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合鍵


11

「…起きて、もとくん、朝だよ……」
そうやって、今日も元也を起こす藍子。
だが、今日はその声が沈んでいる。昨日の落ち込んだ気分は、今朝になっても変わらなかった様だ。

目を覚まし、リビングに降りる元也。食卓テーブルの上を見る。
用意されてる今日の朝ご飯は和食のようだ。
白い御飯と豆腐のお味噌汁。それとシャケ。藍子が家から持ってきた、彼女の家特製の
お漬物もある。ああ、今日も豪華。
両親と一緒に住んでた頃よりも、確実に朝ご飯が素敵だ。今日も藍子に感謝。
元也「いただきまーす」

元也「あれ?目が腫れてっぞ、藍子。
    …寝不足?大丈夫か?」
テーブルに着き、藍子と向かい合わせになると、すぐに気が着いた。藍子の目が真っ赤だった。
クマもできてる。
藍子「…え?…そう、かな?
    よく、わかんないや。」
慌てて、元也から顔を隠した。みっともない顔を元也に見られたくはなかった。
藍子「あ、れ?」
ぽろり。
と、涙が零れた。
自分の、ちょっとした不調にすぐ気が着いてくれたのと、それを案じてくれる元也の気持ちが
嬉しくて、涙が出た。止めようと思ったが、次から次へと、涙は溢れてきた。

元也「なっ、おい、どした!?」
目の前で急に幼馴染が泣き始め、うろたえる。
藍子に尋ねても、なんでもない、なんでもない、と涙を流しながら微笑むだけだ。
訳が分からないまま、とりあえず、悲しくて泣いている訳ではなさそうなので、安心する。

元也の前で泣いて、あやして貰うと、少し気分が楽になっていた。
元也を見ると、戸惑いながらも、微笑み返してくれる。
胸にあった、寂しさが晴れていくのが分かる。

少し軽くなった足取りで、元也と一緒に登校する。
元也が隣に居てくれることが、嬉しかった。彼の脚音と、自分の足音を合わせる。
それだけで、幸せだった。

元也「ああ、そうだ。今日はお前が夕飯作ってくれるんだろ?
    何作るか決めてる?」
そう聞かれ、シーフードカレーを作るつもりだったが、リクエストがあるなら、そっちに
しようと思い、まだ決めてない、と言った。
すると、
元也「じゃあ、久しぶりにお前の作ってくれるシーフードカレーが食いたいな。
    あれ、好きなんだよ。」
と言われた。

もとくんと、私の考えてたことが一緒だ!!!
途端、元也との間に感じてた距離感が無くなり、胸の中の寂寥感が何処かへと行った。
藍子「…海老をたっぷりと入れて?」
元也「そうそう」
藍子「サラダにチーズを入れて」
元也「いいね」
元也・藍子「「それと、ラッキョも忘れずに」」
最後の声は重なった。
それがおかしくて、二人で笑った。

 

なんで、あんなに気分が沈んでいたのか分からない。
もとくんは、ここに、私の側に、居るのに。

藍子「じゃあ、私は先に帰ってカレー作っておくから、部活、頑張ってね!」
そう言うと藍子は足取りも軽く帰っていった。
あの分だと、腕によりをかけて作ってくれるだろう。今から楽しみだ。

今晩のカレーのことを考えながら、目の前にある石膏像をスケッチする。
すると、後ろから、首に巻きついて来る腕が出て来た。サキだ。
サキ「にゃっほ〜、がんばってるねえ」
そのまま、元也の肩に頭をのせる。ああ、む、胸が当たる。
元也「サ、サキさんは、どしたんですか、何かしないんですか?」
サキ「んん〜?今日はそんな気分じゃあ無いのよねえ。
    それはそうと、今夜は何食べたい?昨日が中華だったから、今日はイタリアンで
    責めようかと思うんだけどさあ」

…あれ?今日のこと、言ってなかったっけ?
元也「ああ、今日はお邪魔しませんよ」
サキ「ん?…どうして?」
元也の首にまわしてある腕に力が入る。
元也「今晩は、藍子が、ああ、僕の幼馴染なんですけど、そいつが作ってくれるんですよ」
サキ「………ふーん、ああ、あの、いつもあなたにくっついてる娘がねえ……」

何、それ。おかしいじゃない。この前、料理を作って貰ってはいないって言ってたじゃない。
だいたい、それならそうと、もっと早く私に言っとくべきじゃない?いや、そもそも、私と
食べる筈だったんだから、そっちを断るのが筋じゃないの?ふざけないでよ?

そんな事を考えていると、元也が腕をパンパンと叩いていた。気が付くと、元也の首を
思いっきり絞めていた。
うわ怖。今、私、無意識で絞めてたわ。私こんなに嫉妬深かったの。ヤキモチさんね、私、ふふ。
あんまり困らせないでね、元也君。うふふ。

サキ「だったら、私も元也君の家に行くわ。 
    それで、一緒に御飯食べましょう」
元也「え?でもサキさん、藍子の事知らんでしょ?」
サキ「いいから、いいから。そうね、今日から私とその娘、『オトモダチ』のなるから」

うーん、藍子とサキさん、かあ。
藍子は大人しいけど、人見知りする方じゃあないし、サキさんなら、誰とでもすぐ仲良くなれそうだし、
大丈夫かな?
藍子みたいにのんびりしてるのには、サキさんみたいな、引っ張って行ってくれる人が丁度いいかも。
そう思うと、結構仲良くなれそうな組み合わせのような気がしてきた。
それに、自分と藍子とサキが、一緒にカレーを食べるのは楽しそうだ。御飯は大勢の方がおいしいって言うしな。

よし、そうしよう。今日はサキさんも連れて帰ろう。
カレーだし、一人前位、増えても大丈夫だろう。
二人が、サキさんが言ったみたいに、友達になれるといいな。

12

元也の家のキッチン。
料理の音にまじって、小さなハミングが聞こえる。軽快なリズムだ。
その歌い手の機嫌の良さが分かる。歌い手は、藍子。

部屋中に、カレーのいいにおいが漂っている。
味見をすると、上手くできていた。
元也の喜ぶ顔が思い浮かび、我知らず、笑みが浮かんでしまう。なんだか、体がポカポカと
してくる。

時計を見ると、元也が帰ってくるまで、もう少し時間があった。
そうだ、と思いついて、お風呂掃除をしておく。寒い外から帰ってきて、すぐに温まれたら、きっと
喜ぶだろうな。自分の思い付きに満足しながら、お湯を沸かし始める。

一方、下校中の元也とサキ。
元也は少し戸惑っていた。サキに話しかけても、いまいち反応が良くない。そのくせ、ずっと
クスクスと笑い続けている。

先程からずっと、元也に話し掛けられていることは分かっている。
しかし、心は、既に元也の幼馴染と面と向かう時のことばかり考えている。
元也に執着心がある今、その幼馴染と向かい合えば、自分がどうなるか分からない。
目に入った瞬間、殴りつける事は、流石に無いだろうと思う。
しかし、想像はつかない。
一体、自分がどうなってしまうか、そのことを考えると、何故か、笑みがこぼれる。
自分が不思議だった。
もし、その子を殴ってしまい、その事で、元也が自分から離れていったら?
その時は…しょうがない、一緒に死んでね?元也君。
そんな考えが、本気で浮かぶ自分がまた面白く、クスクスと笑った。


元也「ああ、着きました、ここです、ここが、俺の家です」
そう言って、元也が自分の家の門を開ける。
ふーん、これが元也君のおうちかあ。そう思って、視線を上げたときに、アラ?と思うことがあった。

今日、元也君の幼馴染がカレーを作るんでしょう?
彼女、いつ来るの?
今から、彼女を呼び出して、それから作って貰うの?
ああ、彼女、自分の家で作って、それを持ってくるのかしら?

元也が、藍子に合鍵を渡していることを知らないサキは、当然、藍子が既に元也の家で
料理を終えていることを知るはずもない。
だから、元也と玄関に上がると、藍子が、当然のように、セーラー服の上にエプロンを羽織って、
「おかえり、もとくん、お風呂、沸いてるよ、
  …カレーと、お風呂、どっちにする?」
と聞きながら現れた時、意味が分からなかった。

意外と冷静に思ったのは、
ふーん、選択肢の中に、『それとも、わ・た・し?』はないの。
そんな事だった。

……なに?何でこの娘、我が物顔で、元也君の家にいるの?
何だって言うの?…どういうつもり?幼馴染だからって、馴れ馴れし過ぎるんじゃ
なくって?どういうつもりなの?

そういった感情が湧きあがるのは、後、数秒経ってからの事だった。
その湧き上がる、頭を焼く様な憤りの感情は、サキが自分で想像していた物よりずっと
黒く、ひどく粘着質な、ドロドロとした、嫌な熱さをもって、彼女の胸に淀んでいく。
そして、その渦巻く熱い泥の様な不快感を感じながらも、彼女は藍子を見つめると、
クスクスと笑いはじめた。

13

カレーも出来た。サラダも作った。ラッキョも忘れてない。
その上、今日はお風呂まで沸かしてある。
どんなにもとくんは喜んでくれるかな?

もとくんが帰って来る、私の事を褒める、頭を撫でてくれる。
想像するだけで顔がにやけて、体がこそばゆくなる。

自分の考えに、どうしようもなく照れていると、鍵を差し込む音が聞こえた。
もとくん!!帰ってきた!!!
慌てて玄関まで迎えに行く。

「おかえり、もとくん、お風呂、沸いてるよ、
  …カレーと、お風呂、どっちにする?」
あっ、これ、このセリフ、まるで私、奥さんみたい!
自分のセリフにまた照れる藍子。

しかし、その昂揚感は、次の瞬間、吹き飛ばされた。
元也の後ろで、ありえない、あるはずが無い、あってはならない事が起きていた。
元也の後ろに、女の人がいた。

自分を見て、驚いている女性。
誰?
何?
どういうこと?
藍子の思考は停止してしまった。

藍子が凝視している間に、サキがクスクスと笑い始めた。
まるで、サキの周囲が明るくなったかと思わせる程の、華のある笑顔だ。
その内面に、藍子に対する溶けた鉄の様な不快感があることは、その顔からは想像できない、
明るい笑顔だった。

藍子「……誰、その人…」
こわばった顔のまま、元也に尋ねる。
が、その答えを待つまでも無く、藍子はサキの事を思い出していた。

藍子が美術室へ元也を迎えに行くと、いつも彼女が、元也の近くにいた。
ある時は、元也と親しげに喋っていた。
ある時は、甘えるかのように元也にもたれかかっていた。
ある時は、元也に膝枕をして貰っていた。
その時、噛み砕いていた不快感と共に、彼女の顔を思い出した。

元也「ああ、この人、美術部の先輩。サキさんって言う人。
    サキさん、一人暮らしで寂しいから、一緒に食べようって。
    いいだろ?」
サキを見つめたまま、動けない藍子の横を通り過ぎながら、元也が答える。
元也から、藍子の表情は見えない。

 

………………びじゅつぶの、せん、ぱ、い?
……どこかで、きいた。
ああ、あのときだ。

藍子「今日も晩御飯作っておくね、何がいい?」
元也「いや…今日はいいや」
藍子「え?…どうしたの?」
元也「それは、その、美術部の先輩と食べる約束しちゃってるんだ」
藍子「そっか、それじゃ、仕方ないや」

もとくん、きのう、ことわったの、この、せんぱい、と、
いっしょ、に、いる、ため???

藍子の目が大きく、見開かれる。唇を、噛む。

サキ「こんばんは、はじめまして、藍子ちゃん。
    ご一緒さして貰っても、構わないでしょう?」
藍子の表情を見ながら、サキが明るい笑顔で尋ねる。
あーあ、すごい顔しちゃって。私なら、絶対、そんな顔、元也君の前ではしないけどなあ。
表情を隠す事が出来ない娘なのね。

藍子の返事も待たず、元也に続いて家に入るサキ。
棒立ち状態の藍子とすれ違う。
至近距離で目が合う二人。
対照的な表情の二人。
般若の面を思わせる藍子。明るい、涼やかな表情のサキ。
しかし、内面は、両者、同じように、熱く、濁った物が淀んでいた。

カレーの支度を始める藍子。
手伝いを申し出るサキ。しかし、
結構です!
と言う、藍子の強い拒否に断られた。首をすくめた。

再度申し出る事も無く、キッチンから離れるサキ。
リビングに戻ると、元也に、部屋を見せてよー、と言い始めた。
断る元也だが、サキに後ろから、いつもの様に胸を押し付けるかのような抱きつき方を
されると、もう断れなかった。

二階に上がっていく元也。はしゃぎながら、サキはついて行く。
後ろから、抱きついたままだ。元也も、困った素振りをしているが、引き離そうとはしない。
もう、サキのこういった行動については、諦めている。あと、やっぱり、ちょっと、嬉しいし。

それをキッチンから見る藍子。
振り返った、サキと目があった。
サキは、微笑みながら、更に強く、元也の背中に体を押し付ける。
藍子は唇を、噛む。
血が、ツウ、と溢れてきた。

14

「いただきます」
食卓テーブルについて、三人声を合わせて言った。
カレーを一口。美味しい。

サキ「あら、美味しい」
素直な感想を口にするサキ。

それを聞き、藍子の方を見る元也。
てっきり、褒められて、照れているかと思ったが、藍子の顔は無表情だ。いや、何か、
怒りが透けて見える。
…何も言わず、知らない人連れてきたから、怒ってんのか?
それとも、こいつ、人見知りする方だっけ?

そんな事考えていると、サキが話し掛けてきた。
サキ「ねえ、元也君。こんな料理上手な『オトモダチ』に御飯作って貰ってきたなら、
    私の御飯じゃ、不満あったんじゃないかしら?」
元也「え?そんな事ありませんよ!
    十分、美味しかったですよ!!」

それを聞き、サキがクスクスと微笑む。
想像通りの元也の返答。r
ああいう風に聞けば、元也君は、絶対『美味しかった』って返事するはず。
そのセリフを、藍子に聞かせてやりたかった。
藍子を見ると、案の定、スプーンの動きが止まって、サキを見つめていた。
いや、彼女に自覚は無いだろうが、睨んでいる、と言っても構わない表情だ。
それを微笑みながら、睨み返すサキ。

藍子「……もと、くん…
    サキさんに、ごはん、つくって、もらって、いたの?」
うん、そうだけど、と元也が返事しようとすると、それをさえぎり、サキが先に答える。
サキ「そ、一昨日、昨日と『私のおうち』で御飯、食べて貰ったの
    そうよね、元也君」
元也「はい、美味しかったです。ご馳走様でした」

藍子が息を飲むのが分かった。構わず喋り続けるサキ。
サキ「ね、このカレー、とっても美味しいけど、何か秘密あるの?
    今度、元也君が来る時、作ってあげたいわ」

返事をしない藍子に、元也が、おい、と声をかけた。
藍子が我に帰り、搾り出すように、
藍子「しり、ま、せん…………」
と答えた。

あまりに愛想の無い藍子に、元也が表情で叱る。
視線を落とし、絞り出す様に、
藍子「玉ねぎを、よく、いためれば、いい、ですから」
とだけ答える。

サキ「ああ、美味しいカレーの秘訣には、それ、よく聞くわね。
    けど、面倒で、結局、そこそこ炒めただけで、止めちゃうのよねえ」
嘘おっしゃい。この味、隠し味で、ウスターソースに、コーヒーかしら?
入れてるでしょう。
  
「ねえ、もとくん」
スプーンを握り締めながら、藍子が元也に話し掛けた。
藍子「もう、サキさんのとこ、いっちゃ、だめだよ」
え?と、元也が藍子の方を見ると、彼女は視線を落としたまま、続けた。
藍子「サキさんも、めいわく、してるだろうし、これいじょう、
    ひとに、めいわく、かけるの、だめ、だから」
視線は、下を向いたまま。

そうでしたか?と、サキの方を見る元也。
サキは、微笑みながら、首を横に振る。

サキ「そんな事無いのよ、藍子ちゃん。むしろ、私の方から、頼んでる位だから。
    …藍子ちゃんの方こそ、わざわざ、元也君に御飯作るの、面倒でしょう?
    私のは、自分が食べるついでだから、これから、ずっと私が作ってもいいのよ?」
    そうする?元也君?」

藍子「もとくん!!!!!!
    わたしと、そのひと、どっち!!!!」

急に大声を出されて、驚く元也。
ええと、御飯の事?
元也「いや、どっちも、十分、うまいけど…」

サキ「じゃあ、これから、どっちの御飯、選ぶのかしら?」
サキの方を見ると、いつもの笑顔のままで元也を見つめていた。

何だよ!?どしたんだよ、二人とも!
どっちの料理も、美味しく、選ぶ事が出来そうにも無いので、こう答えた。
「ええと、その、よろしかったら、変わりばんこでお願いします」

15

「ええと、その、よろしかったら、変わりばんこでお願いします」

そう言って、藍子とサキの顔色をうかがう元也。
藍子が、唇を噛んでいるのが見えた。肩も震えているのが分かる。
だが、瞳は髪に隠れて、見えなかった。

サキを見る。相変わらず、微笑んでいる。こっちは、いつも通りだ。
とりあえず、ホッとした。

しかし、元也からは見えない、テーブルの下では、爪が食い込むほど、手を握り締めていた。
その痛みで、辛うじて、微笑を保つ理性をキープしていた。
しかし、その理性も薄皮一枚の様なものである事を、彼女は自覚していた。
それでも、微笑むサキ。
感情に任せて、爆発する藍子とは違うところを、元也に見せたかった。

なんとも重い雰囲気の中、食事の音だけが、部屋に響く。
藍子とサキ、二人とも、相手がいないかの様に振舞う。
おかわりをするか、藍子は元也にだけ尋ねる。それを悪いと思った元也が、サキに尋ねる。

もう、お腹は一杯だったが、嫌がらせのために、サキはおかわりを頼んだ。
忌々しげに、サキのお皿を受け取ると、藍子は立ち上がり、サキと元也のお皿を持って、
キッチンへと向かう。

サキ「ねえ、元也君、気になってたんだけど、何で、藍子ちゃん、あなたより先に、ここに
    入る事が出来たの?」
藍子がいなくなったので、サキが元也に話し掛けた。
サキ「なんで、自分がいないとき、彼女が上がってたのに、驚かなかったの?」

元也「ええと、それは…」
言いよどむ元也。
毎朝、独りじゃ起きれないので、藍子に頼んで、起こしに来て貰うので、
合鍵を渡してあるからです。
とは言いづらい。

サキに、そんな、藍子に甘えてる事は知られたくなかった。
情けない、と、呆れられる事は嫌だった。

サキ「ねえ!なんでなのかしら!?」
語尾も荒く、元也に迫るサキ。

「だって、わたし、もとくんから、このおうちの、合鍵、もらってますから」

サキが声の方を見ると、藍子がカレー皿を手に、リビングに戻ってきてた。

藍子「これで、まいにち、まいあさ、もとくんを、起こしに、来るよう、
    もとくんに、頼まれてるの」

 

そう言って、カレーをテーブルの上に置くと、胸ポケットから、合鍵を取り出し、
サキの目に見せ付けた。
そして、口元をほころばせる。
今日、この家にサキが入ってから、初めて見せる、藍子の笑顔だ。
サキに対して、勝ち誇るかのように、言葉を続ける。

藍子「もとくん、小さい頃から、本当に小さい頃、幼稚園に入る前ぐらいから、ずっと、ずっと、
    朝が弱かったんです。だから、もう本当に、小さい頃から、毎朝、もとくんを起こしに行くのが、 
    私の朝の日課でした。
    もとくんの、お母さんでもなく、お父さんでもなく、私の仕事なの。
    幼稚園、小学校、中学校、それで今、高校に入っても、やっぱりもとくんは朝が弱くて、
    やっぱり、もとくんは、私が毎朝起こしてあげなくちゃ、ダメなんで、だから、私、今も
    毎朝、もとくんのおうち、もとくんのお部屋にまで行って、それで、毎朝起こしてるんです。
    きっと、今まで、休みの日でもない限り、私がもとくんを起こさなかった日は無いと思います。
    ううん、絶対にないわ。
    もとくんを起こして、もとくんが学校に行く仕度を済ますまで、もとくんのお母さんとお話
    して、もとくんの仕度がすむと、一緒に学校まで行くのが、もうずっと、ええと、十年以上
    続いています。
    いま、もとくんのお母さんとお父さんが、外国に行っちゃってるから、私、朝、おうちに入れなく
    なっちゃって、そしたらもとくん、毎日遅刻しちゃうんです。やっぱり、私がおこさないと、もとくん、
    ダメなんです。
    だから、もとくん、合鍵をくれました。私に、くれました。嬉しかった。毎日、起こしに行くって、
    もとくんと約束しました。
    毎朝、合鍵で、おうちに入って、もとくんを起こしてます。ちょっと、早めに行って、朝ご飯も
    用意してるの。もとくん、喜んでくれてるの。
    私の、頼まれた、ことなのよ!!!!!
    いいでしょ!!!!
    羨ましいでしょ!!!!!!」

元也「藍子!」
サキに噛み付くような勢いで話し続ける藍子を、制止させる元也。
元也「何言ってんだよ!
    サキさん、困ってるだろ!」

すいません、と、元也がサキに声をかける。
それさえもが気に入らない藍子が、
もとくん!!!!と大声を出す。

それを無視して、サキを見る。
元也と目が合うと、サキは、困った顔で、微笑んだ。

こんな時でも、微笑んでくれるサキに感謝しながら、元也は、そろそろ帰りますか?
送っていきます、と言った。
サキも頷いて、もう、帰った方がいいみたいね、と言った。

サキが、もう一度、藍子を見た。
その表情は、般若のようだった。人は、嫉妬で、こんな表情になるのかと改めて驚いた。
私も、こんな醜い表情をするのかしら?きっと、しちゃうんでしょうね。
そう思うと、胸に、収まらないほどの藍子への不快感があったが、それでも、自然と、
クスクスと笑みがこぼれた。

16

元也「サキさん、そろそろ、帰りますか?
    送っていきますよ」
元也は、申し訳なさそうに、サキにそう尋ねた。

その後ろで、藍子が興奮して、何か金切り声を出している。
何がそんなに気に入らないのか、分からなかった。
だが、今夜の藍子は余りにもサキに対して失礼な事を繰り返していたので、元也もかなり
頭に来ていた。
藍子の声を無視して、サキに話しかける。

サキ「そうね、もう、お暇した方が、良いみたいね。
    …彼女に、殺される前にね」
藍子を見ながら、サキはクスクスと笑い出した。
こんな状況で、そんな風に笑い出したサキを見て、急に元也は、ゾオッ、っとした。

元也「じゃあ、俺はサキさんを家まで送って来るけど、藍子、お前は?
    一緒に送っていこうか?」
靴を履きながら、藍子に尋ねる。
藍子「ううん。私、お皿、洗わなくっちゃ、ダメだから、
    もうちょっと、ここに残るわ」
そう言うと、サキの方を見て、笑った。
その笑顔が、なんだか、嫌だったので元也は藍子から目を逸らした。
元也「……ああ、分かった。
    じゃあ、サキさん送ってきたら、すぐ帰ってくるから、それまで待ってろよ。
    ちゃんと、お前も家まで送って行くから、勝手に独りで帰んなよ。
    …行きましょう、サキさん」

玄関から元也とサキは出て行った。後ろで、鍵が閉まる音。

内心、元也はホッとしていた。
これ以上、藍子とサキを近づけておきたくは無かった。
藍子が残ってくれて助かった。

元也「なんか、色々、申し訳ありませんでした。
    …いつもなら、あんな、失礼な奴じゃあ無いんですけど」
元也が、済まなさそうな顔で謝ってきた。
サキ「別に、いいわよ。
    元々は、私が藍子ちゃんに断りも無くお邪魔したんですもの。
    悪いのは、私も同じね」
そう言っても、元也の顔は晴れない。

気を取り直すかのように、サキが、明るい声で、
サキ「さて、明日は私の番ね!今夜のカレーに負けない、美味しいもの、たっぷり作るから、
    楽しみにしといてね!」
え?何のことです?と、驚く元也に、
サキ「何言ってるの!あなたの明日の晩御飯でしょう!
    変わりばんこでお願いって、あなた、言ったでしょうに
    今日、藍子ちゃんだから、明日は私の番でしょう?」

元也「え?ああ、確かに言いましたけど…」
そんな事したら、また藍子がどうなってしまうか、想像は出来なかったが、また荒れてしまう事は
避けたかった。

困った様子の元也を見ていると、胸にわだかまっている不快感が高まってきた。
サキ「何、思い悩んでるのよ?
    私の料理、食べるのが嫌になったの?」
元也「え?いや、そういうわけじゃあ」
サキ「じゃあ、何だって言うの!!??
    もっと、嬉しそうな顔、してよ!!!」
元也の考えは分かっていた。藍子が気になるのだろう。
だが、だからこそ、気に入らなかった。
藍子の前で、我慢していた感情が、少し、零れるのが分かった。
しかし、止められなかった。

サキ「何よ!藍子ちゃんの事は心配できるのに、私のこと、考えてくれないの?」
元也「サキ、さん?」
サキ「あんな風に、騒いだもの勝ちなの?
    あんな風に、あなたの前で、興奮した方が、よかったって言うの!!??」

元也「サキさん!!!」
元也に肩をつかまれ、どうしたんです?と、瞳を覗かれると、自分の興奮を自覚した。
我に帰り、元也の手を振り解いて、先に歩き始めた。
元也が後ろから、自分の名前を呼んだが、振り返らない。
今の自分の顔を、見せたくなかった。

サキ「…ごめん、ちょっと、みっともなかったね、私」
サキが前を見たまま、話し掛けてきた。
苦笑いしながらも、構いません、とだけ答える。

急に、サキが立ち止まる。
そして、元也が隣に並ぶと、体をピッタリと横につけ、腕を組んできた。
驚いて、サキの方を見たが、髪に隠れて、その顔は見えなかった。
な、何ですか、と尋ねても、
サキ「いいから、このまま!!」
とだけ言われ、しょうがなく、腕を組んだまま歩く。
サキの香りが鼻に届き、鼓動が早くなる。

 

ずっと、元也の視線を、顔の辺りに感じるが、腕を組んで、横に並んでいる状態では、
表情を見られることは無いだろう。
今の表情を元也に見られたくはなかった。
多分、藍子ちゃんと同じような、醜い顔をしているから。
私は、藍子ちゃんとは違う。あんな、嫉妬で醜く歪んだ顔を、元也には見せたくなかった。
いつも、笑顔で、笑顔の自分の顔を、元也に覚えて貰いたかった。

だから、今、元也に、自分の顔を見られたく、無かった。
誤魔化す様に、元也の腕を、より強く、つかむ。
自分の胸が、ちょっと当たっている。元也が、困っている素振りをしているのが分かる。
いいわ、私を、苦しめた罰だわ。もっと、困りなさい。
そう思い、胸の谷間に、腕を挟みこませた。
慌てて、腕を振り解こうとする元也。
しかし、逃がさないよう、より一層、腕に力をこめ、体を摺り寄せる。

こんな暗い夜道、こんなことして、元也君、送り狼になちゃたりしないかしら?
まず、そんなことありえないでしょうけど、まあ、そうなったら、そうね、
責任とって貰うしかないわね。うん。b
ああ、だめよ、元也君、そんなとこ、触っちゃ、ああ、だめよ、んんっ、やめて、いじわる、しないで………

そんな考えが浮かぶと、今度は、体ごと、元也に擦り寄ってみた。
あの、ちょっと、サキ、さん、ちょっと、ねえ、いいかげんに、ちょっと、あの、ですからねえ、
まともに言葉も出せないほどうろたえまくる元也が、妙に、いとおしかった。

17

元也「じゃあ、サヨウナラ、また明日!」
サキの家の前まで着くと、元也は回れ右をして、帰ろうとする。
慌てて声をかけるサキ。
今、元也の家には、藍子が居るのだ。
帰したく、ない。

サキ「ちょ、ちょっと待って!
    体、冷えちゃったんじゃない?ココアでも入れてあげるから、上がっていったら?」
元也「うーん、いや、結構です。
    藍子、家で待たせてるし、とっとと送ってやらなきゃ、藍子のお袋さんが心配する
    だろうから」
笑顔で答える元也。

…年上のおねえさんに、夜、部屋に上がっていかない?と、言われて、何も思いつかない
朴念仁なら、まあ、大丈夫かな。

それに、今のサキは、藍子との対峙で、嫌な汗をかいた後だった。
こんな状態で、いざ、事が起きるのは、やっぱり嫌だ。
万全の状態で、そういった事に至りたかった。

サキ「…そう、じゃあ、残念だけど、サヨウナラ。
    明日、忘れずに来てよ。約束、したからね。」
勝負は明日、私の部屋で、か。
お布団、シーツ、綺麗なのにしとかなくっちゃ。
…白と黒、どっちが興奮させれるかしら?靴下は、着けたままのが、いいんだっけ?ニーソックス?
サキ「バイバイ、また明日ね」
手を振って、元也と別れた。

サキと別れて、駆け足で家へと向かう元也。
考えているのは、今日の藍子の事だ。あの、サキさんへの態度、やっぱり許せなかった。
帰ってから、藍子を叱るつもりだ。
その後、サキさんに電話をかけさせて、謝らせよう。
そんな事を考えながら、元也は家へと向かっていった。

元也の家のキッチンから、水の流れる音がする。
藍子が食器を洗っている。
いや、違う。
藍子は、水が流れていくのを、何もせず、ただ、見ていた。
頭にあるのは、サキの事だ。

 

あの女が帰るのを、このおうちから、見送った。見送ってやった。
あの女は、私と違い、もとくんが家に居なくなれば、このおうちに居る事は出来ない。

あの女は、私と違い、もとくんが居なかったら、このおうちに入る事は出来ない。
私は、合鍵を、もとくんから、貰った。
あの女は、貰っていない。

あんな女がいたところで、私ともとくんの関係は、どうかなったり、しない。
あんな女が居たところで、私ともとくんの間には、関係ない。
あんな女が、急に出てきたところで、二人の間に、入る余地など、皆無だ。
あんな女に、私のもとくんを、どうこうする権利なんか、無い。

あの女に、そんなこと、出来るはずがない。
だって、私たち二人の絆は、あんな女なんかに、どうこう出来るほど、弱くなんか、ないもの。
積み重ねてきた、年月が違う。
思い続けてきた、年月が違う。

だから、あんな女、気にすることは、ない。絶対に、無い。

なのに、あの女が、嫌い。
嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い
嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い
なのに、あの女が、憎い。
憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎
憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎憎
あんな女、死んだほうが、良い。死んで。死ね。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

サキが使っていた食器が目に入る。
手にとると、全力で、床に、叩きつけた。砕けた。
笑う。笑った。嘲笑った。

涙が、出た。
急に、怖くなった。
このお皿、もとくんのおうちの物じゃない。こんな事しちゃうなんて。
それに、サキさんへのあの態度、どうかしてた。もとくんの先輩じゃないの。
もとくんが、帰ってきたら、怒られる。怒られる。

そう思うと、骨の奥から、震えてきた。
もとくんに、怒られて、嫌われる。いや。いや!そんなの、いや!!!
お願い、そっちに、行かないで、いっちゃ、やだ!!!!

恐ろしさのあまり、声をあげて、泣いた。まるで、幼子のように、大声で泣いた。

 

玄関を開けて、ただいま、と言いながら元也が帰ってきた。
どうやって、叱るのを切り出そうか考えていた。
しかし、キッチンから藍子の泣き声が聞こえてくると、怒りも吹っ飛び、
大慌てで、藍子のところに駆けていった。

割れた食器の前で、藍子がへたりこんで、大声をあげて泣いていた。
元也「け、怪我は?どっか、切ったのか?」

何を聞いても要領を得ない返事しか返ってこないが、腕や脚を見たところ、怪我は
見当たらない。
そうなると、皿を割った事に、こんなに大泣きしているのだろうか。

そう思うと、いつかの様に、藍子が手のかかる妹のように思えてきた。
元也「ほら、藍子、皿を割った程度じゃ、怒りゃしないよ。
    だから、泣き止んで」
そう言っても、藍子は泣き止まない。元也は、あやす様に、藍子の背中をさすってやる。
藍子が、元也の胸に顔を埋めてきた。頭を、撫でてやった。
それでも、藍子は泣き続けた。
結局、泣き声がおさまったのは、実に一時間後のことだった。
その間、元也は、優しく、藍子の背中をさすり続けた。

頭と、背中を撫でてくれるもとくんの手の感触が、優しい。
そうだ、この手の暖かさは、わたしのもの。
伝わってくる体温も、わたしのもの。
心地よい声も、わたしのもの。
聞こえてくる、心臓の音も、わたしのもの。
このひとの、からだも、こころも、なまえも、たましいも、いまも、むかしも、みらいも、
このひとにかかわる、すべてが、わたしのもの。
しせんのさきにいていいのも、わたしだけ。
なにひとつ、かみのけも、きったつめも、はくいきも、ことばのひとかけらでも、
だれにも、わたさない。わたしだけにもの。
ぜんぶ、わたしの、わたしだけの、ひとなんだから。
わたしのものなんだから。
私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。
私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。私のものなの。

そうだよね、愛しい、私の、愛しいもとくん。
誰にも、指一つ、髪の毛一本、触れさせたり、しないから。
だって、あなたは、わたしだけのものなんだから。わすれちゃ、だめなんだ、よ。

18

朝。
元也は穏やかに寝息を立てている。
いつもの藍子が起こす時間まで、あと三十分ある。
うーん、と寝返りを打つ元也。

そんな元也の様子を、ベットの横に立ち、見ている人がいる。
藍子だ。
すでに、そこに来て、二時間は経っている。
さらに、数分過ぎる。

突然、電話の子機が鳴った。
驚いて、藍子はディスプレイを見た。
そこに表示されていた人名を見て、藍子の顔が豹変する。
『サキ先輩』と、そこに表示されていた。

元也の家の電話に、あの女の名前がインプットされている。
その事に、言いようの無い程の憎悪が胸に湧き上がる。

電話が三回鳴ったところで、電話を切った。
こんな朝から電話をかけてくるなんて、モーニングコールのつもりか。
あの女、私の役目を奪うつもりか。
しんでください。

サキが電話を三回鳴らしたとこで、出る事も無く、電話を切られた。
藍子ちゃんか。
元也君から聞いた、藍子ちゃんが起こしに来る時間の十分前にモーニングコール
したのだが、起こす時間の前から、元也君の部屋にいるのか、あの娘。
元也君の寝顔を見ながら、何してるのかしら?
あんな、子供みたいな顔しといて、いやらしいこと。
そこから、消えたら?

もう一度、サキは元也の家に電話をかけた。
今度は、ちゃんと、出た。ただし、元也ではなく、藍子だった。

藍子『何か、御用ですか?』
サキ『アラ?誰、あなた?私、元也君のおうちに電話したんだけど?』
藍子『間違ってませんよ。ただ、もとくんはまだ起きる時間じゃないので、
    起こしちゃうと、かわいそうだと思って、私が出ただけです』
サキ『そう、でも、人のおうちの電話に勝手に出るの、かなり失礼じゃあない?』
藍子『いいえ。当然、他の誰かがこんなことすれば、ダメかも知れないけど、私なら良いんです』
サキ『あら、羨ましい話だこと。でも、もう元也君、起きる時間でしょう?変わって頂戴』
藍子『嫌です。まだ、寝てます』
サキ『じゃあ、丁度良いわ。私の声で起こしてあげたいわ。受話器、元也君の耳に当てて頂戴』
藍子『いま、丁度起きました。切りますね』
サキ『じゃあ、かわって。おはようを言いたいわ』
藍子『そんな暇、ありません。切りますね』
サキ『おはようを言う位よ』
藍子『切ります』
ガチャリ。

いい根性してるわ、藍子ちゃん。
朝から最悪な気分になった。
やっぱり、あんな娘に遠慮する事、無いわね。

ベットサイドにおいてある、写真立てを見る。元也とサキ、二人で写っているものだ。
今日、勇気を出して、元也君に告げよう。
それで、彼が応えてくれたら、このベットで。
そう思うと、体が火照る。このままでは学校にも行けない。
体をしずめる為、と、自分で触ろうとした。
だが、止めた。このまま、昂ぶらせたままの方が、勢いに乗っていける気がした。
今日は、このまま、夜までいよう。それまで、我慢。
この火照り、元也君に触って貰って、おさめてもらおう。
その決意で、更に体が熱く疼いた。

ほんとなら、もっとゆっくり、二人の距離を縮めたかった。
だが、藍子ちゃんがいるから、早急に、ことを進めなければ。
元也君。お願い。私の想い、うけとめて。

なんて遠慮知らずな人なの、サキさん。
朝から最悪な気分になった。
やっぱり、あんな人、この世にいらない。

藍子が握り締めている子機が、ミシミシと音を立てる。
元也をみる。寝ている。起こさなくてはならない。

だが、起こせば、起こして、学校に行けば、また、あの女がいる。
嫌だ。あの女に、元也を見せたくなかった。元也に、あの女を見せたくなかった。

いっそ、このまま起きないもとくんを、永遠に、二人だけの世界で、眺められたら、どんなにか素敵だろう。
そんな世界を夢想し、陶然とする。

寝ている元也を見る。起きる気配は無い。
元也の唇を指で撫でた。何か、食べるものと勘違いしたのか、元也は藍子の指を舐めた。
指先から、くすぐったい快感が、体中に走る。
慌てて、指を離す。指先で元也の唾液が光っていた。
恐る恐る、その指を舐める。今度は、自分の唾液がつく。
その指を、再び元也の口元に持っていく。また、指先を舐める元也。
それを見ると、藍子は、いつかの様に、下半身がはしたなく熱くなる。

このまま、二人きりでいたい。
だが、起こさなくては。私の我がままで、もとくんに迷惑をかける訳にはいかない。
藍子「…起きて、もとくん。…朝、だよ……」

19

「ねえ、元也君、このまま、泊まっていってよう」
サキが甘えた口調で元也に身を寄せる。
元也「でも、明日の学校の準備もあるし、やっぱり、帰んなきゃ」
サキ「うう、ひどいっ!
    おねえさんのこと、弄んだだけだったのね!」
元也「なに言ってんですか!」
サキ「じゃあ、愛の証拠に、お別れのチュウね」

元也「うう、さむい」
外に出ると、冷気が身を刺す。コートの前を閉じる。

未だに信じられない。
サキさんから、告白された。
美人の、サキさんからだ。しかも、美人なだけでない、明るく、素敵なサキさんだ。

心が弾む。足取りも軽い。
最初、美術部の性格の悪い奴らのドッキリかと思った。
だが、サキさんから、真正面からみつめられ、サキさんの吐く息の湿り気が伝わると、
ほんとの事だと分かった。

速攻で、返事した。もちろん、OK。

まだ、体が重い。
だが、満たされた思いだ。
元也の事を想う。こんなに幸せを感じた事は、無かった。
明日、学校で会うと、どんな感じかしら?
みつめ合う二人、燃え上がる情熱。
ああ、だめっ!ここは、教室よ、誰が来るかわかんないのに。ああ、そんな、
いじわるぅ、でも、でも、やめちゃ、だめぇ!
自分の空想に頭を抱える。

もう、元也君は私のものだ。藍子ちゃんのものでは無く、私のものだ。
幼馴染ってだけで、もう元也君に近づかないでね。
あなたの場所は、もう無いの。サヨナラ、藍子ちゃん。

そうだ、電話しときましょう、元也君のおうちに。もし、用も無いのに元也君のおうちに
いるような娘がいたら、さっきまでの事、教えといてあげましょう。

サキの事を思い、ニヤニヤしながら、元也は自分の家の鍵を開け、入る。

何か、違和感を感じた。
訝りながらも、リビングへと進む。
蛍光灯のスイッチを入れる。
息を飲んだ。
テーブルの上には、焼きサンマと、煮物が乗ってあった。
藍子が、灯りも付けず、テーブルに座っていた。

「おかえり、おそかったね」
笑顔でそう言うと、藍子は席を立った。
「お味噌汁、温めるから、その間、手を洗っといて。うがいも忘れないでね」
元也「…あ、藍子?」
呼びかけても、聞こえないかのように、食事の準備を進める。

藍子「さあ、冷めない内に、召し上がれ」
準備を済まし、元也に席に座るよう促す藍子。

元也「ごめん、今日は、いいよ」
藍子「食べてよ、ね?」
元也「もう、食べてきたんだ」
藍子「一口だけでも」
元也「おなか、一杯なんだ」
藍子「お願い」
元也「…だから、サキさんの
藍子「いいから!!!!!!
    食べてよ!!!!!!!!」

席を立ち、料理を手で掴み、元也の側に行く。
そして、掴んだ料理を元也の口元になすりつける。

元也「な、止めろって、藍子」
藍子の手を押さえつけ、なだめようとする。
だが、藍子に声は届かない。その表情は、元也が今まで見た事の無いものだった。
ふと気が着くと、藍子と密着している事に気がついた。
サキのかおりが残っていないか、急に気になった。

藍子の顔を伺う元也。藍子は、泣いていた。
泣いて、謝ってきた。

泣いて、謝りながら、かかとをあげ、元也の顔に、自分の顔を近づける。
そして、元也の頬につけた、御飯の汁を、舐め始めた。
丁寧に、念入りに。
藍子の吐く息の音と、頬を撫でる藍子の舌の感覚に、思考を奪われる。
 
そして、藍子の舌が元也の唇に触れた。
舌を、その口に入れようとする藍子。
しかし、元也はそれをとどめた。 それを許すのは、サキに対して、余りにも失礼だ。

藍子「…な、んで?なんで、なんで?なんで?どうして、どうして、えええ」
泣き崩れる藍子。

どうしたらいいのか、分からず、元也は藍子の側で、佇んでいた。
今の自分は、いつものように、藍子を抱きしめてやるわけにはいかないのだ。

元也が、いつものように抱きしめてくれない。
サキさんからの電話、信じていなかった。信じたくなかった。
けど、分かってしまった。
もとくんは、私のところから、離れていった。
あの女の所に、行ったのだ。あの女が、奪っていった。
返せ。返せ。返せ。返して。返して。お願い、返して。
帰ってきて。帰ってきて。お願い、帰って来て。

サキへの憎悪より、胸を占めているのは、ただ、悲しさだった。

20

その日、藍子の様子がおかしい事に、クラスの友人達はすぐに気がついた。
まるで、生気が抜けたような顔をしている。
その事について、元也に尋ねても、なにやらハッキリとしない。

昼休み、元也を尋ねて、教室に一つ上の上級生が尋ねてきた。
クラスが騒然となる。学園でも美人と有名なサキだ。

どういうことかな?と思い、友人のひとりが藍子を見た。見て、ギョッとした。
藍子の顔が、怖かった。サキと、元也を睨みつけていた。
そして、理解した。藍子の様子がおかしかったのは、あのサキ先輩のせいか、と。

サキ「にゃっほ〜 おげんき〜?」
元也「はい、お元気ですよ〜
    って、なんか用ですか?」
サキ「ううっなんて冷たいセリフ!!恋人同士の会話には思えないわっ!!
    ……って、まあ、じゃれるのは置いといて、お昼、一緒にどう?」
元也「ああ、昼飯ですか、ええと」
藍子の方を見る元也。ずっと、お昼は藍子と一緒にとっていたのだ。
藍子と目が合う。藍子が、驚いて、それから微笑んだ。
それを見て、ガソリンに火がついたかのように、サキの胸に嫉妬心が燃え上がる。

元也「ねえ、サキさん、藍子も、一緒にいていいかな?」
昨日から、藍子の様子がおかしい事も、元也は気が着いていた。出来る限り、気を使ってやりたかった。

何言ってるの、元也君?嫌に決まってるじゃない。あの娘とは、一秒でもあなたと離れさせておきたいの。
とは、流石に言えない。
サキ「えーと、ちょっと、嫌だなあ。
    恋人になったばかりの二人の甘々なセリフ、人に聞かれるの、恥ずかしいわ」
そう言って、元也の腕に絡みつくサキ。
元也も、そう言われては、藍子を連れて行けない。
サキの言う甘々なセリフ、ぜひ聞きたかった。

また、もとくんとの時間を、あの女に獲られた。
ううん、それだけじゃない。あの女は、もとくんを、本当に奪っていったのだ。
あの、泥棒猫、死ね。

帰ってきて。私のところに。あの女は、もとくんの居場所じゃないのよ?

放課後。
藍子が帰ろうとしたところ、サキに呼び止められた。

 

屋上にいる藍子とサキ。
風が強い。

藍子「…なにか、御用ですか…」
サキ「ええ、ちょっと、私の恋人、元也についてなんだけど」
藍子「…ああ、やっぱり、そうなんですか。薄々、気がついてたけど、あなた、本当に
    私のもとくん、取って行ったんですか。どんないやらしい方法でもとくんを騙したんですか」
サキ「…だれが、誰の物ですって?」
藍子「もとくんが、私のものです」
サキ「もう、諦めなさい。あなたのもとくんは、私の元也君になったの」
藍子「……………………うるさい」
サキ「だから、あなたももう諦めて、いつまでもそんな、怖い顔しないで。
    私の元也君が気にかけちゃうから」
藍子「そうでしょう、もとくん、私にはとっても優しいから」
サキ「そんな未練がましい顔してる人がいちゃうと、気が滅入るのよ
    私の元也君のためを思うなら、恋人ができた事、祝福してあげたら?」
サキ「ハッキリ言うとね、うっとおしいの、藍子ちゃん。
    いつまでも、そんな、自分が元也君にとって特別だって顔で、私達の近くにいないで」
サキ「百歩譲って、今まであなたが元也君の一番だった事は認めてあげる。
    けどね、今、そこにいるのは私。
    あなたは、そこにいないの。おわかり?」

プルプルと、藍子の肩が震える。もうすぐ限界のようだ。
よし、あと、一押し。単純な子ね。カワイイぐらいよ。

サキ「だからね、恋人の私としては、あなたが元也君の合鍵持ってるの、すごく気に入らないのよ。
    朝起こすのも、朝ご飯作るのも、お昼一緒に食べるのも、夕御飯作るのも、全部、私のほうが相応しいでしょう?」

サキ「その合鍵、渡して」

バチン!

サキの頬を、藍子が叩いた。

サキが頬を押さえる。ジンジンと痛みがわいて来る。
頬を押さえながら、サキがクスクスと笑い始めた。

サキ「あーあ、ひどい人ねえ。嫉妬で、人の顔叩くとは」
藍子「…自分の、せい、でしょ」
サキ「まあ、そうかもね」
サキ「それはそうと、この事、元也君に言ったら、どう思うかなあ?」
藍子が、ハッと気がつく。

サキ「自分の恋人を、力一杯叩きつける幼馴染。
    さぞ、怒るでしょうねえ。おこって、あなたの事、嫌いになるんじゃないかしら?あーあ。可哀想に。
    …で、どうしてほしい?」

元也から嫌われるかもしれない。その恐怖が、身を貫く。
藍子「い、言わないで。もとくんには、お願い、黙ってて」

サキ「ええ、いいわよ。
    でも、その代わり………分かってるでしょう?」

それだけ言うと、サキはクスクスと笑いながら、屋上を後にした。
屋上には、藍子だけが、残っていた。

To be continued...

 

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