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姉貴と恋人 -裏- 

前編
後編


裏 (後編第3回以降のパラレルワールド的展開とのことです)
1

 しかし、今の姉貴は……。
「タカ。お姉ちゃんの言うことが聞けないの?」
  こんな姉貴、見たくない。
「姉貴、俺姉貴のこと好きだよ」
「なら私の言うとおりに――」
  言わないと。姉貴の為に。
「でも。今の姉貴は嫌いだ」
「タカ……?」
「姉貴は綺麗で優しくて、格好良くて頭が良くて、俺の自慢の姉だよ。でも、今の姉貴は……汚い」
「お姉ちゃんが、汚い?」
  ゴクリ。喉の鳴る音で気付いた。
「あ、姉貴……?」
  唇が震える。冷や汗がどっとでる。
「タカ。タカはあの女に騙されてるからそんなことを言うのよね」
  落ち着け。落ち着け。落ち着け。
  姉貴はただ、ちょっと怒ってるだけだ。
  だからこんなに怖がる必要なんてどこにも――。
「大丈夫。お姉ちゃんが、タカを目覚めさせてみせるから」
「あ、姉貴?」
  ふり向こうとして――
  ガンッ!!
「ぐっ!?」
  あ、ねき――な、んで

「あ、進藤さん」
「ええと、隆史のお姉さんじゃないですか。どうしたんですか」
  お姉さんはうつむいていた。
「今日はちょっと、言わなくてはならないことがあって」
「何ですか。隆史のことですか」
「ええ。その、とても言いにくいのだけれど……」
  視線を彷徨わせ、こちらの様子を伺っている。
「言って下さい。今日は隆史が来ていなくて、気になってた所なんです」
「実は、タカ、もうあなたと一緒にいたくないらしいの」
  なっ!?
「そ、それは一体どういう……」
  隆史、そんな、なぜ、いきなり……。
「本当にごめんなさい。タカは……私とずっと一緒にいたいから、もう進藤さんとはいられないって――」
「そんな……嘘よ……嘘に決まってる……」
「本当なの」
「隆史に直接聞いてみます!」
  お姉さんは止めなかった。
  しかし……
「うそ……うそよ……」
  着信拒否。なぜ。そんなバカな。隆史はそんな……酷いことする人じゃないのに……。
「ごめんなさい」
  彼女はそれだけ言って去っていった。
  私は、その場から一歩も動けなかった。

「なんてことするんだ!!」
  家に帰ってみると、縛り上げられたタカが目を剥いて怒っていた。床を這ったのか、ところどころ汚れていた。
「なんてことって、なんのこと?」
「この……!!」
  タカはきちんと聞いていたようだ。
「分かったでしょう? あの子は、私の言ったことを信じたわ」
  ツーツーと大きな音を出している電話機に近づき、オンフックの設定を切る。
  すぐに帰ってきたけれど、五時間近く繋ぎっぱなしだったから電話代が気になる。
  まあ、これでタカが目を覚ましてくれるのなら安いものだ。
「麻妃は絶対に俺を信じてる! すぐに気付くはずだ!!」
「タカ、まだそんなこと言ってるの? あの子が信じようと信じまいと、タカは私のものなんだから関係ないでしょ」
  まだ分かってくれていない。
  でも大丈夫。私はタカのこと大好きだから、何でもしてあげられる。タカが分かるまで何度でも。
「俺は俺のものだ! 姉貴のものじゃない!!」
「ふふ、必死なのね。あの子とおんなじ」
  気にくわないわ、あの子。こんな所まで入り込んでいるなんて。
  タカは私の色だけでいい。私だけを見て、私だけと話して、私だけに微笑んで、私だけとセックスして、
私だけのタカになっていればいい。
  だから、タカを汚すような真似は許さない。
  あの子の影を、タカから追い払わなければ。
「タカ……好きよ」
  寄り添うように横になり、そのまま口づけする。
「あ、姉貴やめろ……んむっ!?」
  タカの唇。タカの舌。タカの頬。タカの耳。タカのうなじ。
タカの首筋。タカの、タカの、タカのタカのタカのタカの――!!!
  ――ぜんぶ、わたしのものだ――

 お客様の電話番号は現在着信拒否に設定されています――
  無機質な応答メッセージが再び耳に届いた。もう何度目だろうか。
「隆史……嘘だよね」
  だが隆史は答えてくれない。
「こんな終わり方嫌だよ……」
  唯一の望みは、まだ直接聞いた訳ではないということ。
  あの人経由で伝わった情報でしかないということ。
  しかし着信拒否になっているということは、つまりはそういうことじゃないのか。
  いや、でも、まだ。
「返事してよぉ……たかし……」
  あの日から大学へ行っていない。
  私が行かなければ隆史が行けるかも知れない。そういう考えがあるにはあった。
  しかし一番の理由は、行くだけの気力がないことだった。
  視界が歪む。
  さっき一気に飲んだウイスキー……グラスで三杯?四杯?覚えていないけど――が効いてきたんだろう。
  やけで一杯まで注いでしまって、こぼしてしまったのが無性に悲しくて悔しくて嫌だった。
  なんでそんなことで高ぶるのか分からなくて、またそれが堪らなく苛立たしくて……
  ヒュッ――ガシャンっ!!!
  いつの間にか投げ捨てていたウイスキーグラスがクローゼットに当たって砕け……
その音が、破片が耳の奥まで突き刺さった。
「いたい……いたいよたかし……」
  本当にガラスが刺さったわけでないことくらい分かってる。でもいたい。さみしい。
くるしい。いたい。いたい。いたい。いたい。
  なにがなんだかわからない。
  ぐるんとせかいがまわった。
  ひょうしにすがったボトルがあまりに頼りなく落ちてきて、めのまえにおちてはねた。
  あ、まずい、のみすぎ――たかし、たすけて。
  たかし、たすけ――

「ああ、岸本君。弟さんの具合はどうかね」
  教授が手招きしていた。
「まだ良くならないみたいです。本人は大丈夫だって言ってるんですけど、危なっかしくて」
「岸本君みたいなしっかりした人が見てくれているなら、安心だよ。弟さんに言っといてくれ、
お姉さんの言うとおりにしてれば間違いないって」
  本当、その通りなのに。
「言いすぎですよ、先生」
  ハハハと笑って退室していく。
  まったく、隆史ったら先生にまで心配かけて。
  いつになったら分かってくれるのだろう。

「うえぇ……」
  洗面所は酷いことになっていた。これ全部、私の中から出てきたのかと思うと自分のことながら信じられない。
「はぁ、はぁ……うっ」
  出てくる出てくる、朱色に染まったウイスキー。もとは綺麗な琥珀色なのに、汚い色だ。
  昨日からキリキリと胃が痛んだけど、やっぱり出血してたんだ。
  よく考えれば、ここ数日まともな食事をしていない。いや、何も食べていなかった。
  酔っては寝て、酔っては寝て。
「まるで、あの時みたい――っ」
  あの光景がフラッシュバックする。アルコールが入ると、こういうことが多い気がする。
「キツイの思い出しちゃった……ひっ」
  肺がヒクンヒクンと震える。しゃっくりの酷くなったようなものだ。
「っく……っあ……っう……」
  ひどい――こんな飲んでたのか。
  これが出たのは生まれて二回目だ。
  一回目は、二十歳になったときに好きなだけ酒が飲めると喜んで、羽目を外しすぎたとき。
あれは失敗だった。アルコールに慣れてなくて、ペースを知らないないこともあって、その上、
ボトル一本開けてやると無駄に意地を張ったのも悪く作用して……朦朧としながらも救急車を
呼べたから良かったものの、医者の話では、下手をしたら死んでいたという。
  今は……まあ、いいか。死んでも。誰も悲しまない。親は私に興味がないし、大学での友人も
広く浅く作っているから、きっと一日で忘れ去られる。隆史は――
「ひっく……っく……あれ?」
  ぴちょん、ぴちょん。シンクにアルコール以外の液体が落ちていく。
  何だろう。
  どうでもいいや……たかしだって、きっとあの人の方がよかったんだから。
  グッと胸の奥が締まり、むかつきが酷くなった。
「なんで、たかしのこと考えると気分悪くなるのよ……もうやだぁ……」
  たかし。どこにいるの。やめて。私はこんなに辛い思いをしてるのに。もう隆史なんか考えなくていい。
助けに来てよ。はやく。ねえ。たかし。やめて、やめてやめて。私はここにいるよ。ほら、こんなに苦しんでるよ。
隆史なんか忘れて! だから助けに来てよ。はやく。いますぐ。
嫌っ!! おねがいだからたすけにきてよたかしっっ!!!

2

「ターカっ。ご飯よ」
  姉貴はソファに並んで座って、あーんをしようとしていた。おかずはコロッケ。
買ってきたものではなく、姉貴自ら揚げたものだ。
さすがは姉貴だ。いい匂いがして、食欲をそそる。
  両手両足をきつく縛られてさえいなければ。
「この縄をほどいてくれ」
「だめ。タカはまだ調子が悪いんだから、ちゃんと治るまで私が面倒見るの。ほら、あーん」
  にこやかに微笑む姉貴はしかし、どこか薄ら寒い。
「……食べられないの? 仕方ないなぁ」
  姉貴は、箸に挟んだコロッケを自ら口にした。もぐもぐと噛んでから、呑み込まず――
「ほふぁ、くふぃあけふぇ」
  まさか――。
「んんんっ!? んむう……!!」
  どろっと、姉貴の咀嚼したコロッケが流れ込んで……。
「んんっ、んん……」
  ごくり。喉を通りすぎていく。
「どう、お姉ちゃんの口移し。美味しい?」
「あ……はぁ」
  身体が、熱くなっていく。
「ほら……美味しかった?」
  艶やかな唇。さっき口移しした唇。その上を、ちろりと舌が這った。
「あ、姉貴……もう、やめてくれ」
  さっと姉貴の瞳が潤む。
「どうして? お姉ちゃんはこんなにタカのこと好きなのに」
「姉貴だって分かってるんだろ、これじゃ駄目なこと」
「駄目? どこが? どうして? タカは私と一緒にいるもの、なんの問題もないじゃない」
  姉貴が迫ってくるが、拘束されている以上、身体を揺らすくらいしかできない。
  それでもやらないのは麻妃への裏切りのような気がした。
「タカ……んっ」
  そして、口づけてしまう。
  麻妃、すまない……。
  せめて心の中でだけでも。
  麻妃へ届いて欲しいと願った。

 

 もうかれこれ二週間、学校へ行っていない。出席に厳しい科目はそろそろ単位を落とすだろう。
  だが、関係なかった。
「……っく……うう」
  涙は枯れない。
  目の奥が痛んでも、ハンカチから涙が滴っても、アルコールで無理矢理眠っても。
  起きるたびにぐしょぐしょになるから、今では枕を使っていない。その代わりに、
寝間着代わりのトレーナーの袖が冷たくなるけれど。
「ひっく……ぐす……」
  泣いたってしょうがない。でも泣くしかない。
  隆史からの連絡はない。着信拒否も解除されない。大学へは行けない。
  恐い。ただ恐い。隆史に会うのが恐い。会って、本当に捨てられるのが恐い。
そして捨てられた私が何をするのかが恐い。
  動けなかった。
  動いたらそこには恐怖がある。
  動かなければ、少なくとも恐怖を味わうことはない。
  だから私はここにいる。
  そうすれば――もしかしたら。
  あの日みたいに隆史が――
「うああぁっ!!」
  来ないよっ!! 来てくれないのっ!!! 来てくれないよぉっ!!!!
「なんでなんでなんで!!!! あああああっ!!!!!」
  来ない、来ない来ない、隆史が来ないっ!!!!
「たかしぃっ!!! 来てよぉっ!!!!!」
  叫び声の余韻が消え、部屋がシンと静まりかえる。
  こんなことの繰り返し。
「たかし……さみしい、やだよ、くるしいよ、いたいよ、たすけてよぉ……」
  隆史しかいないのに。私のこと本当に見てくれて、助けてくれたのは隆史しかいなかったのに。
  どうして。
「たかしぃ……」
  もう私の元から去ってしまったのなら。
  一言そう言って。
  そうすれば、私は――ラクニナレル。

「タカ、たっだいま!」
  にこやかに微笑む姉貴。
「今日はねー、ハンバーグを作ってあげるからね」
  姉貴は鼻歌交じりにキッチンへ向かった。
「あ、姉貴?」
  やけに機嫌がいい。
「何かあったのか?」
  ふり向いた拍子にエプロンがふわっと舞った。
「えっ? んふふ〜、後でね」

「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」
  姉貴は終始ニコニコしていた。いつもよりよく喋ったし、ときおり思い出し笑いをすることもあった。
  こんなに機嫌のいい姉貴は初めて見るかも知れない。
「さてと、片づけちゃうから待っててね」
  話はその後でということだろう。
  ジャーと水の流れる音がする。
  ガチャガチャと食器が鳴っている。
  そういえば、こんなこと、前にもあったな。
  三ヶ月くらい前、麻妃が唐突に現れて料理をしたときだった。
  挑戦だから、なんて言って急に煮物をやりやがったんだ。
  そしたら案の定、鍋の底焦がしちゃって。
  水をジャージャー流しながら、焦げをガリガリ削ってた。
  あの時の鍋はまだ残ってるはずだ。
  結局底に染みみたいな跡が残ってしまって、麻妃はひたすら謝ってたな。
「タカー、この鍋焦がしちゃったの?」
「ああ、麻妃がな――」
  ガゴッ!、と鈍い音がした。
「あ、姉貴!?」
「どうかした?」
「どうかしたって……姉貴の方こそ」
「私? 私は別に、鍋を捨てただけだけど」
「捨てたって……どうして!」
「あの子の痕跡は必要ないのよ」
「姉貴にとって必要なくても、俺にとっては大切なんだよ!」
「ふふ、大丈夫。お姉ちゃんと一緒にいればそんなの気にならなくなるから」
  あまりに自然に微笑む姉貴。
  知らず、ゴクリと喉が鳴った。
「それにね――あの子、もういないもの」
  …………は?
「信じられないかも知れないけれど、あの子、もう一ヶ月近く学校に来てないの。
それで天川教授に聞いてみたら」
  にやり、と姉貴が笑った。
「一昨日電話があって、退学したいと申し出があったそうよ」
「嘘だ」
「本当。もちろん退学届けが必要なんだけど、彼女、それきり連絡つかないらしいの。
だから、期限が来たら退学の意志を認めて、除籍するって言ってたわ」
  麻妃が、退学?
「そんなバカな!」
「私に言っても仕方ないじゃない。それより、ほら。あの子がいなくなったんだから、
タカはもう私のもの! ねー?」
  あまりに脳天気な口調。
  もう我慢ならない!
「姉貴ッ! 姉貴は、麻妃の人生を壊して楽しいのか!!」
  きょとん、とする姉貴。
「楽しいとか楽しくないとかじゃなくて、そうするべきだったからそうしただけよ?」
「何で、どうしてそんなことをしなきゃならなかったんだ!!」
「はぁ……前にも言ったでしょ。タカの目を覚ますため、タカと私がずっと一緒に生きていくため、よ」
  頬に手を添え、唇を寄せ――
「ん……ね? お姉ちゃんとずっと一緒だよ」

「……はぁ」
  疲れた。何もかも疲れた。
  学校も、隆史も。
  なんでこんなことになったのか。
  原因を求めればきりがない。
  隆史と遊んでいた日々が懐かしく、もう手に入らないものだという実感がない。
  隆史がお姉さんを選んだという実感がない。
  そして、私が退学するという事実もまた、実感がなかった。
「……はぁ」
  これからどうしよう。
  実家に戻れば、勘当される。
  いや、戻らなくても、いずれバレるから同じか。
  このアパートの家賃も払えなくなる。
  学費が要らなくなれば、バイトで生活を立てられるかな。
  いや……でも、隆史がいる近くでバイトはしたくない。会いたくない。
「……はぁ」
  ここを出よう。
  どこへ行くにしても、今はもう柵はない。
  大学中退でも、職を選ばなければ就職口はあるだろう。
  その日暮らしになってしまうかも知れない。
  でも、まあ、いいや。生きていくしかないんだから。
「……はぁ」
  いま、すべきことは、ここでないどこか遠くで就職して、住処を得ること。
「……はぁ」
  でも、なんでそんなこと。
  よく考えれば、もう、私には何もない。
  家族もなく、隆史もなく、身よりも、技術も学歴もない。
  だったら、この世から去る方がどれだけマシか。どれだけ楽か。
「それだけは、だめ」
  だめだ。
  自ら戒めないと、流れてしまいそうになる。
  生きていればいいことがある。
  そんな言葉を信じている訳ではない。でも、死んだら全て終わりだ。
  でも……全て終わりで何が悪い?
  社会への責任? 親不孝?
  知ったことではない。
  色々な人に迷惑が掛かる?
  どこか見つからないところで死んでしまえばいい。日本全国、行方不明者は五万といる。
「……はぁ」
  だめだ、こんな後ろ向きでは。
  隆史は、私の前向きなところが好きだと前に――
「……なんで」
  忘れたい。忘れるために遠くへ行くのだ。
  早くここを去らないと、もう耐えられない。
  だが、離れたところで耐えられるのか。忘れられるのか。
  その問いに対する答えは、私の中には用意されていなかった。

3

「ありがとう。ようやく分かってくれたのね」
  満面の笑みを浮かべ、縄を解いていく姉貴。
  さっき俺が言った言葉は、『姉貴のことが好きだ。姉貴とずっと一緒にいる』だった。
  身体の中ではまだ、ぐるぐると罪悪感が渦巻いている。
  胸が破れそうなくらいに、自己嫌悪が広がっている。
  さっきからドクンドクンと心拍が落ち着かない。
  こうするしかなかったんだ。
  こうしなければ、ずっとこのままで、麻妃に会える可能性はゼロのままだった。
  戒めが解かれれば、会えるかも知れない。
  もし退学したのだとしても、まだアパートにいるかも知れない。
  退学していないのだとすれば、学校で会えるはずだ。
  会いたい。その為に、姉貴に嘘を吐いて、麻妃を裏切ったんだ。
「タカ、さっそく明日買い出しに行きましょう? お祝いしなきゃ」
  これ以上ないほど明るく、姉貴は笑う。
  その姿は昔を彷彿とさせる爽やかさで、格好良さで、美しさで。
  さっきまで俺を監禁し、麻妃の不幸を喜んでいた人には見えなかった。
  どうしてこうなってしまったのか。
  どうして、俺も麻妃も苦しまなければならなかったのか。
  どうして、どうして……。
「タカ、泣いてるの……?」
  姉貴は……優しく俺を抱き締めて、背中をさすった。
「悲しいんだね……。ごめんね……。お姉ちゃんのせいなんだね……」
  見れば、姉貴も涙を流していた。
  なぜ……?
「お姉ちゃんはね、ずっとタカといたかっただけ。そのせいでタカを傷つけたのは分かってる。
そして、進藤さんにとても酷いことをしたのも分かってる。でも、それでも、タカを泣かせても、
進藤さんを苦しめても……私はタカと一緒にいたい。そのためって考えれば、どんなに酷い
ことだって当然に思えた。そして、そうしたことに後悔もしていないわ」
  姉貴は、きゅっと腕に力を込めた。
「だって、こうして……タカは私の所へ戻って来てくれたんだから」
  ポタポタと肩に落ちる感触。じんわりと冷たさが広がっていく。
「ほら……タカはここにいる。私の腕の中に……いるんだから……タカの意志で、ここにいるんだから……」
  ギュッと、心を鷲掴みにされた気がした。
  肩に落ちた涙が重かった。

 携帯が鳴った。
  発信先は分からない。公衆電話か何かか。まあ、誰でもいい。
「はい」
「もしもし……麻妃か?」
  麻妃……って、私は麻妃だけど……そうじゃなくてこの声はまさか――!!
  たか、し……?
「麻妃? 麻妃だろ? おい麻妃っ」
  隆史がどうして、なんで、もう私のこといらなくなったんじゃ、いなくなったんじゃないの――?
「あ……う……」
「どうしたんだ麻妃? 返事してくれ、早くしないと姉貴が――!」
  たかしはもういない。たかしはもういない。たかしはもういない。そうやって言いきかせて、ようやく
落ち着いてきたところだったのに。やっぱり私は、こうして隆史の声を聞くだけで――!!
「たかしぃっ!!!!!!!!! さみしかったよぉっ!!!!!!」
  声が、隆史の声が、いなくなった隆史の声が、その息づかいまで、全部、全部、愛しい――!
「たかしっ!! どうして今まで!! 早く来て!! 淋しいの!! もう隆史がいなくちゃ駄目なのっ!!」
「麻妃、落ち着けって! 姉貴がすぐに来るから!」
  そんなこと言うんなら、隆史がすぐに来てくれればいいのよ――!!!
  そう言いたかった。だが、しかし、隆史の必死な声が……なんとか、私を止めてくれた。
「っ……ごめん、取り乱して。でも、隆史が悪い――」
「ああ、そのことは後でしっかり謝るから、すまないが、俺の話を聞いてくれ」
「……うん」
「まず、今までずっと会いに行けなかったことは謝る。そして、俺は今でも……」
  一瞬の間。
「麻妃が、好きだ」
  ああ――!!
「隆史っ!!」
「麻妃……」
  互いの名前を呼ぶだけで良かった。それだけで繋がれた。それだけですべてが満たされた。
「隆史……好きよ」
「ありがとう、麻妃。……その、すまない、話をさせてくれ」
「えっ、う、うん……ごめん」
「いや……。それで、今まで会いに行けなかった理由なんだが……」
  隆史は言葉を切った。言いにくいことなのだろうか。
「姉貴に、監禁されてた」
「……え?」
  監禁。ドラマか何かの話に思えた。
「電話すらできなかった。すまなかった」
「そんな、いいけど……監禁なんて」
「姉貴は、今、普通じゃない」
  普通じゃない……。
「だから、暫くはまだ会えないけど……麻妃のこと好きだから」
「うん……私も好きよ。隆史を信じてる」
「あ――すまない、また後で」
  ガシャン、ツーツーツー……
  切れてしまった。きっと、お姉さんが来たのだろう。
  それにしても、監禁なんて。こんな形容をしたら失礼だと思うけれど、隆史の言うとおり異常だ。
  愛情というにしては度が過ぎている。
  隆史はまだ、その檻から抜け出せていない。
  なら、私のすることは。
「隆史を、助けなくちゃ」
  恋人として。
  あの人の、ライバルとして。

「タカ、誰に電話してたの」
  電話ボックスから出たところで、姉貴に訊ねられた。
「友達。明日の講義の代返頼んだんだ」
  これは、予め頼んでおいたから裏を取られても問題ない。時間まで問われるとボロが出るかも知れないが……。
「そう。でも、どうして明日?」
「明日、姉貴は午前で終わりだろ。だから午後どこかに遊びにでも行こうかと思って」
  不自然にならないよう、姉貴が不審に思わないよう、電話をかける日時を調整した。
  もし、姉貴に麻妃と連絡しあっていることがバレたら、今度こそ終わりだ。
「ホント!? ありがとう、タカ……お姉ちゃん本当に嬉しい――!!」
「うわっ、姉貴、ここ往来だって……」
  ぎゅうっと抱き締められて、心が苦しくなる。
「そんなの知らないっ! だって嬉しいんだもの!」
  端から見ればカップルだろう。
  いや、カップルじゃなきゃいけない。
  いい年した姉弟が、熱い抱擁を交わしていいものじゃない。
  以前なら身体が熱くなるその抱擁は、今は脳の奥を急速に冷やしていくものになっていた。

 不思議なものだ。
  あれだけ絶望したというのに、隆史のためとなれば、隆史がいてくれるとなれば、こんなに元気になれる。
  退学は撤回した。今学期の単位は、いくつか落としてしまったけれど、
  多めのレポートと追試で何とか進学に影響は無い程度だった。
  そして、隆史とあの人との問題――。
  正面からぶつかっていくのでは駄目だ。あの人は……その、頑固だから。
  説得しなければ。そうでなくては、きっとまた、隆史が苦しむ。
  そしてそれは、私と隆史の関係を壊すに充分なものになるだろう。
  もういやだ。
  もう隆史を失いたくないし、あんな辛い思いはしたくない。
  ……こうして外から見てみれば、私は良く死ななかったなと思う。
  いつ自殺してもおかしくない、というより自殺しなかったのが不思議なくらいだ。
  なんで、生きようと思ったのだろうか。
  ……今からでは思い出せない。
  アルコール漬けの頭では、記憶ができなくても仕方ない。まして、とりとめのない思考など残っている訳がない。
  なんにせよ、私は今、隆史と共にいるために生きている。生きていられる。
  それに素直に感謝しようと思った。

4

「さっ、行こ!」
  快晴。雲一つ無い青空。手を伸ばし誘う姉貴。その笑顔。
  全てが最高、のはずだ。
「ああ、ちょっと待ってくれよ……」
  久々のデートだと姉貴は張りきっているようで、しっかり化粧までしている。
  どうやっているのか、ほんの少しのはずなのに見違えるほど華やかというか、
  その美しい顔立ちが強調されるというか。とにかく、姉貴が美しいことに対して疑念の余地はない。
  対して、俺はと言うと……。
「姉貴、俺地味だったかな」
  GパンにYシャツ。組み合わせには一応気を遣ったが、別に大学生の普段着と変わりない。
  だが、姉貴はまったく気にしていないらしい。
「ん? いいんじゃないかしら。タカはそんな感じで似合ってるから」
  なんて言って微笑んでいるのだから。
  悪い気はしない。だが、申し訳ない気持ちのせいでどうしても素直には喜べないし、楽しめなかった。
「どうしたの、タカ。こういうの嫌い?」
  顔をのぞき込んでくる姉貴。ドキリとした。
「い、いや全然嫌いなんかじゃないよ、ただ……」
  今この瞬間にも、俺は姉貴を騙している。
「ただ?」
「その、姉貴が、綺麗でさ。戸惑ってる」
  嘘を吐くのはまだ慣れない。それ以前に吐きたくもない。
「あ……タカったら、可愛いんだからもうっ!」
  でも今はそうしないと。
  まだ、姉貴に知られる訳にはいかない。
「うわ、ちょっと姉貴……」
  しかし、いつになったら言えるのだろう。
  姉貴が話を聞いてくれるようになったら、だろうか。
  そんな判断、できるものではないし、第一そんな日が来るのだろうか。
「行きましょ、早く早く!」
  ぐいぐいと引っ張っていく姉貴。
  その曇り無い笑顔は、幸せに満ちていた。

 見たくもない光景。
  隆史と、あの人が。
  だが、私は動けなかった。
  分かっている。今、隆史に最も近しい女性はあの人なのだと。
  分かっている。今、二人が愛を囁くのを遮ることはできないと。
  分かっている。今、私が出て行っても意味がないと。
  分かっている。
  分かっている。
  分かっているのに。
  この慟哭。
  この憤怒。
  この憎悪。
  不思議と冷静だった。冷静で、そしてはち切れんばかりの感情が渦巻いている。
  こんなことは初めてだ。
  前、本当に昔に感じるけれど、隆史とあの人の交いに遭遇したときとは全く違う。
  静かに燃える青い炎が、心の内に灯るのを、私は感じていた。

 麻妃と連絡が取れるようになってから一ヶ月あまり。
  始めの頃に比べて姉貴の監視も弱まり、僅かながら麻妃と直接会うこともできるようになった。
「おす」
「あ、隆史」
  いつもの喫茶店、いつもの席に麻妃はいた。
「今日はゆっくりできるよ。姉貴、丸一日校外実習だっていうから」
「本当? よかった」
  コーヒーとサンドイッチを注文し、一息吐く。
「最近会えなかったからな。久しぶりじゃないか」
「二週間と3日ぶりね」
「そんなになるか」
「ええ……淋しかった」
  ドキリとした。
「何びっくりしてるのよ。私が淋しいって言うのそんなに変?」
「え、いや、だって」
「はっきり言わないと隆史は分からないって、分かったから」
  麻妃は微笑んだ。
「そ、そっか」
「そうよ」
  ……麻妃はさらっと言ったが、よく考えれば、そのせいでこうなってしまったんだ。
  麻妃の気持ちに気付かないふりして姉貴を求めてしまったから、こんなことになったんだ。
「……すまない、色々」
「いい」
  短い言葉だった。
  しばしの沈黙の後、再び麻妃は口を開いた。
「私、直接話してみるわ」
「話す? 誰に何を」
「隆史のお姉さんに、私と隆史のことについて」
  一瞬、何のことだか理解できなかった。
「なっ!? ちょっと待て、そういうのは慎重にやらないと……」
「そんなこと言っても、このままじゃ埒が明かない。
  様子を見るって言ったって、いつになれば大丈夫かなんて隆史にだって分からないんでしょう?」
  麻妃は毅然としていた。
「そりゃ、そうだけど」
「ならもう、これ以上待っても仕方ない」
「待てって、まだ早い」
  脳裏に浮かぶのは幸せそうな姉貴の顔。麻妃の提案はつまり、それを壊すと言うことだ。
  そうすべきだとは思う。でも、嫌だった。
「どうして? お姉さんの方が、あの人の方がいいの?」
「そういうことじゃない」
  じゃあどういうこと――。
  そう言いたげに、麻妃はじっと見つめている。
  深い鳶色の瞳は、僅かに震えていた。

 帰り支度を終え、人気のない廊下を歩いていると意外な人物に出会った。
「こんにちは」
「あら、進藤さん……だったわね。聞いた話によると退学したとか」
「してません。……ところで、隆史は」
  視線を巡らし、進藤は質問した。
「講師に質問してるわ。変なところで熱心だから」
「付いてなくていいんですか?」
「大丈夫。もうあなたみたいな子はいないから」
  彼女の身体がこわばった。
「いえ、私は諦めてません」
「何言ってるの。もうタカは私のことを選んだんだから、あなたの出る幕はない」
「本当にそう思ってるんですか」
「私はタカを信じてるから」
  進藤は何も言わなかった。しかし、どこか余裕がある。
  不可解だ。
「隆史は私がもらいます。タカもそれを望んでいるから」
  この子、動じない。
  どうして?
  私の方が絶対に上にいるのに。タカの愛情は全部私のものなのに。
「まだ言うの、負け犬」
  不安が広がっていく。
「私が負け犬かどうかは、隆史に聞いてみれば分かります」
  自分の頬がヒクンと引きつるのが分かった。
「聞くまでもない。タカは私のものよ」
「いいえ、違います」
「だってタカは、私が一番好きだって言ったんだから」
「監禁して、無理矢理言わせた言葉に縋るんですか」
  この――!!
「私のものだって言ってるでしょ!」
「それは違い――」
  まだ言うの――!!
  パァン!
「……っく」
  右手がジンジンする。平手なんて生まれてこの方使ったことはなかった。
「……とにかく、タカは私のものよ。あなたになんか、絶対に渡さない」
「隆史が好きなのは私なのに、ですか?」
  彼女は頬を押さえたまま、強い視線で私を射た。
「っ……そんなはずない! タカは私のことを好きだっていったのよ!
監禁して言わせたなんて――」
  待て。何で知ってる。
「進藤さん、なぜ、あなたが、私がタカを拘束してたなんて知ってるの」
  彼女は僅かに眉を動かした。
  答えはない。
「……まさか」
  タカが。それしかない。でも、そんな、タカは――
「答えなさい。いったい誰が、そんなことをあなたに教えたの!」
  タカじゃない。タカじゃない。タカは私を裏切ったりしない。だから、
別の誰かが、勝手にこの女に――!!
「隆史です」
「嘘」
「本当です」
「違う!! タカは私のこと好きなんだから、そんなこと言うはずがないの!!」
  彼女の両肩を掴み、その瞳を覗き込む。
「本当、なんです」
  パァンッ!!
「……痛い」
「この嘘つきめ。嘘つきめ。嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき!!!!! タカじゃない!!
タカなわけない!! タカがそんなこと、あなたに言うわけがないのよ!!!」
  ガクガクと揺さぶっても、本当のことを言おうとはしない。
  この女――!!

「そうやって、私とタカの仲をひっかきまわそうっていうのね! なんて姑息な女。
そんなの、タカに聞けばすぐに分かるのに」
「隆史は優しいから、本当のことは言わないんです」
「っ!! そうやって、私を不安がらせようとしても無駄。だって、タカと私は姉弟なんだから。
  タカが嘘をついているかいないかくらい、すぐに分かるもの」
  そうだ、不安になることなんてない。
「だって私はタカのお姉ちゃんなんだから。タカのことは何でも分かるのよ。何でも知ってるのよ。
  それに比べてあなたなんて、ちょっとタカと一緒にいただけで何でも分かってるつもりになって。
  何でも知ってるつもりになって」
  そうだ、不安になることはない。
  タカの言葉に嘘はない。タカは私のことが大好きだ。だからこの女に告げ口する
なんてありえないし、この女のことを好きだというのもやはりありえない。
「私は、あなたより隆史のことを分かってます」
「そう。せいぜい虚勢を張るがいいわ」
  なぜか、声が震えそうになった。
  でも、まあ、問題はない。いざとなれば、またタカを私の側に繋ぎ止めておけばいい。
  自分でも危険な考えだと分かっている。でも、何の問題があろう? タカが私の側にいる。
それ以上に優先すべきものはない。それだけが全て。それだけが私の全て。
「失礼します」
  進藤はそれ以上何も言わず、ぺこりと頭をさげると、私の隣を抜けて歩いていった。
  タカは私のものだ。
  もう一度、噛みしめるように呟く。
  あの女には負けない。いや、負けるはずがない。
  だというのに私は。
「姉貴、遅れてごめん――わっ!?」
  タカがこうして私の腕の中に帰ってきたことに、心から安堵してしまっていた。

5

「久しぶりね」
  いつもの喫茶店。一ヶ月ぶりの再会に思わず頬が緩む。
「ああ、最近姉貴が厳しくってさ」
  麻妃は黙った。
「ん? どうしたんだ、麻妃」
  沈黙が続く。
  なんだ?
「なあ、麻妃。なにか――」
「その、何か言われた? お姉さんから」
「……どういう意味だ?」
  麻妃はじっと見つめてきて、それから目を逸らした。
「……あの、実は言わないといけないことがあって」
  彼女はうつむいた。
「あなたがされてたことを私が知ってるって、お姉さんに言ってしまったの」
「……なんでだ」
「ごめんなさい。迂闊だった」
  続く言葉はない。
「そっか……だけど、今のところ姉貴からそういう話は聞いていない。でも、
どうして何も言ってこないんだろうな」
  その問いに、麻妃はためらいがちに答えた。
「きっと、隆史のことを信じているんだと思う……」
「え?」
「言ってたの。『タカがそんなこと言うはずない』って」
  姉貴が、そう言ってたのか。
  戸惑いが顔に出たのか、麻妃は眉を寄せた。
「その、隆史がお姉さんのことを嫌いになれないのは分かる。だけど、」
「分かってる」
  麻妃はじっと見つめてきた。
「……言うの?」
「ああ。俺から言わないと、終わらない」
「本当に、それで終わるの?」
「終わらせないと」
  その言葉に対して、何か言いたげに麻妃の唇が開いたり閉じたりし、最後に
ぴったりと閉じてしまった。
  昼下がりの喫茶店は空気が重かった。

「あ、ねき……くっ」
「はぁっ、はぁっ、……なに、タカ……っ」
  ギシギシと鳴るベッド。
  俺の上で跳ねる姉貴。
「どうしっ、たんだよ……急、に……」
  喫茶店から帰り玄関を開けると、そのままベッドまで連行されて押し倒され
た。今までにない性急さだった。
  姉貴は答えず、逆に問いかけてくる。
「……私、はっ、タカの、ものよ……っだから、タカ、だって……わたし、の
ものっ……そう、よねっ?」
  快感が背筋を貫き、怖気を誘うほど気持ちいい。
「ああ、そう、だね……」
  熱くきつく締められ、言葉すら自由にならない。
  麻妃の顔が浮かび、消える。
「あぁ……あは……うん、そうよ……タカはっ……わたし、のものよっ」
  キュウ、と締め付けられる。
「うぁ……」
  陶然と微笑む姉貴。
  自然と両手をのばし、がっちりと組んだ。
  しっとりと柔らかい姉貴の手の平。それだけで、体中が震え立つ。
  ああ、まずいな……。
  分かっていても、止められなかった。

「私、あなたを信じていいのよね」
  唐突に、麻妃は言った。
  図書館の書架の間で、抱き合いながら。
「えっ? あ、ああ、信じてくれ。俺はもう、麻妃だけだから」
  きっと不安になったのだろう。喫茶店で「言う」と言ってから二週間も経っ
てしまったから。
「でも、抱いてるんでしょ」
「……それは、」
「いいの。分かってるから。今の状況であなたが拒んだら、ややこしくなるっ
てことくらい。……ただ」
「ただ?」
「このまま時間が経って、本気にならないか心配なのよ……あっ」
  美しい腰のラインに手を滑らせる。彼女の弱いところは分かっていた。
「……ん、ふ……あ……怒ったの?」
  上気していく顔。そのまま背中も脇腹も撫でさすり、首筋にも悪戯する。
「あ……ん、別に、隆史を信用してないっ……訳じゃ、ないの……ぁ……」
  無言で弄り続ける。
  乱暴にならないように……いや、滅茶苦茶にしてしまおうか。
「でも……あっ、う……ずっと離れていると、ぁ……やっ……心配に、なるの、分かるでしょ?」
  彼女の腰が揺れ動く。ごくりと喉が鳴った。
「こうされるの、好きだよな」
  背筋をすっとなぞり、同時にギュッと強く抱き締めつつ、うなじにキスする。
「はぁっ……あ、あ、やっ! ちょっ、それ以上は、だめ、いや、待ってっ…
…ひっ」
  荒い息を押さえず、そのまま首筋に当てる。ガクガクと足を振るわせ、麻妃
はしがみついてくる。

「やぁ、こんな、もう止めてよ……いや、あぅ……ひゃうっ……」
  そんな彼女が愛しくて、ギュッと、更に強く抱き締める。
「うぁっ……あ、そんな、強く抱かれると……ひゃんっ!」
  秘部をジーンズ越しに撫でる。その刺激だけでも今の麻妃には充分だったよ
うだ。
「あ、やだ、もう、だめ、っ……あ……――!」
  やがて極まったのか、麻妃は俺のシャツを噛み、僅かな声と共に身体を何度
も震わせた。
「っはぁ……はぁ、はぁ、はぁっ……」
  ピンク色に染まった頬、とろんとした瞳、温かくなった身体。
  全てが愛しい。
「相変わらずだな」
  ジロッと恨みがましく睨まれる。
「はぁ、はぁ……酷い」
  ズキン、と痛みが走る。やってしまった。
「あ、その……悪かった。でも、ずっとしてなかったから、つい」
「つい、で私の身体を?」
「……悪かった、本当に」
  頭をさげる。
  沈黙。
  後悔が押し寄せる。いくらなんでも、やりすぎた――。
「……くっ、くすくす、あは、あははははっ……」
「え?」
  頭上から聞こえてくる面白そうな笑い声。顔をあげて見れば、口を手で押さ
えていた。
「ごめんごめん、ちょっと強引だったから、文句を言ってみただけ」
「……怒ってない?」
「怒ってる。でも、嫌じゃなかったから」
  どこか気だるげな口調だった。
「あ、その、ごめん」
「うん、許してあげる。その代わり……」
「その代わり?」
  麻妃は一瞬ためらい、続けた。
「私と隆史のことを、お姉さんにちゃんと言ってね」
「あ……」
「ごめんなさい、ずるいタイミングで。でも、もう私……つらくて」
  よく見れば瞳は潤み、今にも涙がこぼれそうだった。
「分かってる。ただ……」
「お姉さんを傷つけたくない?」
  頷きたかった。でも、できなかった。
「……ごめんなさい、さっきからずるいことばっかり言ってる」
「いや、俺の方こそ」
  きゅっとしがみついてくる麻妃。
  不安そうな姿に、胸が痛んだ。
「……言うよ」
  麻妃は何も言わない。
「今度こそ言う。だから、麻妃も一緒に来てくれないか」
「……一緒に?」
「ああ……。情けない話だけど、俺一人じゃまた先延ばししそうだから」
「……分かった。いつ?」
「そうだな……明日にしよう」
「早いね」
  俺の胸に直接囁くように、麻妃は言った。
「今まで待たせてきたから……それに、俺と姉貴と麻妃、三人揃って時間が取
れるのは明日が一番近いんだ」
「うん、分かった」
  麻妃の声は静かだった。

 全ての話を終え、俺と麻妃はもう一度頭をさげた。
  これで認めてもらえなければ、二人でどこか遠くへ。
  様々な確執の残るこの地ではもう暮らせない。姉貴も心穏やかではいられな
いだろう。
  今のところ、そうなる公算が高そうだが――
  そこまで思ったところで、姉貴の声がした。
「分かった、そこまで言うなら……もう、私にはどうすることもできない」
  ――えっ?
「姉貴、それって」
「分からなかったの? 私が身を引くって言ったの」
「ほ、本当か?」
  信じられない。いや、ありがたいんだが、それでも信じられなかった。あの
姉貴が?
「そうよ。何度も言わせないで」
「あ……うん。ありがとう。本当にありがとう」
「本当に、ありがとうございます――」
  横目で見た麻妃は、涙を流していた。

 その夜。姉貴の提案によって麻妃は俺の家に泊まることになった。
  一度認めてからの姉貴はまるで別人のように手厚く持てなし、豪華な夕食と
なった。
  俺と麻妃は初めこそ困惑したものの、その日を終える頃にはすっかり確執は
なくなったように見えた。
  そう、見えた。
「それにしても、お姉さんには本当に感謝しないと」
  布団に入って、麻妃は言った。普段は使わない客間は少し埃っぽかったが、
仕方ない。
「そうだな。まさかあんなにあっさりいくとは思わなかった」
「うん。……いろいろあったけど、最後に幸せに終わって良かった」
「何言ってんだ。俺たちはこれからもっと幸せになるんだろ」
「ふふ……そうね」
「子供は何人がいいかな」
「もう、気が早過ぎよ」
「あはは……」
「くすくす……」
「じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみ」
  一緒に寝られないのは残念だが、姉貴のことを考えれば仕方ない。
  明日からは、麻妃と普通に会える。
  それだけで充分幸せだ。

 十七日午前二時二三分頃、埼玉県○○市の民家で、○○大学の学生岸本あか
ね(21)、岸本隆史(21)、進藤麻妃(20)、計三人の遺体が見つかっ
た。死因は頸動脈切断による出血多量とみられ、遺体の近くには被害者の血痕
の付いた包丁が落ちていた。凶器と見られる包丁には岸本あかねの指紋が付着
しており、また犯人自ら通報があったことなどから、県警は、岸本あかねが被
害者の二人を刺殺したのち、自ら命を絶ったものとして捜査している。しかし、
遺体に争った形跡は見られないという。岸本あかねと岸本隆史は姉弟で、二人
暮らしをしていた。

 了

2006/03/10 完結

 

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