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妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる

第1章
外伝
第2章

 

1

 東京で生活を始めてから一年。
  また、桜の季節がやってきた。
 
  おれが大学を卒業するちょっと前あたりに、家族で集まって話をした。
  あれ以来ずっとだから、楓とは結局二年近く一緒に生活していたことになる。
  それとなく察していたのだろう、
  楓のカミングアウトにも、両親はさほど驚いた様子もなかった。
 
  物心ついてからずっと抱いてきた想い、
  おれが家を出ると聞いてどれだけ悲しんだか、
  おれと共に暮らす間に感じた喜び、不安、将来のこと、
  それらを朗々と詩を読み上げるように語る楓を見て、最早どうしようもないと悟ったのだろう。
 
  もう、勝手にしろ。
 
  この世の全てに疲れたような、盛大なため息をつく親父に対して、
 
  ええ、勝手にさせていただきます。
  兄さんの妹に産んでくれてありがとう。楓は倖せです。
 
  そう言い放った楓を見るおふくろの表情が、いまだに脳裏に焼きついたまま離れない。
 
  就職は大手自動車メーカーに決まったはいいが、営業に回されてしまった。
  本当は設計や、せめて作業服を着てスパナを握っていたかったが、仕方がない。
  給料も悪くないし、待遇だってその辺の中小とは比べ物にならないということを、
  友人の近況報告から知っていた。

 

 部屋は学生時代と変わらない大きさ。そこに布団を二枚敷いて寝ている。
  生活は決して楽々というわけにはいかないから、楓も近くのスーパーでレジ打ちのパートをやっている。
  いくら大学中退とはいえ、もっとまともな仕事にも就けるだろうと言ったのだが、
  仕事はあくまで生活の合間、どこまでも楓はおれの嫁でいたいのだという。
 
  嬉々としておれのYシャツにアイロンを掛ける楓の後ろ姿を眺めながら、考える。
  本当に、これでよかったのだろうか。
  この先こいつを食わせていくことくらい、何とでもなるだろう。それはいい。
  だが、子供はどうする? 親戚連中にどう説明するんだ? 籍は?
  いまさら社会というものの重みを、両肩にずっしりと感じる。
  当人たちの気持ちはどうあれ、おれたちは血の繋がった兄妹だ。
  それだけは逆立ちしても変わらない。
  おれも楓も健康なおとなだから、しかるべき手順を踏めば、あるいは踏まなければいつでも子供を作れる。
                                 ・・・・・・
  私生児として育てていくことも可能といえばそうだろう。
  だが、近親間に授かった子は先天的に欠陥を抱えていることが多いという。
  さらに親等が近いほど、危険性は指数関数的に増えるらしい。
  しかも、その爆弾は子々孫々まで受け継がれてしまうのだ。
  おれと楓の行為が、未来(さき)を生きるおれの子供たちに呪いを掛けてしまうのだとすると、
  一時の感情でどうこうしていい問題ではない。
  これが、禁じられた果実を齧った人間の行く先だというのなら、これほど相応しい報いはないだろうと。
  そう思う。

----
 
「倉井くん。今日これから、飲みに行かない?」
  この人は澤田さん。おれの直属の上司にあたる。
  どことなく気が弱そうな雰囲気で、良く言えば温和、悪く言えば多少日和見なところがある。
  そういうところが血の気の多い連中からすると目の上の瘤のように見えるらしいが、
  おれはこの人が好きだった。大学時代のある恩師にちょっと似ていたから。
「いいですね、お供します。ちょっと待ってください……」
  楓の携帯にことわりのメールを打っておこう。
  えーと、
  会社の上司と飲みに行くから、晩飯は先に食べててくれ。
  遅くなるかもしれないから、その時は俺を待たずに寝ること。
  ……と、こんな感じか。送信。
 
  男二人で洒落たところに行っても気が休まらないだろうということで、程近い焼き鳥屋にやってきた。
  中はおれたちと同じように、仕事帰りの一杯を楽しみに来ているおっさんらで一杯だった。
  壁や柱には長年の煙と脂が染み付き、お世辞にも綺麗とは言えないたたずまいだが、
  おれはこういう店のほうが好きだった。
「倉井くんは恋人と同棲しているんだったね」
  澤田さんは焼酎の入ったグラスを傾ける。
「ええ」
「一緒に生活を始めて……何年だっけ?」
「三年になります」
「結構長いね……吸ってもいいかい?」
  澤田さんは胸ポケットから、くちゃくちゃになったタバコの包装を取り出す。
  メンソールが好きみたいだ、ちょっと珍しいな。
「どうぞ、おかまいなく」
「ありがとう。最近の若い人は本当に吸わないよね。肩身が狭いよ」
  まるで深呼吸するように、肺の隅々まで煙を行き渡らせる。
  幸せそうだ。本当に美味そうに吸うなあ、この人。
「……余計なお節介かもしれないけど」
  前置きされると何か嫌だな。もしかしてお説教のために誘われたのかな。
「ちゃんとしてあげる気、ないの?」
「ちゃんと、って」
「身を落ち着けてみる気は……まだ、ないか。まだまだ若いもんね……」
  できるもんならとっくにやってます、と衝動的に言いそうになって堪える。
「いやね、ウチの会社もそれなりに大きくて、古いでしょ。昔からの慣わしってわけじゃないけど、
  上の立場の人間にはそれなりに色々と要求されるものがあるわけさ。単に仕事の出来の良し悪しだけじゃなくてね」
「……」
「きみは本当に良くやってる。工学部を出ると大抵は技術まわりを希望して入ってくるんだけど、
  すべての人間が希望するところにいけるわけじゃない。
  そうすると中には不貞腐れて辞めていっちゃう子も中にはいるんだな。
  でもきみはそうしなかった。……あんまり大きな声じゃ言えないけど、上のほうもきみを随分評価してる。
  ……僕の言いたいこと、わかるかな?」
「……なんとなく、ですが」
「このご時勢、先が見えないのは誰も一緒さ。でもね、一旦開き直ってしまって、はじめて見えるものもある。
  だから、うん。今日の話、胸に留めておいてくれるとうれしいな。
  ……ああ、何だか辛気臭くなってしまってごめんよ。今日は僕が奢るから。
  大将! 軟骨とレバー二本ずつ追加!」
 

 澤田さんと別れた後、ぼんやりとしながら夜の街を歩く。
(……ちゃんとしてあげる気ないの、か)
  楓と結婚して、子供を作って、休みの日には公園に遊びに行って……
  まるで夢のようじゃないか。
  それはきっと、楓にとっても。
  でも、その夢は叶えてやれないのだ。
  おれがおれであるかぎり。
(……今更悩むなんて、最悪だよな、おれ)
  楓が笑ってくれる。
  ただそれだけで十分だったのではなかったか?
  違うのか?
  今さら“普通”を望むのか?
  ああ、もう、どうしろって言うんだよ……ッ!

 

「……先輩……?」

 ひどく懐かしい声だった。
 
  それはまだ、おれが夢の中にいたころ。
 
  日々を共に過ごした、頼もしい戦友の、声だった。

2

 樹里ちゃんに連れられてやってきたのは、さっきまで澤田さんと飲んでいた店よりちょっと上品な感じの飲み屋だった。
「心配しなくても、私がおごりますから。気にしないでください」
  今日はよく奢られる日だ。そんなにおれって素寒貧に見えるのかね。背広が安物だってばれてんのかな。
  だがさすがに、年下の女の子にご馳走してもらうわけにもいかない。
「後輩にお世話になるほど落ちぶれちゃいないつもりなんだけど」
「そういうつもりで言ったわけじゃありませんよ」
  くす、と微笑する。
「しかし樹里ちゃん、綺麗になったなあ……」
「大学にいた頃は、お化粧をしてませんでしたから。社会に出て、まさかそういうわけにもいきませんしね」
  ってことは、あれはすっぴんだったのか。もしかしなくてもこの子、物凄い美人なんじゃ。
「今は何の仕事をやってるの?」
「父が弁護士で、その秘書みたいなことをやってます」
  何だかすごいな。
「先輩は?」
「ああ、…ってあるでしょ? 車の。あそこの営業所で営業やってる」
「先輩の方が立派です。何だかんだ言っても、私の場合身内ですから」
「仕事に身内も縁故もないよ」
  燗をつけたポン酒を舐めながら、樹里ちゃんは遠い目をしている。
「それにしても意外な再会でしたね」
「もしかしたら、知らずに何回かすれ違ってたりしたかも」
「かも、しれませんね」
  そもそも、樹里ちゃんが東京に来ていることを知らなかった。
「お、このカツオのたたきはうまいな」
「ここ、前に父さんに連れてきてもらったお店なんです。
  ビジネス絡みで連れまわされるうちに、色んなお店を覚えちゃって。
  年のわりに趣味が渋すぎるとは自分でも思ってるんですけどね」
「いや、いいんじゃないか? おれも正直、こういう雰囲気のほうが好きだよ」

 樹里ちゃんは相変わらず頭と気が良く回る子で、以前と比べると少しだけ表情が柔らかくなった。
  彼女からすれば一番聞きたいはずの話にも、あえて触れないようにしてくれているのもありがたい。
  結局その日は新しい連絡先を交換して、駅で別れた。
 

----
 
  楓は寝ずに待っていた。
「先に食べてろって言ったのに」
「ひとりで食べても美味しくないですから」
  おれの背中に取り付いて、背広を脱がしにかかる。
「作ってもらっておいてなんなんだけど、腹いっぱいなんだ。すまん。明日の朝食べるから」
「気にしないでください。でもせめて、隣には座っていてくださいね」
「何で?」
「兄さんの顔を眺めながら食べたいんです」
「おれの顔をおかずにするんじゃねえよ」
「子供の頃から散々してきましたけど、飽きませんね」
「……」
「……」
  べしっ。
「叩かないでください、ばかになりますから」

 結局楓の対面に座って、テレビのニュースを眺めることにする。
  何が嬉しいのかわからんが、楓はやたらとにこにこしながら飯を食っている。
  気楽なもんだよな、人の気も知らないで……
 
----

 弁護士の秘書という仕事を通して、様々な人種と会ってきた。
  ワーカホリック、快楽主義者、お人よし、クスリ漬け、守銭奴……
  その中には、好意を抱くに値する人格者もいることにはいた。
  それでやっと忘れられる、前へ進めると思った矢先にこれだから、やっぱり先輩は残酷だ。
  その優しさが、暖かさが、力強さが、それらすべてが、痛い。
「……もう、諦めなくて、いいですよね。こんなに、好き、なのに、我慢、なんて」
  できないし、してやらない。誰から何を言われようとかまうものか。
  そのためにはどんな悪女にでもなってやろう。
  もう、遠慮なんて、しない。
  私は、私のやり方で、奪う。楓さんがかつて、そうしたように。
  そう決めてしまえば後は楽だった。

 これからの私は。
  ただ一人の男性を篭絡するためだけに。
  駆動する。

3

 わりかし頻繁にメールが来るようになった。
  電話も来るようになった。
  ちょっと気まずい別れ方をしていたから、嫌われていたわけではないとわかってちょっとほっとする。
  と、噂をすればなんとやらだ。
 
  お仕事お疲れ様です。
  良かったら今夜、また会えませんか?
  美味しい焼酎を出すお店があるんです。
  お返事待ってます。
 
  焼酎ときたか。また渋い趣味だな。親父さんの影響だろうけど。
  よろこんでお供します、っと。送信。
「奥さんとメール?」
「え、ええまあ。そんなとこです」
  澤田さんが興味深げにおれの携帯を覗き込んでくる。
「ちょ、勘弁してくださいよー」
「若いってのは……いいねえ……」
  黄昏ながら自分の席に戻っていくおやじ一匹妻子有り。
  言うほど年、離れてないと思うんだけどな……
  実は結構、年いってるのかな? 係長なのに。

 
  待ち合わせに指定された駅のホームを出る。時間はまだちょっとあるな。
  楓には会社の付き合いって言ってあるが、毎回酒の匂いをさせて帰ってくるとまずいかなあ。
  最近は随分落ち着いているが、就職してすぐの頃はちょっと遅く帰るだけで半狂乱だったからな……
  罪悪感がないわけではない。ないけど……
  ま、なるようになるか。
 
  ……!
  ………!?
 
  何だか騒がしいな。痴話喧嘩ならよそでやってくれよ。公衆の面前なんだからさ。
 
  …から……たし……そんな…!
  ……でも…きみ…って……!
 
  女性のほうが微妙に優勢か? 断る女と言い寄る男って感じか。
  嫌がってんだから、やめてやりゃあいいのに。
  女性はハンドバッグを振り回し、いいすがってくる男を跳ね除ける。
  ……なんか見覚えのあるシルエットだな。嫌な予感がする。
 
「……先輩、見てないで助けてくださいよ」
「やっぱりお前か」
  事情はわからないが、とりあえずチョップを入れてから俺の背中に回してやる。
「何で私を叩くんですか」
「こんな人通りの多いところで騒ぐんじゃないよ、迷惑だろ」
「な、何なんだよ、お前!」
  神経質そうな細身の男が金切り声をあげる。
「……ナニって」
  何だか面倒な事態に巻き込まれてしまった気がする。
「恋人です」
  俺の後ろから顔だけ出して、樹里ちゃんが男と相対する。
  ますますややこしいことになりそうなので、訂正はしない。
「なあ、あんた。事情は知らんが、樹里が嫌がってるんだが。やめてやってくれないか」
  ……呼び捨てると何だか本当の恋人みたいに思えてきて、頭がくらくらする。
(……先輩、グッジョブです、頼りになる年上の彼氏って感じです)
(……後で事情は聞くから、おとなしくしてなさい)
「なあ、森川君。君のほうから誘いを掛けてきたんじゃないか。今日だって視線をたくさん向けてきて……」
「貴方の肩に乗っていた糸くずが気になってただけです」
  周囲から失笑が漏れる。
「私、この通りこころに決めた男性がいますので。勘弁してください」
「……本当に、僕の勘違いだったのか?」
「そういうことです」
(……なあ樹里ちゃん)
(……なんですか)
(……かわいそうになってきちゃったんだけど、彼が)
(……じゃあ、さっさと私を連れてここから逃げてくださいよ) 
  騒ぎを聞きつけたのか、結構な数の野次馬に囲まれていることに気づく。
  おれは樹里ちゃんの手をとり、そそくさとその場を離れた。

「お手数おかけしました。それと、ありがとうございます」
「いや、それはいいけど。後でフォローしておきなよ?」
  樹里ちゃんくらい素敵な女性なら、男には不自由しないんだろうなあ。
  あの男が勘違いしたくなる気持ちもわからないでもない。
「憂鬱です」
  ため息をつく樹里ちゃん。恐ろしいほどコップ酒の似合う子だなあ。ちょっと怖い。
  樹里ちゃんに連れてこられたのは、飲み屋というよりはちょっとした小料理屋のような風情の店だった。
  本当にこの子は不思議な子だ。
  大学時代からそうだったが、予想も予測もつかない。
「……私、そんなに誘ってるように見えますか」
  火照った顔で見つめてくる樹里ちゃん。
  酒の匂いと、ほのかなコロンのような甘い匂い。
  黒曜石のような深い色の瞳に、吸い込まれそうになる。
「……いや、そういう風には見えないけど」
  かっちりとしたスーツと、怜悧な顔立ちはむしろ“できる女”といった雰囲気で、
  男からすると劣等感を感じてしまって、逆に近寄りがたい気がする。
「樹里ちゃん、美人で頭もいいから。さっきの人も弁護士か何かでしょ?
  そういう人から見ると、理想の女性みたいに見えるんじゃないかな」
「……彼は父の事務所で働いてる、いわゆるイソ弁ってやつです。悪い人じゃないのはわかってるんですけど」
「そういう風には見れない?」
「……はい」
  樹里ちゃんには樹里ちゃんなりの悩みがあるらしい。当たり前か。
  それきり樹里ちゃんはおれの肩に体重を預け、黙々と手酌を繰り返した。
  おれははっきり言って色恋沙汰はさっぱりわからないから、力になれそうもないのがちょっと寂しかった。

----
 
  結局、樹里ちゃんは酔いつぶれてしまって、おれの背中で寝息を立てている。
  心配する店のおやじに見送られて何とかタクシー乗り場の近くまでやってきたのはいいものの、
  どこまで送り届ければいいのかほとほと困ってしまった。
  樹里ちゃんを近くの植え込みの近くに座らせ、しばし思案する。
  うん、悪いと思ったが緊急事態ということで許してもらおう。
  彼女のハンドバッグを漁ると、携帯と名刺ケースが出てきた。
  名刺には事務所と思われる住所しか書かれていないし、携帯もロックが掛かっていて操作を受け付けない。
  かつてこの子に指摘されたとおり、四桁の数列を思いつくままに入力してみるがそううまくはいかない。
(まいったな……)
  春とはいえ、夜はまだ冷える。風邪なんてひかせたら大変だ。
  しかたない、後でどう謗られようとおれが我慢すればいいだけの話だからな。
  おれは樹里ちゃんを背負いなおし、暇そうに煙草をふかしている運ちゃんに向かって歩き出した。

4

 さすがにそういう宿に連れ込むつもりなどさらさらなく、
  駅前のビジネスホテルに飛び込みで部屋をとる事にした。
  受付のお姉さんにダブルの部屋もありますよ、と気を利かされてしまって赤面する。
  言われてみれば、カップルでシングルの部屋っていうのは逆に生々しいな……
  樹里ちゃんを背負ったままエレベーターに乗ったはいいが、
  たまたま乗り合わせた眼鏡のエリートサラリーマン風の男性がぎょっとする。
「あ、あはは……」
  ……犯罪だと思われないことを祈っておく。
 
  樹里ちゃんをベッドに寝かせ、スーツを脱がせ、シャツのボタンを開けてやる。
  ……躊躇したが、スカートも脱がせてしまうことにした。
  たとえやましい気持ちはなくても、ここだけ写真に撮られてたら間違いなく後ろに手が回るだろうな、
  なんて馬鹿なことを考える。
  楓で女性の体は見慣れたと思っていたが、友人の裸だと思うと変な艶かしさがあるな。
  黒のストッキングに包まれた下半身はどうしようもなく蟲惑的で、思わず吸い寄せられそうになる。
  ……いかんいかん。せめて楓に履いてもらって、それで遊ぶことにしよう。
  エアコンを調節して、加湿器をセットして、ついでにアラームもセットしておこう。七時でいいだろうか?
  準備万端整えて、後はメモを残して去ろう。
  起きたら知らないホテルの部屋で半裸だった、なんて動揺させたらかわいそうだからな。

 

「……先輩」
  樹里ちゃんはベッドに横たわったまま、視線を彷徨わせている。
「ああ、起きた? えーっと……」
  どこから説明したもんかな。へまをやるとマジで犯罪者にされかねん。
  だがそこはそれ、頭の回転の速い樹里ちゃんのこと。
  アルコールでクロック数が極端に下がった大脳をフル活用すること7秒弱、現状の認知へと至った。
「……今日は本当にすみません」
「いや、いいよ」
「式は神前式がいいです」
  責任取らされるようなことやってねえ。
「冗談です」
  一瞬、目が本気だったような気がするのは忘れよう。
「のど渇いてない?」
「……はい、少し」
  買ってきておいたスポーツドリンクのペットボトルを渡す。
「……何から何まで、今日はお世話になりっぱなしですね」
「気にしないで、なじみの友達じゃないか」
「……ともだち、か……」
  樹里ちゃんはベッドの上に体育座りして、窓から夜景をぼんやりと眺めている。
  その顔を、一瞬だけひどく冷たいものが通り抜けたような気がしてぞっとする。
  おれが想像している以上に、疲れているのかもしれない。
 
「……先輩?」
「うん……?」
「どうして私が、父の秘書なんかやってるんだと思いますか?」
  ってことは、やりたくてやってるわけじゃないんだな。
「……私、近々結婚しなくちゃならないかもしれません」
「け、結婚!?」
「……父が秘書として私をそばに置くのは、私の婿探しのためです。
  弁護士は仕事上、本当に様々な人間との付き合いがあります。
  その中から前途有望な若い男性を見つけて……」
「そんなことって……」
「あるところには、あるみたいですね」
  まるで他人事のように、樹里ちゃんは淡々と言葉を紡ぐ。
「……私が文学部なんて、半ば趣味みたいなところに居られたのは父との約束があったからです。
  大学までは自由にさせてやる、その代わり卒業したらすぐに結婚して子を作れ、と。
  ……父には持病があります。一年二年でどうこうなるようなものじゃありませんが、
  それも父を焦らせているんでしょうね」
  樹里ちゃんは、自分の膝を抱きかかえるようにして、膝頭に顔を埋める。
「……ねえ、先輩……?」
「……うん」
「……なんか、もう、疲れちゃいました」
  この子は、ずっと人知れず戦っていたのだ。
  何と向き合えばいいのか、誰が敵なのかすらよくわからないまま、近づいてくる足音に怯えていたのだ。
  瞳を潤ませて、樹里ちゃんがしな垂れかかってくる。
  はねのけるのはたやすい。だがそれで失ってしまうものはあまりに大きすぎる気がする。
  彼女の重みを受け止める。優しい体温。一瞬だけ楓の顔が脳裏をよぎる。
  これは裏切りだ。いずれ楓も、樹里ちゃんすらも傷つけるだろう。
  それでも手を、差し伸べずにはいられなかった。

 

 新雪を踏んだのはこれで二度目のことになる。
  自然な行為とはいえ、女の子が顔を歪めて痛がるのを目の当たりにして愉悦を感じられるほど、
  おれはサディストではない。
  樹里ちゃんは弱りきっていた。
  それに追い討ちをかけることになりはしないかと心配したが、彼女は最後まで要求した。
  それに応えるのが正しかったかどうかは、今となってはわからない。
  ただ、おれを使った自傷でなかったことを信じたい。
  静かに穏やかな眠りを食む彼女の姿はいとおしい。
  誰に肯定されずとも、その心音だけは確かだった。

5

 兄さんとの生活はかつて思い悩んでいたよりもずっと平穏だった。
  それがたとえ、他者に極力干渉しない都会の暮らしだからこそ得られる偽りのものだったとしても。
  それこそ生まれたときからずっと一緒に暮らしてきて、今さら意見の相違で仲違いなどするわけもない。
  わたしは、かつて夢見ていた世界で生きている。
  しあわせすぎて、ふと気がつくと涙を流していることが多い。
  ―――どうにも情緒不安定。だめだこんなんじゃ。兄さんが心配する。
 
  兄さんの帰りはいつも遅い。
  本当にやりたかったこととはちょっとずれてしまっているらしいが、真面目な兄さんのことだ。
  やるべきことをきちんとこなして、それを評価された上で仕事が忙しいなら素晴らしいことだろうと思う。
  そんな兄さんに、わたしがしてあげられることは何だろう。
  それはきっと、平和な日常を守ることだ。
  仕事から帰ってくれば部屋には灯りがともり、
  栄養のバランスの考えられた食事が黙っていても出てくる。風呂は既に沸いている。
  疲れていても安心して戻ってこられる住処を保ち続けること。それがきっと、良妻の役目だ。
  時代錯誤と言われようがかまわない。
  結局のところ、しあわせは自分たちの内側にしか存在しないのだから。
 
  肉じゃがを作ることにした。
  私の作るものは何でもうまいうまいといって食べてくれる兄さんも、
  これだけは別格らしく、目の色を変えて喜んでくれる。
  じゃがいもの皮を剥きながら思う。
  兄さんは、わたしの作った料理を食べて命を繋いでいるのだ。
  まいにち、まいにち、ずっと、ずっと、ずっと、これまでも、これからも……
  背筋がぞくぞくする。
  それだけで、いってしまいそうになる。

 ……またやってしまった。
  多種多様なわたしの体液でどろどろになってしまった兄さんのワイシャツを前にうなだれる。
  以前にも同じことをやって、洗濯籠の中で被害者を見つけた兄さんにとても微妙な顔をされて以来、
  もうやめようと思っていたのだが。
  毎晩のようにあれだけ愛されて、まだ足りないというのだろうか。
  業の深い嫁だ。本当にそう思う。
  ……でも、まあ、兄さんが調教した躯だからね。
  暴走の責任は、開発者に取ってもらうことにしよう。うん、そうしよう。
  ……今からあらためて準備、しちゃおうかな、と指を伸ばしたとき、
  テーブル代わりに使っているコタツの上の携帯が振動した。
  濡れていない左手で何とかヒンジを開く。
  えーと……?
『会社の上司と飲みに行くから、晩飯は先に食べててくれ。
  遅くなるかもしれないから、その時は俺を待たずに寝ること。』
  ……疼きはますます、ひどくなるばかり。

 何だか最近、とみに帰りが遅い。
  帰ってきたらきたでいつもお酒臭いのも気になる。
  自分の仕事ぶりがきちんと理解されていて、
  昇進もそう遠くないことかもしれないというのも兄さん自身から聞いて知っているし、
  それを踏まえた人付き合いというのもきっとあるのだろう。
  それでも、こう毎度毎度酔っ払って帰ってくるのはあまり気分のいいものではない。
  わたしと部屋で飲むのでは駄目なのだろうか。駄目に決まっている。
  ……会社の人にやきもちを焼いてどうするというのだろう、わたしは。
  待つのは慣れていても、やっぱりつらいものはつらい。
 
  久しぶりに、メールが来なかった。
  決して多くはない、早上がりの日だ!
  しかもタイミングのいいことに、今日のメニューは兄さんの大ッ大好物のカレーである!
  たとえ殴られようが誰にも教えてはいけないと、母に念を押されたレシピに基づく代物だ。
  パートが休みの日なのをいいことに、朝から丁寧に作った甲斐があったというものである。
  おもむろに鍋のふたを開ける。
「……愛情、愛情、あいじょう、あいじょう、あいじょう、あいじょう、あいじょう」
  いそいで閉める。
  ……これでますますおいしくなる、はず。
 
  …
  ……
  ………
 
  ……帰ってこない。
  やることもないので部屋を掃除し、洗濯物をかたし、何故か薄く化粧までしてしまったというのに。
  最初こそ怒りもあったが、時計の短針がつり上がる頃になるとさすがに不安になる。
  連絡を入れようにも、携帯は電源を切っているのか繋がらない。
  月面にひとり、置き去りにされてしまったような感覚。
  外に出ている兄さんとわたしを繋ぐのは、この手のひらサイズの小型機器だけだ。
  昔の人は本当にえらい。
  こんなものがなくても、たとえば手紙だけで年単位の時間を耐え忍んだのだから。
  わたしには絶対できない。
(……連絡ひとつ入れてくれるだけで、ぜんぜん違うのに)
  目が覚めたら、一度お説教しよう。
  散ってしまったぬくもりをかき集めるように、
  兄さんの匂いのする毛布に包まれて眠りについた。

6

 ―――連続する水音で一気に覚醒した。
  水道代が怖すぎる、と思って飛び起きたが、それがいつもの自分の部屋でないことに気づく。
  起き抜けに嫌な汗をかいてしまった。と同時に、昨日の夜のことをまざまざと思い出してしまう。
  そっか、おれ、樹里ちゃんと……
  ハンガーに掛けられたスーツと、シーツについた赤黒い血の跡はどちらもひりひりするくらいに現実だ。
「おはようございます、先輩」
  バスタオルを体に巻きつけた樹里ちゃんがいそいそとバスルームから出てくる。濡れた髪と白い肌が朝日を受けて眩しい。
「……ああ、おはよう。おれも浴びるわ」
  極力視線を合わせないようにして、おれも入れ替わりでシャワーを浴びる。
  熱い水流で情事の残滓を洗い流すうちに、頭も仕事の体勢に切り替わっていく。
  二人分の飯のたねをつつがなく稼ぐためにも、いつまでもめそめそ思い悩んでもいられない。
  そのあたりは同じ社会人の樹里ちゃんのことだ、きちんと理解してくれているだろう。
  後日あらためてじっくりと話をすればいい。そうしよう。
 
  近くの牛丼屋で朝飯。
  いくら樹里ちゃんが色々なことを気にしない娘さんだとしても、さすがにこれはないだろうとも思ったが、
  そこはそれ、彼女は規格外ということで納得しておく。
「……忙しければ食事もままならないときもあります。それを考えたら十分幸せですよ」
  その少女ポリアンナ的なポジティブさは、ぜひ見習いたい。
  樹里ちゃんはいつもと変わらないように見える。
  それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。
  ただ、昨日の樹里ちゃんはとても弱っているようにみえた。
  たとえ刹那の慰めであったとしても、かりそめの支えであっても、
  樹里ちゃんのこころの安寧に繋がるなら、それでいい。
  根本的な問題の解決はじっくりやっていこう。
  それがおれの、友人代表の役目だろうと、思う。
 
  樹里ちゃんとは駅で別れることになった。
「先輩、また、会ってくれますか?」
「……ああ」
  すっかり元の“できる女”に戻った樹里ちゃんの姿に暗いところはない。
「やくそく、ですよ」
  まるで次回の呑みの約束を取り付けるような気軽さ。
「……ああ」
  おれはそれに、ただ頷くことしかできない。
「また、連絡しますから」
  樹里ちゃんはおれの頬にそっと触れ、瞳の奥を覗き込んでくる。
  ……まるで魔性だ。誰も逆らえない。

 

 ----
 
「仕事が忙しいのは重々理解しているつもりですよ、でも泊まりになるならせめて電話のひとつやふたつ
  あったっていいんじゃないんですか? わたし心配で心配で夜も一時間おきぐらいに目を覚ましてしまって
  朝起きたときにも兄さんはいなくてさみしくて何かあったんじゃないかと思うと気が気じゃなくって
  パジャマ姿にサンダルで駅の近くまで行っちゃって変な目で見られてパートの間は携帯を触れるわけもなくて
  電池もいつの間にか切れちゃって何も手につかないから仕事でミスして店長に怒られて警察に電話しようか
  ずっと悩んでてでも変に騒ぎを大きくすると兄さんに迷惑が掛かるしカレーを温めなおしてたら焦がしちゃうし
  新聞の勧誘はしつこいしあんまり寂しいものだから自分で自分を慰めてて指じゃ全然足りなくてペンを使ったら
  キャップが中で外れて自分の股間を覗き込んで自己嫌悪して試行錯誤してるうちに何だか気持ちよくなってきちゃって
  何が言いたいかというと無事に帰ってきてくれてありがとう。本当にありがとう。好き。大好き。愛してます。
  世界中の誰よりも愛してます。だから捨てないで。ひとりにしないで! どこにもいかないでそばにいてッ! 
  ずっとわたしだけを見ていてくださいッ!」

「ごめんなさい」
  言ってることは支離滅裂で意味不明だが、ものすごく心配してくれているのはわかる。
  涙と鼻水を流しながら説教らしき長台詞をがなりたてる楓を見ていると良心が痛むが、
  “あれ”は不可抗力というか人道的観点からみた緊急避難措置であって、
「聞ィてるんですか兄さんッ!!」
「は、はいっ、聞いてますッ!!」
  俺は畳に直に正座し、楓は目の前に座布団を二枚重ねて同じように正座している。
  楓は感情が高ぶるとやたらと多弁になるが、今回は輪を掛けてひどい。
  午前様を通り越して無断外泊、ほぼ丸一日連絡を入れなかったとなればこの有様である。
  しかしまあ、楓のおれに対する精神的な依存は年々強まる一方だ。
  もはや病的なほどに。
  正直、重荷に感じないこともない。
  楓は在りかたとか精神性とか決定権とか、本来自分で持っていなければいけないものをおれに丸投げしている。
  それが楓の愛情表現だというなら、おれはそれを受け入れてやるしかない。
  ……そういう甘やかしが、ますます楓をスポイルしていることには気づいているけれど……
 
「……ふう。そういうわけですから、泊まりになるときは絶対に連絡してくださいね」
「委細了解しました、楓さん」
「……よろしい。わたしもちょっと言い過ぎました、ごめんなさい」
「……風呂、入ってきていいか?」
「そうですね、せっかくなので一緒に入りましょうか」 

「なあ、楓」
「なんでしょう」
「この狭い風呂にふたりは無理があると思うんだが」
  浴槽の隣に湯沸かし器がある、昔ながらのアレである。
  一度入ってみるとわかるが、これは狭い。ものすごく狭い。
  実家の風呂が広かっただけに、なおさらそう感じる。
「二人で一度に浴槽に入るのは無理そうですね」
  アルキメデスもエウレカでびっくりだ。
 
  湯船につかりながら、体を洗う楓の姿を眺める。
  無意識に樹里ちゃんの体のラインと比較している自分が嫌になる。
  ……また会ってくれますか、か。
  それってその、そういうことだよな。
  樹里ちゃんはいずれ、親の決めた相手と結婚しなくてはならないらしい。
  それが嫌で、それを一時的に忘れるためにおれに抱かれたんだとして、
  それをずっと続けていくのが良くないことなのは火を見るより明らかだ。
  安易な解決策はある。誰でも最初に思いつきそうなやりかただ。
  自惚れかもしれないが、樹里ちゃんの態度を見る限り、それを彼女自身も望んでいるように見える。
「……兄さん?」
「あ、ああ。どうした?」
「背中、流してあげようかと思ったんですが」
「すまん、頼むよ」
  嬉々としておれの背中をスポンジでこする楓。
  もしおれがその選択肢を選んだとしたら、楓は一体どうなってしまうのだろう。
  想像もつかない。
  いつかの包丁が頭をよぎる。……あながち笑い飛ばせる話でもない。
 
「ねえ、にいさん」
「うん……?」
「にいさんは、どこにもいかないよね?」
「……ああ」
  楓がおれの背中にぴったりと身を寄せてくる。
「……夢を見たの」
「夢?」
「にいさんが、いなくなる、ゆめ。子供のころから、ずっと見続けてきた。
  姿はどんどん小さくなって、いくら呼んでも、戻ってきてはくれない。
  完全に見えなくなって、気を失ってしまうところでいつも目がさめるの」
「……夢は、夢だ」
「そうなんだけどね」
  楓は力なく笑う。
「ねえ、にいさん……?」
「うん……?」
「にいさんの背中、大きいね……」
「男だからな」
「この背中に、ずっと守られてきたんだよね……
  いじめられてた時は、かばってくれた。 
  疲れたときは、おぶってくれた。
  眠れないときは、よくしがみついてた」
「そう、だったな」
  過去の記憶。
  おれは意識して楓の前を歩いていた。
  思いがけない障害で楓を泣かせないために。
  心無い人間の仕打ちから楓を守るために。
  楓の不安を、取り除くために。
「もう、にいさんなしじゃ、かえでは、むり、だから。
  ぜったい、むりだから。
  だから、ね」
「ああ……」
  こんなに弱々しい妹を放って、一体何ができるというのだろう。

7

 自分のしていること、やろうとしていることが道義に反するのは承知の上だけれど、
  何かあるたびに、私のか細い決意は蝋燭の炎のように揺らめいてしまう。
  先輩が一瞬遠い目をしたり、
  私に呼びかけるときに、かえで、と言い間違ってしまったり、
  楓さんの話題を意図的に避けているのがみえみえのときだったり……
  自分で決めたことだというのに、まっすぐ前を向くことができない。
  ……しっかりしろ、森川樹里。
  最初から孤立無援なのは、わかり切っていたじゃないか……

 やはりというか何というか、楓さんと先輩は同棲しているらしい。
  楓さんとの最後の記憶がよみがえる。
  楓さんは、先輩だけが自分の存在価値だと云った。
  それに比べれば、私はきっと色々なものに恵まれているのだろう。
  だが、ここまできて引くわけにはいかない。
  まるで下種だが、先輩が私のからだに溺れてくれたならそれが一番楽だったと思う。
  実際は逆だ。私が先輩との行為に溺れている。
  私の体を撫で回すその技術が、恋敵によって培われたものだと思うとなかなか複雑なものがあるが、
  あくまで過去は過去だ。ふたりが兄妹を超えた関係にあったという単なる事実でしかない。
  未来はこれから変えていくんだ、きっと……

 ベッドサイドに置いてある先輩の携帯を手に取る。
  忠告どおり、わかりやすい暗証番号にはしていないらしい。
  だが甘い。私は今日に限って持ってきていた別のバッグから、仕事で使っているノートパソコンと、
  携帯電話とパソコンを接続するケーブルを取り出し、先輩の携帯とパソコンを接続する。
  先輩が起き出してくる様子はないが、手早く済ませよう。
  私はあらかじめ用意しておいたショートカットから、携帯電話の管理ソフトを立ち上げる。
  メニューから“暗証番号サーチ”を選択し実行。プログレスバーがゆっくりと伸びはじめる。

 

 こういうものがこの世に存在しているのを知ったのは仕事絡みでのことである。
  医者がモルヒネにはまるのと同じ理屈だ。
  医者だろうが弁護士だろうが教師だろうが、中身は人間である。
  実際に悪事に手を染めるか否かは、結局のところ個人の問題であろう。私は前者だが。
  解析開始から30分ほどして無事に暗証番号を手に入れる。
  この4桁の数列がどのような経緯によってここに収まったかは不明だが、そんなことはもはやどうでもいい。
  後はこの暗証番号を使って、取り出せるだけのデータをパソコンにコピーしてしまえばOKだ。
  全ての情報を実際に使うかどうかは別だ。私は先輩の社会的地位を脅かしたいわけではない。
  ただ、使えそうなものは全て手札として持っておこう。
  私が戦っているのは、真正面から攻めても絶対に勝てない相手だから。

 何事もなかったかのように元の位置に携帯を戻し、先輩の寝顔を眺める。
  なんとも締まりのない顔だ。
  だがそれが、私を無条件に信頼していることの表れだと思うと胸が熱くなる。
  このひとを手に入れてみせる。絶対に。
  決意を新たにし、私は先輩の胸元へと滑り込んだ。
  ―――反撃開始だ。

 

 ----

 暦の上の季節なんてものは大抵先走りすぎだと毎年思うが、五月の連休を過ぎてからやたらと暑い。
  温室効果とかコンクリートジャングルとかヒートアイランド現象とか、
  とにかくそこに生きる人間にやさしくない街だ、ここは。
 
  あれからも樹里ちゃんとの“交流”は続いていた。
  枕語りに聞いた話によると、結婚がどうこうというのは明日明後日に決着しなければならないことではないらしい。
  それとなしにおれの気持ちを聞かれたこともあったが、あいまいにごまかすことしかできなかった。
  樹里ちゃんは魅力的だ。それは動かしようのない事実だろう。
  楓のことがなければ、なけなしの勇気と根性を振り絞って奮起していたに違いない。
  だが、楓の存在がおれにそれを踏みとどまらせている。
  あいつにはおれしかいない。
  だが、楓を女として愛しているかと言われると素直に首を縦に振ることができない。
  だったら何故楓を抱ける?
  愛とセックスは別物だ、なんて都合のいい言葉に納得させられたくはない……

「ただいま」
  久々の定時帰宅である。
  最近は残業続きで、帰ってきても飯も食わずに泥のように眠る日が多かっただけに実にありがたい。
  思えばずっと楓とはご無沙汰だったのを思い出す。
  楓ちゃんの相手をしているのでそっちはそれほどではないのだが、
  多少がっつくくらいのほうが怪しまれないかもな……
  と、何故か電気が付いていない。
「……居ないのか?」
  鍵が掛かっていなかったのがちょっと気になる。
  手探りでスイッチを探り当てる。暗闇に慣れた目が一瞬眩み―――

「……なんだ、いるじゃないか」
  びっくりさせないでくれよ。
  楓はテーブルにうつぶせるようにして、ぼんやりとしている。
「最近は物騒だから、日中で家にいても鍵は掛けておけって言ったよな? 気を付けろよ?」

 背広をハンガーに掛け、ネクタイを緩める。

「……あれ? 飯まだ作ってないの? おれ腹減っちゃったよ。そうだ、たまには外に食いに行くか?
  駅前にさ、新しく蕎麦屋ができたんだよ。同じ駅で乗り降りする会社の先輩が、お勧めだって言ってたからさ。
  折角だし食べに行かないか? うちたての蕎麦粉の香りがそれはもうたまらないらしいぞ?」

 楓はうずくまったまま、ぴくりとも動かない。

「……もしかして、調子悪いのか? だったら無理せず寝ろよ。おれは適当に済ませちゃうからさ。
  食欲はあるか? 何か食べたいものあるか? ……朝のメシってまだ残ってたっけ。
  お粥くらいなら作ってやれるけど……」

「……」

「……楓?」

 どうにも様子がおかしい。
  額に手を当ててみるが、熱があるわけではないようだ。

「……一体どうしたんだ、言ってくれなきゃわからないぞ」

「……」

 楓は焦点の合っていない視線をこちらに向けてくるだけで、あとはだんまりだ。

 

 ……困った。
  長い兄妹生活、楓の機嫌を損ねることなんてそれこそ無数にあったが、こういう反応は初めてだ。
  それとも本当に具合が悪いのであれば、大事になる前に医者に連れて行かないとまずいだろう。
  もう一度体温を、今度は額を合わせて測ってみる。
  ……おれの感覚を信じるならば、楓は平熱である。おれより若干低いので、僅かにひんやりとするのだ。

「……ねえ、にいさん」
「……なんだ?」
「……わたしのこと、すき?」
「どうしたんだ、藪から棒に」
「いいから。……わたしのこと、すき?」
  ……ははあ。これはあれか、久々におれが早く帰ってきたもんだから、かまって欲しいんだな。
「……好きだよ」
「……あい、してる?」
「愛してる」
「……だれよりも?」
「誰よりも」
「……ほんとう?」
「本当だよ」
「……ほんとにほんとう?」
「本当の本当」
「……うそじゃない?」
「嘘じゃないってば」
  ……今日は妙に強情だな。

「……じゃあ、これ、うそ、ですよね?」
  楓が自分の携帯を開く。

「びっくりしちゃいましたよ、今、こういうのってパソコンで簡単に作れちゃうんでしょう?
  あいこら、って言うんですよね。一瞬自分の目を疑いました。すごい技術ですよね。
  ……それにしてもひどいですよね。何でわざわざ、わたしたちを標的にするのかな。
  世の中にはもっと悪いひとや、ひどいことして平気なひとがいくらでもいるのに。
  どうやって兄さんの写真を撮ったんだろう。会社の人かな。ひどいよね。盗撮だよ。
  しかもね、送信元がわたしのアドレスになってるの。わけがわからないですよね。
  どうにかして送り主を調べられないでしょうか、警察? 探偵? 興信所とか?
  ねえ兄さん、どうすればいいですか? これは立派な名誉毀損ですよ!
  ……ほんとに、もう、なんていうか、わたし、つらくて……」

「……」
「……兄さん?」
「……」
「……黙ってないで、何とか言ってください」
「……」
「……わたしのこと、好きだって、誰よりも愛してるって、言ってくれたばかりじゃないですか」
「……」
「……ほんとのほんとに好きだって、たった今言ったじゃないですか」
「……」
「……うそ、ついたんですか」
「……」
「うそ、ついたんですか、って訊いてるんですこっちは!!」
 
 
 
 
「……すまん」

 ―――瞬間。
  天地が逆転した。

8

 突き飛ばされたのだと気づくのに数秒を要した。
  間髪いれず楓がのしかかってくる。
「な、なにを……むぐ」
  抗議の声を上げようとして、唇を塞がれる。
  ぬらぬらとした感触がおれの口内を這い回る。
  穿たれるかと錯覚するほどの力強い愛撫。
  それがおれの弱いところをピンポイントで攻めてくる。
  いつものような、じらされることそのものを楽しむような余裕はまったくない。
  トランクスの前を押し上げているものが、楓の冷たい手に包まれてぞくりとする。
  おれが教えた全ての技術を結集し、楓は俺を蹂躙していく
  しごくなんて生易しいもんじゃない、性器を通して直接脳髄に快感を叩き込む手技。
「あうっ……」
  楓の左手の爪が、おれの胸に食い込む。
  一瞬でもマゾヒスティックな快感を感じてしまったことに羞恥するが、
  楓はそんなことを気にも留めず、どんどんおれを追い詰めていく。
  楓はもどかしそうに下着を脱ぐと、おれのものを入り口に押し当て、一気に挿入した。
  引っかかりは全くなく、いとも簡単に最深部まで到達する。生暖かくぬめった感触。
  一旦落ち着くのを待たずに、楓は高速で腰を動かし始める。
  ぐちゃ、ぐちゃ、という音が今日はとても汚らしいものにしか聞こえない。
  体中で一番敏感な箇所をただ擦り合わせるだけの、セックスとはとても呼べないような行為。
  これはレイプだ。
  楓がおれをレイプしている。
  今まで一度だって、こんなことをしたことも、されたこともない。
  それでも否応なしに体は反応してしまう。
  楓の分泌も量を増し、滑りがよくなるにつれて動きも激しくなっていく。
  楓はおれを気持ちよくさせたいわけじゃない。
  自分のヴァギナを使って、おれを射精させたいだけだ。
「楓、やめろ、もう、ぐっ」
「嘘言わないでください、まだイかないですよね。わたしにごまかしはききませんよ」
  膣壁がぎゅっ、っと締まり、楓の内部の感触が鮮明に入力される。
  そういう意味じゃない。
  もう、こんなセックスはたくさんだ、と言おうとして声が出ない。
  楓の吐息、とろけるようなディープキス、性器全体にまとわりつく湿度と熱と圧倒的な快感、
  それらすべてを一度に受け取ってしまい、脳の処理が追いつかない。
  いつしかおれは涙を流していた。
  雫が目元に溜まるたび、楓がそれを舐めとる。
  次々と溢れて止まらない。
  猫がじゃれつくようなしぐさで、ぺろぺろと目元をくすぐられる。
  そうしているうちに、あっと言う間に射精感がこみ上げてくる。
  もうだめだ、出る、と思った瞬間、楓はペニスを膣から抜き、ぐにぐにぐに、と数回手でしごきあげた。
「くぅぅぅぅっ……」
  びゅく、びゅく、びゅ、びゅ、びゅ……
  玉袋に直接手を突っ込まれて、握りつぶされたような感覚。
  楓によって完全に統制された、完璧なタイミングでの射精。。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
  息が完全に上がっている。思考が真っ白なペンキで塗りつぶされてしまったように何も浮かばない。
  楓は手のひらにぶちまけられた精液を眺めている。
「……薄い」
  楓はそれをぺろり、と充血した舌で舐めとる。
  頬の裏、上顎、舌裏、歯茎、前歯とまんべんなく塗りたくり、口内全体で性臭を味わっている。
  しばらくもぐもぐさせた後、じっくりと嚥下する。
「……やっぱり薄い」
「……薄い、って何が」

「精子が、ですよ」

「……おかしいですよね」
「……」
「……わたし、ここ最近、兄さんに抱いてもらった記憶がないんですけど」
「……」
「……帰ってきたらすぐ寝ちゃってたのに、オナニーなんかできませんよね?」
「……」
「……したんですね」
「……」
「したんですね! この女とッ!!」

「……どうして兄さんはそうやって約束を破るんですかッ!?
  わたし、前にも言いましたよね!? 兄さんの性欲はわたしが全て面倒をみるって!!
  残業だ泊まりだって言って、本当はこの女と会ってたんですね!?
  どうして、どうしてどうしてどうして!?
  兄さんはわたしを裏切るんですか!? 嘘つくんですか!?
  したくなったら会社を早退してでも帰ってきて、わたしとセックスすればいいじゃないですかッ!?」
 
  ……無茶苦茶言いやがる。
 
「……わたし、情けなくて涙が出そうですよ……
  自分でおかしいと思わないんですか?
  帰れば自分の嫁がいるのにどうして、よその女に手を出さなきゃならないんですか!?
  ……そっか、そんなはずはないですよね。
  この女が、兄さんを誑かしたんですよね。そうよ、そうに違いないわ。
  優しい兄さんが、わたしを、裏切るわけ、ない。
  ねえそうでしょう? この女に泣きつかれて、仕方なくやったんでしょう?
  ……最低。最低のクズ女。他人のものに手を出して平然としていられる、厚顔無恥なメス豚。
  最悪、最悪最悪、最低最悪の人間未満のゴミ人間。
  ――殺す。殺す殺す殺す。包丁で八つ裂きにして、内蔵を抉り出して、細切れにして、
  池の鯉の餌にしてやる。あはは、駄目か。そんなもの食べたら、鯉だって死んじゃうものね。
  ミンチにかけてハンバーグにしてやろうかしら。混ぜた先から玉ねぎとパン粉が腐りそうね。
  やっぱり駄目だわ。存在価値マイナスの犬畜生。居るだけで資源の無駄遣い。
  ――死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね! 
  ……わたしが殺してやる!! 絶対、絶対殺してやるッ!!!」
 
「……おい、いい加減にしろよ」
 
「いい加減にしてほしいのはこっちですよ兄さん。
  わたしは被害者ですよ? にいさんも被害者。
  悪いのは全部この女じゃないですかッ!!」
 
「勝手なことばかり言いやがって!
  簡単に死ねだの殺すだの、大概にしろよッ!!」
 
「わたしが毎日、どんな思いで兄さんの帰りを待ってるか知らないから、
  こういう真似ができるんですッ!!
  心のない人間に、まっとうな人間扱いしてもらえる価値なんてありませんッ!!」

 カチン、ときた。

「お前はただここで待ってればいいんだろうよ。
  でもおれは違うッ!!
  お前との暮らしを守るために毎日必死になって働いてる!!
  それなのにお前はいつもいつも夢物語みたいなことばっかり言いやがる!!
  お前とこの先暮らしていくのだって一筋縄じゃいかないのはわかってんだろうが!!
  その上、よく知らない人間のことをさんざん悪し様に言いやがって、
  お前のほうがよっぽど―――」

 ……その先はさすがに自制する。

「―――ちょっと出てくる」
「待ってください、話はまだ終わってません!」
 
 
 
  着替えを済ませ、追いすがる声を無視して部屋を出た。
  盛大にやらかしてしまったというのに、足は何故か軽い。
  やけっぱちになって、背負った荷物も何もかも投げ捨ててしまったからか、
  全身が不思議な開放感に溢れていた。
  初夏の風が肌に気持ちいい。
  さて、今日のところはホテルにでも泊まるとして……
  ……おしおきしてやらないとな。

9

 先輩が楓さんの存在を無意識下で重荷に感じているのはわかっていた。
  そしてそれがそろそろ限界に達しようとしていたからこそ、多少手荒な方法で揺さぶりをかけてみた。
  先輩を手に入れるという最終目的を達成する上では、最大の賭けだったともいえる。
  先輩が“度を過ぎた”人格者で、かつ楓さんがただめそめそするだけの人間だったら、
  私は今こうして先輩に抱かれてはいないだろう。
「なんでっ、あんなことっ、したんだっ」
  先輩が私を抉る。
  適当に掻き回すだけの前戯ですっかりと準備を整えてしまった私が気に食わなかったのか、
  いつになく先輩のストロークは強烈。……そんなに乱暴にされたら、ますます、感じちゃいますよ。
「……正直に、んっ、言ってしまえば、っ、楓さんがっ、羨ましかった、からですっ」
「……羨ましい、って」
「……今さらですけど、私、先輩のこと、好きですから。
  いくらなんでも、気づいてなかったとは、言わせませんよ?」
「だからって、あんなっ」
  私が楓さんの携帯に送りつけたもの。
  それは、行為を終えて眠りについた先輩と、その隣に座る“女”の写真だ。
  意図的に顔は出さなかったし、私を特定できるものは一切フレームに収めなかった。
「一番端的に、言いたいことが、伝わる、写真だったと、思いませんか?
  それに―――」
「……それに?」
  先輩が動きを止めて、私の次の言葉を待つ。ただそれだけで湧き上がる歓喜……!
  キスするように、そっと頬に触れる。
「先輩、わらってます」
  呆然とする先輩。……いってしまいそう。

 ―――先輩の携帯が鳴っている。
  それを取ろうとしない先輩に代わって、私が“通話ボタンを押す”。
 
「……自分でも気づいているんでしょう?
  このままでいいはずがない。
  このままいられるはずがない。
  血の繋がった兄妹がいい年こいて一緒に暮らして、
  セックスまでするということ。
  それが、どれだけ、不自然か―――」
「……」
「“私なら、好きになっても、愛しても、キスしても、セックスしても、いいんですよ?”」
「……楓の代わりで、いいって言うのか?」

「……代わり? 違いますよ。そんなつもりはさらさらありません。
  “先輩は、最初から、楓さんのことなんて、好きでも何でもないんですから”」
 
  ……糖蜜のような、黒くねっとりとした悦楽が背骨を突き抜けていく。
 
「……確かに、今となっちゃ、どうだったのかなんてわからなくなっちまったよ」

「先輩は、やさしいひとですから。偶然、目の前に庇護欲をそそる存在がいて、
  それがたまたま、実の妹だったと。それだけの話です」

 ―――唐突に思い出す。
  子供の頃、小学校の校庭に赤とんぼが大量発生した年があった。
  そこかしこで羽を休める彼らを、クラスの男子たちはこぞって捕まえて、
  “シーチキン遊び”をしていた。
  やりかたは簡単。
  羽を両手で左右に引っ張るだけ。
  トンボのボディは意外と丈夫で、軽く引っ張るくらいじゃなんともならない。
  だが徐々に力を篭めていき、それがある一点に達した瞬間、とんぼの身が縦に真っ二つに裂けるのだ。
  そこから覗く白い身が、まるでシーチキンに見えることからその名がついた。
  最初にやりだしたのがどんな人間かは今となっては知りようがないが、なんとも残酷な話だ。
  わたしも友人らにそそのかされて、一度だけやったことがある。
  限界を超えた瞬間の虚脱、べりべりという嫌な感触とともに、
  ぱっくりと花開くように散っていった小さないのち。
  グロテスクな断面に吐き気を覚えすぐに亡骸を投げ捨ててしまったが、
  それに喩えようもない愉悦を覚えてしまったことを覚えている。
 
 
 
  ……なーんだ。
  私、何も変わっちゃいないじゃないか。

 

「……ほら、じっとしないで。好きに動いていいんですよ?
  気を使う必要なんてありません。好きなだけ私のカラダで気持ちよくなってください。
  その過程で、私もイかせてもらえれば最高ですが」
 
  普段の私からは考えられない、あられもない言葉遣い。思わず顔が紅潮する。
  だが、それら全てが楓さんに筒抜けだと思うとたまらない。
 
「……樹里ちゃん、おれ、本当にいいのかな」
「ええ、もちろん。ずっと楓さんに甘えられてきて、辛かったでしょう? 苦しかったでしょう?
  これからは、私には素直な気持ちで接してください。私は、そのままの先輩を愛します」
 
  このひとは本当はそんなに強くない。
  強く在る必要があったから、やせ我慢していただけ。
  楓さん、貴女の敗因はたったひとつだけ。
  貴女が先輩の妹だということでも、世間知らずで夢見がちであったことでもない。
  ……先輩の、こころの弱さを認めてあげられなかったこと。
  たったそれだけです。
 
  ……まあ、いまさら、遅いんですけど、ねっ。

10

 三日間の出張を命じられた先輩、もとい元樹さんにひっついて、私は大阪行きの新幹線の中にいた。
「樹里はいいさ、おれはあくまで仕事だぜ……?」
「まさか遊びに連れてって、なんて言うつもりはありませんよ」
「たかだか三日だろ? 親父さんに頭下げて休みを貰うほどのことかね……」
「そんなこと言わずに、旅行気分だけでも味わいましょうよ、ほら、駅弁も買ってあります」
「おわ、いつの間に」
 
  例の一件以降、元樹さんは楓さんには会っていないらしい。
  部屋に帰っても、いつもいない。
  パート先に連絡すると、辞めたのだという。
  ただ部屋が定期的に掃除されているところからすると、
  楓さんは彼が部屋にいる時間帯だけどこかへいなくなり、
  会社に行くと部屋に戻ってくる、といった意図的なすれ違いをやっているらしいのだ。
  ご苦労なことだ。
  そんなに顔を合わせたくないのなら、実家にでも帰ってしまえばいいのに。
 
“まあ、楓さんがどこにいようと、私の知ったことじゃないんですけどね。”
 
「そうだ、お茶ある?」
  ぬかりはない。別の袋から、五百ミリリットル入りのペットボトルを取り出す。
「烏龍茶と緑茶、どちらがいいですか」
「緑茶で。―――樹里は本当に気が利くなあ」
「愛です」
「……真顔で言われると、その、なんか、こう、照れるなあ」
  あれから元樹さんはかえって初々しくなったというか、変に老けたところがなくなった。
  楓さんがどれだけ彼に心労を掛けていたのかと考えると殺意さえ沸いてくるが、もう心配はいらない。
  彼の身も、こころも、すべて私だけのものだ。
 
「樹里、唐揚げ一個くれ」
「いいですよ、……はい、あーん」
「あ、あーん……」
  雛鳥のように口を開けたまま待つ、間の抜けた顔さえも愛おしい。
 
  ぐしゃり!
 
「……?」
「どうかしましたか?」
「いや、聞こえなかったのか? 何かこう、空き缶が潰れるような―――」
「全然。空耳じゃないですか? 耳掃除してあげましょうか」
「……揺れが怖いから、後でな」

 

----

 大阪の支社に向かうという元樹さんと別れ、せっかくなので観光してまわることにする。
  彼が仕事をしている時間に遊びまわるのは正直なところ申し訳ない気もするが、
  お土産でも買っていって許してもらおう。
  奈良・京都は中学生の時に修学旅行で行ったきりだから、
  大人の感性で観ればまた違った感慨があるかもしれない。
 
「―――で、いつまでそうしてるつもりですか、楓さん」
  振り返る。
 
  白のワンピースに白い幅広のぼうし、エナメルの小さなショルダーバッグという、
  どこかの避暑地から抜け出してきたお嬢様のような格好。
「……なかなかお洒落ですね」
「……っ」
  大阪は日本の中でも相当暑い都市だし、今の時期なら風邪を引く心配はないとしても、だ。
  それで変装したつもりだというならやはり、頭がおかしいとしか思えない。
  どう考えても人目を引くのはわかりきっているのに。
  ……あ、彼に気づかれさえしなければいいのか。あの人は基本的に他人に興味のない人だからね。
 
「……泥棒猫が、随分とまあ偉そうなこと」
「……数年ぶりの再開だっていうのに、第一声がそれですか?
  どうでもいいですけど、そんな怖い顔してたら可愛いお洋服が台無しですよ?」
「……。そうね、貴女をズタズタに切り刻んでそこのドブ川に投げ捨てたら笑えるかもしれないわね」
  道頓堀を指差す。あらあら、地元住民の方々がニラんでますよ?
「私を殺した貴女を、元樹さんが愛してくれるとでも?」
「兄さんの名前を軽々しく呼ばないで……ッ!」
  ヒステリックに叫ぶ楓さん。やめてください、そこの子供が怯えてますから。
「嫌です。――彼が言ってくれたんですよ?
『おれのことは元樹でいい。いつまでも先輩、じゃ他人行儀だからな。
  そのかわり、おれも樹里ちゃんのこと、樹里、って呼んでもいいか?』
  ……って。嬉しかったなあ……」
「……」
  ……よく耐えましたね。でも、そんなに噛んだら綺麗な唇が台無しですよ?
 
「……どうして、兄さんなの?」
「好きなものは好きだから、今さらどうしようもありませんね。
  極端な話、貴女と先輩が兄妹であることに対して関心は全くありません」
「……結論から言うわ。兄さんと別れてくれない?
  知ってるでしょう? わたしはね、兄さんがいないと駄目なの。
  兄さんじゃないと駄目なの。
  貴女にとってワンオブゼムでしかないひとが、わたしにとっては一番大切なのよ」
  にっこり。
  私は満面の笑みを浮かべ、
「―――お断りします。気に食わないっていうなら、また体を使って誘惑してみたらどうですか?
  ただし、今の先輩が貴女を抱く気になるかどうかは、また別の問題ですがね」
「こ……のッ……!!」
「とにかく、私から先輩に対して何を言うつもりもありませんから。
“言いたいことがあるなら、はっきり面と向かって言わないと、伝わりませんよ?”」

 

 どくどくと、快楽物質が、のうみそから、どろどろと、あはは、あははは……
  下着に恥ずかしい液体が染み出していくのがわかる。
  今夜、彼はしっとりと湿ったそれを見咎め、サディスティックな笑みを浮かべるだろう。
  いやらしい言葉で私の耳朶を乱暴に愛撫するうち、ますます溢れ出すそれを指に取り、
  私の目の前で糸を引かせるだろう。
  侵入を許した瞬間の被虐的な快感、獣のような吐息、滲む汗、彼自身の匂い、筋肉の躍動、
  社会通念上まだ貰えないはずの暖かさが、私の一番奥にじんわりと広がる感覚、
  それらすべてが、この先ずっと、この女に与えられることは、無いのだ。
 
  私は背を向ける。
「さようなら、楓さん」
  ……いい加減、こみ上げてくる笑いが堪えきれなくなってきていたから。
 
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  携帯が鳴った。
「結婚してください」
(―――それは、その、前向きに検討ということで。今どこ?)
「日本橋です。父が脳の衰えを真面目に気にしているようなので、
  例のあれをお土産に買って帰ろうかと思ったんですが。どこも品切れみたいですね、残念です」
(―――そっか。仕事が片付いたから、どっかでご飯食べてからホテルに行こうと思うんだけど、大丈夫?)
「おなか空きました」
(―――てっきり食いだおれているものかと思ってた)
「……元樹さん、私をどういう人間だと思ってるんですか?」
(―――いやいや冗談。支社の人間に美味しいお好み焼きの店を聞いておいたから、そこに行こう)
  最寄りの駅で落ち合う約束をする。
  こんな何気ない、冗談交じりの会話ですら幸せでたまらない。
  結婚してくれ、なんて軽々しく言ってしまったが、
  本当に結婚したら、私は幸せすぎて死んでしまうのではないだろうか。
  本気で心配になってくる。
 
  会社の人のお墨付きだけあって、素晴らしい味だった。これが本場ってやつだろうか。
「ほら、こっちのも食べてみな」
  箸で割って、私の皿にひとかけら置いてくれる。
「元樹さん、何だかうちの父に似てます」
「え、そう?」
「家族で鍋でもやろうものなら、何が何でも自分で仕切らないと気がすまない人で、
  私の器に勝手に具材を放り込んでくるんですよ」
「ああ、あるある。うちもそうだった」
「それが駄目、ってわけじゃありませんよ。
  ただ、もう少しこちらの食べるペースも考えて欲しかったなあと」
「……ごめん、押し付けがましかったか?」
  しゅんとなる彼。ちょっとかわいい。
「いえ、かまってもらえるのは嬉しいです」
「……そっか」
「それにしても、“好きな人とふたりで食べるご飯はそれだけで格別ですね”」
「ん……、ああ、そうだな」
  ……貴方が笑ってくれるなら、私はそれでいいんですよ。

 元樹さんがホテルの部屋の鍵を指先で振り回しながらやってくる。
「さて、経費ではシングルの部屋しか取れなかったわけだが」
「まさかこの期に及んでベッドが狭いとか言わないですよね?」
「おれと同じ部屋に泊まるのは決定事項なんだ……」
「そのつもりだったので、部屋は予約していませんでしたが」
「いい根性してるよ」
  手招きして、彼の耳元で囁く。
(その代わり、御代は身体でおつりが出るくらい払いますから)
  ……。
  まだまだ若いですね。その方が嬉しいですけど。
 
  思う存分ご奉仕させていただいた。
  双方息も絶え絶え、といった様子でベッドに重なり合って寝転ぶ。
「どう、でし、たか?」
「……すごかった、気絶するかと思った」
  満足していただけたようだ。
  具体的に何がどうすごかったのかは武士の情けということで、訊かないことにしておく。
「それにしても……その、なんだ」
「……?」
「いや、いつもより声が、その、結構出てたなあ、と」
「……。“そうですね、誰に遠慮することもありませんから。
  でも、こういうホテルの壁って薄いですから、
  隣部屋のお客さんに迷惑掛けちゃったかもしれませんね”」
「……。謝りに行ったほうがいいのかなあ……」

2006/03/14 To be continued....

 

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