早いほど心証がいいってものですからね! 末永いお付き合いになるんですから、
  こういう儀式はきちんとしましょう。ああ何だか緊張してきました、
  でもきっと元樹さんのご両親ですからさぞ立派な 方々なんでしょうね、ちょっと安心です。
  でも楓さんのご両親でもあるんですよね、もしかしてお二人は血縁関係にあるとか?
  そのせいで楓さんがインセスターでモラルハザードで畜生道まっしぐらになったとか……
  はっ、憶測でひとをどうこう言うのは良くないですよね、ごめんなさい。
  でもきっときっと大丈夫ですよね、 元樹さんも私もまだ若いですが社会的地位もありますし、
  ふたり合わせれば収入は十分ですしね! さあ行きましょう、ぐずぐずしている暇はありませんよ?
  一時間後に新幹線の指定席を取ってありますからっ!」
 
  ぜはー、ぜはー、と荒い息をつく樹里。
 
「……」
「……」
「……」
「……」

「……あれ?」

13

!ご注意!

手元に「さくらむすび」のサントラがある方は、是非それを聴きながら読んでください。
雰囲気が出ます。

 ………
  ……
  …
 
  穏やかな春の陽射し。
  甘く匂い立つ花の香り。
  遠くでさえずることりのこえ。
 
  それらを全身に浴びて、わたしはいま、おとぎ話のような風景の中にいる。
 
  いちめんのなのはな。
  いちめんのなのはな。
  いちめんのなのはな。
 
  誰もが知っている、有名な詩の一節。
  水平線の向こうまで連なる、広大な菜の花畑を前に、
 
「これが全部、サラダ油の原料になるのね……」

 隣で写真を撮っていた、大学生と思しき男女がずっこける。
 
「あ、あのねえおじょーちゃん、この風景を見てそれはないでしょう……」
  頭を抱えながら、プラチナブロンドの女性は立ち上がる。
  男性の方は苦笑いを浮かべながら、膝についた土を払っている。
 
「キミくらいの歳で、そんなに枯れた感性でものを言ってどうするのよっ。
  もっとこう、少年期らしい率直な、それでいておとなをハッとさせるような発言をお願いしますっ」
  女性はしゃがみこんで、わたしと視線の高さを合わせる。
  今気付いたが碧眼だ。日本人ではないらしい。
  ともすればこの金髪は地毛なのだろうか。てっきり染めているのかと思った。
「それは大人の勝手な物言いね」
「あらま、おませさんだこと。でもね、子供のうちは子供でいたほうが楽よ?
  大人になったら、嫌でもそうやって現実を見て生きていかなきゃいけないんだから」
「知ってるわ」
  さすがに面食らったのか、男女はお互い顔を見合わせる。
「……ねえ、お嬢さん。お歳はいくつかな?」
  男性の落ち着いた声色が耳に心地いい。優しげで、ちょっと我が家の大黒柱に雰囲気が似ている。
「女性に年齢を尋ねるのは失礼ですよ」
「……あはは、は、は。ごめん、ごめんね」
 

----
 
  数十メートル先で、うんうん唸りながら構図に迷っている男性を、
  ベンチに腰掛けながら件の女性とふたりで眺める。
  女性はシノダと名乗った。あの男性と結婚しているらしいので、きっと男性の苗字なのだろう。
「で、もみじちゃんは家族で旅行に来たんだ?」
「はい」
「何人家族?」
「五人です」
「あやや、今時珍しく大家族さんだ」
「うちはちょっと特殊なので。それでも稼ぎ頭は3つありますから、
  経済的に困窮しているわけではありません。むしろ裕福な部類に入ると思います」
「……。なんか、すごいね、もみじちゃん」
「そうですか」

「シノダさん」
「アリサでいいよ」
「では、アリサさん」
「何かな?」
「アリサさんは、どうしてあの男性と結婚したんですか?」
  シノダ―――篠田さん、もといアリサさんは思いがけなく真剣な顔になり、それからにっこりと笑った。
「お互いに、愛し合っていたから、かな……」
  自分で言っておいて、やんやんやん、と身をよじるアリサさん。
  ちょっとかわいい。泣かしたくなる。
「結婚する上で、何か問題はありましたか」
「たくさんあったよ。何もない人のほうが珍しいんじゃないかな」
「……差し障りなければ、教えてくださいませんか」
「そんなに固くならなくても大丈夫だよ、怒ったりしないから。
  ……そうだねえ、やっぱり私が純粋な日本人じゃなかったのが大きいかな。
  彼の実家がね、旧いおうちだったから、親戚のひとたちも頭が固くて。
  悪口も、ひどいこともたくさん言われた。思い出したくないくらいに」
 
  ほんの一瞬だけ、アリサさんの顔が悔しさに歪んだのを見てしまった。
 
「それでもね、彼は庇ってくれた。だーれも味方がいないのに、私のために戦ってくれた。
  そして勝ってくれた。だから、私たちは今こうして一緒にいられるの」
 
  そう言って微笑むアリサさんは、とっても綺麗だった。
 
「……末永く、お幸せに」
「……うん、ありがとう」

 

 春の陽気にあてられたのか、気がついたらアリサさんの膝枕で寝入ってしまっていた。
「……ああっ、ごめんなさい」
「ううん、いいの。難しいこといっぱい知ってても、やっぱり寝顔は天使だねっ」
  ほっぺたをつつかれる。
「うにうに、うにうに、ほりゃっ、うにうにー」
  されるがままになっていると、遠くからわたしの名を呼ぶ声が聞こえる。
「もみじちゃん、もしかしてご家族かしら?」
「ひゃい」
「ああごめん、あんまり気持ちいいものだから」
  あわてて解放される。
 
「……おぉ〜〜〜〜〜い!」
  大きく手を振りながら、焦げ茶色の農道をショートカットの娘がやってくる。
  せいぜい年の頃は十七、八といった体格に見えるが、いかんせん動作が子供っぽいので幼くみえる。
「お姉さんかな? まさかお母さんじゃないよね?」
  わたしはそれに微笑で応える。

「はあ、探したよぅ、はあ、もう、はあ、どこに、行ってたのかと、はあ、思ったぁ」
  わたしをダブルスコアで圧倒する身長を持つ少女が、肩で息をしながら私を責める。
  溌剌としているが、喋りかたが如何せん間延びしているせいで眠くなる、というのが周囲の評価である。
「ここ」
「そういう屁理屈言わないでよぅ。
  お父さんも、お母さんたちも呼んでるよっ。そろそろお弁当にしようって」
「そうね、じゃあ行きましょう」
「もう、お姉ちゃんったら都合がいいんだからぁっ。
  おにーさんにおねーさん、うちのお姉ちゃんがご迷惑をお掛けしましたっ。
  それじゃっ。……ほらお姉ちゃん、早く行こうよおっ」

 後ろを振り返ると、篠田夫妻が唖然とした表情を浮かべていた。
「「お、お姉ちゃん……?」」

 わたしはそれにスリーピースサインで返答すると、妹の後を追った。
 

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「杏樹(あんじゅ)、あんたねえ、もう少し落ち着いたらどうなの?
  ある程度の年齢を重ねてなお天真爛漫っていうのは、褒め言葉じゃないわよ」
「うーん、そんなこと言われても。
  そんなこと言ったら、お姉ちゃんは外見と内面のギャップが激しすぎるよっ。
  もっとこう、かわいい感じのほうがラヴリーでキュンって感じだよっ」
  その、フィーリングだけでモノを言う癖はやめてほしいと切に願っている。
「肉体が成長しないだけで、精神は普通に成長しているのよ。
  それをあんたときたらカラダばっかり大きくなって。
  とてもじゃないけど、“あの”樹里かあさんから生まれたとは思えないわね」
「ううー。それ、みんなに言われるから気にしてるのにー」

 わたしの家庭は少々複雑な事情を内包している。
  父親がひとりに対して、母親がふたり。
  しかもその片方は、父の実妹であるというから驚きである。
  社会的な問題もあり、わたしには戸籍上父親がいないことになっているが、
  真実はきちんと家族会議でわたし達姉妹に伝えられた。
 
  全ては結果論でしかないが、わたしには遺伝的欠損があり、肉体の成長が極めて遅い。
  その代わりというのか、わたしの知能は常人のそれを軽く上回る、らしい。
  まあそんなことは、わたしからすればどうでもいいことだ。
  五体満足といえばそうだし、そのことで周りからどうこう言われた記憶はない。
  むしろ周囲からはマスコット扱いされ、
  黙っていても学校の机の上にどんどんお菓子がたまっていく有様だ。
  これ以上の幸せがどこにあるというのだろう。

 
「いやー、それにしてもすごいねぇ。いちめんのなのはな。いちめんのなのはな。いちめんの……」
「あんた、本当にそればっかりね」
  この子は杏樹。わたしのもうひとりの母親である、樹里かあさんの娘だ。
  実は、わたしと歳が数ヶ月しか変わらないのである。
  年子なんてレベルじゃないのである。
  どう考えても同時進行だったのである。
  最近は、あまり考えないようにしているが。
 
「でも、来てよかったでしょー?」
「……そうね」

 生きた土を踏む感触。
  移り変わる太陽の光で時間を読むよろこび。
  エンジンの音の聞こえない、静かな空間。
  どれもこれも、都会では得難いものばかりだ。
 
「それに、楓お母さんの絵本の新作完成祝いとぉ、お父さんの昇進祝いも兼ねてるんだからぁっ。
  私たち姉妹がもっと盛り上げていかないとぉっ!」
「はいはい……」
 
  ……。
 
  うれしいことがあったって、
 
  つらいことがあったって、
 
  わたしたちは歩いてゆく。
 
  どこまでも続いていく道を。
 
  あたたかな光の中を。
 
  五人で歩いた、はるの日を。
 
  [ END ]

2006/03/28 完結

 

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