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妹(わたし)は実兄(あなた)を愛してる

第1章
外伝
第2章

 

1

 広いおでことは対照的に、私の世界は狭い。
 
  ファッション誌より赤川次郎とビートたけしの毒舌本が好きだったり、
  ミルクティよりブラックコーヒーが好きだったり、
  黒や黄色いねずみより青いねずみが好きだったりする自他共に認める変わり者のわたしでも、
  さすがに実兄に本気で恋してしまうとは思わなかった。
 
  高校時代を女子高の文芸部で過ごし、何を間違ったかそのまま
 文学部に進学してしまった私に言い寄る物好きなどいない。
  何度か合コンに誘われ、興味本位でついて行ったこと一回限り。
  わたしの決して豊かではない胸元をじろじろと弛緩し、
 どさくさにまぎれて肩を組んできた男の面体を張り倒して以来、異性にはとんと縁がない。

 
  元々、他人に対して興味の薄いわたしにとって、兄さんと共に過ごす時間は何よりも大切だったし、
 これからもきっとそうだろう。
  兄さんはやさしい。
  年頃にもかかわらず男っ気もなく、ついでに身を飾ることにも興味をあまり示さない気持ち悪い妹にも、
  兄さんは昔と変わらない笑顔を向けてくれる。
  兄さんは、やさしい。
  そんなやさしい兄さんが、もし―――
 
  (楓に紹介したいひとが、いるんだ)
 
  かなしくて、
  そんなことはありえない、と否定する材料がひとつもないことに気がついて、
  泣きながら兄さんのベッドで眠りについた。
 
  何故この世界は、わたしたちに他者を強要するのだろう?
  ……たったふたりで、生きてゆけたらいいのに。

2

 昔から、こいつは狭いところが好きだった。
  狭い部屋、狭い趣味、狭い人間関係―――
  かくれんぼでも何でもないのに、箪笥と壁の間に挟まってズッコケ三人組を手繰る楓を見て、
  子供心に「こいつ、やばいんじゃないのか」と考えていたことを覚えている。
 
  小学校の頃は、クラスメイトから微妙に敬遠されていた。
  どこか浮世離れした雰囲気を持ち、いつも本ばかり読んでいた楓はその頃から、世間というものに対して懐疑的だった。
  それでも見た目は悪くなかったし、今ほどつっけんどんではなかったから友達もそれなりにいた。
  卒業式の日ちょっとした事件があって、今のような状態になってしまったのだが……。
 
  それでもおれより一年遅れて中学生になり、高校生になり、
  他の連中の兄妹仲が険悪になることが多いなか、
  ずっと変わらずおれを慕ってくれたことは、すごく嬉しかった。
 
  天の川のような黒髪が腰に向かって流れている。

 長いまつげが微かに震える。
 
  こいつは今のままではいけないと、感じる。
  確かに世間はこいつの望む透明さを持ち合わせてはいないが、全てを拒絶しなければならないほど薄汚れてはいない。
  自分の好きなもの、気に入ったものだけを周りに並べて満足する小さな子供のような在り方は、
  いずれ楓を破綻させるだろう。
 
  それを防げるのは、きっとおれだけだ。
  いずれ自然に治るだろうとたかをくくっていたが、これはまずい。
  大学生にもなって、兄貴の布団で泣いていていいはずがない。
 
  多少の荒療治は必要かも知れない。
  楓には恨まれるかもしれないが、それも兄貴の仕事だと思えばつらくない。
  大丈夫、きっとうまくやれる。
 
  背中と膝裏に腕をまわし、そっと抱き上げる。想像よりもずっと軽く、弱々しい。
  きっと最後になるであろう感触をかみ締めながら、おれは立ち上がった。

3

 「一人暮らしをしようと思うんだけど」
  楓を除いた家族全員が示し合わせて集合したある日の夕食の途中、おれは切り出した。
 「ふむ」
 「そうなの?」
  おれは続ける。
 「三年次から研究室配属が始まるんだ。かなり忙しいし、
  終電が行った後の時間まで研究室に居ることもざららしいから、
  自宅が遠いやつはアパートを借りたりするのが普通なんだと。……で、どうかな?」
  親父はふーむ、とひと唸りすると、
 「そういうことなら仕方ないな。そうしろ」
  あっさりと承諾してくれた。
 「ごめん親父、生活費は極力バイトして稼ぐから、少しだけ援助してくれると嬉しい」
 「金の心配はしなくていい。自宅から国立大に通ってくれている分、
  余裕はあるんだ。安心して勉強に専念しろ」
 「そうよ元樹。あんたたちがどんな進路を希望しても叶えてあげられるように、
  蓄えはあるんだから。子供がお金の心配なんてするもんじゃないわ」

 お袋も林檎を剥きながら同調する。
 「春休みになったら、一緒に部屋を見に行きましょうね」
 「一人暮らしか、独身の頃を思い出すよ。きったない下宿で風呂とトイレは共同だった。
  それでも気のいい連中が多くてな。なかなか気楽で良かったよ」
  お袋からうさぎ林檎を受け取りながら、親父が一人ごちる。
 「私は就職してからも実家から通っていたから、経験ないわー。
  本当に大丈夫? 掃除はまめにするのよ」
 「生活はなんとかするし、しなきゃいけないから。それより……楓のことなんだけど」
 「泣くわね、絶対。わたしもついていく〜っ、とか言いそうだわ」
  しなを作る45歳、二児の母。正直無理がある。
  親父は新聞の株価の欄を眺めるような目つきで母親から視線を外す。
 「話が早い。おれが言いたいのはそれさ。ちょうどいい機会だし、
  楓もこれをきっかけに少しは自立してくれるかなと」
 「そうね……大学生にもなってお兄ちゃんにべったり、っていうのもどうかと思ってたし、
  いいんじゃない?」
 「……俺は正直、心配だ」
 「まったく、お父さんは楓のことになるとすぐ心配だー、心配だー、って。
  そうやって甘やかすのがよくないんですよ?」
 「……わかってる」
  親父はセブンスターに火をつける。

 「そういうわけだから。楓にはおれが言うよ」
 「言い方には気をつけなさいよ。変に突き放すような言い方はしなくていいんだからね」
 「ああ」
  どうやったって、結局はそうなるだろう。そう思っていた。

 ----------

 酷い夢をみた。
 
  兄さんが笑っている。
  その隣で、知らない女が微笑んでいる。
 
  兄さんはわたしの頭をひと撫ですると、背を向けてしまう。
 
  待って、待ってよ兄さん……!
 
  兄さんは振り返らない。
  知らない女が私の行く手をさえぎる。
 
  兄さんはどんどん遠くに行ってしまう。
  女は得体の知れない笑みを張り付かせたまま、私の前に立っている。
  きつい香水が鼻につく……
 
  あっという間に兄さんの背中は遠ざかり、砂粒ほどの影になった頃、
  女は満面の笑みを浮かべて、下腹部に手を当てる。
 
 
  わたしのおなかには、もときさんのこどもがいるのよ。
 
 
  わたしはその場に崩れ落ちた。

4

 最悪の目覚め。
  寝汗と涙で体中の水分が抜けきり、心臓が痛いほど高鳴っている。
  手元の携帯で時刻を確認する。朝の6時。いつもの起床時間より都合一時間ほど早い。
  この携帯は兄さんが大学入学祝いに買ってくれたものだ。
  大学生にもなれば付き合いも増えて、家に連絡を入れることも増えるからと。
  だが、メモリに記録されているのはごくごく僅かな連絡先だけだ。
  家族と、大学の事務室と、ちょっとだけの「友達」と……
  卵型のボディを胸の前で抱きすくめるようにして、喉の渇きを癒すために台所へと赴いた。
 
 「おはよう、早いな」
  リビングでは兄さんが頭を拭いていた。シャワーを浴びていたらしい。
  スウェットの下に、引き締まった精悍な体を透視してしまい赤面する。
 「……おはよう、兄さん」
 「目が腫れぼったいぞ、夜更かしでもしたのか」
  兄さんはいつだってやさしい。
 「ううん、そういうわけじゃ、」

 ―――わたしのおなかには、もときさんのこどもがいるのよ。
  どうして、
  ―――わたしのおなかには
  今日の悪夢は、
  ―――わたしのおなかには、××××××××××××××。
 「にいさん」
  がっしりとした肩。いつもわたしを庇ってくれた、大好きなひとの背中。
  子供の頃からずっと感じてきた、兄さんの匂い。あたたかさ。力強さ。
 「やっぱりだめだよ、わたし、兄さんがいないと」
  兄さんは、何も言ってはくれなかった。
  きっと兄さんは、わたしを女として愛してはくれないだろう。
  ……それでも幸せだ。兄さんが、ここにいてくれさえすれば。
  胸の痛みが和らいで、代わりに暖かな気持ちで一杯になっても、しばらくそのままでいた。

 ----
 
 「はあ、それはまた難儀なことでしたね」
 「樹里ちゃん、本当にそう思ってる?」
  ずるずる。
 「何にせよ、念願の一人暮らしの開始、おめでとうございます。
  お祝いですから今日は私のおごりでいいですよ」
 
  おれの目の前でとんこつラーメンを啜っているのは森川樹里ちゃん。楓の数少ない友人だ。
  髪はショートボブ、黒目がちなどんぐりまなこに薄い唇と、
  黙っていればいいところのお嬢様で通りそうな雰囲気の美人だが、
  感情をあまり表情に出さず訥々と喋るものだから、なんとも得体の知れないイキモノになっている。
  たぶん類友だ。きっとそうだろうと思う。
 「ありがとう。でも別に念願ってわけじゃないよ、必要になったから、」
 「自宅生って大変って聞きますよ。
  なまじ家族が家に居るものだから部屋に連れ込めないし、ホテル代も馬鹿になりませんしね」
 「……君は一体何の話をしているんだろうね」
 「冗談です」
  にこりともせずに切り返す。本当につかみどころがない娘さんだ。
 「楓さんはそれで?」
 「もしかしたら、まだ寝込んでるかも」
 「重症ですね。―――すいません、学生ライスおかわりお願いします」
 「すいません、おれもお願いします。大盛りで。はい。―――いい加減あいつも兄離れさせないと」
 「そういうことなのかなあ……?」
 「どういうこと?」
  樹里ちゃんは箸を止めて、一瞬逡巡する。
 「……ただのブラコンにしては、度が過ぎてると思うんですが」
 「だからこその兄離れだと、この愚兄は愚考する次第なんですがどうでしょう森川女史」
  おかわりのライスが運ばれてくる。ここは安く、それなりにうまく、
  学生はライスがおかわり自由ということで学内の連中には人気がある。
 「がんばらない森川さん的には、最後のチャンスをうまいこと生かしたということで
  残虐行為手当をあげてもいいですよ。おとうさん、ギョーザひとつ追加、お願いします」
  店長はひとつ唸ると、厨房に引っ込んでいった。
 「最後のチャンス?」
 「ええ。先輩は二年後には就職ですか?」
 「そのつもりだけど」
 「勤務地はどちらに?」
 「できれば東京か、その近辺がいいなって思ってるんだけど。
  地元にずっと居るのもどうかと思うし」
 「……引越し、慣れないサラリーマン稼業、不規則な生活。心身共に疲弊しきっているとき、
  田舎からはるばるやってきて泣き喚く妹に優しくしてあげられますか?」
 「なかなか厳しいね」
 「そういうことです。かえるを茹で殺したいなら水から煮ないと」
 「物騒だなあ」
 「楓さんにとってはそういうことです。いずれ先輩は居なくなる。
  だったらその苦しみを少しでも和らげてあげるのが兄貴の心遣いってものでしょう」

 樹里ちゃんの住むアパートの前までやってきた。
 「……何か元気出てきたよ、ありがとう」
 「私でよければ話を聞きますから、またどこかにご飯食べに行きましょう」
 「うん。ありがとう。おやすみ」
 「おやすみなさい。……ところで先輩」
 「?」
  樹里ちゃんは玄関のドアから顔だけ出して、
 「従兄弟同士は鴨の味って言いますけど、兄妹同士はもっと美味しいんですかね?」
  最低だこのコ。

5

「おれ、春から一人暮らしを始めようと思うんだ」
  そう楓に伝えたのは、結局引越しの準備を始める直前だった。
  言おう、言おうと思っても、気持ちばかりが空回りしてしまってうまくいかなかったとはいえ、
  いよいよ切羽詰ってから伝えようとしたのがまずかったらしい。

 座布団が飛んできた。
  目覚まし時計が飛んできた。
  真鍮のブックスタンドはクッションでガードした。
  ペーパーナイフはさすがに止めた。
 
  決して心身ともに丈夫ではない楓はそれっきり寝込んでしまい、見送っても貰えなかった。
(……自業自得だな)
  でも、ものは考えようだ。兄貴に幻滅して喧嘩別れになったなら、逆に外に意識が向かうきっかけになるかもしれない。
 
  と思ったが。
 
「兄さん、こんな時間までどこに行っていたんですか?」

 何故か楓が部屋の中にいた。

「おまえ……何でここに、」
「……酷いですね兄さん。わたしは兄さんが一人暮らしをすることを認める、とは一言も言っていません」
「はあああ!?」
  何でおまえの許可がいる? と言いかけてぐっと堪える。
  ここで爆発させたらこいつの思う壺だ。思うさま暴れて、どさくさに紛れてここに居つく腹だろうがそうはいかない。
「あのな、見ての通りここはひとり部屋だ。お前の寝る場所はない」
  正論でいこう。こいつも馬鹿じゃない。きちんと諭せば思い直すだろう。
「一緒に寝ればいいじゃないですか」
「ずっとこれから生活していくんだぞ、そういうわけにもいかんだろうが」
「兄さんの気に障るというのなら、キッチンに寝袋を敷いてそこで寝ます」
「ばか、そんなことさせられるわけないだろ」
「だったら是非一緒に寝てください」
「……学校はどうするんだ?」
「もちろんここから通います。近くなってむしろ便利じゃないですか」
  墓穴を掘った。
「め、めしはどうするつもりだ」
「わたしが毎回作りますから心配要りません。兄さんのためにこころを込めますから楽しみにしていてくださいね」
  にこり。
  意識しないようにしていたが、こいつは実は凄く可愛い。
  実の妹とわかっていても、ちょっとどきりとしてしまう。
  そもそも、おれはこいつが嫌いというわけではないのだ。
  こんな風に言われて嬉しくないわけがない。
  嬉しくないわけではないのだが……
「でも、やっぱりまずいだろ……」
「何がですか?」
「いや、俺たちだって言ってみれば年頃の男女なわけで……」
  傍から見て、女との同棲の言い訳が「妹」ってのは苦しすぎだと思う。
  痛くない腹を探られるのはまっぴらだった。

「そもそも、どうやってここに入った? 実家に置いてきた合鍵か?」
  楓はいともあっさりと、
「そんなの、大家さんに言って開けてもらったに決まってるじゃないですか」
  こういうとき血の繋がりって便利ですね、なんて言いながら笑っている。
  こ、このままでは逆に言いくるめられてしまうぞ……
  やりたくはない。やりたくはなかったが、やむを得まい。
「なあ楓。おれも男だ。健康な成人男子なんだ」
「知っています」
「ならわかるだろう。男には独りになりたいときがあるんだ」
「そうかもしれないですね」
「な、そういうわけだから。ここはひとつ、兄貴にシングルライフを満喫させてくれまいか?」
  これ、実はちょっと本気。楓が寝てる横でイタすわけにも行かないから、欲求不満な夜もあったりしたのだ。
 
「そうですね、その時はきちんと言っていただければわたしが処理させていただきます」
  今度という今度は、かくーんと顎が落ちた。
「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!?」
「別に恥ずかしがる必要はありません、自然なことですから。
  変に溜め込んで、見境なしにその辺の女とされるよりはよっぽどいいです。
  今は性病が怖いですからね」
「……おまえ、自分が何を言ってるか、本当にわかってるのか?」
「ええ、わかっていますよ」
 
  ブラコンなんてものは時間が解決してくれると思っていた。。
  だが、これはあきらかに異常だ。まともじゃない。
  どこの世界に、実の兄貴のシモの面倒を見たがる妹がいるっていうんだ……!
 
「わかった、わかったよ。とりあえず今日のところは泊まっていけ。だからな、その、
  とりあえず……ちゃぶ台の上の包丁をかたすところから始めてみないか?」

6

 見慣れない天井を見上げている。
  こち、こち、こち……
  聞き慣れた、兄さんの部屋の時計が時を刻む音、
  小鳥のさえずり、遠くから聞こえてくる車のエンジンの音、
  ……そこまで意識が至った時点で、自分が目を覚ましていることに気がついた。
 
  隣には最愛の兄。
  いつものように、その胸に顔を埋める。
  穏やかな吐息、優しい体温、
  ……兄さんの匂い。
  あたたかな感覚ががわたしの中心から、体中の隅々までいきわたってゆく。
  冷たい意識は押し流されて、代わりにただ幸せだけで満ちてゆく。
  羊水の中心に回帰する感覚。
  実感する。
  私の帰ってくる場所は、ここだけだ。
  誰にも赦されなかったわたしが生を実感できる、世界にただひとつだけの場所。
  兄さんの隣。
  もう離さない、渡さない。……それがたとえ、誰であっても。

 それにしても昨夜は無茶をしたものだと自分でも思う。
  泣いて止める両親を無理やり振り切り、勇んで電車に乗り込んだのが今から半日と少し前。
  大家から鍵を借り(おばあさんだった、ちょっと安心)、部屋に入った瞬間にわかった。
  たとえダンボールが散乱し、生活できる最低限度の道具しかなかったとしても、
  そこは兄さんの部屋だった。わたしが愛している、兄さんの秘密基地だった。
  ここでわたしと兄さんの二人きりの新しい生活が始まるのだ。
  そう思うと、それだけで胸がはちきれそうだった。
  ……それにしても、包丁を持ち出したのは流石に冗談だったのだが、
  兄さんが本気でおびえているように見えたのがちょっとショックだ。
 
  わたしは兄さんの唇にそっと口付けると、そっと布団から這い出た。
  外はまだ肌寒い。それでも、兄さんのためならつらくない。
  パジャマの上にエプロンを羽織り、わたしは朝食の準備を始めた。

 ―――
 
  味噌汁の匂いで目が覚めたのは初めてだった。
 
「おはよう、兄さん。朝ごはんが出来てますよ」
  二つの茶碗。
  二膳の箸。
  二人分の朝飯。
  ダンボール箱に部屋のほとんどを占領されている中、こたつを挟んで向かい合っている。
  まるで昔からそうだったかのように、馴染んでいる朝の風景。
  元々二人で居ることが多かった兄妹だから、二人で向かい合っているだけでもいい塩梅に落ち着く。
「ご飯、おかわりあるから。いっぱい食べてね」
  とても幸せそうに甲斐甲斐しく俺の世話を焼いている楓と、
  包丁まで持ち出した昨日の楓がどうしても重ならない。
  色々なことが朝の回らない頭を駆け巡るが、
  馬鹿みたいに嬉しそうな顔をする楓を見ていたら、なんだかどうでも良くなってしまった。
  楓の作った朝飯は、宣言通りとても心のこもった優しい味だった。
  ちょっと涙が出そうになった。

 ―――
 
「……先輩、本気で兄離れさせる気あるんですか?」
  舌の根も乾かぬ昨日の今日でこれだから、呆れられても仕方がないだろう。
「……なくはない」
「鼻の下が伸びてますよ」
「え、うそ、まじ?」
「年端もいかない娘に求婚された父親の顔に見えます」 
  そんなに酷いのだろうか。うなだれる。
「楓さんが久しぶりに授業に出てきて、機嫌が妙にいいと思ったら案の定ですね」
「うう」
「先輩は楓さんのことよくブラコン、ブラコンって言いますけど、それを言ったら先輩もシスコンですよね」
「ううう」
「式はいつですか、シスコン」
  できねえっつうの。
  二人揃ってため息をひとつ。
「先輩」
「……なに?」
  もう何を言われても気にならん。
「本当の本気で兄離れさせたいですか」
「そりゃあ……なあ」
「覇気がないですね」
「はい、あります、ありますとも」

「……それなら私に案があります」

7

 人間の支えかた、護りかたなんてものは星の数ほど、
  それこそ千差万別でひとりひとり違うのはわかる。
  だが、このやりかたはまずい。
  極めて依存心が強い人間に対して、ちょっと突き放してすぐに拾う、
  そういうことを繰り返していったらいずれどうなるか、
  私の目の前でとろけているおばかさんにはわからないらしい。
  私にはわかる。
  私もまた、この人の底知れない温かさに惹かれた女だから。
  この人になら絶対に助けてもらえると、見捨てられることはないと、
  そういう幻想を勝手に積み重ねた挙句に自壊するのだ。
  かつての私のように。

------
 
  その日の夜、先輩の携帯に電話を掛けた。
  あらかじめ予告しておいたのが良かったのか、2コール目で繋がった。
(もしもし)
「こんばんは、森川です。本題から入らせていただきますが、そこに楓さんはいますか?」
(え? いるけど。代わろうか?)
「……先輩、寝言は寝てから言ってください」
  やっぱり先輩にとって、この問題は些細なことなんだろう。
  ちょっと変な妹が、ちょっと奇行に走っているだけ。その程度の認識に違いない。
  大した度量なのか単なる考えなしなのかは、残念ながら判別できない。
(あ、ああ、そうだよな。すまん。で、どんな作戦なんだ?)
  ……もう、何も言うまい。
「……明日、十一時にS駅前の噴水で。よろしいですか?」
(え、ああ、うん)
「詳しいことはその場で教えます。
  この電話が終わったあと、先輩は携帯をその場に置いてお風呂に入ってください」
(よくわからんなあ)
「わからないなら言うとおりにしてください」
(わかった、じゃあ明日な)
「おやすみなさい、先輩」
  ブツッ。
「……愛してますよ」

------

 樹里ちゃんは約束の五分前に現れた。
  女の子のファッションは正直よくわからないが、
  いつもより少しだけ気合が入っているように見えた。
「失礼のないように、自分なりに気を使ってみたつもりですが」
  ……だ、そうだ。
「ところで、楓さんは」
「さあ。家に居るんじゃないか?」
「……そうですか」
「さて、さっそく作戦の続きとやらを聞かせてもらおうか」
「先輩、私と付き合ってください」
  ざわ……
  公衆の面前での突然の告白に、周囲が一瞬どよめく。
「―――もちろん、フリだけですよ」
  正直、かなりびびった。
「一体、何のために?」
「鬱陶しいくらいにいちゃつく兄と友人、傍から見ていた妹はどんな気持ちになるでしょうね」
「だから、楓は家に居るって」
「ありえませんね」
  さらりと否定される。
「昨日の電話の後、楓さんは絶対に先輩の携帯の着信履歴を調べたはずです」
「いや、あいつはおれの携帯の暗証番号知らないはずだし」
「生年月日、電話番号の下四桁、安直な語呂合わせ。このうちのどれかじゃありませんか?」
  ばれてた。しかも一番最初。
「楓さんは、先輩と私の間に親交があることを知りません」
「あれ? そうだっけ?」
  言われてみれば……三人一緒に居た記憶がない。
「楓さんから見れば、先輩と私は単なる『兄とわたしの友人』でしかありません。
  その二人が外で待ち合わせて連れ立って歩く。楓さんはすぐにその理由を悟るでしょう」
「それで“あの”楓が諦めると思う?」
「今日だけなら難しいでしょうね。でも明日、明後日、一週間、一ヶ月とそれがずっと続いたら。
  それと平行して、先輩が楓さんをあくまで『妹』としてしか扱わなかったら」
「……いける、か?」
「楓さんからしてみれば、多少酷かもしれませんが」
「でも、そんな長丁場に樹里ちゃんを付き合わせるわけには」
「かまいませんよ」
「でも」
「それに、」
  樹里ちゃんは一旦言葉を切り、
「もし先輩が本当に私のことを好きになってしまったとしても、それはそれでかまいません」
  樹里ちゃんは、ほんとうに、よくわからない。

------

「デートの定番といえば恋愛映画ですね」
「……おれ、こっちのほうが……」
  シネコンの入り口で貰ったパンフを指差す。SF超大作の最新作だ。
「そうですか、ならそうしましょう」
「いいの?」
「折角ですから、楽しみましょう。丁度私も観たいと思っていましたから」
  樹里ちゃんは常にクールで、悪く言えば女の子っぽくないから、
  言いたいことが素直に言えて、おれみたいな手合いからすると気楽でいい。
  だが周りはカップルだらけで、おれたちもそう思われているかと思うとどうにも尻がむずむずしてすわりが悪い。
  だが決して、悪い気分ではなかった。

「なかなか良かったとは思うけど、最後のトンデモ展開は蛇足だと思った」
「商業的な理由があるのはわかりますが、伏線を次作に丸投げにするのは個人的に最悪だと思うんですが」
  映画の感想を言い合いながら、近くのハンバーガーショップで昼飯。
  樹里ちゃんは指に付いたてりやきのたれを舐め取りながら、バーガーをもしゃもしゃと咀嚼しているんだが、
  それがどうにもいやらしく見えてしまって辟易する。
  普段からわりとちょくちょく会っていたのに、こうして街にでて二人きりだとまた気分も変わってくるのだろうか。
「食べたいんですか」
  じっと見つめられていることを誤解したのだろう、樹里ちゃんはこちらに歯形の付いたてりやきバーガーを向けてくる。
「……うん」
「先輩のもください」
  こういうことに対して抵抗はないらしい。
  わざわざ食み跡を避けるのも失礼かと思って、そのまま何も意識せずかぶりついた。
  樹里ちゃんはちょっとだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうにおれのチキンタツタに挑みかかった。

「他にどこか行きたい場所はありますか」
「海!」
「夏になったら行きましょう、お供します」
  軽く流された。

「先輩、子供相手にゲームで勝って嬉しいですか?」
「別にいいだろ」
「ごめんねボク、あのお兄さんはちょっと頭がおかしいひとだから」
「うるさいよ!」

「ネコミミを買ってあげよう。百円だし」
「倦怠期の夫婦じゃあるまいし、やめてください」
  割と本気で嫌そう。
「どうせなら首輪とリードも買ってください、先輩に着けて外を連れまわしますから」
  謹んで辞退させていただきました。

「この指輪、樹里ちゃんに似合いそうだな」
「そうですか、よくわかりません」
  シンプルなデザインのそれは、彼女のほっそりとした白い指に良く似合うのではないかと思った。
  これは銀か? 結構いい値段がついてるが、はっきり言って指輪の相場なんて知らん。
「おうおうニイちゃん、随分可愛らしいカノジョ連れてるじゃねーか。
  まけてやるから、プレゼントしてやんなよ」
  露店のおやじに煽られて、ついその気になる。
「樹里ちゃん。手を出して」
「……なんだか照れますね」
  一瞬逡巡して、観念したように左手を差し出す樹里ちゃんがいじらしい。

------

 思うさま遊びに遊び尽くして、気が付けばとっぷりと日が暮れていた。
「……そろそろもういいでしょう」
「ああ、そうだな。そろそろお開きにしようか」
「もしかして先輩、本来の目的を忘れてはいませんか」
「本来の目的、って」
  ああ、そういえばそうだった。
  恋人のフリ。いちゃつくフリ。
  それを楓に見せ付けて間接的に兄離れをさせるつもりだったのだ、本来は。
「……先輩?」
「……うん」
「指輪、ありがとうございました」
「かまわんよ」
  樹里ちゃんの左手の薬指には、細身のシルバーリングが光っている。
  この子も楓と同じように、あまり身を飾ることをしないようだから、
  逆にこういうアクセントは強烈だ。男から見れば。
 
「……私、先輩が怖いです」
  ぽつり、と樹里ちゃんはこぼした。
「……怖い?」
「残酷なんですよ、先輩は」
  樹里ちゃんの瞳が揺れる。
 
「嘘なら嘘って最初に言ってください。
  もう何も信用しませんから。
  その声も、眼差しも、優しさも、暖かさも、
  みんな偽物だって、そう言ってください。
  じゃなきゃ……私が見てきたものが全て嘘になってしまう。
  私も、楓さんも、誰も救われない。
  最初から、期待させないでください。
  こんな幸せな嘘、嬉しすぎて、吐き気がします」
 
  樹里ちゃんの瞳は、夕日を受けて紅く燃え上がっているようにも、
  宵の泥濘を得て濁っているようにも見える。

「樹里ちゃん?」
「……今日は帰ります。作戦放棄してごめんなさい」

 樹里ちゃんは背を向けて走り出す。
  掛けてあげられる言葉は、ひとつも見つからなかった。

8

 罪悪感がなかった、といえば嘘になる。それでも、確かめずには居られなかった。
「誰……今の」
  絶対に女の人なのはわかっている。
  兄さんは子供の頃から、女の子に突然話しかけられると声が半音上がるのだ。
  兄さんの携帯を手に取る。幸い兄さんはお風呂だ。最低でも十五分は出てこないだろう。
「まもら、なきゃ」
  わたしの兄さんと、わたしの居場所を。

(なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんで―――!?)
  ついさっきまで兄さんが会話していた相手が、よりにもよって森川さんだったなんて。
  何度も己が目を疑った。
  それでも、現実は変わらなかった。
  わからない、わからない、わからない!
  どうして森川さんと兄さんが親しげに電話をしなければならないのだろうか。
  仮に森川さんが私の連絡先を失って、それで兄さん経由で連絡を求めてきたのならわかる。
  だが、そうではなかった。
  あくまで個人的に、森川さんと兄さんの間には何かがあるのだ。私の知らない何かが。
  真っ黒に煮えたぎるタールのような××が、わたしの胸の内を満たしてゆく……
 
  次の朝、首をかしげながら家を出る兄さんをつけてみることにした。
  兄さんは普段どおりだ。
  シャワーを浴びる時間も、鏡に向かう時間も、着替えに掛ける時間もいつもと同じ。
  だがそれらすべてが、誰でもない、ただ一人の女性のためだけに行われたのだと思うとたまらない。
  自分自身の内圧が徐々に高まっていくのがわかる。
  この、全身を内側から圧迫する感覚はなんだろう。
  怒り? 悲しみ? やるせなさ? 嫉妬?
  どれも微妙に違う気がする。
  のんきに電車の窓の外の風景を眺めている兄さん。
  どうしてそう飄々としていられるの……?
  わたしの気も知らないで。
  その穏やかな横顔を張り倒して、私のほうに振り向かせてやりたくなる。

 駅の改札口を出た先、柱の影から二人の様子を伺う。
  さすがにここから会話の内容を聞き取ることはできない。
  それでも、何やら楽しげな雰囲気でやりあっているのはわかる。
  普段から無表情な森川さんも、心なしか微笑んでいるようにみえる。
  心臓の音がうるさい。
  息を整え、落ち着こうとしてもますますそれは酷くなるばかり。
  うるさい。うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい……!
  これじゃ、いつまで経っても兄さんの声が聞こえないじゃないか……!

 映画を観るようだった。
  僅かながらに残されていた、私の誤解という最も喜ばしい可能性は潰えてしまった。
  ……デート、なんだ。
  目の前が真っ暗になる。
  足元のアスファルトが溶けて、底なし沼にとらわれてしまったような感覚に陥る。
  もう嫌だ。帰りたい。もう見たくない。
  それでもわたしは、血走った目で出口の人影を監視することをやめられない。
 
  食事を取るようだった。
  差し向かいで紙包みを頬張る姿は、その場の風景に違和感を与えることなく馴染んでいた。
  わたしと外に食事に出ると、兄さんは何かと周りに気を使ってくれていた。
  座る席、店員を呼ぶタイミング、注文のやり方、
  そういうものすべてが私のためだけに用意されていた。嬉しかった。
  今の兄さんは違う。
  何を気負うこともなく、誰かの保護者でもない。
  倉井楓の兄ではなく、ただの倉井元樹としてそこに存在している。
  兄さんの向かいに座る女が自分の包みを差し出す。
  それを見て、兄さんも自分のそれを女に渡す。
  普段からそうするのが当たり前であるかのように淀みがない。
  ……またひとつ、わたしのこころは軋みをあげる。
 
  通りを連れ立って歩く二人は、とても自然体だった。
  いいところを見せようと気張るでもなく、かといってふてくされているわけでもなく、
  ただあるがままにお互いの存在を認め合っていた。
  まるでずっと昔からそうだったかのように。
  いつの間にか二人は手を繋ぎあっていた。
  女は半歩遅れて兄さんの背中を追う。
  昨日までそこに居た人間の存在を知らないがゆえに、女は何も感じない。
  だからそんな風に笑っていられる。
  ……それなら、わたしは、いま、どこにいるのだろう?

 二人は道端でしゃがみこんでいた。
  露店を眺めているらしい。
  色とりどりの宝石が、まっしろな太陽の光を受けていっそう煌く。
  兄さんが守ってくれない今のわたしは、暗闇に生きる魔女のようなものだ。
  自らの殻に閉じこもり、外界に呪詛を唱えるだけの存在に、
  正当な価値など与えられない。
  だからその輝きは眩しすぎる。
  だからこそ、平然とそこに居られるその女が、憎い。
 
  店の主らしい男が何かを言った。
  顔を見合わせる二人。
  抱き寄せるように、慈しむように、兄は視線で女を愛撫する。

 いやだ。
 
  女は躊躇し、やがて決心したように左手を差し出す。
 
  もうやめて。
 
  兄さんは女の手をそれはそれは優しく取り上げ赤い絨毯のような陳列から無造作にひと
つのリングをつまみ女の指先に添えた女は頬を赤らめ自ら薬指を選択し第一第二関節を過
ぎ根元までそっとそれを引き上げたそれはその女のためにしつらえられたかのように女と
調和しそこにいる者たちを根こそぎ魅了した。顔を赤らめうつむく女にやりと笑う店主顔
をほころばせる兄微笑ましいものをみたと言わんばかりの通りがかりの老夫婦青い空白い
雲優しい春風柔らかな日差し誰も彼も人としての生を謳歌し先の不安など何もないという
ような表情で街中を闊歩する中、

 わたしは、ただひとり、うすくらがりのなかにいる。

9

 部屋では楓が夕飯の準備をととのえて待っていた。
  なじられはしまいか、ふさぎこんではいないかと心配して戻ってきたが、
  特にそういうこともなく、というよりはちょっと上機嫌にすらみえる。
  ということは、やっぱり見てなかったんだな。
  ほっと胸を撫で下ろす自分がおかしい。
「遅かったですね、兄さん。暖めなおしますから、座って待っていてください」
  楓はコンロに向かう。
「あ、ああ。悪いな。いつも待たせちまって」
「いいんです、望んでやっていることですから。兄さんが気に病む必要はありません」
  振り返る楓の顔は、なにか憑き物が落ちたようなすがすがしさに満ちている。
  なんかいいことでもあったのかな。
 
「いただきます」
「いただきます」
  楓は普段から料理には手間を掛ける方だが、今日は特に品数が多く、妙に豪勢だ。
「何だかおかずが豪華だけど、なんかあったっけ?」
  女はやたらと節目とか記念日にこだわるらしいからな。
  ここで一緒に暮らし始めて三日目とか、記念日だらけにされたらたまらん。
  楓はうーん、とひと唸りすると、
「意図はそれなりにありますが、意味はありません」
「……なんじゃそりゃ」
  禅問答じゃあるまいし。
  それでも種類と量がちょっと多いだけで、その他はいつも通りの楓の料理だ。
「おかわり」
「はいはい、まだまだありますから、いっぱい食べてください」
「ん」

-----
 
  食事を終え、洗い物をする楓のうしろ姿を眺めながらほうじ茶を啜る。
  ……こんな風に、おれたちは兄妹としてなら本当にうまくやっていける。
  変に意識するからおかしくなるんだ。
  次に樹里ちゃんに会ったときに、これ以上は何もしなくていいって伝えよう。
  後はなるようになるだろう。そう思った。
 
  樹里ちゃんといえば、別れ際の態度が何だか気になるな。
  何とも思わせぶりな発言だったが、もしかして、その、俺のこと……
  いやいやいや。勘違いしてはまずい。これだから男子校出身の童貞は。
  ……自分で言っていて悲しくなってくる。
  いい加減溜まってきているせいか、妄想が止まらない。
  樹里ちゃん、可愛かったなあ……
  普段が無表情な分、ちょっと笑うとそれがすごく心に響くし……
  見た目はちょっと冷たい感じだけど、実は洒落の通じる相手だし……
  付き合ってる奴とかいるのかな……
  樹里ちゃんくらい魅力的なら、彼氏の一人や二人、いてもおかしくないよな……
  脳内で彼女をひん剥いてみる。
  おお、胸はうちの愚妹より大きいな。これが脂肪の塊とは、まさに人体の神秘なり。
  うーん、腰はさすがにモデル体型というわけにはいかないが、十分えっちだ。
  うお、そのクールな表情が、うは、めがね、めがねですか、すご、うはは……
  本人にばれたら絶対に絞殺されるような妄想に耽るうち、愚息がジーンズをぱんぱんに膨れ上がらせていく。
  いい加減に処理しないとな……
  トイレだと絶対ばれるだろうし、風呂だとすりガラス越しに丸見えだ。
  まいったな……
「何がまいったんですか?」
「い、いや、なんでもない」
  楓が自分の湯飲みを持ってきておれの隣に座る。
  慌てて体育座りするおれ。不審すぎ。
  楓は既に風呂に入ってきたのか、ピンク色のパジャマに着替えていた。
  濡れた長い髪と、紅潮した頬が匂い立つような色気を放っている。
「兄さん」
「な、なんだ」
「今日で三日目ですね」
「色々なことがありすぎて、何だかもう一週間近く経った気分だよ」
「……ごめんなさい、経緯はどうあれ、急に押しかけたのは事実です」
「気は済んだか?」
「いえ、全然」
  いけしゃあしゃあと開き直りやがって。
「それでですね、兄さん」
  楓はおれの方に向きなおる。両の瞳がおれを捉える。
「溜まってませんか」
  ……。
「……本気かよ」
「何をいまさら」
  これ見よがしにため息をつかれる。
「あのな、おれたちは……」
「兄さんは朝起きたら顔を洗って髭を剃りますよね」
「ああ」
「夜寝る前にはお風呂に入ってトイレに行きますよね」
「ああ」
「それと同じように、わたしとセックスしてくれればいいんです」
  ……いい加減あたまにきた。
  便所に行くのと、実妹とのセックスを同列に扱えと?
「……楓、おまえいい加減に」

「だってしょうがないじゃないですか! 兄さんがあの女を気にしてるのは性欲のせいです!絶対!絶対に!
  愛なんかじゃない! 本当はあんな女のこと、好きでもなんでもないんです。性欲と愛情を勘違いしてるだけです。
  それにあの女が漬け込んでいるんだってことにどうして気づいてくれないんですか!? 
  今日だってあんなに露骨に兄さんのこと誘惑して、汚らしい雌の匂いをぷんぷんさせて兄さんを困らせて、
  それで悦に浸ってる売女ですよあの女は! 目を覚ましてください! 
  指輪なんて買ってやってる場合じゃないでしょう! 何度でも言います、
  兄さんはあの女を好きなわけじゃありません。セックスしたいだけです。射精したいだけです! 
  だからわたしが、兄さんが 勘違いしないように、兄さんの性欲を、受け止めます。すべて? 全部。全部!
  毎日からっからになるくらい兄さんの精子を絞ります。そうすれば馬鹿な考えなんて微塵も浮かばないでしょう。
  そうすれば兄さんはわたしを見てくれる。本当の愛情をくれる存在、自分を一番愛しているのが一体全体誰なのか、
  嫌でもわかります! だから! 朝でも、夜でも、大学でも、外でも、家でも、兄さんが望むままに! 
  家族で妹で同居人であるわたしが! 楓が! 全部! 責任もって! 兄さんを愛しますッ!!」

 おれは、楓の何をわかっていたというのだろう?

「でも、意外と簡単なものですね。……兄さん、愛してます。ほら簡単。こんなに簡単に気持ちって口にできる。
  今まで押し込めていたのが嘘みたいです。……すごく心が軽い。
  幸せすぎて息が止まってしまいそう。こんなに幸せなら、最初から言っていればよかったのかな。うふふ。
  兄さん、あっけに取られた顔してる。そんなに意外? 嘘だ。絶対気づいてたでしょ。
  このまま自然消滅させるつもりだったんだろうけど、甘いよ、甘い。
  甘すぎる。この気持ちはそんなに軽くない。背負ってきた私が言うんだから間違いないよ。
  あはは。あー、幸せ。兄さん、好き。大好き。抱かれたい。犯されたい。うふふ。壊されたい。殺されたい」

 ……にいさんのこと、ころしたいくらい、あいしてる。
 
  楓がしな垂れかかってくる。
  熱を帯びた躯。石鹸の匂い。潤んだ瞳。薄く開かれた唇。
  楓は無邪気におれの股間に手を伸ばす。
  自分にないものに興味しんしんだった、本当に小さかったあの頃に戻ったかのように。
「あは、にいさんったらもうこんなにおっきくしちゃって、ズボンがはちきれそう。
  ごめんね、我慢させちゃったね。すぐに楓が、楽に、してあげるよ。
  だからね、お兄ちゃん。いっぱい、いっぱい、いーっぱい、
  まっ白いどろどろの精子、かえでで、びゅっ、てして?」
  もう、我慢、できなかった。

10

 男女に限らず、人間関係で一番恐ろしい事とは何だろう。
  それは、拒絶されることだと思う。
  人間はひとりひとりが少しずつ違っていて、それが時として致命的な破綻を引き起こす。
  そして、零したミルクは二度と戻らない。
 
  身内の恐ろしさっていうのは要するに、そこにあるのだ。
  人間の本質を見るには、共に旅をするか生活するかしかないという。
  それこそ十数年同じ釜の飯を食い、良いところも悪いところも、
  相当プリミティヴな部分まで曝け出して、それでもなお切れない絆ってやつに
  他人は容易には立ち入れない。
 
「お、おにいちゃ、あ、ぎもぢぃ、いい、あう、もっと、ぐちゃぐちゃ、してっ」

 異常な行為だ。
  きっとそうなのだろう。
  顔を洗う。髭を剃る。風呂に入る。用を足す。
  そういう日常の動作のうちに、いずれ『これ』が組み込まれていく。
  それが当たり前になる。楓はそう、最初に言った。
 
  近親相姦は一度はまると抜けだせないという。
  微妙に違う、と思う。
  抜け出せないのではなく、やめようなんて発想に至らないだけだ。
  “そと”に漏れれば社会的な死は免れまい。
  だが、その秘密を知っているのはお互いだけだ。
  囚人のジレンマは成立しない。
  完全。完結。閉鎖。排他。
  緩慢に滅びへと向かうタナトスの円環の中、
  ただ歓喜に躯を震わせる“もうひとり”が居るだけだ。
 
  ついこの間まで穢れを知らなかったそこは、度重なる行為によって拡張され開発され、
  ただひとりの実兄のストロークを受け止められるだけの器量を持つに至った。
  おれは衝動に流されるまま、荒々しく擦り、突き、性感を高めてゆく。
  ひたすらに高みへ向かってゆく。
 
「せ、せーしほしい、せーしほしいのっ、もう、だめ、いっちゃ、いく、いく、いくのおぉ……」
 
  弛緩しきった顔で快楽に身を任せる楓。
  こいつが望んでいたのは、こういうことなのか?
  おれは、楓の想いに応えてやれているのか?
  霞が掛かった頭では、もう、まともに、
 
  ―――なにが、まともに、なんだろう?
 
  射精する。
「あ、あ、あひ、ああ、あああぁぁぁぁっ!」
  楓の膣はうねり、本人の意思とは関係なく尿道に残った一滴すらも絞り出さんとする。
  今日何度目かもわからないのに、びっくりするほどの虚脱感に見舞われる。
「……あ、すご、あったか、じわって、んっ、あはっ……」
  かえではわらう。
「楓の卵子、おにいちゃんの精子で包まれて、ぜったい受精しちゃうよ……
  あかちゃん……できちゃうよ……にんしん、しちゃうよ……」
  ……だったら、もう、いいじゃないか。
  かえでが、こんなに、うれしそう、なんだから。

 ----
 
  先輩の私に対する態度は微妙に変わってしまった。
  あまり目を合わせてくれなくなった。
  昼どきに学食に現れることがなくなった。
  常にどこか上の空の返事しかしなくなった。
  デートもどきの日の私の態度に腹を立てているのかといえば、そういうわけではないらしい。
  そして態度には出さないが、楓さんの話題を出されるのを酷く嫌がっているようだった。
 
  どうにも、おかしい。
 
  それとは対照的に、楓さんは最近花が咲いたように明るい。
  塞ぎこんでいるような印象は完全に払拭され、まるで花が咲いたようだ。
  これまでどおり自分から誰かに話しかけることはしないが、
  日常を過ごすための必要最低限の会話の中で彼女は「微笑む」。
  だが、私にはわかる。
  その笑みはどこに向けられたものでもない。
  それは何か、あるいはこの世全てに対する勝利宣言であり、
  敗北者を哀れむ強者の眼差しだ。
  ……きっとあったのだ。私が憂慮するようなことが。
 
「楓さん」
「あら、森川さん。何だかこうして話すのも久しぶりね」
「……そう、かもね」
  楓さんは僅かに興奮しているのか、頬が少し紅潮している。
「もう春ね」
  楓さんは空を仰ぐ。
「ええ」
「春は好き?」
「はい」
「どうして?」
「暑いのも寒いのも嫌いですから」
「そうね、そうかもしれないわね」
  背中まで伸びた長い黒髪がそよ風に踊る。
「楓さんは」
「?」
「春は好きですか」
「わたしね、こころがどこか壊れているの。だから実はね、わたしには好き、嫌いってあまりないの。
  でも、今年の春はきっと、ずっと、死ぬまで忘れない」
「どうして……ですか」
「貴女がそれを訊くの?」
「……」
「すべてはここから、はじまるの。ずっと停まったまま、足踏みしていた時間はもう終わり。
  もう誰にも邪魔させない。世界はきっと敵ばかり。誰もがわたしにやさしくない。誰もわたしを愛さない。
  それでもね、」
  楓さんは振り返り、私を真正面から抱きしめる。
「救いはあったわ。この狂った世界を生きていくに値するだけの確かなものを、わたしは見つけた。
  誰のものでもない、わたしだけのもの。誰にだって、渡さない」
 
  だからね、と楓さんは私の耳元で囁く。
 
「―――わたしからそれを取り上げようとする人間を、わたしは決して許さない。
  それが誰であろうとも、何の目的があろうとも。
  わたしは全力で『それ』を叩き潰す。
  それでこの身が穢れても、わたしは一向に構わない。
  命なんてはなから惜しくない。
  わたしはただひたむきに、それだけのためだけに生きてゆくわ」
 
  訣別の言葉。
  それはきっと、短い友情の終わり。

2006/02/18 第1章完結 Go to 外伝 Go to 第2章

 

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