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……
…
穏やかな春の陽射し。
甘く匂い立つ花の香り。
遠くでさえずることりのこえ。
それらを全身に浴びて、わたしはいま、おとぎ話のような風景の中にいる。
いちめんのなのはな。
いちめんのなのはな。
いちめんのなのはな。
誰もが知っている、有名な詩の一節。
水平線の向こうまで連なる、広大な菜の花畑を前に、
「これが全部、サラダ油の原料になるのね……」
隣で写真を撮っていた、大学生と思しき男女がずっこける。
「あ、あのねえおじょーちゃん、この風景を見てそれはないでしょう……」
頭を抱えながら、プラチナブロンドの女性は立ち上がる。
男性の方は苦笑いを浮かべながら、膝についた土を払っている。
「キミくらいの歳で、そんなに枯れた感性でものを言ってどうするのよっ。
もっとこう、少年期らしい率直な、それでいておとなをハッとさせるような発言をお願いしますっ」
女性はしゃがみこんで、わたしと視線の高さを合わせる。
今気付いたが碧眼だ。日本人ではないらしい。
ともすればこの金髪は地毛なのだろうか。てっきり染めているのかと思った。
「それは大人の勝手な物言いね」
「あらま、おませさんだこと。でもね、子供のうちは子供でいたほうが楽よ?
大人になったら、嫌でもそうやって現実を見て生きていかなきゃいけないんだから」
「知ってるわ」
さすがに面食らったのか、男女はお互い顔を見合わせる。
「……ねえ、お嬢さん。お歳はいくつかな?」
男性の落ち着いた声色が耳に心地いい。優しげで、ちょっと我が家の大黒柱に雰囲気が似ている。
「女性に年齢を尋ねるのは失礼ですよ」
「……あはは、は、は。ごめん、ごめんね」
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数十メートル先で、うんうん唸りながら構図に迷っている男性を、
ベンチに腰掛けながら件の女性とふたりで眺める。
女性はシノダと名乗った。あの男性と結婚しているらしいので、きっと男性の苗字なのだろう。
「で、もみじちゃんは家族で旅行に来たんだ?」
「はい」
「何人家族?」
「五人です」
「あやや、今時珍しく大家族さんだ」
「うちはちょっと特殊なので。それでも稼ぎ頭は3つありますから、
経済的に困窮しているわけではありません。むしろ裕福な部類に入ると思います」
「……。なんか、すごいね、もみじちゃん」
「そうですか」
「シノダさん」
「アリサでいいよ」
「では、アリサさん」
「何かな?」
「アリサさんは、どうしてあの男性と結婚したんですか?」
シノダ―――篠田さん、もといアリサさんは思いがけなく真剣な顔になり、それからにっこりと笑った。
「お互いに、愛し合っていたから、かな……」
自分で言っておいて、やんやんやん、と身をよじるアリサさん。
ちょっとかわいい。泣かしたくなる。
「結婚する上で、何か問題はありましたか」
「たくさんあったよ。何もない人のほうが珍しいんじゃないかな」
「……差し障りなければ、教えてくださいませんか」
「そんなに固くならなくても大丈夫だよ、怒ったりしないから。
……そうだねえ、やっぱり私が純粋な日本人じゃなかったのが大きいかな。
彼の実家がね、旧いおうちだったから、親戚のひとたちも頭が固くて。
悪口も、ひどいこともたくさん言われた。思い出したくないくらいに」
ほんの一瞬だけ、アリサさんの顔が悔しさに歪んだのを見てしまった。
「それでもね、彼は庇ってくれた。だーれも味方がいないのに、私のために戦ってくれた。
そして勝ってくれた。だから、私たちは今こうして一緒にいられるの」
そう言って微笑むアリサさんは、とっても綺麗だった。
「……末永く、お幸せに」
「……うん、ありがとう」
春の陽気にあてられたのか、気がついたらアリサさんの膝枕で寝入ってしまっていた。
「……ああっ、ごめんなさい」
「ううん、いいの。難しいこといっぱい知ってても、やっぱり寝顔は天使だねっ」
ほっぺたをつつかれる。
「うにうに、うにうに、ほりゃっ、うにうにー」
されるがままになっていると、遠くからわたしの名を呼ぶ声が聞こえる。
「もみじちゃん、もしかしてご家族かしら?」
「ひゃい」
「ああごめん、あんまり気持ちいいものだから」
あわてて解放される。
「……おぉ〜〜〜〜〜い!」
大きく手を振りながら、焦げ茶色の農道をショートカットの娘がやってくる。
せいぜい年の頃は十七、八といった体格に見えるが、いかんせん動作が子供っぽいので幼くみえる。
「お姉さんかな? まさかお母さんじゃないよね?」
わたしはそれに微笑で応える。
「はあ、探したよぅ、はあ、もう、はあ、どこに、行ってたのかと、はあ、思ったぁ」
わたしをダブルスコアで圧倒する身長を持つ少女が、肩で息をしながら私を責める。
溌剌としているが、喋りかたが如何せん間延びしているせいで眠くなる、というのが周囲の評価である。
「ここ」
「そういう屁理屈言わないでよぅ。
お父さんも、お母さんたちも呼んでるよっ。そろそろお弁当にしようって」
「そうね、じゃあ行きましょう」
「もう、お姉ちゃんったら都合がいいんだからぁっ。
おにーさんにおねーさん、うちのお姉ちゃんがご迷惑をお掛けしましたっ。
それじゃっ。……ほらお姉ちゃん、早く行こうよおっ」
後ろを振り返ると、篠田夫妻が唖然とした表情を浮かべていた。
「「お、お姉ちゃん……?」」
わたしはそれにスリーピースサインで返答すると、妹の後を追った。
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「杏樹(あんじゅ)、あんたねえ、もう少し落ち着いたらどうなの?
ある程度の年齢を重ねてなお天真爛漫っていうのは、褒め言葉じゃないわよ」
「うーん、そんなこと言われても。
そんなこと言ったら、お姉ちゃんは外見と内面のギャップが激しすぎるよっ。
もっとこう、かわいい感じのほうがラヴリーでキュンって感じだよっ」
その、フィーリングだけでモノを言う癖はやめてほしいと切に願っている。
「肉体が成長しないだけで、精神は普通に成長しているのよ。
それをあんたときたらカラダばっかり大きくなって。
とてもじゃないけど、“あの”樹里かあさんから生まれたとは思えないわね」
「ううー。それ、みんなに言われるから気にしてるのにー」
わたしの家庭は少々複雑な事情を内包している。
父親がひとりに対して、母親がふたり。
しかもその片方は、父の実妹であるというから驚きである。
社会的な問題もあり、わたしには戸籍上父親がいないことになっているが、
真実はきちんと家族会議でわたし達姉妹に伝えられた。
全ては結果論でしかないが、わたしには遺伝的欠損があり、肉体の成長が極めて遅い。
その代わりというのか、わたしの知能は常人のそれを軽く上回る、らしい。
まあそんなことは、わたしからすればどうでもいいことだ。
五体満足といえばそうだし、そのことで周りからどうこう言われた記憶はない。
むしろ周囲からはマスコット扱いされ、
黙っていても学校の机の上にどんどんお菓子がたまっていく有様だ。
これ以上の幸せがどこにあるというのだろう。
「いやー、それにしてもすごいねぇ。いちめんのなのはな。いちめんのなのはな。いちめんの……」
「あんた、本当にそればっかりね」
この子は杏樹。わたしのもうひとりの母親である、樹里かあさんの娘だ。
実は、わたしと歳が数ヶ月しか変わらないのである。
年子なんてレベルじゃないのである。
どう考えても同時進行だったのである。
最近は、あまり考えないようにしているが。
「でも、来てよかったでしょー?」
「……そうね」
生きた土を踏む感触。
移り変わる太陽の光で時間を読むよろこび。
エンジンの音の聞こえない、静かな空間。
どれもこれも、都会では得難いものばかりだ。
「それに、楓お母さんの絵本の新作完成祝いとぉ、お父さんの昇進祝いも兼ねてるんだからぁっ。
私たち姉妹がもっと盛り上げていかないとぉっ!」
「はいはい……」
……。
うれしいことがあったって、
つらいことがあったって、
わたしたちは歩いてゆく。
どこまでも続いていく道を。
あたたかな光の中を。
五人で歩いた、はるの日を。
[ END ] |